ろ〜りぃ&樹里とゆかいな仲間たち

Blog(日記)と云うよりはEssay(随筆)
Essay(随筆)と云うよりはSketch(走り書き)
Sketch(走り書き)と云うよりは……?

 注)タイトルに「*」のついた記事は「ネタバレ記事」です。ご注意ください。
  << March 2014 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
その筋では……
その筋ではよく知られていることですけど、江戸川乱歩氏の作品のいくつかには、横溝正史氏が代作したものがあります。
また、横溝正史氏の作品のいくつかには、山田風太郎氏が代作したものがあります。
ベートーヴェンの曲として知られている曲が、実はチェルニーが作曲したものでないとは、だれにも云えないでしょう?
だれが作ったのかが大事なんですか?
それが好いのか悪いのか、それが大事なんですか?
目の見えない人が弾いてたら、いい音楽なんですか?
耳の聴こえない人が作ったら、いい音楽なんですか?
いかにも賢ぶって、
「あいつはシンガー・ソング・ライターなんて云ってるけど、本当はゴースト・ライターがいてね。
曲も詞も、別人が書いてるのさ。
会社が売り出すために、シンガー・ソング・ライターなんて云ってるだけなのさ」
と、鼻をうごめかせて、得意気にのたまう御仁がいらっしゃる。
ハイハイ。よくご存じですねぇ〜。ギョウカイ通でいらっしゃいますねぇ〜。
でも、それがなんなの?
だれが作ろうと、いいものはいいんですよ。
また、幾千万人の人が「悪い」と云おうとも、「あいつはヘタだ」と、云おうとも、そんなことは、関係ないんですよ。
「敵幾千万いようとも、我行かん」ですよ。
自分自身が「いい!」と思ったら、それで、いいんですよ。
その自分の気持ちこそ、大切なんじゃないですか?
くだらないインテリの知識なんかいりません。
とある漫画のなかに、こんな意味のセリフがありました。
「ミュージシャンには二通りあると思ってる。
いいミュージシャンか、悪いミュージシャンか。
上手いだけのミュージシャンには用はないさ」
小理屈コネるミュージシャンには、それこそ、用はありませんね。
| 遊冶郎 | 悪魔のつぶやき | 16:11 | - | - |
仕事は九分を……
司馬遼太郎氏の『竜馬が行く』以来、坂本龍馬の人気は抜群である。
織田信長と並んで、日本人の理想とするリーダーの双璧を為すの感がある。
その龍馬の言葉で、好きな言葉がある。
「仕事ちゅうもんはのぉ、九分までは自分で仕上げるんじゃ。
ほんで、後の一分、仕上げの一分は、他人に任せるんじゃ。
そうせんけりゃあ、大事は、出来んぞぇ」

竹下登は消費税を導入した総理として、いまでもその評価は芳ばしくない。
しかしその竹下氏の言葉として、印象に深い言葉がある。
「汗は自分がかきましょう。手柄は他人にあげましょう」

かつての上司に云われた。
「善えことは、人に知られたら、七割方、値打ちが無うなる。
善えこというのは、人に知られんからこそ、値打ちがあるんやで」

機嫌買い、お調子者、目立ちたがりの自分ではあるが、これらの言葉は、忘れないでおきたいと思う。
| Woody(うっでぃ) | 気まぐれなコラム | 13:41 | - | - |
失恋
「失恋」と云うと、「好きな人にフラれた」と云う意味に解されるようである。
しかし文字どおりに解釈すると、「恋を失う」となる。
フラれてその人への恋をあきらめる場合も、もちろん、失恋であろう。
フラれなくとも、みずからその人への思慕を諦める場合も、失恋であろう。
燃えあがった思慕が冷めていくのも、失恋であろう。
一口に「失恋」と云っても、様々な様態がある。
いずれの場合もつらかろう。苦しかろう。
ときには、生きていることさえ、イヤになることもあろう。
しかし、本当につらいのは、本当に悲しいのは、人を恋する「こころ」自体を失ってしまったときではなかろうか。
ラブレー曰く、
「恋するこころを失うよりも、恋をして失恋した方がよい」
自分もそう思う。
けだし、人が人を恋するこころほど、尊いものはないのだから……。
| Woody(うっでぃ) | 気まぐれなコラム | 13:10 | - | - |
「ただいま」、「おかえり」
過日某所で、「おかえり」と云う曲を聴いた。
女性二人のデュオで、そのさわやかな歌声と美しいギターの音色がなんとも心地好かった。
疲れて帰って来るあなたを「おかえり」と、明るく笑って迎えたい、
疲れて帰ってきても、「ただいま」と、明るく笑って帰って来たい、
そんな場所があるふたりはとても幸せなんだな、と、思わせる歌であった。
思えば18の歳に九州の田舎から出てきて、幾年になるだろう。
「ただいま」と云う言葉も忘れてしまった。
「おかえり」と云ってくれる人もいない。
それが寂しいとも思わない。
悲しいとも思わない。
それほどに忘れてしまった。
それほどに慣れてしまった。
「ただいま」と云わないことに……。
「おかえり」と云ってくれる人がいないことに……。
でもお二人の歌を聴いて思った。
みんな、あたりまえのように、
「ただいま」と、云って帰ってくるのだろう。
みんな、あたりまえのように、
「おかえり」と、迎えてくれる人がいるのだろう。
そんなあたりまえのことが、じつは、とっても、幸せなことなんだ、と……。
| ろ〜りぃ | らいぶ☆にゅ〜す | 12:13 | - | - |
「体験」と「経験」
むかし、親爺に云われたものである。
「道を歩いてて転んだとせえ。
『運が悪かった』ですますヤツもおる。
『こんなとこに石があるから悪いんや』と、思うヤツもおる。
『注意が足りんかった。今度から注意して歩こう』と、思うヤツもおる。
『この道は危ない。ちがう道を通ろう』と、思うヤツもおる。
『思いもせんかったことで怪我した。これからも、思いもせんことで怪我するようなことがあるかもしれんなぁ』と、思うヤツもおるやろ。
おんなじ目に遭うても、それをどう考えるかは人それぞれや。
どうせやったら、ちょっとでもマシなことを考えるようにせえよ」

とある漫画のなかに、こんなセリフがあった。
「どんなに経験をつんでも、それを知識として活かせなければ、たんなる時間のムダづかいにすぎませんよ」
叩き上げの警官にエリートのライバルが云うセリフである。

アリストテレスはその『形而上学』のなかで、このように述べている。
「同じ事柄についての多くの記憶がやがて一つの経験たるの力をもたらす」
「学問や技術は経験を介して人間にもたらされる」
そして、
「技術の生じるのは、経験の与える多くの心象から幾つかの同様の事柄について一つの普遍的な判断が作られたときにである。」

個々に遭遇する出来事は「体験」である。
多くの「体験」を総括してそれらに共通するものを抽出し、自覚したとき、はじめてそれは、「経験」となる。
そしてその「経験」をつみかさね、総括して、「技術」を得る。
アリストテレスはこの「技術」と云う語のなかに、我々が云う、「理論」、「法則」、「知識」の意味を含ませている。
人は毎日毎日、いやおうなく、多くの苦労や愉しみやつらさや喜びを感じながら暮している。
そのひとつひとつが「体験」である。
どうせなら、それらの「体験」を良き「経験」と為し、良き「技術」を身に付けたいものである。
| 哲ッちゃん | コラム―哲学もどき | 11:57 | - | - |


 SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
LINKS
PROFILE
OTHERS