ろ〜りぃ&樹里とゆかいな仲間たち

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 注)タイトルに「*」のついた記事は「ネタバレ記事」です。ご注意ください。
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『どん底』と云う作品のなかに……
『どん底』と云う作品のなかに、ナースチャと云う娘がいる。
年は24歳。
ほら穴のような地下室に暮らす住人たちの生活には、夢も希望も楽しみもない。
学問も、勤勉も、自尊心も、優しさも、……、この“どん底”では、なんの役にも立たない。
あるのは、酒とバクチとバカ騒ぎだけ。
人に金をたかり、あるいはバクチで小金を稼ぎ、酒を食らっては高歌放吟……。
それが“どん底”の住人たちの生活である。
いくらクレーシチが「おら――これでも職人だよ……おれは出てみせるよ……皮が破れても、抜け出てみせらあ」と意気込んでも、決してこの“どん底”から抜け出すことはできない。
彼の女房のアンナの病が治る見込みもない。クレーシチがいくら女房を気づかっても、彼にはなにもしてやることはできない。
いくらペーペルが腕のいい泥棒で、だれをも恃まず、自分一個で生きていけるだけの技倆と度胸を持っていても――実際ワシリーサも、後にはナターシャも、彼が自分をこの“どん底”から連れ出してくれることに望みをかけるのだが――、それでも、この“どん底”から抜け出すことはできない。
そんななかでナースチャは、フランスの小説に憧れ、自分にもその小説に描かれているような恋があったと思い込もうとしている。
人を愛することもなく、人に愛されることもなく、恋に胸をときめかせたこともなく、この“どん底”で老いさらばえていくのは、それを如何ともしがたい真実と受け入れることは、若いナースチャには耐えられない。
彼女の思い込みは確信へと変わり、自分自身、ほんとうにフランスの小説に描かれているような色恋沙汰があったと信じるようになる。
「あたしにゃそれがあったんだよ……ほんとうの恋がさ!」
しかし、と、云うより、もちろん、他の住人たちは、そんなことは信じない。
ブブノーフは「あはは……とんだほらふき阿魔だ!」と、哄笑する。
男爵は「みんな『運命の恋』という本にあることだよ……みんな――でたらめよ!」と、云う。
実際、男爵の云うとおりである。
しかし、それゆえにこそ、ナースチャは自分の嘘を本当のことだと信じ込もうとする。
「ほんとに……あれはあったことだよ! 何もかもあったことだよ!……これが嘘だったら、あたしこの場で、雷に打たれて死んでもいいわ!」

人はだれしも嘘をつく。
ナースチャは惨めな境遇のなかで生きていくために、自分にもフランスの小説に描かれていたような恋があったと云う嘘を信じ込もうとしている。
逆の場合もある。
惚れ込んだ相手に裏切られ、恋を失ったとき、「あれは恋ではなかった」、「自分はあの人を愛してはいなかったのだ」と、思い込もうとする。
その人への思いが強ければ強かっただけ、その人と過ごした時間が愉しければ愉しかっただけ、その人とともに笑い、はしゃぎ、ふざけあい……、一緒にいた月日が幸せであればあっただけ、それだけ強く、それだけ強烈に、懸命に、あれは恋ではなかった、愛してはいなかったのだ、と、思い込もうとする。
だれしも、真実を受け入れることは、辛く、苦しいものだ。
ルカは云う。
「かんじんなことは話でなく、なぜそんな話をするかということなんだからね――ここを見てやらなくちゃいかんよ!」
そしてナースチャに、
「わしは知っている……わしは信じている! お前さんがほんとうで、あの人たちがでたらめなのだ……お前さんが自分で、そういう真の恋をしたと信じこんでいるなら……それはもうあったことに違いないのだ! 違いないのだ!」
そういうルカの言葉も嘘である。
サーチンは云う。
「爺さんは嘘をついた……だがそりゃ、お前たちを憐れに思う思いやりから出た嘘なんだぞ、畜生め!」
そして云う。
「しっかりした人間……人を頼りにしない、他人のものをあてにしない人間には、嘘をつく必要は少しもねえ。嘘は――奴隷と君主の宗教だ……真実は――自由な人間の神さまだ!」
サーチンには解っているのだ。
「しっかりした人間」、「自由な人間」など、この世にはいない、と、云うことが……。
人はみな、嘘を必要とする、「奴隷と君主」なのだ、と、云うことが……。
もし、「しっかりした人間……人を頼りにしない、他人のものをあてにしない人間」がいるとすれば、それは、まさにこの“どん底”に生きている人間――すべてを失い、すべてを奪われ、ただ「人間」である、と云う、それだけのものしか残されていない人間なのだ、と、云うことが……。
それが「真実」である。
それゆえにこそ、「真実」は、辛く、苦しく、受け入れがたい。
「自由」は、巨大な犠牲を代償にしなければ得られない。
それでも人間は生きていく。すべてを失い、すべてを奪われ、ただ「人間」である、と云う、それだけのものしか残されていなくとも、人間は――ルカの言葉によれば――、「よりよきもののために」生きてゆく。
だからこそ、サーチンは叫ぶ。
「にいんげぇん! どうだ――てぇしたものじゃねぇか!」

どん底 (岩波文庫)
どん底 (岩波文庫)
中村 白葉
| Woody(うっでぃ) | 気まぐれなコラム | 09:32 | - | - |
『三つ数えろ』と云う映画がある。
『三つ数えろ』と云う映画がある。
1946年製作。監督はハワード・ホークスで、主演がハンフリー・ボガートとローレン・バコールの名コンビ。レイモンド・チャンドラーの『大いなる眠り』が原作で、脚本のひとりにウイリアム・フォークナーが名を連ねている。
映画の邦題が『三つ数えろ』で、本のほうは『大いなる眠り』、原題はどちらも同じ、“The Big Sleep”である。
名作のつねで(?)、この映画にもさまざまなエピソードがある。
有名なところでは、原作もそうだが、映画のほうもプロットが複雑で、あるときボガートが、結局、運転手を殺したのはだれなのか、監督のハワード・ホークスに訊ねた。
ホークスも分からず、脚本家たちに訊ねたが、彼らにも分からない。
ついには電報で原作者のチャンドラーに問い合わせることになった。
返ってきた電報には――、
「すまない。ぼくにも分からない」
と、記されていた。
と、云うのである。
“運転手を殺したのはだれなのか?”
この問題をめぐってのエピソードにはもうひとつあって――、
ボガートが趣味のヨットを愉しんでいたところ、近くをとおりかかったヨットから声がした。
――よう、いったいだれが、あの運転手を殺したんだい?
ボガート答えて曰く、
――俺が知るもんか!
探偵が殺人犯を知らない、と云う、アメリカ風のユーモアであろう。
この映画に関するさまざまなエピソードのなかで、ハードボイルド・ファン、あるいはボガート・ファンにとって、忘れられないエピソードがある。
それは――、
自作『大いなる眠り』が、ハンフリー・ボガートの主演で映画化されると聞いて、チャンドラーは、
「そいつはいい。ボガートは拳銃を持たなくてもタフでいられる男だ」
と、喜んだ。
――と、云うものである。
ハンフリー・ボガートと云えば、“ハードボイルド”と云う言葉が、人間の形をとって現われてきたような俳優である。
沢田研二氏の歌を借りて云えば、“ピカピカのキザ”であり、“やせ我慢が粋に見える”俳優である。
ボガートの魅力は、悪役をブッ倒すときよりも、悪役にブッ倒されるときにこそ、発揮される。
愛を勝ち得たときよりも、愛を失ったときにこそ、その魅力は輝く。
“ハードボイルド”と云うと、暴力沙汰と拳銃とセックスとに満ちあふれた物語と思っている人たちが、いまだに存在しているのは困ったものである。
この『三つ数えろ』のなかに、好きな場面がある。
ボガート扮する私立探偵フィリップ・マーロウが、チンピラにしたたかにブチのめされて、路上に気を失う。意識を取り戻したボガートは、路面を這いつくばりながら、帽子をさがす。
ブザマで、カッコわるい場面である。
しかしそれが、ボガートが演っているとなると、これがカッコいいのである。なんとも云えず、カッコいいのである。
ブッ倒されて路地にへたばり、女にフラれて涙をこらえ、しかもなおかつ、それがカッコいい……。
男と生まれたからには、そんな男に、なりたいものである。

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| Woody(うっでぃ) | 気まぐれなブログ | 02:15 | - | - |


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