ろ〜りぃ&樹里とゆかいな仲間たち

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Sketch(走り書き)と云うよりは……?

 注)タイトルに「*」のついた記事は「ネタバレ記事」です。ご注意ください。
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正直者はバカをみる?
正直者がバカをみるようではいけない、と、云う人がいる。
はたして正直者がバカをみるようなことがあるのだろうか?
正直者は正直者であることを以てその利益とし、その価値とする。「正直」であること、それ自体が正直者の利益であり、価値なのである。
「正直」であることを以て他の利益や価値を得ようとすれば、それは「正直」ではなくなる。「正直」であることそれ自体が目的とならず、「正直」であることによって他の利益や価値を得ようとすれば、「正直」はそのための手段となり、もはや「正直」ではなくなる。
正直者は「正直」であることそれ自体を利益とし、価値とするが故に正直者なのである。
体験的に云えば、正直者がバカをみていることに義憤を感じ、正直者がバカをみるようではいけない、と云う人は、あまりいない。正直者が、他人から見て、バカをみているように思われるとしても、正直者自身は「正直」であることで満足もし、誇りをもってもいるのだし、そのことはみな大抵察している。正直者がバカをみているとしても、そのことによって自分に被害が及ばない限り、あえてその「正直」を矯正させる必要はない、と云うのが、大方の考えだろう。
むろん、正直者が「正直」であることによって他の利益を得て悪いわけはなく、むしろそうなることは望ましいことである。しかしそれは実際生活のなかでは、非常に難しい。
大抵の人は、「正直者がバカをみるようではいけない」と云って、件の正直者を自らになぞらえ、「正直」であることを以て、「正直」と異なる何らかの利益を得ようとしているように思われる。
そうなるともはや、その「正直」は「正直」ではない。
| 哲ッちゃん | コラム―哲学もどき | 19:25 | - | - |
チャンドラーの『プレイバック』を……
チャンドラーの『プレイバック』を読み返そうと思ったのは、
「タフでなくては、生きていけない。やさしくなくては、生きている資格がない。」
と云う名台詞が出てくるのが、この本だからである。
もっとも、正確に云えば、それだけが理由ではない。
最近、このセリフに関して、ある疑問が生じてきたからである──と、云えば、なにやら大仰であるが、なんのことはない、このセリフは、とある女性に、
「あなたのようにタフな男がどうしてそんなにやさしいの?」
と、問われて、返した言葉である。
この問答にはさまざまな日本語訳があって、それぞれで微妙なニュアンスの違いがあるのだが、原文では、
“How can such a hard man be so gentle?”
と、問われて、
“If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I coudn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.”
と、答えている。
これだけを見てみると、マーロウは自分がタフであることも、やさしいことも、認めていることになる。
いささか自惚れめいていて、マーロウのキャラクター・イメージに合わないのである。
で、今回、読み直してみることにした。
マーロウはとある女性を尾行し、行き先を突き止めて報告するよう、依頼された。
その女性はどうもいわくありげで、なにかに怯えているようである。
彼女は孤立無援で、巨大ななにものかから逃れようとしているらしい。
マーロウは依頼を無視して、彼女の力になろうとするが、彼女はマーロウを信じず、却って、彼を利用して自分の目的を達しようとする。
それでもマーロウは彼女を助けようと努める。
そしてすべてが明らかになったとき、彼女が問い、マーロウが答えるのが、先のセリフである。
今回読み返してみて思ったのは、マーロウは自分がタフであると認めているのでもなく、まして、やさしいと自惚れているわけでもなく、ただ、「タフでありたい」、「やさしくありたい」と願っているだけなのだな、と、云うことである。
「タフでなくては、生きていけない」からこそ、否でも応でも、タフであろうとし、「やさしくなくては、生きている資格がない」からこそ、やさしくなろうとしている。
このタフさが、たんなる肉体上の持久力や腕力などではないことは、云うまでもない。
そして、このやさしさが、たんなる柔弱さや甘さなどではないことも、また然り、である。
「タフさ」と「やさしさ」は、一見矛盾しているように思われる。
実際、この女性には、タフな男がなぜやさしいのかが分からない。
しかし、一見矛盾しているように思われる「タフさ」と「やさしさ」は、マーロウのなかでは、全然矛盾していない。
「タフさ」とは、どんなに裏切られ、利用され、嘲弄され、無視されても、やさしくあろうとする心性であり、「やさしさ」とは、どんなに裏切られ、利用され、嘲弄され、無視されても、決して恨みがましく思わず、それに耐え抜くタフさなのだ。
真実やさしくあるためには、タフでなくてはならないし、タフであることのなかには(少なくとも、マーロウにとっては)、やさしくあらんがためのものが、ふくまれているのである。
| Woody(うっでぃ) | 気まぐれなブログ | 10:28 | - | - |
山村新治郎と云う政治家を……
山村新治郎と云う政治家を知っていますか?
1970年(昭和45年)3月31日、日本航空351便、通称“よど号”が、9人の赤軍派によってハイジャックされました。
日本で初めての航空機ハイジャック事件です。
そのとき“よど号”には、コックピットクルー3名、CA4名、乗客122名の、計129名が搭乗していました。
犯人たちは北朝鮮への亡命を希望していて、板付空港(現在の福岡空港)で人質の一部(女性・子供・病人・高齢者を含む23人)を解放しましたが、この機体は国内便であると云う機長の説得にも耳を貸さず、平壌への飛行を命じました。
日韓両政府の画策によって、機体は韓国の金浦国際空港に着陸し、ここを北朝鮮の平壌国際空港に擬して犯人たちを捕縛しようとしますが、犯人たちはこの偽装工作を見破り、膠着状態におちいりました。
日韓両政府が大いに対策を講じるなか、当時運輸政務次官の地位にいた山村新治郎氏は、
「政務次官と云うものは、盲腸みたいなものだ。あってもなくてもかまわない。下手にあれば、迷惑をかけることさえある」と云い放ち、「こんなときに役に立てないで、なんの政治家か」
と、云って、犯人たちと交渉。みずから志願して人質となることで、他の人質を解放させました。
この快挙は、
「男、ヤマシン」
「身代わり新治郎」
として、世の称賛を浴びたものです。
その山村新治郎氏は、1992年(平成4年)4月12日、精神疾患を患っていた次女(一説によると、精神疾患を患っていた身寄りのない娘を、養女として面倒見ていたのだと云います)に、出刃包丁で刺し殺されました。
その訃報に接したかつての“よど号ハイジャック事件”の首謀者田宮高麿は、
「『日本の政治家のなかにも、こんな人がいたのか』と、思われるような、すばらしい人でした。
突然の訃報に接し、悲しみを堪えきれません。
ご冥福をお祈りいたします」
との言葉をささげました。
 敵(?)からも一目置かれる人でした。
「政治家なんて、ろくなヤツはいない」
と、云うあなた。
山村新治郎と云う政治家を、知っていますか?
| Mac | 人物往来 | 09:54 | - | - |
森雅裕氏の……
森雅裕氏の『あした、カルメン通りで』のなかに、
「言葉で遊ぶなんて、性的不能者のやることだ」
と云うセリフがある。
別に性的不能者ではないが、どうも言葉にこだわる性癖がある。
若き日に小説家を志していたせいかもしれない。
その若き日にも、すでに、「ムカツク」と云う言葉に対して、批難が浴びせられたことがある。
この言葉は本来、胸部や胃腸の不快感を表す言葉であったのだが、当時から、「腹が立つ」と云う意味で使われ始め、現在に到っている。
言語は生き物であり、その時代時代によってその語の示す意味内容は変遷していくものだと思っているから、そのことに異議や批難を加えるつもりはない。
しかしどうにも気に触る言葉、あるいは言葉遣いもある。
昨今の典型が、いわゆる「『ら』抜き言葉」である。
「食べられる」→「食べれる」
「見られる」→「見れる」
などである。
若い者が使っている分には、気に触りながらも、「これもまあ、一種の潮流か」と、思わないでもないのだが、イイ年をしたものが使っていると、「言葉遣いを知らぬヤツ」、「イイ年して若者ブッて」と、苦々しく思うこと、しばしばである。
「いやぁ、これはこれで、いい面もありますよ」と云う人もいる。「『可能』と『尊敬』を使い分けているんです」と云う。
なるほど、「食べられる」では、『可能』か『尊敬』か、アイマイである。
「食べれる」ならば、これは『可能』の意味であろうことはすぐに察知できる。
しかし、である。
「食べられる」の『尊敬』は、本来、「召し上がる」である。
「見られる」は、「御覧になる」である。
碌に敬語の使い方も知らないから、こんなことになる。
国際化とやらで、幼少時からの英語教育の必要性が喧しくなって久しいが、自国の文化や歴史(言語も文化であり、歴史の所産である)をキッチリと身に付けてこその国際化である。
徒らに外国に追従することが国際化ではない。
逆説めくが、真の“ナショナリスト”であってこそ、真の“インター・ナショナリスト”となり得るのである。
「英語より 敬語を使える 若者に」
| 遊冶郎 | 悪魔のつぶやき | 08:52 | - | - |


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