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『荒野の七人』論〜おわりに
 クリスたちの戦いは終りました。
 アメリカ合衆国の産業の発展は、クリスたちガンマンからその就業の機会を奪い、カルヴェラたち山賊を追い詰めて、産業の発展が遅れたメキシコの寒村へと向かわせます。
 村人たちは戦う術を知らず、戦いに慣れたガンマンたちに依頼して、村を守ろうとします。
 カルヴェラたちとの戦いを通して、クリスたちガンマンは、すでに自分たちの存在意義が失われつつあることを認めていきます。
 この映画では、クリスたちガンマンや村人たちと、カルヴェラたち山賊とが対立しあっているかのように思われます。たしかに対立しあっていますが、それは表面上のことです。
 この映画でクリスたちガンマンと、もっとも深刻に、もっとも根本的に、もっとも先鋭に対立しているのは、インディアンの埋葬場面に登場してきた行商人たちです。国境付近の町にやって来た行商人は、合衆国の産業の発展を象徴しています。彼らは、西部の町に新たな流通と意識を持ち込み、クリスたちガンマンを時代遅れの存在としていきます。

※ 合衆国の産業の発展は、「いつまでも残る」はずの農民たちをも、その流れの中に巻き込み、彼らを「偉大なる大地」から切り離していくようになります。
 しかしそれは、別の時代に属する主題であり、それを主題とするのは、まったく別の映画です。

 そんな時代の流れのなか、カルヴェラたちとの戦いで命を落としたガンマンが、ハリー、リー、ブリット、オライリーであることは、象徴的です。
 ハリーは昔のような一攫千金の機会があることを夢見続けていました。リーは伎倆の優れたガンマンとしての過去の自分に呪縛されていました。ブリットはガンマンとしての伎倆の向上だけに専心していました。オライリーは、自分が無用の存在となりつつあることを認めながらも、ガンマンとして生きる以外の道を選ぶことができません。
 彼らはみな、過去の人間として死んでいきます。
 生き残ったのは、「雑貨屋の店員か酒場の用心棒」になることを厭わず、銃を捨てて村で暮らすことを考えるヴィンや、実際に銃を捨てて農民として生きることを決心したチコです。
 クリスは自分たちが存在する意味が失われつつあることを痛感しながら、いや、それを痛感しているからこそ、これからの世の中で自分たちガンマンがどのような役割を果たしうるかを課題として、生きていかねばなりません。
 その課題にたいする答えのひとつが、村に平和をもたらすことでした。
 平和になった村は、しかし、もとの村ではありません。熾烈な戦いを経て、その責任と誇りを自ら認めることのできた村人たちの村です。
 いったんはカルヴェラたちに屈従することを選んだ村人たちでしたが、クリスたちを契機として、自分たちの村を自分たちで守ると云う意識を生じさせ、見事にそれを実践しました。
 クリスたちは村人たちの契機となることで、自分たちの生きる意味を明らかにし、充実させました。
 それを充実させながらも、クリスたちは去って行かなければなりません。
 死んでいったガンマンたちも、生き残ったガンマンたちも、すでに自分たちが必要とされなくなりつつある時代の流れのなかで、その時代の流れを実感しながらも、あくまでガンマンとして、立派にその存在の意味を明らかにし、充実させました。
 ディリス・パウエルが『荒野の七人』を評して、「これは『七人の侍』ほどの傑作ではないかもしれない。だが興奮と感動を与えてくれる、本物の映画だ」と述べたのも、この映画がたんなる『SEVEN GUNMAN』ではなく、『THE MAGNIFICENT SEVEN(素晴らしき七人)』であるのも、これまで述べてきた、その内容のゆえでありましょう。
 クリスたち生き残ったガンマンが、その後どのような道をたどるのか、『荒野の七人』で明らかにされた内容を、どのように継承し、発展させるのか、それはこの映画とはまったく別の映画に属する主題です。
| Woody(うっでぃ) | 『荒野の七人』論 | 09:00 | - | - |


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