ろ〜りぃ&樹里とゆかいな仲間たち

Blog(日記)と云うよりはEssay(随筆)
Essay(随筆)と云うよりはSketch(走り書き)
Sketch(走り書き)と云うよりは……?

 注)タイトルに「*」のついた記事は「ネタバレ記事」です。ご注意ください。
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羅城門址
                            久能 大

 羅城門には鬼が棲む。その昔、渡辺綱が退治(たいじ)たのはその中の一匹だけであって、それ以前にもそれ以後にも、羅城門には、数多の鬼が棲んでいる……。

 羅城門跡を見に行こうと、ふと思った。或る夏の日の、午后の事だった。
 デートの予定だった。予定の遣繰をつけて、一日の時間を確保した。仕度を調えて部屋を出ようとしたところで、電話が鳴った。
 ――ゴメン。急にバイト、代わってくれって、云われてん。今度埋め合わせするから、ごめんな。
 忘れてた授業に原因不明の頭痛や発熱、そして急に頼まれたアルバイト、いずれも聞き飽きた言訳だった。さすがにうんざりしたが、できるだけ平然とした口吻で、了承の意を伝えた。
 電話を切った途端、一日が味気なくなった。
 空虚な一日だった。本来なら、こんな一日を過ごせるような立場じゃなかった。
 就職活動は捗々しくなかった。卒論も手詰まりだった。取得しなければならない単位も残っていた。先の事を考えると、暗鬱になった。
 新聞も、テレビも、みな、不景気な話ばかりだった。
 個人に対する税金は上がる、銀行や大企業への減税は継続される、省庁と民間企業とは癒着し、地方では知事と業者との贈収賄が問題になっている。官僚はその杜撰な仕事ぶりを暴露され、政治家の発言は傲慢で、大企業は好調な輸出に支えられて潤いながら、下請けの中小企業には無理難題を押し付ける。その中小企業に対して、納税を猶予されている銀行は貸し渋り、貸し剥がす。求人率は落ち込み、就職できない人たちが職を探して彷徨っている。犯罪は激増し、兇悪無惨の度は目を覆う。ただ鬱憤を晴らすためだけに、面識もない行きずりの他人を襲う。不惑の公務員が痴漢行為を働き、音が煩いと注意された女子高生が相手の男に痴漢行為の濡れ衣を着せる。イジメられないために他人をイジメる。イジメられた子が自殺する。教師は責められるが、イジメた子やその親は責められない。大学が躾をすることを売り物に学生を集めようとする。人権の名の下に、好き勝手する奴輩が庇われて、害を被った者が泣き寝入る。
 世も末だと思うようなことばかりだった。
 六畳一間の畳の上に寝っ転がって両手を頭の下に組み、染みの浮き出た板張りの天井をぼんやりと眺めながら、索漠とした時間を消費した。
 灰色の天井と漆喰の壁が、窓から差し込む強烈な西陽に照らされ出した頃、羅城門跡を見に行こうと、ふと思った。
 京都に来て三年余りになるが、この有名な史跡を見に行ったことは、まだなかった。勿論、芥川の作品は、高校時代に、現代国語の授業で習っていた。渡辺綱が鬼の片腕を斬り落として退散させた伝説も知っていたし、黒澤監督の映画も観たことはあった。にもかかわらず、この地を見に行ったことはなかった。
 身体を起こして手もとの京都観光案内地図を捲ってみると、後ろの方のページの片隅に、小さな写真と簡単な説明文が、申し訳のように添えてあった。
 その地図で経路を確かめて、侘しい六畳一間の下宿を後にした。

ブロック塀の連なる小路では、子供たちが楽し気に騒噪(はしゃ)ぎ廻り、近所の主婦たちが四方山話に花を咲かせていた。両手にスーパーの袋を下げた母親の姿も見られた。その足下を、幼い子が、ちょこちょこと駆けまわっていた。
 近くの停留所で、煙草に火をつけた。
 バスを待っている人は、他にもいた。背広姿の四十がらみの男性と、腰の曲がった老婆、それに、四歳くらいの男の子をつれた、夫婦と思しき男女の五人だった。
 煙草を二本灰にしたところに、バスが来た。ステップを上がり、整理券を取って、座席に座った。乗客は少なかった。バスはゆっくりと停留所を離れ、閑散とした車道を進んで行った。
市街地は午后の陽光に満たされていた。大通りを数多の車が行き交い、歩道も多くの人で雑踏していた。
 書店、ATM店舗、コンビニ、家電量販店、レンタル・ビデオ店、食料品店……。
道の両側に立ち並ぶ巨大な店舗が、市街地に集う人々を、あるいは吸い込み、あるいは吐き出していた。
バスは車の群れに巻き込まれて這うような速度になり、いつしか乗客も多くなっていた。速度に変化をきたすたび、吊り革につかまった乗客の身体が揺れ、身体が触れた。
京都には「古都」というイメージがあるが、なにも京都中が、壊れかけた築地や、煤けた板塀の家屋で満たされているわけではなかった。巨大な量販電気店のビルもあれば、五階建ての書店もあった。一ブロック分もあるようなゲーム・センターもあるし、コンビニやファースト・フードの店にいたっては、それこそ無数だった。京都といっても繁華街は、大阪や東京のそれと較べて、少しの遜色もなかった。京都には様々な顔があるのだ。
ある友人は、京都は学生の町だ、と云った。なるほど、そうかも知れなかった。京都には多くの大学があった。それぞれが長い伝統に育まれ、独自の個性を確立していた。そしてその個性を新たな魅力に変える進取の気性に富んでいた。
なによりも共通して、自由とおおらかさがあった。立身出世を求めるでなく、頭でっかちの秀才を育てるでなく、ひたすらに学問の楽しさを追求し、それにもまして、若き日の喜びを満喫することに、その価値を見出していた。権威に反し、俗に逆らい、自ら信ずる事を真と信じ、自己を研鑽し、自らを新しき世の開拓者とするの意気に燃えていた。教授たちも、学生たちも、そうだった。
その校風に憧れて、多くの若者たちがこの町にやって来た。他の大学に入れなかったから、と云う者も、もちろんいた。だがそういう若者の多くも、一年経つか経たぬかのうちに、我知らずこの町の雰囲気に、馴れ親しんでいくのだった。
京都の風景も、名所旧跡ばかりで成り立っているのではなかった。各所に散らばる様々なデート・スポットの存在も、この町を学生の町と思わせている一因だった。
長い歴史の面影を、ロマンティックに彩って、現在にただよわせているそれらの場所は、多感な若者たちを魅きつけるのに、充分な魅力を備えていた。
 紅葉美しい清水寺、宵闇薫る桂川、夏の大文字焼きは暑気を払って一服の清涼を感じさせ、新緑萌える嵐山は春の息吹に日頃の塵労を洗い落とす。修学旅行や観光だけでは体感できない奥深い魅力が、この町にはあるのだ。
京都駅から少し離れた停留所でバスを降りた。向かいには東本願寺があった。広大な空を背景に、瓦を葺いた白壁にかこまれ、黒々とした樹木につつまれたその姿は、荘厳と云うに相応しい趣きを感じさせた。
目を転じると、銀行や百貨店のビルが見えた。地元の商店街は、夕暮れの客で賑わっていた。子供たちが笑い声をあげながら駆けていき、主婦らしい人々が談笑しながら店先を巡っていた。背広姿の男性や、制服姿の中高生たちもいた。みな生き生きしていた。一日の仕事や勉強の疲れなど、微塵も見られなかった。
次に乗ったバスは、高校の横を通り過ぎ、下町風情の残る細い道を走って行った。著名な歴史的背景こそもたないが、こうした佇まいも、古都を思わせるひとつの要素だった。 歩道のない一車線の道路が真っ直ぐにのび、その両側には、古びた木造の家屋が立ち並んでいた。門から玄関まで、三歩もあれば到達するような、昔ながらの下町の家だった。角にはこれまた昔ながらの雑貨屋があり、ところどころに、大衆食堂を兼ねた居酒屋や、喫茶店などがあった。こういった町筋に、自動販売機などはなかった。煙草は爺さんの頃から知ってる角の煙草屋で買い、酒はリカー・ショップやコンビニではなく、米や味噌も売っている、行きつけの酒屋で買うのだ。
 バスはその古風な町並みを、急かずあわてず、のんびりと走り続けた。その緩慢な振動に揺られながら、三年近い月日の間に忘れ去りつつあった京都の町の新鮮な魅力が、あらためて甦ってきた。
 「羅生門前」と云う停留所で、バスを降りた。鄙びて閑散とした下町の佇まいは、観光地としての京都と云うよりも、昭和三十年代の映画に見られるような風景だった。木造りの家が多く、自転車屋や古びた本屋、酒屋や米屋なども見受けられた。
 バス停から少し離れたところに、「羅生門跡」と書かれた、小さな石標があった。
 膝ぐらいの高さしかない、小さな石標だった。板塀に挟まれた細い路地がのびており、そこを抜けると、小さな児童公園があった。
 空があかね色に染まる夕暮れ時、晩御飯を前に控えたそのひとときを、小さな子どもを連れた人たちが談笑していた。狭い公園の中を、子どもたちが駆け回り、ブランコやすべり台で遊んでいた。
 その公園の中程、滑り台の傍に、細い鉄柱で囲まれた一画があって、「羅城門遺址」と彫られた石柱と、羅城門の由来を記した立札が立っていた。
 傍によって見てみると、
「この地は、平安京の昔、都の中央を貫通する朱雀大路(今の千本通にあたる。)と九条通との交差点にあたり、平安京の正面として羅城門が建てられていた。門は二層からなり、瓦ぶき、屋上の棟には鴟尾が金色に輝いていた。正面十丈六尺(約三十二メートル)、奥行二丈六尺(約八メートル)内側、外側とも五段の石段があり、その外側に石橋があった。嘉承三年(一一〇七年)正月山陰地方に源義親を討伐した平正盛は京中男女の盛大な歓迎の中をこの門から威風堂々と帰還しているが、この門は平安京の正面玄関であるとともに、凱旋門でもあったわけである。しかし、平安時代の中後期、右京の衰え、社会の乱れとともにこの門も次第に荒廃し、盗賊のすみかとなり、数々の奇談を生んだ。その話に取材した芥川龍之介の小説による映画「羅生門」は、この門の名を世界的に有名としたが、今は礎石もなく、わずかに明治二十八年建立の標石を残すのみである。」
 と、あった。
 平安の往時に思いを馳せて、ふと我に返ると、いつの間にか、四、五歳くらいの女の子が、傍に立っていた。
 その子も同じように立札を見上げていたが、やがて眼が合うと、
「おいちゃん、ここ好きなん」
 と、聞いてきた。
「なんで」
 おいちゃんと云われたことに苦笑しながら聞き返した。
「だって、おいちゃん、このへんでは見いへんし、やのに一生懸命、この立札見とったやろ」
 要は、この場所に興味があって、わざわざ訪ねて来たのだろう、と、云う意味らしかった。
「うん。おいちゃん、ここ好きやねん」
「あのな、ここ昔、門が建ってたんやって」
「そやってな。『羅生門』、云うんやってな」
「ちゃうで。『羅城門』、云うんやで」
 その子は真剣なまなざしで云った。大きな眼がくりくりした、かわいらしい子だった。
「そうか。ほな、おいちゃん、間違えとったんやな。でも、偉いな。だれかに習うたんか」
「ううん。昔からそない云うてるもん」
 そう云って足元の石ころを蹴ると、
「なあ、おいちゃん」
 と、その目をあげた。
「ここ昔、鬼がおったんやで。知ってる?」
「知ってるよ。渡辺綱云う人に殺されたんやってな」
「ちゃうわ。渡辺綱は、鬼の左腕を斬り落としただけや。鬼はうまいこと、逃げたんや。渡辺綱なんか、あんなん、鬼が退治でけるようなヤツちゃうわ」
 その剣幕に、いささか面食らった。
 どうみても、小学校入学前の年頃にしか見えなかった。白いブラウスに肩紐のついた紺色のスカート、どこにでもいる、ふつうの子どもだった。
「なあ、おいちゃん、いまでも鬼って、おるんかなあ」
「いまはおらんよ。鬼がおったんは、昔々の話や」
「そうやろうなあ。いまは、平和やもんなあ」
 その子は淋しげな溜息をついて、また足元に視線を落とした。
「でもな、おいちゃん。いまでも鬼は、おるかも知れへんで」不意に目を上げて、その子は云った。「税金はようけ取られるし、物は高うなるし、仕事でけへん人かって、ぎょうさん、いてるんやろ。みんなギスギスして、人殺しとかも増えてるやん。鬼が出てきよるんちゃうか」
 その子はふたたび彼方の夕焼けに目を向けた。
「あのなあ、おいちゃん、鬼はな、人の心の中に居るんやで。虐められて、踏みつけられて、悔しくて、悔しくて、泣いて、泣いて、涙も無うなるくらいに泣いて、それでも歯食いしばって生きていかなあかん人たちが、自分たちかってまともで平和な生活したい、自分たちにもまともで平和な生活させえ云うて立ち上がるとき、人は鬼になるんやで。
 鬼云うのはな、おいちゃん、そんな人たちを虐めて、踏みつけてきたヤツラが云いよんねんで。自分たちが美味い汁吸うために、おんなじ人間をさんざん踏みつけにして、虐めて、搾り取ってきたヤツラが、自分らにもまともで、平和で、安心して暮らせる暮らしさせえ云うて立ち上がった人らを、鬼云うんやで」
 鳥肌が立ち、背筋に寒いものが走り抜けた。
「まだ鬼は出てけえへんかもしれへん。でも、そのうち出てくるで。そのうちまた、昔みたいに、ぎょうさんの鬼が出てくるようになるで。だって、だれも平和な生活なんかくれへんもん。人を虐めて踏みつけにするヤツラは、平和な生活なんかくれへんもん。それやったら、鬼になって、自分らで、平和で、まともな暮らしを掴み取るしかないやん。ええ世の中にしよう思うたら、鬼になるしかないやん」
 冷たい秋風が吹いた。
思わず知らず身震いすると、いつかその子に目を凝らしていたことに気付いて、あわてて周囲を見回した。
 その子は、そんなことにはお構いなく、相変わらずその大きな瞳で、彼方の夕焼けを眺めていた。
 夕闇が迫り、周囲は黄昏てきた。遊んでいた子どもたちも、三々五々、親たちに手をとられて、夕餉の待つ宅に帰っていった。
 いきなり後ろから声をかけられて、その子は振り返った。
「あ、お父ちゃん」
「なにしてたんや。帰るで」
 たくましい体つきの、四十年輩と思しきその人は、厳つい鬚面に柔和な笑みを湛えて、近づいてきた。
 女の子はこぼれるような笑みを浮かべてその男に走り寄ると、その手をとって、
「あのな、あのおいちゃんと、お話しててん」
 と、楽しげに云った。
「そうか、そりゃ、よかったなあ」そう云って優しくその子の頭を撫でると、その柔和な目を転じて、こちらを見た。「どうも、この子がお邪魔したようで」
「いえ、別に……」
 ドギマギしてそう云うと、
「ありがとうございます」
 と、父親らしいその人は、女の子の頭に手を乗せたまま、ペコリと、頭を下げた。
「ほら、おいちゃんに、ありがとう、は」
「おいちゃん、ありがとう」
 父親に云われて、その子もペコリと頭を下げた。
「こちらこそ」
 と、同じように頭を下げた。
「行こか」
「うん」
 かつて、渡辺綱は、羅城門に巣くう鬼を退治した。鬼は片腕を斬り落とされただけで、命までは失わなかった。鬼は逃げ、行方をくらました。
 羅城門には鬼が棲む。その昔、渡辺綱が退治(たいじ)たのはその中の一匹だけであって、それ以前にもそれ以後にも、羅城門には、数多の鬼が棲んでいる……。
 板塀に囲まれた路地は、夕闇に暗くなっていた。洞穴のようなその路地を、その親子は手を取り合って歩いていった。
 鬼のことを熱っぽく語った、不思議に大人びた女の子と、その父親――片腕のない、その父親が……。
| ろ〜りぃ&樹里 | 小説もどき | 12:00 | - | - |
保安官事務所の決闘
                             獅子充 麓

 追撃隊が出て行った後の保安官事務所は、それまでとはうってかわった静寂のなかに取り残された。
 保安官は追撃隊を見送ると、事務机の後ろの椅子に腰をおろし、机の上に両脚を乗せて、煙草を巻きはじめた。背後の壁には、ライフル銃が立てかけてあった。
 かつて若かりし日、獲物を追う餓えたコヨーテに譬えられたその風貌も、いまではすっかり老け込み、ポーチに寝そべって日向ぼっこしている老犬のそれにひとしくなっていた。
 かつて、その面長の貌を縁取っていた鬚は、夏の日の草原に生い茂る若草のように黒々としていた。その皮膚は血色良く、溌剌と輝いていた。四肢は頑丈で弾力に富み、その俊敏な動きは、みなを驚愕かせた。
 いま、鬚はすっかり白くなり、皮膚には多くの深い皺が刻まれて、なめし皮のように干乾びていた。ところどころに、黒くて大きいシミさえもが浮かんでいた。煙草の葉を巻紙に落とすその手は微妙に震え、こぼれた煙草の葉が、黄ばんだシャツやくたびれたズボンの上に落ちた。
 糊代の部分を舌で湿し、慎重に紙を巻き終えると、彼はその煙草を口にくわえ、マッチで火をつけて、深々と一服した。
 ゆっくりと煙草を吸い終えると、足を下ろし、チョッキの胸ポケットから眼鏡を取り出して、机上に積んである報告書の山に目を通しはじめた。
 末尾にサインを記したり、短い指示事項を書き入れたりして、その半分ほどを片付けると、一息吐いてペンを置き、曲がった背をのばして大きく一伸びした。
 眼鏡をはずして硬く閉じた目の目頭を揉んでいると、裏手のほうで、かすかな音がした。
 一瞬、目頭を揉んでいた手が止まったが、その目は硬く閉じたままだった。そのまま身じろぎもせず、ジッと耳を澄ませた。
 裏口のドアを入って右手は簡易キッチン、左手は仮眠室になっていた。そこから事務所までの左右は、鉄格子の嵌った留置場になっていた。大抵は、度を過ごした酔っ払いや喧嘩の当事者たちが、そこで一晩、頭を冷やしてから、翌日の仕事に戻っていくのだった。
 たまに牛泥棒や駅馬車強盗、殺人犯などと云った重犯罪人や、おたずね者の賞金首などを、巡回判事が来るまでの間、閉じ込めておくこともあったが、その留置場も、いまは空っぽだった。
 その間に、裏口のドアから執務室まで、短い廊下が通っていた。廊下と執務室との境には、舶来のレースのカーテンが掛かっていた。かつては白く輝いていたそのカーテンも、いまでは砂埃に黄色く汚れ、折目もなくなってしまっていた。
 音はしなかった。なのにいま、そのカーテンがゆっくりとめくれ、埃まみれの黒い山高帽をかぶり、焦茶色の乗馬ズボンを穿いて、クリーム色のシャツに革のチョッキを着た小柄な男が、姿を現した。
「ハロウ、シェリフ」
 その容貌に似た、若々しい声だった。
「ハロウ、キッド」
 保安官は振り向きもせず、驚いた様子もなく、椅子に背をもたせ、首を伸ばしたまま、およそ抑揚のない声で応えた。
 キッドと呼ばれた若者は、その童顔にコヨーテのような笑みを浮かべ、敷居際から室内を横切って、保安官の正面にまわった。
「ノックをするべきだったんだろうね」
 そう云って椅子を引き寄せると、後ろ向きにして馬乗りになり、背もたれに両腕をのせて、あごを置いた。
「他人行儀な。俺とおまえの仲じゃないか」
 保安官は身を起し、机に目を伏せて云った。
 キッドは肩をすくめた。
「ティファナにいるはずの男がやって来たっていうのに、驚いてないみたいだね」
「噂なんか当てにならないもんさ。おまえさんが、いちばんよく知ってるだろう」
「そうだね。噂によると、ぼくは南西部を荒らしまわる無法者たちの首領で、血に餓えた人殺し、年齢の数と同じだけ人を殺した、二丁拳銃の悪魔ってことになってるからね」
「違うのか」
「とんでもない。ぼくはまだ、二十一だぜ。年齢の数とおんなじだけ人を殺してるんなら、もう、四十近いオッサンじゃないか」
 保安官は苦笑いした。
「そのことを悔いて、自首しに来たのか」
「ぼくが」キッドは驚いたように背を反らせ、両腕を離して、その指先を自分の胸に向けた。「なんで、ぼくが自首なんかしなくちゃならないんだい」
「勲章がもらえるとも思っちゃいまい」
「勲章か、うん、そいつはいい。そうだ、そいつは気づかなかった」キッドは嬉しそうに指を鳴らし、「そいつはいい考えだ。ウン、名案だ。さすが、シェリフだ。さっそく、大統領に手紙を出そう」
 興が乗ったように、椅子の背をつかんで、前後に揺らし始めた。
「なんて書くつもりだ。仲間たちと語らって、親爺のように慕ってた牧場主の商売敵を殺しました、その雇い人や仲間たちも、一人残らず、殺してまわりました、その功を讃え、勲章をくださいますようにって、か」
「そうだな、じゃあ、口述するから、書き取ってくれ」
 キッドは椅子を揺するのをやめると、両腕を突っ張ったまま背をのばし、目を宙にすえて、おもむろに口を開いた。
「『敬愛する偉大なる大統領閣下。
 閣下が任命された州知事、ならびに正義と治安を守るべき郡保安官の怠慢により、敬虔篤実、善良にして勤勉、自らに峻厳、他に接するに温厚なよき市民が、強欲非道、冷酷にして陰険、私欲を図るに手段を選ばず、他に対して傲慢卑怯な下衆野郎に、なぶり殺しにされました。
 しかるに閣下が任命された州知事、ならびに正義と治安の守護者たるべき郡保安官は、怠慢にも、この野卑下劣きわまる破廉恥漢に、法と正義の鉄槌を下すことはおろか、その穢れたる利得の分け前に預かって自らの責務を放棄し、あろうことか、かの卑劣漢を庇護するの挙に出でました。
 ここにおいて、神を畏れ、法を尊び、正義を愛する吾人は、志を同じゅうする友人たちとともに、吾人等に誇るべき労働と日々の糧を与え、紳士としての教育を施し、人生の師として自ら範を示した、厳しくも慈悲深き故人の御霊を安んぜんがため、真摯なる友情と堅忍不抜の信念を相誓い、相固め、一致団結して、卑劣なる畜生どもに蹂躙された法と正義と秩序を回復するべく、その行動を開始したのであります。
 法と正義に基づく吾人等の前に、かの下衆下劣なる悪党どもは色を失い、大いに恐れおののきつつも、もろく、はかなく、無力な、自暴自棄なる抵抗を試みましたが、正義と神の御加護を有する吾人等の裁きによって、ひとり、またひとり、と、その数を減じていきました。
 法と正義を布かんとせる天意を体現したる吾人等の働きによって、閣下の任命された州知事も、さすがに己を恥じ、一夕、吾人をその居宅に招いて、恥を知らぬ悪漢どもの厳正なる処罰と、法と正義に基づいた吾人等の行為に対して為された不法なる判断の取消とを、神を畏れ敬う敬虔なる紳士同士として、約束されたのであります。
 ところが、野卑下劣、厚顔無恥にして冷酷薄情なるかの悪漢どもは、この州知事を脅し、なだめ、すかし、およそありとあらゆる卑劣卑怯なる手段を用いて篭絡し、ともに神を畏れ敬う、敬虔なる紳士として取り交わしたる公明正大な約束を破棄して裏切らせ、善良にして性純朴、かけがえのない吾人の友人たちを、多く死に追いやったのであります。
 吾人は屈せず、僅かに生き残った仲間たちと活動を続け、ついに一人も余すことなく、かの悪党輩を殲滅し、閣下の統治せるこの国の、法と正義を実現し、その秩序を回復する一端を開いたのであります。
 かかる行いは、神を畏れ敬う者として、また、閣下の統治せらるるこの国の善良なる市民として、さらには廉恥を知り徳義を重んずる紳士として、当然の行いであり、なんらの栄誉栄爵をも求めるものではありませんが、もし閣下にして、吾人の働きを嘉し給い、これに報いずんば宸襟安らかならずと思し召さるるならば、吾人の功績に免じ、なにとぞ、高潔にして勇敢なる、いまは亡き吾人の仲間たちに着せられたる謂れなき罪の汚名を雪ぎ、合わせて吾人のそれをも御赦免下さるべく、恐惶頓首、謹みてお願い申し上げ奉りまする』」
 その長広舌の間じゅう、キッドは思い入れたっぷりに表情を動かし、派手な身振り手振りを片時も休めなかった。
 保安官はその長広舌と芝居がかった仕草を、あきれたような、ある意味感心したような、微妙な表情で聞き、かつながめていた。もちろん、その一言すら、書きとめようとはしなかった。
「どうだい」
 キッドはその大きな瞳を悪戯っぽくクリクリと動かすと、また椅子の背に両腕をもたせかけて、身を乗りだした。
「よくそれだけのセリフが云えるもんだな」
 保安官も皺に囲まれた目をみはり、心底感心した口吻で云った。
「見直したかい」
「あきれたよ」保安官は、また目を伏せた。「よくもまあ、それだけ出鱈目の嘘八百を並べ立てられるもんだ。おまけに、やたら大袈裟に、ゴテゴテと飾り立てて。旧大陸の宮廷婦人の衣裳みたいだよ。キッド、いったいおまえはいつから、そんな悪趣味な人間になったんだね」
 保安官は事務机の上に伸ばした右腕の指先で、机の表面を叩きながら云った。
「お偉方に出す手紙なら、そのほうが効果があるだろう思ってね」笑ったキッドの歯が皓く光った。「なにしろ連中ときたら、大仰で勿体ぶって、ゴテゴテと飾り立てたものが大好きなんだから」
 キッドは保安官の目をのぞきこむように背を丸め、
「それに、これは事実だよ。事実はハッキリ認めなくちゃいけない。そうだろ」
「オヤジは狩りに出ていたインディアンの流れ弾に当たって死んだ。不幸な事故だった。これが事実だ」
「それは、判事の事実さ。あの薄汚い豚野郎に金で買われた、性根の腐ったヒモ野郎の、ね」
「インディアン自身が証言したんだ。狩りに出かけていて、誤って撃ったってな」
「あの豚野郎に脅されたからさ。証言台に立ったインディアンの部族に行って、話を聞いてみたかい。もしその部族に行って、巧く話を聞き出せたなら、あの豚野郎の手下に脅かされて、やむなくそう証言せざるを得なかったってことが分かったはずさ。
 新年最初の狩りに出ていたんだが、獲物を狙って撃った弾が、運悪く、来合わせた白人のダンナに当たってしまった。そう証言してくれ。不運な事故だったんだから、罪に問われることはない。もし嫌だと云うなら、今後君の部族には、いっさい食糧は供給できない。部族の連中は恐ろしい餓えに苛まれることになる。それでもいいのか。って、わけさ」キッドは軽く肩をすくめてみせた。「チェルシー族に食糧を供給する権利は、あの豚野郎が独占していたからね。汚い金で、州のお偉方を買収して」
「証拠はないな」
「結局、裁判の後で、チェルシー族は殲滅させられたからね。いつもの手さ。てめえの腸みたいに腐った肉だけを送りつけて、抗議すると、政府に対する叛逆行為、暴動と称して、鎮圧したのさ。いや、鎮圧じゃない、虐殺だよ。碌な武器も持たないインディアンを、インディアンというだけで殺してまわったんだ。大人も子どもも、男も女も。
 馬で蹴散らし、小銃の弾を浴びせ、銃剣で串刺しにしたんだ。年寄や病人、子どもたちなんかは、馬の蹄で踏み付けて殺した。弾がもったいないってね。
 女たちは犯された。一人残らず……。人妻だろうが、娘だろうが、おかまいなく、まだ母親に甘えてるような小さい子でさえ、見境なく、凌辱しまくったんだ。
 俺が仲間たちと一緒に駈け着けたときには、雪が真っ赤に染まって、馬が足を踏み入れる隙間もないほどに、屍体が転がってたよ。互いに折り重なって。赤ん坊を抱きかかえたまま、蹄でムチャクチャに踏み潰され、銃剣でメッタ突きにされた屍体もあった。ミンチみたいに細切れにされた年寄の屍体もあった。
 それをやった下衆な畜生どもが、なんて呼ばれてるか、知ってるか。『英雄』だとよ。『野蛮なインディアンを討滅し、善良な市民の平和を護った英雄』だとさ。
 笑わせるぜ。いや、笑えないジョークだよ」
「それは、俺の知ったことじゃない」保安官は眉を顰め、深い顔の皺をいっそう深くして、静かに云った。「俺は与えられた権限に基づいて、与えられた権限の範囲内で、法を執行するだけだ。お前の云ったことがもし事実なら、それは知事か判事に訴えるべきだ」
「その知事も判事も、あの腐った豚野郎に丸め込まれてるのさ。ヤツの、腐った金を貰ってね。あんただって、知らないはずはないだろう」
 キッドは、椅子の背に乗せた両腕のうえから、顔を突き出して云った。
 保安官の皺が、いよいよ深くなった。
「知事に会ったとき、そのことも云ったよ。チェリーは、ぼくが知事に会うことには反対だった。当然だよ。自分の部族を皆殺しにされたんだからね。他の仲間たちも反対した。巧いこと云っておびき寄せて、その場で殺してしまうつもりだって云うんだ。
 ぼくもそう思わなかったわけじゃないよ。でも、ぼくは出向いた。捕まってもかまわなかった。ただ、知事に会って、いままでの経緯をすっかり話して、ぼくらのやってきたことを分かってほしかったんだ。ぼくらに着せられた汚名をすすいで、みんなが昔のように、立派な市民として生きていくための恩赦がほしかったのさ」
「その思いも裏切られたってわけか」
「そのとおり。知事はぼくを自分の居宅に呼び出しておいて、裏ではぼくの仲間たちを皆殺しにしようとしたんだ。あの薄汚い豚野郎とつるんで、ぼくらが使っていた隠し砦を襲撃させたんだ。
 ぼくがバカだったよ。大統領に任命された知事が、まさかそんな卑劣なマネをするとは、思ってもみなかったのさ」キッドの皓い犬歯が、紅色のやわらかいくちびるを噛んだ。「あのときの襲撃で、ほとんどの仲間が殺された。マイクも、スミスも、チャーリーも、ラウルも、みんな、殺された」
 保安官は目を伏せたままだった。額と眉間の皺も、深刻なままだった。聞いているのかいないのか、ただ右手の指先だけが、規則正しく、事務机の表面を叩き続けていた。
「バードも」キッドは真正面から、保安官を見据えた。その目に力がこもった。「バードもだよ、シェリフ。オヤジのところで牧童をしていた頃、あんたがいちばん、かわいがってた子だ」
「知ってるよ」
「よくそんな冷たい云い方ができるな。
 忘れたのかい。あんたが毒蛇に咬まれて、三日三晩、ベッドで唸ってたとき、あの子はつきっきりで、あんたを看病したんだぜ。
 夜もろくに眠らず、あんたがうなされるたびに、あの子はあんたの腕をつかんで、額を撫でて、あんたを力づけたんだ。
 汗を拭き、オートミールやミルクを飲ませ、濡れた服を着換えさせ、糞小便の始末までやった。
 朝晩あんたのベッドの足元で、必死にお祈りしてたよ。天使みたいな子だった。見てくれだけじゃなく、心の中まで、ね。
 あの子は最期まで、あんたを尊敬してた。あんたを尊敬して、慕ってた。息を引き取る間際まで、あんたがぼくたちを裏切って、あの豚野郎の手先になったことを信じなかった。信じようとしなかったんだ」
「俺はだれも裏切った覚えはない」
「じゃあ、その胸に光ってるバッジはなんなんだい。クリスマス・ツリーの飾りかい」
「おまえは知事の居宅を出たところで逮捕された。そのおまえが、保安官と助手を殺して脱獄した後、俺は知事に招かれて、正式に保安官就任の打診を受けた。断る理由はなかった。その頃俺は仕事にあぶれてたし、貯えもなかった。おまけに、自分が老いぼれてきたことを、認めざるを得なくなってきた。歳をとったってことを、認めなきゃならなくなったのさ」
「それがなんだって云うんだい」
「おまえもいずれ分かるようになるさ。仕事もなく、金もなく、頼れる者も家族もなく、ひとり年老いていくことが、どれだけつらく、侘しいものか。いずれおまえにも分かるようになる。生きていれば、な」
「ぼくたちがいたじゃないか」キッドは正面から保安官を見据えて云った。「ぼくたちはなんだったんだい。同じ牧場で働いてた仲間じゃないか」
「おまえたちは若い。銃を片手に、自分の正義を信じて暴れまわれる」保安官は身じろぎもせず、ただ口だけを動かしていた。「だが俺はそうじゃない。年をとった。いつのまにか、な」
「それがなんだってんだい」キッドが云った。「それがぼくたちを裏切る理由になるとでも思っているのかい」
「おれはだれも裏切ったつもりはない」
「あんたはぼくたちを狩り立てた。追撃隊を組織して、徹底して、ぼくたちを追い回した。
 楽な仕事だったろうよ。同じ釜のメシを食った仲間たちばかりだ。隠れ家も、支援者たちも、行動パターンだって、ぼくらのことは、全部知ってるんだからね。
 さすがにあんたの攻撃をかわすのは、楽じゃなかった。手口は読まれてるし、打つ手は素早かった。反撃する暇もなかったよ。
 ぼくたちは身を隠す場所もなくなり、ぼくたちを匿ってくれる人もいなくなった。かろうじて生き延びた仲間たちも殺され、とうとう、ファティマくんだりにまで逃げ延びなきゃならなくなった」
「自業自得だ。おまえは知事の任命した保安官を殺し、保安官の組織した義勇軍に参加した市民を殺して回った」
「それこそ、自業自得だよ。恩赦の餌でぼくを誘き寄せて捕まえ、汚い手段で仲間を殺したんだ」
「おまえは個人的な復讐心を満足させただけだ。法に則った行為じゃない」
「じゃあ、あの豚野郎どものやったことは、法に則ってるとでも云うのかい。自分の商売の邪魔になるオヤジを殺し、自分たちに反対するぼくらを追い回し、インディアンを利用して虐殺し、それで自分の懐を肥やそうとしているあの豚野郎どもが、正当な法に則ってるって云うのかい」
「証拠はない。証拠がない以上、それはおまえの勝手な思い込みに過ぎない」
 キッドの目が険しくなった。
「それがこの国のやりかたかい。汚い手段で金を儲けた奴らが、その腐った金で役人や政治家どもを買収して丸め込み、好き放題やらかして、これから自分の力で一旗挙げようとする正直な人たちや、インディアンのような先住民を抑えつけ、踏みつけにし、殺して回る。自分に対立する者、自分の邪魔になる者、自分のためにならない者、自分の気に入らない者、そんな人たちを、汚い手段で抹殺しておいて、自分だけは涼しい顔で、『証拠はござらぬ、わたくしは紳士でございます、善良な市民でございます』ってか。ふざけるな」
 キッドは床に唾を吐いた。その童顔に血が上り、赤く染まった。
「時代は変わったんだ、キッド。自分の正義感だけで、拳銃片手に暴れ廻れた時代は、もう終わった。これからは、法が正義の時代だ。人を裁くには、証拠が必要なんだ」
 保安官の口ぶりは、あいかわらず、おだやかで、淋しかった。
「そうだろうよ。だからこそ、あの性根の腐った豚野郎は、自分の手下を使ってオヤジを殺しときながら、インディアンを脅して証言台に立たせて、自分は関係ないって、涼しいツラをしてすましてられるんだ。
 いいかい、保安官。いくら時代が変わっても、俺は変わらない。絶対に変わらない。正義だって、証拠があろうがなかろうが、正義だって、絶対に、変わらない。時代だって変わらない。変わったのは表面ヅラだけさ。心底の中身まで、変わるもんか」
「時代は変わったんだ、キッド」保安官は目を上げて、真正面からキッドを見据えると、キッパリと云った。「いまも変わり続けてる。そして、これからも変わり続ける。それが時代だ」
 キッドの目が細まり、口もとが引き締まった。
「俺は変わらない。絶対に、変わらない」
 二人の視線が交錯した。不可視な火花が散り、一瞬、時が凍りついた。
 次の瞬間、派手な音を立てて、キッドが椅子ごと後ろに倒れた。同時に銃声が響いた。
 硝煙が立ち上り、事務所が震え、天井のランプが揺れて、埃が舞い落ちた。
 キッドの撃った弾は、壁に並んだライフル銃の陳列棚を破壊して、そのほとんどを床に散らばらせた。
 保安官は椅子を後方に撥ね飛ばして、机の下に潜り込んでいた。壁から弾き飛ばされた何丁かのライフル銃が、机の天板を叩いた。
 保安官は三方を板で囲まれた机のなかから、顔の半分と、縮めた片手だけを出して、キッドの座っていた椅子に拳銃の弾を浴びせかけた。
 腰掛けの板が粉々に砕け、四本の足が飛び散った。
 そこに、キッドの姿はなかった。
 キッドは埃まみれの床を転がって、ランプの光の届かない薄暗い部屋の隅に移動していた。
 その部屋の隅から、保安官の机めがけて、立て続けに銃弾が集まった。
 キッドの左右の手から放たれる、二丁拳銃の銃弾だった。
 キッドは片膝を立てた姿勢で、左右の手に握った拳銃を操り、保安官の机に銃弾を集中させた。
 保安官の机は、たちまち、木っ端微塵になった。
 すでに保安官は机の中を出て、反対側にある簡易ベッドの陰に移動していた。その手には、壁の陳列棚から弾き落とされたライフル銃の一丁が握られていた。
 緊張と激しい動きが、その息づかいを荒くさせていた。
 保安官は大きく一息吸いこんで呼吸を整えると、やおら立ち上がって真直ぐに背筋を伸ばし、キッドが隠れている部屋の隅めがけて、腰だめの仰ぎ撃ちで弾を連射した。硝煙がその老いた痩躯を包んだ。
 事務所の中を双方の弾が飛び交い、火薬のにおいと煙が立ち込めた。板壁が間断なく振動し、そこここが銃弾で抉られた。木屑が散乱して宙を舞った。
 キッドが動いた。床の上を滑るようにして、頭から、入ってきた廊下に飛び込んだ。色の褪せたレースのカーテンが千切れ、キッドの体に巻きついた。
 その後を、保安官のライフルが追いかけた。その銃弾が二発、アーチの木枠を削り取った。
 銃声が止んだ。
 火薬のキナ臭いにおいと、双方の銃弾によって引き裂かれた机や椅子、ライフルの陳列棚、ベッドの木枠、天井や板壁の木屑が、舞い立つ埃と一緒になって、事務所の空間を満たしていた。
 保安官はライフル銃を下ろし、それを杖にして、倒れそうになる身体を支えた。
 その眼は血走って大きく見開かれ、渾身の力を込めて、キッドの消えた裏口の廊下を見据えていた。口は、顎が外れたようにダラリと開いていた。咽喉が、酸素を求めて、懸命に喘いでいた。額が切れて、血が流れていた。滝のような汗が滴り、埃に塗れたその顔は、まるで粉を吹いているかのようだった。身体を支える手も脚も、ガクガクと震えていた。
 ズボンの右脚、太もものところが裂けて、血が滲んでいた。左の肩にも、花瓣のような血の跡が見えた。
「生きてるか、シェリフ」
 裏口につうじるアーチのあたりから、キッドの声がした。
 保安官は応えず、ただひたすらに、喘いでいた。埃まみれの半白の口髭から、血の混じった汗が滴った。
「どうなんだ、生きてるのか」
 自棄になったような声だった。その声も枯擦れ、息が荒く弾んでいた。
「ああ、生きてるよ」
 保安官も喘ぎながら云った。
「しぶといな」
「お互いさまだ」
 薄れかけた硝煙の中に、キッドが姿を現した。
 帽子は失われ、栗色の髪がボサボサに乱れていた。顔には引っ掻き傷が出来、血が滲んでいた。ふくらはぎが赤く染まった左足を引きずっていた。血色の良かった童顔は、すっかり青白くなっていた。
 キッドは腰のあたりで、両手を前に出していた。その手の先には、銃口を下に向けた恰好で、二丁の拳銃がぶら下がっていた。引鉄輪に中指だけを掛け、他の指は大きく開かれていた。
 キッドは弱々しい笑みを浮かべた。
「あんたの勝ちだよ、シェリフ」二丁の拳銃が、指を滑って、床に落ちた。「弾切れだ」
 姿勢が崩れかけたが、なんとか持ちこたえた。
「お互いさまだな」保安官もライフルを倒し、ズタズタになったベッドの足板にもたれかかった。「こっちもだ」
 ふたりは顔を見合わせて微笑んだ。
 瞬間、ともに同じ牧場で働き、ともに汗を流しながら、牛飼いや養豚の仕事を教え、教えられた、先輩後輩の表情が甦った。
 しかし次の瞬間、その表情は、敵同士のそれに変化した。
 渾身の力を込めて、ふたりは叫んだ。
「時代は変わったんだ、キッド」
「俺は変わらないぜ、シェリフ」
 二人は同時に動いた。
 保安官は床に身を投げ出し、直近にあったライフル銃を手に取った。
 キッドは身体を捻り、右手を背後に廻すや、その手を肩口から突き出した。
 銃声が轟き、事務所の空気が振動した。
 右手を前に伸ばしたまま、キッドはその唇を釣り上げた。目元に不敵な笑みが浮かび、その笑みが童顔の全体に拡がった。
 保安官は射撃したときの姿勢を崩さず、血走った眼で、キッドの様子を見つめていた。
 その喉頸に一筋、血が滲み、拡がって、滴り落ちた。その血は、汚れたシャツの襟首を濡らし、瞬く間にそれを、真っ赤に染めあげた。
 背後の板壁に突き刺さったナイフが慄えていた。
 保安官は目を見開き、ライフル銃を構えたまま、滑るようにつんのめった。
 かすかな埃が舞い立ち、やがて、静まった。
 同時に、保安官の背後の板壁に突き刺さったナイフも、その振動を止めた。赤く濡れた鋼鉄の刃から、一滴ポタリと、血のしずくが落ちた。
 キッドは、不敵な笑みを浮かべたまま、つぶやいた。
 「あんたの勝だよ、シェリフ」キッドは口もとをゆがめた。「だが、俺は変わらないぜ」
 そして、倒れた。
 俯伏せになった背中に、赤い血が滲み、拡がった。
 保安官は床のうえから、血と、汗と、埃にまみれた顔を上げた。
「おまえは負けたんだ、キッド」そして、苦しげに云った。「時代は変わる。変わるんだ」
 力尽きたその頬が、ふたたび、床に触れた。
 小半刻も経った頃、追撃隊が帰ってくる馬蹄の音が、彼方の砂塵にとどろいた。
| ろ〜りぃ&樹里 | 小説もどき | 17:25 | - | - |
夫婦塚由来〜「百池ヶ村郷土史」より
                             類家 正史

 信州松本からJR大糸線に乗り換えて、古びた二輌連結の客車に揺られること約二時間、最初はものめずらしかった山間の景色にもようやく飽きてきた頃、列車は「百池ヶ村」と看板のかかった、古びた木造の駅舎に到着する。
 長野県の北西に広がるこの村は、北は虎臥連山を境として新潟と接し、西は白鹿連山を境として富山と接している。この両連山のふもとにスキー場があるのだが、ほとんどの客は白馬のほうに流れてしまい、よほどの事情通ででもないかぎり、この村まではやって来ない。
 村はリンゴの栽培と酪農を主な生業としている。いったいにこの地方は、田畑の耕作には不向きな土地柄で、それはこの百池ヶ村も例外ではなく、かつては村民たちの糊口をしのぐのがやっとというありさまだった。それが、明治の中頃から酪農がはじまり、さらに大正の末年から昭和の初頭にかけて、広くリンゴの栽培が行われるに及び、ようやく村民たちの生活も豊かになりはじめた。現在、百池ヶ村のリンゴ酒と言えば、そのさわやかな口あたりや、ふくよかで丸みのある味わいによって、若い女性たちのあいだで、ひそかな人気を呼んでいるとのことである。
 このリンゴ酒とともに、最近になって注目を浴びはじめたのが、スキー場近辺に軒を連ねる温泉宿である。口コミの威力というのはバカにできないもので、近年この村の温泉群が、リュウマチや神経痛、それに肌の美容や各種の皮膚病にも、その効能バツグンであるとして、じょじょにその人気を増していったのである。
 百池ヶ村はその広大な面積を、ヒトデの足のようにのびた背の低い山々によって分断されているため、交通の便はいたって悪い。しかし都会の喧騒に疲れた人々にとっては、なまじ多くの湯治客によって俗化され、半ば観光地化した温泉地などよりも、この村のような鄙びたところのほうが、かえって有り難いのかもしれない。たしかに煩瑣を避けて日々の塵労を洗い落とし、ゆったりのんびりくつろぐには、この村の温泉街は、恰好の場所である。
 村内に百の池があるというところから、百池ヶ村と名付けられた、と云われているが、その池というのは、実は温泉のことである、という説もあるくらい、この村には温泉が多い。百は云い過ぎとしても、大小取り混ぜたその数は、決して少ないほうではない。なかでも一番有名なのが、村の北西に位置する、慈恩温泉である。
 その昔、この地方に流行(はや)り病が起こって村民たちが苦しんでいたところ、諸国を遍歴されていた弘法大師が、たまたまこの地を通りかかった。村民たちの苦しみを不憫に思われた大師は、村のはずれに温泉を開き、その傍に小屋を立ててそこを仮の住(すまい)と定めると、村中の病人を癒されるまで、この地に滞在した。村民たちはその厚恩に深く感謝し、大師の開かれた温泉を慈恩温泉と名付け、子々孫々にまで、その高徳を伝えることとした。
 これが現在に伝わる、慈恩温泉の由来である。現在では村のほとんどの温泉宿がこの付近に集中して、たがいに本家元祖のあらそいを繰り広げている。
 この温泉に来ようという人は、百池ヶ村駅前のロータリーから出ている、慈恩温泉行のバスに乗ればよい。所要時間は、約一時間と三十分。少々長い道のりだが、これは先程も述べたように、村内が背の低い山々によって分断されているため、山をひとつ、越さねばならないからである。
 駅前の商店街には、喫茶店や大衆食堂、みやげ物屋などが、構えを連ねている。一軒ずつだが、コンビニやゲーセン、カラオケ・ボックスもある。駅前から少し行ったところの横丁には、何軒かの飲み屋が軒を並べている。村で一番高い建物が五階建ての百貨店と電気店で、それも駅前から見渡すかぎり、二軒ほどしか見あたらない。坂道が多く、起伏にとんだ町並みだが、視界をさえぎるような高い建築物がないため、彼方の山なみがはっきりと見える。道も片側二車線の道路といえば、駅前から北方にのびる大通りと、スキー場のふもとを東西に走る百池ヶ村街道ぐらいで、この二本が、村の主要街道になっている。
 都会の喧騒に疲れた身には、桃源の里のような別天地である。せわしない日常の俗塵を洗い落として命の洗濯をし、心身ともにリフレッシュするには、絶好の土地である。
 しかし、人は見かけによらないというたとえもあるが、それは村も同じである。一見のどかで平和に見えるこの村にも、その長い歴史のうちには、実に血なまぐさい、やりきれなくなるような話もあったのである。
 それは、天保七年と云うから、西暦でいえば一八三六年、徳川幕府の治世も末期にさしかかっていた頃のことである。
 幕府の統治能力は、限界に達していた。諸藩の財政はすでに破綻の様相を呈しており、農民は重い年貢と深刻な飢饉に苦しんでいた。
 翌年、大坂に勃発した大塩平八郎の乱に象徴されるように、当時は全国が大飢饉にあえいでいた。世に云う、天保の大飢饉である。
 先述したように、この地方はもともと耕作には不向きな土地柄だったが、それがこの飢饉によって、潰滅的な打撃を被った。打ち続く凶作に、一俵の米も収穫できない年が続いた。少ない蓄えはすぐに底をつき、村はたちまち、飢餓のどん底に落ち込んだ。粟や稗の水粥をすすっていられたうちはまだいいほうで、ついにはネズミや犬猫を殺してその肉を喰らい、或いは草の葉や木の根ッ子、木の皮までをも口にして、飢えをしのがざるをえないところにまで追い込まれた。
 年寄りや子どもたちが次々と亡くなり、やがて若い娘たちの姿が見えなくなった。
 飢えた家族たちの命をつなぐため、或る者は遊女となり、或る者は妾となって、あちこちの町に売られていったのである。いつの世にも、犠牲となるのは女である。
 三々五々と売られていく娘たちのなかに、みずほの姿があった。
 みずほには平八という、将来を誓い合った青年がいた。平八は庄屋の息子だったが、当時のような状態のなかにあっては、庄屋もなにも、あったものではない。平八はなすすべもなく、村をあとにするみずほの姿を見送る以外になかった。そのときみずほは十五歳、平八は十七歳だった。
 愛する女が売られていくのを、ただ黙って見ているしかなかった平八は、それからの数年というもの、食うものも食わず、がむしゃらになって働いた。朝は朝星、夜は夜星を頂いて、ただひたすらに鋤鍬をふるい、真ッ黒になって働いた。痩せ細っていく身体をものともせず、村民たちとはおろか、両親とすら、ほとんど口をきかなくなった。襤褸のような野良着をまとい、蓬髪を振り乱して仕事に明け暮れるその姿は、まるで何かに、取り憑かれたかのようだった。
――平八のヤツ、気が触れよったんじゃ。
 村の人々は、口々にそうささやきあった。
 そうして、数年の月日が過ぎていった。
 或る年の冬、平八は血を吐く思いをして貯めた銭をもって山を越え、みずほの売られた先を訪ねていった。
 山を越え、数里の難路を歩き、貧しい衣服を襤褸となし、足袋の破れた足を血に滲ませ、ようやく彼は、とある街道沿いの宿場町に暖簾を出している、一軒の女郎屋にたどりついた。
 あかぎれのにじむ足でその店を訪ねた平八は、みずほが数日前に、そこを逃げだしたことを知らされた。みずほは、その容姿艶色たり、また、気心細やかであったため、店一番の稼ぎ頭だったが、その待遇は他の遊女同様、牛馬にも劣るものだった。いや、店で一番多くの客を取らされていただけに、その待遇はいっそう苛酷なものだったといえるだろう。
 とまれ、店一番の稼ぎ頭が逃げ出したということで、店では奉公人たちを走らせて、厳重な捜索を行った。そこに平八が、みずほを訪ねてきたのである。
 平八はその場で捕らえられ、執拗にみずほの行方を追求された。みずほが身を隠しそうなところを、なんとしても聞き出そうというのである。尋問は熾烈をきわめ、拷問は三日三晩にわたって続けられた。平八はボロボロになり、あげくの果てには、敝履のごとくに放り出された。
 数年にわたって酷使し続けてきた肉体に、三日三晩の拷問は致命的だった。雪降る裏路地に放り出されたとき、彼はもはや、人間の残骸というにすぎなかった。骨と皮だけに痩せ細った身体は、いたるところ鞭打たれ、ズタズタになった皮膚から滲みだした血で、全身が赤黒く染まっていた。まぶたも鼻も、いや、顔全体が、紫色にふくれあがり、くちびるは裂けて、何本かの歯がへし折られていた。歯だけではない。脚も腕も、肋骨も、指の骨にいたるまでが、へし折られていた。鼻からも口からも血を流し、両手両足の爪はことごとく剥がされていた。垂れ流した大小便は下半身にこびりつき、流れだした血と混じり合って、異様な臭いを放っていた。
 それでも平八は生き延びた。死ぬわけにはいかなかった。
 彼は木の枝にすがって身体を支え、気息奄奄たるありさまで村に戻ってくると、しばらくは泥のように眠って、その体力と気力とを回復した。
 目覚めたとき、平八は鬼と化していた。愛する女にも会えず、苦労して貯めた銭は巻き上げられ、店の者にさんざんいたぶられて、幾度となく三途の川を渡りかけた平八には、ひとつの確信があった。それが彼の命をつなぎ、彼を村に戻らせて、彼を鬼と化したのである。平八は、店の者がみずほを隠している、と、堅く思い込んだのである。
 黒雲が空を覆い、雪がはげしく降りしぶく、或る夜のことだった。丑三ツの闇に沈んでいた宿場町に、ときならぬ喚声と、けたたましい悲鳴が響きわたった。
 尋常ならざるその物音に、なにごとならんと外をのぞいた町の人たちは、夜にふぶく雪をすかして、天を焦がすが如くに燃え上がった、地獄の炎を見た。耳は阿鼻叫喚の叫びを聞き、目は逃げまどう亡者の群れを、彼らを追い回す獄卒たちの姿を見た。
 異様な光景だった。亡者の如く逃げまどう人々は、夜とはいえ、立派な着物をまとっていた。それに対して獄卒たちが身につけていたものといえば、それこそ亡者さながらの、粗末なものだった。彼らは手に手に竹槍や鋤鍬をもち、逃げまどう人々に襲いかかってはなぶり殺しにした。それはまさに、この世の地獄だった。
 その地獄に現れた、残忍無残な獄卒たちこそ、平八に率いられた、村の若者たちだった。
 長き眠りから覚め、鬼と化した平八は、村の若者たちを煽動して、彼らの恋人、許嫁、幼なじみや妹の売られていった先を襲撃したのである。
 事を起こすにあたって彼らはまず、みずほの売られた先を襲撃した。
 物音に驚いて起きだしてきた店の者たちは、雨戸を破って乱入してきた平八たちの手にかかって、たちまちのうちに絶息した。彼らはところ狭しとばかりに暴れまわり、店の者たちを殺害しては、売り飛ばされていた娘たちを解放した。しかし、店中を破り壊して回ってみても、みずほの姿は、ついに見あたらなかった。そしてそのことが、平八の憤怒を、よりいっそう激しくした。彼らは娘たちを助け出すと、目ぼしい金品を略奪し、店のあちこちに火をかけた。そして威勢のよい鬨の声を挙げた。
 地獄がはじまった。
 平八たちは次々と富裕な商家――米屋、酒屋、呉服屋、高利貸し、女郎屋など――を襲い、店の者と見るや、手当たり次第にこれを殺戮した。そして金品を強奪しては火を放ち、売り飛ばされていた娘たちを解放した。しかし何軒の家を襲撃しても、みずほの姿だけは、一向に見あたらなかった。
 平八はますますいきりたち、それに比例して、暴虐の度合もますます烈しくなった。降りしぶく雪をもものともせず、愛する女の姿を求めて荒れ狂うその姿は、梵天帝釈を蹴散らす阿修羅さながらだったと、『百池ヶ村郷土史』は伝えている。
 彼らの暴動は、数刻後には藩政府の知るところとなった。払暁とともに、藩の軍勢が動きだした。憤怒に燃え、烈火の如くに暴れまわる平八たちも、組織的な藩の軍勢を相手にしては、勝ち目はなかった。
 藩兵の火縄銃から逃れ、槍衾をかいくぐって村へと逃げ帰れたのは、平八はじめ、わずか五、六人余りだった。
 命からがら村へと逃げ帰ってきた平八たちを出迎えたのは、竹槍で武装した、村の大人たちだった。平八たち村の若者が引き起こした事態を知った村民たちは、自分たちに後難の振りかかるのを恐れ、もし彼らが村に戻ってくるようなことがあれば、自らの手で彼らを捕縛し、その身柄をお上に引き渡すことによって身の安泰を図ろうと決議したのである。
 平八は庄屋の息子だったが、それだけに、事は重大だった。事は村全体の死活にかかわるものだった。それだけに庄屋といえども、その決定に反対はできなかったのである。
 平八は捕らえられた他の仲間たちとともに、磔刑に処せられた。彼は三尺高い柱の上にくくられながらも、竹矢来に群がる人々のなかにみずほの顔を捜し求め、その名を叫びつつ、刑吏の槍に貫かれた、と云う。
 その夜、虎臥山の山中で、凍死したみずほの死骸が発見された。売られた先からやっとの思いで逃げだし、極寒の山中をさまよったあげくの死だった。身にまとった着物はズタズタに裂け、裸足の足は血にまみれていた。身体中生傷だらけで、ほどけ乱れた黒髪が、血の気の失せた蒼白の顔を覆い、その合間からは、両眼が虚ろに見開かれていた。もはや生命の焔を宿さぬその瞳は、かつて平八と過ごした懐かしい村を、幼き日々の思い出のこもる、幸せに暮らした生まれ故郷の村を、じっと見凝めていたという。
 翌年のことである。
 みずほの売られた先の大旦那は、平八一党の打ち壊しのときにも九死に一生を得、以前と変わらぬ日々を送っていたが、ある夜突然、原因不明の高熱を出して床に就き、三日三晩苦しんだ末に、口から黒い血を吐いて悶死した。その苦しみようは一通りではなく、家人たちは、何かの祟りではないかと、恐れ慄いた。
 一方村のほうでは、雪の降る夜に、村人たちが凍死するという怪事が続発した。それにともなって、美しい女の幽霊が出る、と云ううわさが広まった。その女は、見たところ十七、八歳、みめよき娘で、降り積もる雪よりも白い肌をもち、吹きすさぶ風につややかな黒髪を靡かせた、ゾッとするような美少女だったと云う。
 他の大人たちも、つぎつぎと、不審な死に見舞われた。
 ひとりはある夜、憑かれたような足どりで崖端まで行き、そこから転落した。
ひとりは突如、なにやら大声で喚きながら着ていた服を脱ぎ、素っ裸になって、森のなかへと駆け出して行った。
或る大人は、仲人を務めた宴席でいきなり暴言を吐きはじめ、新郎の頭を殴りつけて大笑し、そのまま発狂してしまった。
 その現場に居合わせた村人たちの話によると、いずれの場合でも、白い着物をまとった、うら若い乙女の姿があったと云う。
  『百池ヶ村郷土史』と云う民間伝承を集めた小冊子のなかに、その幽霊に遭遇した、或る村人の話が残っている。
 それはことのほか寒さの厳しい、或る夜のことだった。彼は友人の一人とともに、隣村からの帰途にあった。
 暮れ方から降りだした雪はいよいよその勢いを増し、この分ではまた吹雪になるかと、二人は首をすくめて、足を早めた。
 そのときである。彼らは烈しくふぶく雪のなかに、白い着物をまとった、うら若い乙女の姿を見たのである。
 彼らは驚きのあまり、その場に腰を抜かしてしまった。雪降る夜に現れる美しき幽霊のうわさは、彼らも耳にしていたのである。
 彼女は、まるで宙を滑るように近づいてくると、彼の連れに向かって、何やら耳打ちするように身をかがめた。彼の連れは目を見張り、顎を落として首を振った。その眦は裂けんばかりに見開かれ、面には、驚愕の表情が凍りついていた。
 娘はかがめていた身体をスックと伸ばすと、今度は彼のほうに近づいてきた。すると彼の連れは、喉の奥から、ヒューッ、という奇怪な音を漏らし、憑きものが落ちたようにぐったりとくずおれた。
 彼は生きた心地もなく、ただ震えているだけだった。全身が麻痺したように痺れ、その幽霊から、目をそらすことさえ出来なかった。
 彼女はそんなことには頓着せず、ゆっくりと、滑るように近づいてくると、さっきと同じように身をかがめ、彼の耳元にささやいた。
 ――平八さんは、どこにいる?
 それは耳に聞こえたというよりも、頭のなかに、じかに話しかけられたような感じだったと云う。
 彼は何と答えてよいか分からず、ただガチガチと、歯を打ち鳴らすばかりだった。口のなかはカラカラに乾き、舌はひきつって、口蓋に張りついた。彼はやっとのことで生唾を呑み込むと、なにやら自分でも訳の分からぬことを口走った。
 彼が恐怖に怯えた目で見ていると、娘はすっと身を離し、いずこともなく、去っていった。
 彼は長いことその場にへたり込んでいたが、降りしきる雪の寒さが、その意識をハッキリさせた。彼は大慌てで家に戻ると、頭から布団をかぶってその夜を過ごした。
 その後彼は、三日三晩と云うもの、烈しい高熱に浮かされ、悪寒に慄え、悶え苦しみながら床の上を転げまわり、しきりとうわ言を発した。
 三日後、彼は大量の黒い血を吐いて、絶息した。みずほの売られた先である娼家の大旦那と、おんなじ死にざまだった。彼は、平八たち村の若者をお上に売り渡すことを最も熱心に主張した大人たちのひとりだった。
 娘の幽霊がみずほであることは間違いなかった。彼女は死して後もなお、愛しい男の姿を求めて、雪の山野を彷徨っていたのである。
 その事を知った村人たちは、それまで別々の場所に、犬猫同然に埋めてあった二人の亡骸を掘り出し、丁重な供養を行ったのち、あらためて、二人一緒の墓に埋葬した。
 その墓は、現在、「夫婦塚」と呼ばれて、虎臥山の中腹にある、葛葉神社の一角に奉られている。
 以上が百池ヶ村に伝わる、雪女伝説のあらましである。この伝説の最後を、『百池ヶ村郷土史』は、次のような文章で締めくくっている。
「現在でも雪の烈しい冬の夜には、白い着物をまとった、うら若き乙女の幽霊が出ると云う。もし彼女に、『平八さんは、どこにいる?』と訊かれたら、迷わず『葛葉神社、夫婦塚』と云えばよい。するとその幽霊は、あなたに害をなすことなく、その姿を消すであろう。」
| ろ〜りぃ&樹里 | 小説もどき | 21:26 | - | - |


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