ろ〜りぃ&樹里とゆかいな仲間たち

Blog(日記)と云うよりはEssay(随筆)
Essay(随筆)と云うよりはSketch(走り書き)
Sketch(走り書き)と云うよりは……?

 注)タイトルに「*」のついた記事は「ネタバレ記事」です。ご注意ください。
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ある愛の詩
あんた、イイ人、イイ人ね。
都合のイイ人、どうでもイイ人。
| 遊冶郎 | 悪魔のつぶやき | 22:54 | - | - |
『悪魔の論理学』
前提:わたしは角を失くしたことがない。
結論:だから、わたしには角がある。

この矛盾が解けますか?

AとBは友人である。
BはAのことを、よく調戯う。
ちょっかいをかける。
それに業を煮やしたのか、あるときAが、
「アイツに話しかけられたくない」
と、ボヤいた。
“アイツ”とは、Bのことである。
一時の気まぐれだったのかもしれない。
たまたま、そのときの気分が悪かったのかもしれない。
しかし、Aはそうボヤいた。
それを聞いたCは、そのことを、Bに伝えた。
それ以来、BはAを避けるようになった。

さて、AとBの仲を険悪にしたのは、だれでしょう?
Aにちょっかいをかけ続けたBでしょうか?
そのBのことを、「話しかけられたくない」と云った、Aでしょうか?
Bにそのことを伝えた、Cでしょうか?

| 遊冶郎 | 悪魔のつぶやき | 12:12 | - | - |
愉しかるべきはずの……
愉しかるべきはずのフライデー・フリー・ステージが、昨夜はまるで、愉しくなかった。
頃合いを見計らって、さっさと帰ってしまおう、と、思った。

なぜなのだろうか?
いつもあたたかいニイさんに、久しぶりでお会いできたはずなのに……。
いつも一緒に愉しんでくださるmamoさんもいたはずなのに……。
いつもかわいがってくださる会長も、ムジナの大将もいたはずなのに……。
何か月ぶりかでお会いしたマイケルさんも、変らぬダジャレを飛ばしながら、ゆかいな笑顔を見せてくれたはずなのに……。
見目麗しい二人の女性も、その麗姿を見せてくれたはずなのに……。

チャンドラーのせいかもしれない。「赤い風(RED WIND)」の烈風が、髪の毛を逆立たせ、神経を苛立たせ、肌をむずつかせたのかもしれない。
だとしたら、愉しいパーティーが喧嘩で終らなかっただけ、よかったのかもしれない。

でももしそうだとしたら、カミュの『異邦人』を読んでいたら、きっと太陽のせいになっていただろう。
たとえ、夜だとしても。

まぁなんにしても、こんなに素直に感情を激発させるようじゃぁ、簡単に、ダーク・サイドに引きずり込まれちゃうなぁ……。
| ろ〜りぃ | らいぶ☆にゅ〜す | 11:42 | - | - |
夫婦塚由来〜「百池ヶ村郷土史」より
                             類家 正史

 信州松本からJR大糸線に乗り換えて、古びた二輌連結の客車に揺られること約二時間、最初はものめずらしかった山間の景色にもようやく飽きてきた頃、列車は「百池ヶ村」と看板のかかった、古びた木造の駅舎に到着する。
 長野県の北西に広がるこの村は、北は虎臥連山を境として新潟と接し、西は白鹿連山を境として富山と接している。この両連山のふもとにスキー場があるのだが、ほとんどの客は白馬のほうに流れてしまい、よほどの事情通ででもないかぎり、この村まではやって来ない。
 村はリンゴの栽培と酪農を主な生業としている。いったいにこの地方は、田畑の耕作には不向きな土地柄で、それはこの百池ヶ村も例外ではなく、かつては村民たちの糊口をしのぐのがやっとというありさまだった。それが、明治の中頃から酪農がはじまり、さらに大正の末年から昭和の初頭にかけて、広くリンゴの栽培が行われるに及び、ようやく村民たちの生活も豊かになりはじめた。現在、百池ヶ村のリンゴ酒と言えば、そのさわやかな口あたりや、ふくよかで丸みのある味わいによって、若い女性たちのあいだで、ひそかな人気を呼んでいるとのことである。
 このリンゴ酒とともに、最近になって注目を浴びはじめたのが、スキー場近辺に軒を連ねる温泉宿である。口コミの威力というのはバカにできないもので、近年この村の温泉群が、リュウマチや神経痛、それに肌の美容や各種の皮膚病にも、その効能バツグンであるとして、じょじょにその人気を増していったのである。
 百池ヶ村はその広大な面積を、ヒトデの足のようにのびた背の低い山々によって分断されているため、交通の便はいたって悪い。しかし都会の喧騒に疲れた人々にとっては、なまじ多くの湯治客によって俗化され、半ば観光地化した温泉地などよりも、この村のような鄙びたところのほうが、かえって有り難いのかもしれない。たしかに煩瑣を避けて日々の塵労を洗い落とし、ゆったりのんびりくつろぐには、この村の温泉街は、恰好の場所である。
 村内に百の池があるというところから、百池ヶ村と名付けられた、と云われているが、その池というのは、実は温泉のことである、という説もあるくらい、この村には温泉が多い。百は云い過ぎとしても、大小取り混ぜたその数は、決して少ないほうではない。なかでも一番有名なのが、村の北西に位置する、慈恩温泉である。
 その昔、この地方に流行(はや)り病が起こって村民たちが苦しんでいたところ、諸国を遍歴されていた弘法大師が、たまたまこの地を通りかかった。村民たちの苦しみを不憫に思われた大師は、村のはずれに温泉を開き、その傍に小屋を立ててそこを仮の住(すまい)と定めると、村中の病人を癒されるまで、この地に滞在した。村民たちはその厚恩に深く感謝し、大師の開かれた温泉を慈恩温泉と名付け、子々孫々にまで、その高徳を伝えることとした。
 これが現在に伝わる、慈恩温泉の由来である。現在では村のほとんどの温泉宿がこの付近に集中して、たがいに本家元祖のあらそいを繰り広げている。
 この温泉に来ようという人は、百池ヶ村駅前のロータリーから出ている、慈恩温泉行のバスに乗ればよい。所要時間は、約一時間と三十分。少々長い道のりだが、これは先程も述べたように、村内が背の低い山々によって分断されているため、山をひとつ、越さねばならないからである。
 駅前の商店街には、喫茶店や大衆食堂、みやげ物屋などが、構えを連ねている。一軒ずつだが、コンビニやゲーセン、カラオケ・ボックスもある。駅前から少し行ったところの横丁には、何軒かの飲み屋が軒を並べている。村で一番高い建物が五階建ての百貨店と電気店で、それも駅前から見渡すかぎり、二軒ほどしか見あたらない。坂道が多く、起伏にとんだ町並みだが、視界をさえぎるような高い建築物がないため、彼方の山なみがはっきりと見える。道も片側二車線の道路といえば、駅前から北方にのびる大通りと、スキー場のふもとを東西に走る百池ヶ村街道ぐらいで、この二本が、村の主要街道になっている。
 都会の喧騒に疲れた身には、桃源の里のような別天地である。せわしない日常の俗塵を洗い落として命の洗濯をし、心身ともにリフレッシュするには、絶好の土地である。
 しかし、人は見かけによらないというたとえもあるが、それは村も同じである。一見のどかで平和に見えるこの村にも、その長い歴史のうちには、実に血なまぐさい、やりきれなくなるような話もあったのである。
 それは、天保七年と云うから、西暦でいえば一八三六年、徳川幕府の治世も末期にさしかかっていた頃のことである。
 幕府の統治能力は、限界に達していた。諸藩の財政はすでに破綻の様相を呈しており、農民は重い年貢と深刻な飢饉に苦しんでいた。
 翌年、大坂に勃発した大塩平八郎の乱に象徴されるように、当時は全国が大飢饉にあえいでいた。世に云う、天保の大飢饉である。
 先述したように、この地方はもともと耕作には不向きな土地柄だったが、それがこの飢饉によって、潰滅的な打撃を被った。打ち続く凶作に、一俵の米も収穫できない年が続いた。少ない蓄えはすぐに底をつき、村はたちまち、飢餓のどん底に落ち込んだ。粟や稗の水粥をすすっていられたうちはまだいいほうで、ついにはネズミや犬猫を殺してその肉を喰らい、或いは草の葉や木の根ッ子、木の皮までをも口にして、飢えをしのがざるをえないところにまで追い込まれた。
 年寄りや子どもたちが次々と亡くなり、やがて若い娘たちの姿が見えなくなった。
 飢えた家族たちの命をつなぐため、或る者は遊女となり、或る者は妾となって、あちこちの町に売られていったのである。いつの世にも、犠牲となるのは女である。
 三々五々と売られていく娘たちのなかに、みずほの姿があった。
 みずほには平八という、将来を誓い合った青年がいた。平八は庄屋の息子だったが、当時のような状態のなかにあっては、庄屋もなにも、あったものではない。平八はなすすべもなく、村をあとにするみずほの姿を見送る以外になかった。そのときみずほは十五歳、平八は十七歳だった。
 愛する女が売られていくのを、ただ黙って見ているしかなかった平八は、それからの数年というもの、食うものも食わず、がむしゃらになって働いた。朝は朝星、夜は夜星を頂いて、ただひたすらに鋤鍬をふるい、真ッ黒になって働いた。痩せ細っていく身体をものともせず、村民たちとはおろか、両親とすら、ほとんど口をきかなくなった。襤褸のような野良着をまとい、蓬髪を振り乱して仕事に明け暮れるその姿は、まるで何かに、取り憑かれたかのようだった。
――平八のヤツ、気が触れよったんじゃ。
 村の人々は、口々にそうささやきあった。
 そうして、数年の月日が過ぎていった。
 或る年の冬、平八は血を吐く思いをして貯めた銭をもって山を越え、みずほの売られた先を訪ねていった。
 山を越え、数里の難路を歩き、貧しい衣服を襤褸となし、足袋の破れた足を血に滲ませ、ようやく彼は、とある街道沿いの宿場町に暖簾を出している、一軒の女郎屋にたどりついた。
 あかぎれのにじむ足でその店を訪ねた平八は、みずほが数日前に、そこを逃げだしたことを知らされた。みずほは、その容姿艶色たり、また、気心細やかであったため、店一番の稼ぎ頭だったが、その待遇は他の遊女同様、牛馬にも劣るものだった。いや、店で一番多くの客を取らされていただけに、その待遇はいっそう苛酷なものだったといえるだろう。
 とまれ、店一番の稼ぎ頭が逃げ出したということで、店では奉公人たちを走らせて、厳重な捜索を行った。そこに平八が、みずほを訪ねてきたのである。
 平八はその場で捕らえられ、執拗にみずほの行方を追求された。みずほが身を隠しそうなところを、なんとしても聞き出そうというのである。尋問は熾烈をきわめ、拷問は三日三晩にわたって続けられた。平八はボロボロになり、あげくの果てには、敝履のごとくに放り出された。
 数年にわたって酷使し続けてきた肉体に、三日三晩の拷問は致命的だった。雪降る裏路地に放り出されたとき、彼はもはや、人間の残骸というにすぎなかった。骨と皮だけに痩せ細った身体は、いたるところ鞭打たれ、ズタズタになった皮膚から滲みだした血で、全身が赤黒く染まっていた。まぶたも鼻も、いや、顔全体が、紫色にふくれあがり、くちびるは裂けて、何本かの歯がへし折られていた。歯だけではない。脚も腕も、肋骨も、指の骨にいたるまでが、へし折られていた。鼻からも口からも血を流し、両手両足の爪はことごとく剥がされていた。垂れ流した大小便は下半身にこびりつき、流れだした血と混じり合って、異様な臭いを放っていた。
 それでも平八は生き延びた。死ぬわけにはいかなかった。
 彼は木の枝にすがって身体を支え、気息奄奄たるありさまで村に戻ってくると、しばらくは泥のように眠って、その体力と気力とを回復した。
 目覚めたとき、平八は鬼と化していた。愛する女にも会えず、苦労して貯めた銭は巻き上げられ、店の者にさんざんいたぶられて、幾度となく三途の川を渡りかけた平八には、ひとつの確信があった。それが彼の命をつなぎ、彼を村に戻らせて、彼を鬼と化したのである。平八は、店の者がみずほを隠している、と、堅く思い込んだのである。
 黒雲が空を覆い、雪がはげしく降りしぶく、或る夜のことだった。丑三ツの闇に沈んでいた宿場町に、ときならぬ喚声と、けたたましい悲鳴が響きわたった。
 尋常ならざるその物音に、なにごとならんと外をのぞいた町の人たちは、夜にふぶく雪をすかして、天を焦がすが如くに燃え上がった、地獄の炎を見た。耳は阿鼻叫喚の叫びを聞き、目は逃げまどう亡者の群れを、彼らを追い回す獄卒たちの姿を見た。
 異様な光景だった。亡者の如く逃げまどう人々は、夜とはいえ、立派な着物をまとっていた。それに対して獄卒たちが身につけていたものといえば、それこそ亡者さながらの、粗末なものだった。彼らは手に手に竹槍や鋤鍬をもち、逃げまどう人々に襲いかかってはなぶり殺しにした。それはまさに、この世の地獄だった。
 その地獄に現れた、残忍無残な獄卒たちこそ、平八に率いられた、村の若者たちだった。
 長き眠りから覚め、鬼と化した平八は、村の若者たちを煽動して、彼らの恋人、許嫁、幼なじみや妹の売られていった先を襲撃したのである。
 事を起こすにあたって彼らはまず、みずほの売られた先を襲撃した。
 物音に驚いて起きだしてきた店の者たちは、雨戸を破って乱入してきた平八たちの手にかかって、たちまちのうちに絶息した。彼らはところ狭しとばかりに暴れまわり、店の者たちを殺害しては、売り飛ばされていた娘たちを解放した。しかし、店中を破り壊して回ってみても、みずほの姿は、ついに見あたらなかった。そしてそのことが、平八の憤怒を、よりいっそう激しくした。彼らは娘たちを助け出すと、目ぼしい金品を略奪し、店のあちこちに火をかけた。そして威勢のよい鬨の声を挙げた。
 地獄がはじまった。
 平八たちは次々と富裕な商家――米屋、酒屋、呉服屋、高利貸し、女郎屋など――を襲い、店の者と見るや、手当たり次第にこれを殺戮した。そして金品を強奪しては火を放ち、売り飛ばされていた娘たちを解放した。しかし何軒の家を襲撃しても、みずほの姿だけは、一向に見あたらなかった。
 平八はますますいきりたち、それに比例して、暴虐の度合もますます烈しくなった。降りしぶく雪をもものともせず、愛する女の姿を求めて荒れ狂うその姿は、梵天帝釈を蹴散らす阿修羅さながらだったと、『百池ヶ村郷土史』は伝えている。
 彼らの暴動は、数刻後には藩政府の知るところとなった。払暁とともに、藩の軍勢が動きだした。憤怒に燃え、烈火の如くに暴れまわる平八たちも、組織的な藩の軍勢を相手にしては、勝ち目はなかった。
 藩兵の火縄銃から逃れ、槍衾をかいくぐって村へと逃げ帰れたのは、平八はじめ、わずか五、六人余りだった。
 命からがら村へと逃げ帰ってきた平八たちを出迎えたのは、竹槍で武装した、村の大人たちだった。平八たち村の若者が引き起こした事態を知った村民たちは、自分たちに後難の振りかかるのを恐れ、もし彼らが村に戻ってくるようなことがあれば、自らの手で彼らを捕縛し、その身柄をお上に引き渡すことによって身の安泰を図ろうと決議したのである。
 平八は庄屋の息子だったが、それだけに、事は重大だった。事は村全体の死活にかかわるものだった。それだけに庄屋といえども、その決定に反対はできなかったのである。
 平八は捕らえられた他の仲間たちとともに、磔刑に処せられた。彼は三尺高い柱の上にくくられながらも、竹矢来に群がる人々のなかにみずほの顔を捜し求め、その名を叫びつつ、刑吏の槍に貫かれた、と云う。
 その夜、虎臥山の山中で、凍死したみずほの死骸が発見された。売られた先からやっとの思いで逃げだし、極寒の山中をさまよったあげくの死だった。身にまとった着物はズタズタに裂け、裸足の足は血にまみれていた。身体中生傷だらけで、ほどけ乱れた黒髪が、血の気の失せた蒼白の顔を覆い、その合間からは、両眼が虚ろに見開かれていた。もはや生命の焔を宿さぬその瞳は、かつて平八と過ごした懐かしい村を、幼き日々の思い出のこもる、幸せに暮らした生まれ故郷の村を、じっと見凝めていたという。
 翌年のことである。
 みずほの売られた先の大旦那は、平八一党の打ち壊しのときにも九死に一生を得、以前と変わらぬ日々を送っていたが、ある夜突然、原因不明の高熱を出して床に就き、三日三晩苦しんだ末に、口から黒い血を吐いて悶死した。その苦しみようは一通りではなく、家人たちは、何かの祟りではないかと、恐れ慄いた。
 一方村のほうでは、雪の降る夜に、村人たちが凍死するという怪事が続発した。それにともなって、美しい女の幽霊が出る、と云ううわさが広まった。その女は、見たところ十七、八歳、みめよき娘で、降り積もる雪よりも白い肌をもち、吹きすさぶ風につややかな黒髪を靡かせた、ゾッとするような美少女だったと云う。
 他の大人たちも、つぎつぎと、不審な死に見舞われた。
 ひとりはある夜、憑かれたような足どりで崖端まで行き、そこから転落した。
ひとりは突如、なにやら大声で喚きながら着ていた服を脱ぎ、素っ裸になって、森のなかへと駆け出して行った。
或る大人は、仲人を務めた宴席でいきなり暴言を吐きはじめ、新郎の頭を殴りつけて大笑し、そのまま発狂してしまった。
 その現場に居合わせた村人たちの話によると、いずれの場合でも、白い着物をまとった、うら若い乙女の姿があったと云う。
  『百池ヶ村郷土史』と云う民間伝承を集めた小冊子のなかに、その幽霊に遭遇した、或る村人の話が残っている。
 それはことのほか寒さの厳しい、或る夜のことだった。彼は友人の一人とともに、隣村からの帰途にあった。
 暮れ方から降りだした雪はいよいよその勢いを増し、この分ではまた吹雪になるかと、二人は首をすくめて、足を早めた。
 そのときである。彼らは烈しくふぶく雪のなかに、白い着物をまとった、うら若い乙女の姿を見たのである。
 彼らは驚きのあまり、その場に腰を抜かしてしまった。雪降る夜に現れる美しき幽霊のうわさは、彼らも耳にしていたのである。
 彼女は、まるで宙を滑るように近づいてくると、彼の連れに向かって、何やら耳打ちするように身をかがめた。彼の連れは目を見張り、顎を落として首を振った。その眦は裂けんばかりに見開かれ、面には、驚愕の表情が凍りついていた。
 娘はかがめていた身体をスックと伸ばすと、今度は彼のほうに近づいてきた。すると彼の連れは、喉の奥から、ヒューッ、という奇怪な音を漏らし、憑きものが落ちたようにぐったりとくずおれた。
 彼は生きた心地もなく、ただ震えているだけだった。全身が麻痺したように痺れ、その幽霊から、目をそらすことさえ出来なかった。
 彼女はそんなことには頓着せず、ゆっくりと、滑るように近づいてくると、さっきと同じように身をかがめ、彼の耳元にささやいた。
 ――平八さんは、どこにいる?
 それは耳に聞こえたというよりも、頭のなかに、じかに話しかけられたような感じだったと云う。
 彼は何と答えてよいか分からず、ただガチガチと、歯を打ち鳴らすばかりだった。口のなかはカラカラに乾き、舌はひきつって、口蓋に張りついた。彼はやっとのことで生唾を呑み込むと、なにやら自分でも訳の分からぬことを口走った。
 彼が恐怖に怯えた目で見ていると、娘はすっと身を離し、いずこともなく、去っていった。
 彼は長いことその場にへたり込んでいたが、降りしきる雪の寒さが、その意識をハッキリさせた。彼は大慌てで家に戻ると、頭から布団をかぶってその夜を過ごした。
 その後彼は、三日三晩と云うもの、烈しい高熱に浮かされ、悪寒に慄え、悶え苦しみながら床の上を転げまわり、しきりとうわ言を発した。
 三日後、彼は大量の黒い血を吐いて、絶息した。みずほの売られた先である娼家の大旦那と、おんなじ死にざまだった。彼は、平八たち村の若者をお上に売り渡すことを最も熱心に主張した大人たちのひとりだった。
 娘の幽霊がみずほであることは間違いなかった。彼女は死して後もなお、愛しい男の姿を求めて、雪の山野を彷徨っていたのである。
 その事を知った村人たちは、それまで別々の場所に、犬猫同然に埋めてあった二人の亡骸を掘り出し、丁重な供養を行ったのち、あらためて、二人一緒の墓に埋葬した。
 その墓は、現在、「夫婦塚」と呼ばれて、虎臥山の中腹にある、葛葉神社の一角に奉られている。
 以上が百池ヶ村に伝わる、雪女伝説のあらましである。この伝説の最後を、『百池ヶ村郷土史』は、次のような文章で締めくくっている。
「現在でも雪の烈しい冬の夜には、白い着物をまとった、うら若き乙女の幽霊が出ると云う。もし彼女に、『平八さんは、どこにいる?』と訊かれたら、迷わず『葛葉神社、夫婦塚』と云えばよい。するとその幽霊は、あなたに害をなすことなく、その姿を消すであろう。」
| ろ〜りぃ&樹里 | 小説もどき | 21:26 | - | - |
竜とは本来……
竜とは本来おとなしい動物で、子どもでも容易に手なずけられるそうである。
ところが、数多の鱗(ウロコ)に覆われた竜の喉元に、一枚だけ、逆さまに生えている鱗があり、この鱗に触れられると、竜はタチマチ狂暴になり、どんな猛者の手にも負えなくなるのだそうである。
このことから、「逆鱗に触れる」と云う言葉が出た。
出典は『韓非子』である。
人間にも、この「逆鱗」がある。
と、云うよりも、どんな人間にもある、この点を、竜を引合いに出して、説いているのである。
人によって、「逆鱗」はマチマチである。
人によっては苦い過去だったり、イヤな言葉だったり、矯正できない悪癖だったりする。
他の人からすれば、
「それぐらいのこと……」
に、過ぎないかもしれない。
あるいは、
「ほんとのことじゃないか」
と、云うかもしれない。
しかし、本人にとっては深刻なことであったり、許しがたいことであったりするのは、よくあることである。
やっかいなのは、その「逆鱗」がどこにあるか、それがなんなのか、竜のようにはハッキリと分からないことである。
だからこそ、気をつけねばならないのである。たとえ、「竜のようにおとなしい」人であったとしても……。


| 遊冶郎 | 悪魔のつぶやき | 22:49 | - | - |
金曜の夜は……
金曜の夜は、たいてい、府内某所のライブ・ハウスで、フリー・マイクを愉しむ。
「たいてい」と云うことは、そうでない場合もあるわけで、世間ではこれを、「例外」と云う。
昨20日の金曜は、まさにその「例外」であった。
ちなみに、わたいが府内某所のライブ・ハウス以外のライブ・ハウスに行くときには、これを“浮気”と、称する。
で、昨20日の金曜日に“浮気”したのは、ジニーよりもかわいい魔女にお誘いを受けたからである。
8時から、と云うことだったが、遅参しては失礼、と、仕事を終えていったん帰宅し、着替えをすましていそいそと出かけてみると、なんと麗しの魔女さまは、すでにお越しになっておられるではないか!
これは不覚! と、思うより先に、出迎えてくださった魔女さまのかわいい笑顔にウットリとなり、張りつめていた心はタチマチにして溶ろけ流れてしまった。
で、着いてビックリ!
なんと、えくぼのかわいい猫又さんに、“妖艶”と云うより“チャーミング”なYO-ENさんまで、いらっしゃるじゃないですか!
お二方とも知り合いである。お二方とも、ご出演なさると云う。
「そんなことなら、云ってくださよぉ〜悲しい
と、云うわたいに、お二方の曰く、
「SNSにはあげましたよ」
「……」
人生の教訓 その73――SNSはこまめにチェックするべし!
まぁしかし、日頃の心がけがいい(?)せいか、猫又さんのブルージーな歌&演奏も聴けたし、YO-ENさんの透明感あふれる澄んだ歌声&ギターも聴けたし、もちろん、麗しの魔女さまの神秘的なステージも堪能できたし……。
お三方にお願いして撮ってもらった写真は宝物であるグッド
これほど完璧な「パリスの審判」は、美術史上になかっただろう。むろん、審判など、くだせるわけがない! だいいち、わたいはパリスじゃない!
いやぁ〜それにしても、“浮気”してよかったわラブ
| ろ〜りぃ | らいぶ☆にゅ〜す | 21:33 | - | - |
「歴史とは……」
「歴史とは、現在と過去との対話である。」
これはイギリスの歴史家、E・H・カーの言葉です。
現在は現在として、独立して存在しているのではありません。
現在は過去の延長線上にあり、未来は現在の延長線上にあります。
過去を知らずして現在を知ることはできませんし、現在を知らずして未来を展望することはできません。
だからこそ、将来如何にあるべきかに思いを馳せる人は、現在が如何なるものであるかを知ろうとし、それゆえに過去を知ろうと欲します。
そして、過去をどう捉えるかによって、現在をどう見るかも違ってきます。
現在を知るためには、どうしても過去を知らねばなりません。
歴史を軽んずる人は、現在を、そして将来をも、軽んずる人です。

とある歌のなかに、
「人は愛を紡ぎながら歴史をつくる」
と云うくだりがあります。
歴史を学ぶと云うことは、人物の名前や起こった事件の年代を憶えることではありません。
歴史を学ぶと云うことは、現在は名も知られていない無数の人々が、泣き、笑い、苦しみ、怒り、悲しみ、喜び、楽しみ、……、精一杯、生きてきたことを、その生きざまを、その生活を知ることです。
その時代、時代を、懸命に生きてきた人たちの心を、気もちを、理解することです。
その人たちが、なにに憤り、なにを求め、なにに喜び、なにに悲しみ、なにに苦しんだのか、……、それを理解しようとする心こそ、歴史を学ぶと云うことなのです。

とある漫画のなかに、石仏を研究している人物が登場します。
その人物が、なぜそんなものの研究をしているのか、と、問われ、答えます。
「むかし、たくさんの人たちがさ、自分たちのいろんな願いがあって、いろんなことを聞いてほしくて、石の地蔵さんをつくって、その地蔵さんに、いろんなことを、訴えかけてたんだよね。
いまはもう、その人たちはいなくなってさ、だけども、地蔵さんはいまでもそこにあってさ、いまはもういないその人たちの声に、いまでも耳を傾けてるんだよね。
いまはもう、その人たちがどんなことを願ってたのか、どんな思いでその地蔵さんを拝んでたのか、分からなくなっちゃったけど、でもそれでも、いつか俺にも、そんな人たちの声が聞こえたらいいな、と、思って、さ」
歴史を研究する人たちの心に共通した想いです。

「歴史は暗記もの」と信じて疑わない人々は、みずからの不明不徳を恥じ、その心性の貧しさを反省するべきでしょう。
| Mac | 歴史散歩 | 13:06 | - | - |
『蜘蛛巣城』と云う映画がある。
『蜘蛛巣城』と云う映画がある。
シェークスピアの『マクベス』を、日本の戦国時代に置き換えてつくられた、黒澤明監督第16作目の作品である。
スピルバーグ監督が初めて観た黒澤映画であり、スピルバーグはこの作品を黒澤監督のベスト・ワンに挙げている。
この映画が公開された1957年(昭和32年)、黒澤監督は渡英された。
同年十月、英国の首府ロンドンで、第一回ロンドン映画祭を兼ねた国立映画劇場の開場式が催されることとなり、その式典に際して、「映画芸術に最も貢献した監督のひとり」として、招待されたのである。
同様に招待されたのは、アメリカのジョン・フォード(『駅馬車』、『荒野の決闘』)、イタリアのヴィットリオ・デ・シーカ(『自転車泥棒』、『靴みがき』)、フランスのルネ・クレール(『巴里の屋根の下』、『巴里祭』)の三人、いずれも錚々たる面々である。
「映画芸術に最も貢献した監督」と云うよりは、「映画史をつくってきた監督」と云うに相応しい顔触れである。
黒澤監督は、式典などの晴れがましい席にお出になることは好まれなかったが、このときばかりは、
「とにかくジョン・フォード、ルネ・クレール、デ・シーカじゃ、君、行けないなんていえないよ」
と、淀川さんとの対談でおっしゃっておられる。
その映画祭で、この『蜘蛛巣城』上映された。
ラスト、三船敏郎さん演じる鷲津武時(マクベス)が、部下に裏切られて、無数の矢を放たれる。
その矢の一本が三船さんの首を貫通する。
そのとき鋭い嬌声があがり、失神した女性がいた、と、云う。
さもありなん。
その迫力は、なんど観ても凄まじい。
なにしろ無数の矢弾が、散弾銃さながら、雨霰と飛んで来るのである。
その矢の柄が重なって、向こう側が見えないくらいである。
みな本物である。某大弓道部の協力を得て、とにかく、三船さんの周囲に、本物の矢を撃ち込ませたそうである。
この迫力は、とてもCGではだせない。
「なにしろ、こっちへ逃げようとしたら、こっちへ(と、両手で矢が飛んで来るさまを示して)バラバラバラ、でしょう。
そんでもって、こっちへ逃げようとしたら、こっちへ、バラバラバラ。
あんときゃあ、ほんとうに絶叫しながら、逃げまわってたんだ」
と、三船さんは後年のインタヴューで語っておられる。
黒澤組のスタッフは云う。
「あのシーンは、黒澤さん(の、三船さんへの信頼)あってこそ、できたシーンだし、三船ちゃん(の、黒澤さんへの信頼)あってこそ、できたシーンだね」
そのさすがの三船さんも、撮影前夜は緊張と恐怖のあまり、一睡もできなかった、と、云う。
そして撮影が終わった後は、鎧兜のお姿のまま痛飲し、泥酔した揚句、宅にあった猟銃を持ち出して愛車に乗り込み、黒澤さんのお宅をまわりながら、
「お〜い、黒澤のバカヤロー、出てこ〜い」
と、騒ぎながら、一晩中、その銃を射ちまくっていたそうである。
“世界のミフネ”ならではの、スケールの大きな事件だが、三船さんも三船さんなら、黒澤さんも黒澤さん、“世界のクロサワ”である。
その翌朝、すっかり酔いも醒め、恐縮しきってお詫びに訪れた三船さんに、
「なんだ、昨夜、やたらに騒がしいと思ったら、キミだったのか」
と、ニッコリ笑われた、と云うことである。

蜘蛛巣城【期間限定プライス版】 [DVD]
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東宝
| 映ちゃん | 気まぐれシネマ・デイズ | 12:53 | - | - |
う〜ん……
引っ越し以来の懸案である本の片づけがいっこうに進まない。
掃除もここ最近、さぼりがちである。
メシも料理る気にならない……。
う〜ん、困ったものである。
| ろ〜りぃ | 気まぐれなブログ | 15:00 | - | - |
チャンドラーの……
チャンドラーの『プレイバック』に始まり、『長いお別れ』、『かわいい女』、『さらば愛しき女よ』、『大いなる眠り』と、読み返してきたが、そのうち少なくとも、『かわいい女』と『さらば愛しき女よ』が、厳密な意味での全訳ではなかったことが判明した……冷や汗
ショック、である悲しい
| Woody(うっでぃ) | 気まぐれなブログ | 20:53 | - | - |
中国や韓国からの……
中国や韓国からの旅行者のマナーの悪さに顰蹙している日本人は多い。
顰蹙するどころか、ハッキリと嫌悪感を顕わにしている人たちがほとんどだろう。
しかしそんな人たちでも、欧米人のマナーの悪さには、顰蹙もしないし、嫌悪感も抱かない。
むしろ欧米人たちのマナーの悪さを、まるで、マナーの悪さと感じていないようである。
こんなことがあった。
駅のホームで、人目もはばからず、大声で電話している男がいた。
見てみると、白人である。
後日知り合いにそのことを話した。
「いやこないだ、駅のホームで、大声で電話してる外国人がいてな。傍若無人とはあのことだね。周りの人たちのことなんか、てんで考えてもいやしない」
「韓国人か?」
いかにもマナーの悪い、韓国人のやりそうなことだ、と、云わんばかりに眉を顰めた。
「いや。西洋人だったな。あいつらのほうが、東洋人より、よほどマナーが悪い」
そう云うと、
「おおかた、先方の声が聞き取りにくかったんだろう」
韓国人ならば、唾棄しかねないが、西洋人ならば、マナーの悪さにもそれなりの理由をつけて、理解を示そうとするものらしい。
東洋人に対しては、明治以来、他のアジア諸国が欧米列強の植民地となって搾取されてきたなかで、日本のみが独立を保持し、欧米列強に伍し得てきたと云う優越感を、いまだに持ちづづけているのだろうか。
そして西洋人に対しては、明治以来、欧米列強の文明文化文物を畏敬し、崇め奉り、手本として邁進してきた劣等感を拭いきれないのだろうか。
それとも、先の大戦で、米国にしたたかにぶちのめされた敗北感によるものなのだろうか。
そう云えば、ある外国人が云っていた。
日本人とは不思議な人種だ、自分たちを打ち負かし、国土を占領して支配していた異人種に、こうまで親愛の情を寄せるとは、と。
西洋人であろうが、東洋人であろうが、悪いものは悪いし、いいものはいい。
行為で判断するべきであって、人種で判断するべきじゃない。
西洋人ならよくて、東洋人なら悪いと云うのは、なんとも浅ましい心性である。
| 遊冶郎 | 悪魔のつぶやき | 09:14 | - | - |
前にも書いたように……
前にも書いたように、どうも言葉にこだわる性癖がある。
「『ら』抜き言葉」はまだシンボウできんでもないが、シンボウたまらんのは、「『〜いただきます』言葉」である。
先日、とある用件で、とあるところに電話した。
その際の相手の応対が、まさにこの「『〜いただきます』言葉」によるものだった。
こっちは苦情を訴えているのである。
それに対して、
「調べさせていただきます」
「手配させていただきます」
である。
無礼もはなはだしい。
なぜ、
「お調べいたします」
「手配いたします」
と、云えないのだろうか。
「〜させていただきます」とは、受動の意味であろう。
みずから“やる”と云うニュアンスがない。
苦情にたいして、“云われたからやる”では、相手の怒りを増幅させるだけである。
虚心に詫び、みずから“やる”姿勢が大切である。
“云われたからやる”と云う姿勢がこびりついているからだろうか?
言葉の使い方を教わってこなかったのだろうか?
そう云えば、やたらに、「〜させていただきます」と云う言葉を使うヤツに限って、飯を食うときには、
「いただきます」
とは、云わないものだなぁ。
| 遊冶郎 | 悪魔のつぶやき | 11:32 | - | - |
正直者はバカをみる?
正直者がバカをみるようではいけない、と、云う人がいる。
はたして正直者がバカをみるようなことがあるのだろうか?
正直者は正直者であることを以てその利益とし、その価値とする。「正直」であること、それ自体が正直者の利益であり、価値なのである。
「正直」であることを以て他の利益や価値を得ようとすれば、それは「正直」ではなくなる。「正直」であることそれ自体が目的とならず、「正直」であることによって他の利益や価値を得ようとすれば、「正直」はそのための手段となり、もはや「正直」ではなくなる。
正直者は「正直」であることそれ自体を利益とし、価値とするが故に正直者なのである。
体験的に云えば、正直者がバカをみていることに義憤を感じ、正直者がバカをみるようではいけない、と云う人は、あまりいない。正直者が、他人から見て、バカをみているように思われるとしても、正直者自身は「正直」であることで満足もし、誇りをもってもいるのだし、そのことはみな大抵察している。正直者がバカをみているとしても、そのことによって自分に被害が及ばない限り、あえてその「正直」を矯正させる必要はない、と云うのが、大方の考えだろう。
むろん、正直者が「正直」であることによって他の利益を得て悪いわけはなく、むしろそうなることは望ましいことである。しかしそれは実際生活のなかでは、非常に難しい。
大抵の人は、「正直者がバカをみるようではいけない」と云って、件の正直者を自らになぞらえ、「正直」であることを以て、「正直」と異なる何らかの利益を得ようとしているように思われる。
そうなるともはや、その「正直」は「正直」ではない。
| 哲ッちゃん | コラム―哲学もどき | 19:25 | - | - |
チャンドラーの『プレイバック』を……
チャンドラーの『プレイバック』を読み返そうと思ったのは、
「タフでなくては、生きていけない。やさしくなくては、生きている資格がない。」
と云う名台詞が出てくるのが、この本だからである。
もっとも、正確に云えば、それだけが理由ではない。
最近、このセリフに関して、ある疑問が生じてきたからである──と、云えば、なにやら大仰であるが、なんのことはない、このセリフは、とある女性に、
「あなたのようにタフな男がどうしてそんなにやさしいの?」
と、問われて、返した言葉である。
この問答にはさまざまな日本語訳があって、それぞれで微妙なニュアンスの違いがあるのだが、原文では、
“How can such a hard man be so gentle?”
と、問われて、
“If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I coudn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.”
と、答えている。
これだけを見てみると、マーロウは自分がタフであることも、やさしいことも、認めていることになる。
いささか自惚れめいていて、マーロウのキャラクター・イメージに合わないのである。
で、今回、読み直してみることにした。
マーロウはとある女性を尾行し、行き先を突き止めて報告するよう、依頼された。
その女性はどうもいわくありげで、なにかに怯えているようである。
彼女は孤立無援で、巨大ななにものかから逃れようとしているらしい。
マーロウは依頼を無視して、彼女の力になろうとするが、彼女はマーロウを信じず、却って、彼を利用して自分の目的を達しようとする。
それでもマーロウは彼女を助けようと努める。
そしてすべてが明らかになったとき、彼女が問い、マーロウが答えるのが、先のセリフである。
今回読み返してみて思ったのは、マーロウは自分がタフであると認めているのでもなく、まして、やさしいと自惚れているわけでもなく、ただ、「タフでありたい」、「やさしくありたい」と願っているだけなのだな、と、云うことである。
「タフでなくては、生きていけない」からこそ、否でも応でも、タフであろうとし、「やさしくなくては、生きている資格がない」からこそ、やさしくなろうとしている。
このタフさが、たんなる肉体上の持久力や腕力などではないことは、云うまでもない。
そして、このやさしさが、たんなる柔弱さや甘さなどではないことも、また然り、である。
「タフさ」と「やさしさ」は、一見矛盾しているように思われる。
実際、この女性には、タフな男がなぜやさしいのかが分からない。
しかし、一見矛盾しているように思われる「タフさ」と「やさしさ」は、マーロウのなかでは、全然矛盾していない。
「タフさ」とは、どんなに裏切られ、利用され、嘲弄され、無視されても、やさしくあろうとする心性であり、「やさしさ」とは、どんなに裏切られ、利用され、嘲弄され、無視されても、決して恨みがましく思わず、それに耐え抜くタフさなのだ。
真実やさしくあるためには、タフでなくてはならないし、タフであることのなかには(少なくとも、マーロウにとっては)、やさしくあらんがためのものが、ふくまれているのである。
| Woody(うっでぃ) | 気まぐれなブログ | 10:28 | - | - |
山村新治郎と云う政治家を……
山村新治郎と云う政治家を知っていますか?
1970年(昭和45年)3月31日、日本航空351便、通称“よど号”が、9人の赤軍派によってハイジャックされました。
日本で初めての航空機ハイジャック事件です。
そのとき“よど号”には、コックピットクルー3名、CA4名、乗客122名の、計129名が搭乗していました。
犯人たちは北朝鮮への亡命を希望していて、板付空港(現在の福岡空港)で人質の一部(女性・子供・病人・高齢者を含む23人)を解放しましたが、この機体は国内便であると云う機長の説得にも耳を貸さず、平壌への飛行を命じました。
日韓両政府の画策によって、機体は韓国の金浦国際空港に着陸し、ここを北朝鮮の平壌国際空港に擬して犯人たちを捕縛しようとしますが、犯人たちはこの偽装工作を見破り、膠着状態におちいりました。
日韓両政府が大いに対策を講じるなか、当時運輸政務次官の地位にいた山村新治郎氏は、
「政務次官と云うものは、盲腸みたいなものだ。あってもなくてもかまわない。下手にあれば、迷惑をかけることさえある」と云い放ち、「こんなときに役に立てないで、なんの政治家か」
と、云って、犯人たちと交渉。みずから志願して人質となることで、他の人質を解放させました。
この快挙は、
「男、ヤマシン」
「身代わり新治郎」
として、世の称賛を浴びたものです。
その山村新治郎氏は、1992年(平成4年)4月12日、精神疾患を患っていた次女(一説によると、精神疾患を患っていた身寄りのない娘を、養女として面倒見ていたのだと云います)に、出刃包丁で刺し殺されました。
その訃報に接したかつての“よど号ハイジャック事件”の首謀者田宮高麿は、
「『日本の政治家のなかにも、こんな人がいたのか』と、思われるような、すばらしい人でした。
突然の訃報に接し、悲しみを堪えきれません。
ご冥福をお祈りいたします」
との言葉をささげました。
 敵(?)からも一目置かれる人でした。
「政治家なんて、ろくなヤツはいない」
と、云うあなた。
山村新治郎と云う政治家を、知っていますか?
| Mac | 人物往来 | 09:54 | - | - |
森雅裕氏の……
森雅裕氏の『あした、カルメン通りで』のなかに、
「言葉で遊ぶなんて、性的不能者のやることだ」
と云うセリフがある。
別に性的不能者ではないが、どうも言葉にこだわる性癖がある。
若き日に小説家を志していたせいかもしれない。
その若き日にも、すでに、「ムカツク」と云う言葉に対して、批難が浴びせられたことがある。
この言葉は本来、胸部や胃腸の不快感を表す言葉であったのだが、当時から、「腹が立つ」と云う意味で使われ始め、現在に到っている。
言語は生き物であり、その時代時代によってその語の示す意味内容は変遷していくものだと思っているから、そのことに異議や批難を加えるつもりはない。
しかしどうにも気に触る言葉、あるいは言葉遣いもある。
昨今の典型が、いわゆる「『ら』抜き言葉」である。
「食べられる」→「食べれる」
「見られる」→「見れる」
などである。
若い者が使っている分には、気に触りながらも、「これもまあ、一種の潮流か」と、思わないでもないのだが、イイ年をしたものが使っていると、「言葉遣いを知らぬヤツ」、「イイ年して若者ブッて」と、苦々しく思うこと、しばしばである。
「いやぁ、これはこれで、いい面もありますよ」と云う人もいる。「『可能』と『尊敬』を使い分けているんです」と云う。
なるほど、「食べられる」では、『可能』か『尊敬』か、アイマイである。
「食べれる」ならば、これは『可能』の意味であろうことはすぐに察知できる。
しかし、である。
「食べられる」の『尊敬』は、本来、「召し上がる」である。
「見られる」は、「御覧になる」である。
碌に敬語の使い方も知らないから、こんなことになる。
国際化とやらで、幼少時からの英語教育の必要性が喧しくなって久しいが、自国の文化や歴史(言語も文化であり、歴史の所産である)をキッチリと身に付けてこその国際化である。
徒らに外国に追従することが国際化ではない。
逆説めくが、真の“ナショナリスト”であってこそ、真の“インター・ナショナリスト”となり得るのである。
「英語より 敬語を使える 若者に」
| 遊冶郎 | 悪魔のつぶやき | 08:52 | - | - |
『大いなる眠り』読了
『大いなる眠り』読了。
やっぱり、だれが運転手を殺したのか、分からない……。
♪だ〜れが殺した 運転手?
| Woody(うっでぃ) | 気まぐれなブログ | 14:43 | - | - |


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