麦飯(ピリ辛らっきょう)、さばの塩焼き(2切)、小松菜としめじと蒟蒻の煮浸し
さばの塩焼きは、近所のスーパーで買ってきたものである。弁当の主菜がなくなると、近所のスーパーで買ってくるようになって久しい。たいていはさばの塩焼きであるが、たまに、コロッケのときもある。
焼魚や揚げ物などは、もっぱら、スーパーの惣菜を利用する。
大量の油や、グリルを使用したりなどすると、後が面倒である。
今日は“生命尊重の日”であるらしい。“生命”があるのは、人間ばかりではない。
さばもいわしも、鮭もサワラも、豚も牛も鶏も、馬も羊も猪も、みんな“生命”を有している。
蛙もいなごも(食用)ミミズも、みんな、生きている。
動物だけではない。
レタスやキャベツ、もやし、貝割、ほうれん草などの植物も、みんな生きている。
米、粟、稗、麦などの穀物、バナナ、すもも、スイカ、ブドウ、梨、リンゴなどの果物も、アーモンド、ピーナッツ、くるみなども、わかめ、もずく、ひじき、昆布などの海藻類も、みんな生きている。
それが証拠に、みんな、生育している。成長している。生命力を有している。即ち、生きているのである。
人間はそれらの生命を摂取して生きている。
思えば、罪深いものである。
草食動物ならば、草だけを食べる。肉食動物ならば、肉だけを食べる(わけではないのだが)。しかも、腹一杯になれば、みずからの生命を保持し得るだけの栄養が摂取できれば、それ以上は食べない。
人間は、それ以上を食べる。食べて、「健康のため」、「美容のため」などと称して、その成果を無駄にする。
摂取しえないほどの生命を犠牲にして、遺棄して、恬として恥じるところがない。
浅ましいことである。
我々は食事の前に合掌して、
「いただきます」
と、云う。
食事の後に合掌して、
「ご馳走さまでした」
と、云う。
これは、その食事を料理ってくれた人に対する感謝の念であるとともに、その食事が得られる幸運に対する感謝であり、そして、“生命”をいただくことに対する、贖罪の念である。
――わたしはあなたの“生命”をいただきます。許してください。そうしなければ、わたしは死んでしまうのです。
その代わり、わたしはあなたの“死”を、あなたの“生命”を、けっして無駄にはしません。
あなたの“生命”をいただいたわたしは、きっと、立派な行いをします。
あなたに対して、あなたやわたしを育む、この大自然に対して。
だから、許してください。
そんな思いが、「いただきます」の中には、篭められているのである。
篭められているのだ、と、信じたいし、少なくともわたしは、その思いを篭めて、食事前には、合掌することにしている。
なにやら辛気臭く、抹香臭い記事になってしまったが、この3連休、各地で猛暑日となるらしい予報である。
みなさまがたには、くれぐれも体調健康にお気をつけられて、愉しい週末を過ごされますように(^^)/
また来週、お目にかかりましょう!