ろ〜りぃ&樹里とゆかいな仲間たち

Blog(日記)と云うよりはEssay(随筆)
Essay(随筆)と云うよりはSketch(走り書き)
Sketch(走り書き)と云うよりは……?

 注)タイトルに「*」のついた記事は「ネタバレ記事」です。ご注意ください。
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オトコのひとりめし(晩)
玉子麦飯(葱入り)、インスタントみそ汁(とろろ昆布、乾燥わかめ入り)、キャベツと玉子のだし醤油炒め、小松菜と油揚げの煮浸し、ほうれん草のごま和え、もずく、納豆、味付海苔


日曜に準備した分だけでは足りないことに気づき、慌ててつくったのが、以下の料理である。
すなわち――、
・キャベツと玉子のだし醤油炒め
・魚肉ソーセージとピーマンの醤油炒め
・キャベツの塩昆布漬
・ピーマンの塩昆布漬
……怒涛の30分だった。
……疲れた……しょんぼり
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 21:24 | - | - |
オトコのひとりめし(昼‐弁当)
麦飯(たまごふりかけ)、アスパラ豚肉巻き(3個)、ほうれん草のごま和え
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 21:21 | - | - |
オトコのひとりめし(朝)
トースト(5枚切り×2枚)、半熟卵(2個)、ストロベリー&バナナ・ヨーグルト、野菜ジュース
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 21:20 | - | - |
独身男の晩めし
玉子麦飯(葱入り)、インスタントみそ汁(とろろ昆布、乾燥わかめ入り)、アスパラ豚肉巻き(2個)、小松菜と油揚げの煮浸し、もやしのナムル、もずく、納豆、味付海苔
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 21:18 | - | - |
独身男の昼めし(弁当)
麦飯(しそふりかけ)、もやしのナムル、ピーマンの塩昆布和え
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 12:36 | - | - |
今日のひとりメシ(昼‐弁当)
麦飯(ちりめん山椒)、豚肉の生姜焼き、もやしのナムル、ピーマンの塩昆布和え
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 07:38 | - | - |
今日のひとりメシ(朝)
トースト(5枚切り×2枚)、半熟卵(2個)、ストロベリー&バナナ・ヨーグルト、野菜ジュース
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 07:37 | - | - |
わっちゃ〜!
ミスったぁ〜冷や汗
いままでの画像、消しちまったぁ〜びっくり
やれやれ、消しちまったモンはしょうがない。
今日からまた改めて、アップしていくか楽しい
| ろ〜りぃ | 気まぐれなブログ | 21:16 | - | - |
今日のオトコメシ(晩)
玉子麦飯(葱入り)、インスタントみそ汁(とろろ昆布、乾燥わかめ入り)、牛肉のしぐれ煮、小松菜と油揚げの煮浸し、ほうれん草のごま和え、納豆、もずく、味付海苔
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 21:03 | - | - |
今日のオトコメシ(昼‐弁当)
麦飯(たらこふりかけ)、アスパラの豚肉巻き(3個)、ほうれん草のごま和え
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 20:56 | - | - |
今日のオトコメシ(朝)
トースト(5枚切り×2枚)、半熟卵(2個)、ストロベリー&バナナ・ヨーグルト、野菜ジュース
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 20:55 | - | - |
羅城門址
                            久能 大

 羅城門には鬼が棲む。その昔、渡辺綱が退治(たいじ)たのはその中の一匹だけであって、それ以前にもそれ以後にも、羅城門には、数多の鬼が棲んでいる……。

 羅城門跡を見に行こうと、ふと思った。或る夏の日の、午后の事だった。
 デートの予定だった。予定の遣繰をつけて、一日の時間を確保した。仕度を調えて部屋を出ようとしたところで、電話が鳴った。
 ――ゴメン。急にバイト、代わってくれって、云われてん。今度埋め合わせするから、ごめんな。
 忘れてた授業に原因不明の頭痛や発熱、そして急に頼まれたアルバイト、いずれも聞き飽きた言訳だった。さすがにうんざりしたが、できるだけ平然とした口吻で、了承の意を伝えた。
 電話を切った途端、一日が味気なくなった。
 空虚な一日だった。本来なら、こんな一日を過ごせるような立場じゃなかった。
 就職活動は捗々しくなかった。卒論も手詰まりだった。取得しなければならない単位も残っていた。先の事を考えると、暗鬱になった。
 新聞も、テレビも、みな、不景気な話ばかりだった。
 個人に対する税金は上がる、銀行や大企業への減税は継続される、省庁と民間企業とは癒着し、地方では知事と業者との贈収賄が問題になっている。官僚はその杜撰な仕事ぶりを暴露され、政治家の発言は傲慢で、大企業は好調な輸出に支えられて潤いながら、下請けの中小企業には無理難題を押し付ける。その中小企業に対して、納税を猶予されている銀行は貸し渋り、貸し剥がす。求人率は落ち込み、就職できない人たちが職を探して彷徨っている。犯罪は激増し、兇悪無惨の度は目を覆う。ただ鬱憤を晴らすためだけに、面識もない行きずりの他人を襲う。不惑の公務員が痴漢行為を働き、音が煩いと注意された女子高生が相手の男に痴漢行為の濡れ衣を着せる。イジメられないために他人をイジメる。イジメられた子が自殺する。教師は責められるが、イジメた子やその親は責められない。大学が躾をすることを売り物に学生を集めようとする。人権の名の下に、好き勝手する奴輩が庇われて、害を被った者が泣き寝入る。
 世も末だと思うようなことばかりだった。
 六畳一間の畳の上に寝っ転がって両手を頭の下に組み、染みの浮き出た板張りの天井をぼんやりと眺めながら、索漠とした時間を消費した。
 灰色の天井と漆喰の壁が、窓から差し込む強烈な西陽に照らされ出した頃、羅城門跡を見に行こうと、ふと思った。
 京都に来て三年余りになるが、この有名な史跡を見に行ったことは、まだなかった。勿論、芥川の作品は、高校時代に、現代国語の授業で習っていた。渡辺綱が鬼の片腕を斬り落として退散させた伝説も知っていたし、黒澤監督の映画も観たことはあった。にもかかわらず、この地を見に行ったことはなかった。
 身体を起こして手もとの京都観光案内地図を捲ってみると、後ろの方のページの片隅に、小さな写真と簡単な説明文が、申し訳のように添えてあった。
 その地図で経路を確かめて、侘しい六畳一間の下宿を後にした。

ブロック塀の連なる小路では、子供たちが楽し気に騒噪(はしゃ)ぎ廻り、近所の主婦たちが四方山話に花を咲かせていた。両手にスーパーの袋を下げた母親の姿も見られた。その足下を、幼い子が、ちょこちょこと駆けまわっていた。
 近くの停留所で、煙草に火をつけた。
 バスを待っている人は、他にもいた。背広姿の四十がらみの男性と、腰の曲がった老婆、それに、四歳くらいの男の子をつれた、夫婦と思しき男女の五人だった。
 煙草を二本灰にしたところに、バスが来た。ステップを上がり、整理券を取って、座席に座った。乗客は少なかった。バスはゆっくりと停留所を離れ、閑散とした車道を進んで行った。
市街地は午后の陽光に満たされていた。大通りを数多の車が行き交い、歩道も多くの人で雑踏していた。
 書店、ATM店舗、コンビニ、家電量販店、レンタル・ビデオ店、食料品店……。
道の両側に立ち並ぶ巨大な店舗が、市街地に集う人々を、あるいは吸い込み、あるいは吐き出していた。
バスは車の群れに巻き込まれて這うような速度になり、いつしか乗客も多くなっていた。速度に変化をきたすたび、吊り革につかまった乗客の身体が揺れ、身体が触れた。
京都には「古都」というイメージがあるが、なにも京都中が、壊れかけた築地や、煤けた板塀の家屋で満たされているわけではなかった。巨大な量販電気店のビルもあれば、五階建ての書店もあった。一ブロック分もあるようなゲーム・センターもあるし、コンビニやファースト・フードの店にいたっては、それこそ無数だった。京都といっても繁華街は、大阪や東京のそれと較べて、少しの遜色もなかった。京都には様々な顔があるのだ。
ある友人は、京都は学生の町だ、と云った。なるほど、そうかも知れなかった。京都には多くの大学があった。それぞれが長い伝統に育まれ、独自の個性を確立していた。そしてその個性を新たな魅力に変える進取の気性に富んでいた。
なによりも共通して、自由とおおらかさがあった。立身出世を求めるでなく、頭でっかちの秀才を育てるでなく、ひたすらに学問の楽しさを追求し、それにもまして、若き日の喜びを満喫することに、その価値を見出していた。権威に反し、俗に逆らい、自ら信ずる事を真と信じ、自己を研鑽し、自らを新しき世の開拓者とするの意気に燃えていた。教授たちも、学生たちも、そうだった。
その校風に憧れて、多くの若者たちがこの町にやって来た。他の大学に入れなかったから、と云う者も、もちろんいた。だがそういう若者の多くも、一年経つか経たぬかのうちに、我知らずこの町の雰囲気に、馴れ親しんでいくのだった。
京都の風景も、名所旧跡ばかりで成り立っているのではなかった。各所に散らばる様々なデート・スポットの存在も、この町を学生の町と思わせている一因だった。
長い歴史の面影を、ロマンティックに彩って、現在にただよわせているそれらの場所は、多感な若者たちを魅きつけるのに、充分な魅力を備えていた。
 紅葉美しい清水寺、宵闇薫る桂川、夏の大文字焼きは暑気を払って一服の清涼を感じさせ、新緑萌える嵐山は春の息吹に日頃の塵労を洗い落とす。修学旅行や観光だけでは体感できない奥深い魅力が、この町にはあるのだ。
京都駅から少し離れた停留所でバスを降りた。向かいには東本願寺があった。広大な空を背景に、瓦を葺いた白壁にかこまれ、黒々とした樹木につつまれたその姿は、荘厳と云うに相応しい趣きを感じさせた。
目を転じると、銀行や百貨店のビルが見えた。地元の商店街は、夕暮れの客で賑わっていた。子供たちが笑い声をあげながら駆けていき、主婦らしい人々が談笑しながら店先を巡っていた。背広姿の男性や、制服姿の中高生たちもいた。みな生き生きしていた。一日の仕事や勉強の疲れなど、微塵も見られなかった。
次に乗ったバスは、高校の横を通り過ぎ、下町風情の残る細い道を走って行った。著名な歴史的背景こそもたないが、こうした佇まいも、古都を思わせるひとつの要素だった。 歩道のない一車線の道路が真っ直ぐにのび、その両側には、古びた木造の家屋が立ち並んでいた。門から玄関まで、三歩もあれば到達するような、昔ながらの下町の家だった。角にはこれまた昔ながらの雑貨屋があり、ところどころに、大衆食堂を兼ねた居酒屋や、喫茶店などがあった。こういった町筋に、自動販売機などはなかった。煙草は爺さんの頃から知ってる角の煙草屋で買い、酒はリカー・ショップやコンビニではなく、米や味噌も売っている、行きつけの酒屋で買うのだ。
 バスはその古風な町並みを、急かずあわてず、のんびりと走り続けた。その緩慢な振動に揺られながら、三年近い月日の間に忘れ去りつつあった京都の町の新鮮な魅力が、あらためて甦ってきた。
 「羅生門前」と云う停留所で、バスを降りた。鄙びて閑散とした下町の佇まいは、観光地としての京都と云うよりも、昭和三十年代の映画に見られるような風景だった。木造りの家が多く、自転車屋や古びた本屋、酒屋や米屋なども見受けられた。
 バス停から少し離れたところに、「羅生門跡」と書かれた、小さな石標があった。
 膝ぐらいの高さしかない、小さな石標だった。板塀に挟まれた細い路地がのびており、そこを抜けると、小さな児童公園があった。
 空があかね色に染まる夕暮れ時、晩御飯を前に控えたそのひとときを、小さな子どもを連れた人たちが談笑していた。狭い公園の中を、子どもたちが駆け回り、ブランコやすべり台で遊んでいた。
 その公園の中程、滑り台の傍に、細い鉄柱で囲まれた一画があって、「羅城門遺址」と彫られた石柱と、羅城門の由来を記した立札が立っていた。
 傍によって見てみると、
「この地は、平安京の昔、都の中央を貫通する朱雀大路(今の千本通にあたる。)と九条通との交差点にあたり、平安京の正面として羅城門が建てられていた。門は二層からなり、瓦ぶき、屋上の棟には鴟尾が金色に輝いていた。正面十丈六尺(約三十二メートル)、奥行二丈六尺(約八メートル)内側、外側とも五段の石段があり、その外側に石橋があった。嘉承三年(一一〇七年)正月山陰地方に源義親を討伐した平正盛は京中男女の盛大な歓迎の中をこの門から威風堂々と帰還しているが、この門は平安京の正面玄関であるとともに、凱旋門でもあったわけである。しかし、平安時代の中後期、右京の衰え、社会の乱れとともにこの門も次第に荒廃し、盗賊のすみかとなり、数々の奇談を生んだ。その話に取材した芥川龍之介の小説による映画「羅生門」は、この門の名を世界的に有名としたが、今は礎石もなく、わずかに明治二十八年建立の標石を残すのみである。」
 と、あった。
 平安の往時に思いを馳せて、ふと我に返ると、いつの間にか、四、五歳くらいの女の子が、傍に立っていた。
 その子も同じように立札を見上げていたが、やがて眼が合うと、
「おいちゃん、ここ好きなん」
 と、聞いてきた。
「なんで」
 おいちゃんと云われたことに苦笑しながら聞き返した。
「だって、おいちゃん、このへんでは見いへんし、やのに一生懸命、この立札見とったやろ」
 要は、この場所に興味があって、わざわざ訪ねて来たのだろう、と、云う意味らしかった。
「うん。おいちゃん、ここ好きやねん」
「あのな、ここ昔、門が建ってたんやって」
「そやってな。『羅生門』、云うんやってな」
「ちゃうで。『羅城門』、云うんやで」
 その子は真剣なまなざしで云った。大きな眼がくりくりした、かわいらしい子だった。
「そうか。ほな、おいちゃん、間違えとったんやな。でも、偉いな。だれかに習うたんか」
「ううん。昔からそない云うてるもん」
 そう云って足元の石ころを蹴ると、
「なあ、おいちゃん」
 と、その目をあげた。
「ここ昔、鬼がおったんやで。知ってる?」
「知ってるよ。渡辺綱云う人に殺されたんやってな」
「ちゃうわ。渡辺綱は、鬼の左腕を斬り落としただけや。鬼はうまいこと、逃げたんや。渡辺綱なんか、あんなん、鬼が退治でけるようなヤツちゃうわ」
 その剣幕に、いささか面食らった。
 どうみても、小学校入学前の年頃にしか見えなかった。白いブラウスに肩紐のついた紺色のスカート、どこにでもいる、ふつうの子どもだった。
「なあ、おいちゃん、いまでも鬼って、おるんかなあ」
「いまはおらんよ。鬼がおったんは、昔々の話や」
「そうやろうなあ。いまは、平和やもんなあ」
 その子は淋しげな溜息をついて、また足元に視線を落とした。
「でもな、おいちゃん。いまでも鬼は、おるかも知れへんで」不意に目を上げて、その子は云った。「税金はようけ取られるし、物は高うなるし、仕事でけへん人かって、ぎょうさん、いてるんやろ。みんなギスギスして、人殺しとかも増えてるやん。鬼が出てきよるんちゃうか」
 その子はふたたび彼方の夕焼けに目を向けた。
「あのなあ、おいちゃん、鬼はな、人の心の中に居るんやで。虐められて、踏みつけられて、悔しくて、悔しくて、泣いて、泣いて、涙も無うなるくらいに泣いて、それでも歯食いしばって生きていかなあかん人たちが、自分たちかってまともで平和な生活したい、自分たちにもまともで平和な生活させえ云うて立ち上がるとき、人は鬼になるんやで。
 鬼云うのはな、おいちゃん、そんな人たちを虐めて、踏みつけてきたヤツラが云いよんねんで。自分たちが美味い汁吸うために、おんなじ人間をさんざん踏みつけにして、虐めて、搾り取ってきたヤツラが、自分らにもまともで、平和で、安心して暮らせる暮らしさせえ云うて立ち上がった人らを、鬼云うんやで」
 鳥肌が立ち、背筋に寒いものが走り抜けた。
「まだ鬼は出てけえへんかもしれへん。でも、そのうち出てくるで。そのうちまた、昔みたいに、ぎょうさんの鬼が出てくるようになるで。だって、だれも平和な生活なんかくれへんもん。人を虐めて踏みつけにするヤツラは、平和な生活なんかくれへんもん。それやったら、鬼になって、自分らで、平和で、まともな暮らしを掴み取るしかないやん。ええ世の中にしよう思うたら、鬼になるしかないやん」
 冷たい秋風が吹いた。
思わず知らず身震いすると、いつかその子に目を凝らしていたことに気付いて、あわてて周囲を見回した。
 その子は、そんなことにはお構いなく、相変わらずその大きな瞳で、彼方の夕焼けを眺めていた。
 夕闇が迫り、周囲は黄昏てきた。遊んでいた子どもたちも、三々五々、親たちに手をとられて、夕餉の待つ宅に帰っていった。
 いきなり後ろから声をかけられて、その子は振り返った。
「あ、お父ちゃん」
「なにしてたんや。帰るで」
 たくましい体つきの、四十年輩と思しきその人は、厳つい鬚面に柔和な笑みを湛えて、近づいてきた。
 女の子はこぼれるような笑みを浮かべてその男に走り寄ると、その手をとって、
「あのな、あのおいちゃんと、お話しててん」
 と、楽しげに云った。
「そうか、そりゃ、よかったなあ」そう云って優しくその子の頭を撫でると、その柔和な目を転じて、こちらを見た。「どうも、この子がお邪魔したようで」
「いえ、別に……」
 ドギマギしてそう云うと、
「ありがとうございます」
 と、父親らしいその人は、女の子の頭に手を乗せたまま、ペコリと、頭を下げた。
「ほら、おいちゃんに、ありがとう、は」
「おいちゃん、ありがとう」
 父親に云われて、その子もペコリと頭を下げた。
「こちらこそ」
 と、同じように頭を下げた。
「行こか」
「うん」
 かつて、渡辺綱は、羅城門に巣くう鬼を退治した。鬼は片腕を斬り落とされただけで、命までは失わなかった。鬼は逃げ、行方をくらました。
 羅城門には鬼が棲む。その昔、渡辺綱が退治(たいじ)たのはその中の一匹だけであって、それ以前にもそれ以後にも、羅城門には、数多の鬼が棲んでいる……。
 板塀に囲まれた路地は、夕闇に暗くなっていた。洞穴のようなその路地を、その親子は手を取り合って歩いていった。
 鬼のことを熱っぽく語った、不思議に大人びた女の子と、その父親――片腕のない、その父親が……。
| ろ〜りぃ&樹里 | 小説もどき | 12:00 | - | - |
怒涛の飛石連休-前半
金曜日
久方ぶりに、同期の友人と飲みに行く。
待合せ午後6時。それより少し前に店に入り、「ンじゃ、またな」と云って別れたのが、深夜12時。
途中で店を替えたとは云え、延々6時間余り!
その間、談論風発、片時も会話の途切れる間隙がない。
ヤツと飲みに行くと、たいてい、こうなる……。
土曜日
9時過ぎに目は醒めたが、宿酔の重い頭を輾転反側させているうちに、正午になる。
近所の飯屋に飯を食いに行き、眼科へ行く。眼科と云っても、近所ではない。電車で1時間以上かかる。診療を終えた後、別棟の薬局で点眼薬を受領して、梅田へ向かう。
6時から友人と飲む約束である。
これまた前夜と同様、談論風発、しかし途中で意見の食い違いがあり、酔いの勢いも手伝って、いささか説教調になってしまったのは申し訳なかった。
11時ごろ宅に帰り、シャワーを浴びて、寝床に倒れこむ。
日曜日
近所の喫茶店でモーニングを食い、宅を掃除。
掃除機を掛けて拭き掃除。その間、布団を干して、シーツやタオル・ケットの類を洗濯する。
一仕事であるが、それだけに終った後の清々しさは格別である。
目には見えぬがやはり汚れていたものと見えて、古肌着を用いた雑巾が真っ黒になる。
それだけに掃除後の部屋も輝いて見える。
掃除の後は、向う一週間のおかずづくりである。
・ほうれん草のごま和え
・もやしのナムル
・豚肉の生姜焼き(下拵え)
・アスパラの豚肉巻き(下拵え)
・ピーマンの塩昆布和え
・小松菜と油揚げの煮浸し
・牛肉のしぐれ煮
その出来栄えは、近々、「独身男の食卓」で公にする予定である。乞う、ご期待。
乞う、ご期待、と、云えば、これまた近々、新たな仲間が加わる予定である。
いましもMackyが、遮二無二、その男を口説いていることと思う。
こちらも、乞う、ご期待、である。
| ろ〜りぃ | - | 23:12 | - | - |
板張りの田舎の教室では……
板張りの田舎の教室では、子どもたちが一列に並び、自分の順番が来ると、先生の前に立って、一生懸命、自分の好きな歌を歌っていた。
教科書に載っている歌のなかから、自分の好きな、歌いたい歌を選んで、それを先生の前で、最初から最後まで歌う、それが今回の授業の主旨であり、音楽の試験のひとつだった。
彼の番になり、先生の前に立つと、先生は冷たく云った(少なくとも、彼の耳にはそう聞こえた)。
「あなたは一番だけでいいから」
先生がそう云った理由は、幼い彼にも分かった。彼が自分でも解かるくらいの音痴だったからである。
少なからず傷ついたが、それでも幼いながらに、
――自分が音痴なんだからしょうがない。悔しかったら、ちゃんと歌えるようになればいいんだ。
と、みずからを慰めた。

晩飯が終わり、父は居間に寝っ転がって、テレビの時代劇を見ている。
母は台所で後片付けの洗い物をしている。
彼と妹は、テーブルの椅子に腰かけたまま、まったりとした気分に浸っている。
ふと、ある疑問がわいた。
「なあ、母さん、この歌、なんて歌やったっけ?」
彼はそのメロディを口ずさんだ。
洗い物をしながら、しばらくそのメロディに耳を傾けていた母親は、
「知らんなぁ。聴いたことないわぁ」
と、首を振った。
横で聞いていた妹が、口をはさんだ。
「兄ちゃん、その歌、これちゃう」
と、云って、口ずさんだ。
「そや、それやで」
とたんに母親は、
「ああ、それやったら知ってるわ。有名な曲やん」
――彼が高校時代の、ある夜の一コマである。

したたかに飲んだ。痛飲した。
会計を終えて店を出ると、
「おう、カラオケ、行かんか?」
と、彼の友人は云いだした。
「おっしゃ、行こか」
彼が即答したのは、なにもカラオケ自体が目当てではなかった。
ふたりは同期で、趣味の面でも、考え方の面でも、妙に気が合い、ために入社してから現在にいたるまで、かくも長きに亘る付き合いが続いているのである。
二時間あまり、徹底して飲み、徹底して語り明かしたはずなのだが、二時間くらいで別れるのは、どうにも物足りなかった。
「しかしそれにしても」
ふたりでカラオケ・ボックスに入り、それぞれに飲み物と食べ物――正確に記せば、酒とつまみ――を註文すると、彼はソファにもたれて云った。
「男二人でカラオケっちゅうのも、イロケないな」
「まぁな」
「それにしても、おまえがカラオケ行こう云うとは、思わんかったな」
「いやじつはな」と、彼の友人は云った。「俺はたいがい、音痴でな。飲み会とか行っても、歌われへんねん。
ちょっとは練習しょう、思うても、まさか、男ひとりで、カラオケ屋なんか行かれへんやろ。
だれかと行こう思うても、相手が上手かったら、気が退けて行かれへんやん。
そこいくと、おまえは俺とおんなじくらい歌下手やから、気兼ねなく、来れるねん」
――彼は納得せざるを得なかった。

「ど〜も、“ろ〜りぃ”でしたぁ!」
そう云って右手をあげると、集まった人たちから、あたたかい拍手があがる。
義理かもしれない。オアイソかもしれない。お世辞や、ヒヤカシ、お付き合いかもしれない。
しかし、そのつど思う。
たとえそうだとしても、その拍手は、とっても、あたたかい。
あれだけ下手だの、音痴だのと云われていた自分が、ひょんなめぐりあいからギターを触りはじめ、こうしてステージに出させてもらって、好きな歌を歌い、あたたかい拍手をもらえるまでになっている。

歌えるということは、なんと素晴らしいことか!
人とは、なんとあたたかいものか!
そして、いまこの瞬間は、なんと幸せなものであることか!

ステージでギターを弾き、歌うごとに、そう思わずにはいられない。
| ろ〜りぃ | らいぶ☆にゅ〜す | 11:05 | - | - |
ベランダで煙草を吸ってると……
ベランダで煙草を吸ってると、小さい女の子の泣き声と、母親と思しき女性の叱咤するような声が聞こえてきた。
ふと下に目をやると、団地内の舗道を、両手に買物袋を提げた若い女性が、後ろの女の子に声を荒げている。
女の子はまだ幼い。なにが気に入らないのか、路上に尻をついて、手足をバタバタさせて、しきりに泣きわめいている。母親の怒声にも、聞く耳をもたぬようである。
――あぁ、こりゃ、お母さんも大変だ。
と、いささか同情しつつ成り行きを見守っていると、母親のとどめの一言がひびいた。
「早よ来ぃ。
 みっともないで、いつまでもそない泣いて。
 あの議員のおっさんみたいやで」
最後の一言が効いたのだろう、女の子は、必死で泣き声をこらえ、流れる涙を拭いながら、ゆっくり立ち上がると、おとなしく母親の後について歩き出した。
――逆説のようだが、彼ほど子供の教育に貢献した政治家は、ここ最近、いないのではないだろうか。
| Woody(うっでぃ) | 気まぐれなブログ | 11:09 | - | - |
安土城の……
安土城を再現する、と、云う、TV番組を観たことがあります。
と、云っても、昼飯を食べながらいいかげんに観ていただけなので、細かなことまでは憶えてないのですが……。
信長は日本史上類稀な英雄とされておりまして、自分も大好きな人物です。
(もっとも、友人づきあいをしたい、と、思うような人間ではありませんが)
それで、幾許かの興味をもって観ていたのですが、やがてその幾許かの興味も失せてしまいました。
かすかに憶えているところでは、資料などによると、安土城には巨大な吹き抜けの空間があったらしいのですが、遺構から判断した建築学上の観点からすると、そのような吹き抜けの存在はあり得ようがないらしい、と、云うことでした。
それはともかくとして、興味が失せた理由の大半は、安土城の再現に際して、当時の城郭や、その後の城郭、安土城以前の城郭の構成をもって、安土城の再現を試みようとしていたことです。
以前のものからどのような影響を受けたか、以後のものにどのような影響を与えたか、同時代のものと比較類推することによってある程度の姿が想像されるだろう……。
歴史再現の手法としては常道と云えるかもしれませんが、この場合はまるで役に立たないでしょう。
早い話が、日本城郭史上、最初に天守閣を築いたのは、松永弾正少弼久秀が築いた多門山城だった、と、云われています。たとえ天守閣にどのような画期的な役割があったにしても、だからと云って、信長がそれを真似た、と、云う理由は、どこにもないでしょう。
また、信長の跡目を継いだ秀吉が築城した大坂城にしても、彼が安土城をモデルにして大坂城を構築した、と、云う証拠は、ないんじゃないでしょうか。
云っちゃあなんですが、信長はそのスケールが桁外れな人物です。
彼のような人物が現われ出たのは、日本史上の奇跡、と云っても、いいくらいです。
とうてい、秀吉や家康なんかの及ぶところではありません。
信長の考えを知ろうとするならば、同時代の、あるいは後世の、西洋人(当時の言葉で云いますと、南蛮人)に、その近似値を求めるべきでしょう。
現に、信長が部下を見出し、育成した方法は、西洋においてはナポレオンが創始して、プロシャが採用した、と、云われていますし、その戦闘方法も、昔の日本よりは、後代の西洋(特にナポレオン)の方法に近似している、と、云われています。
信長が宣教師たちを厚遇していたことは有名ですが、彼らから、地球は丸い、と聞き、
「その説、理にかなう」
と、うなづいた話も、これまた、有名です。
その信長が、古来の日本の城郭を模した城を、我が居城として建築するとは考えられません。
また、それほどの信長の考えを、後代の人間がよく理解し得たとも思えません。
信長が構築した安土城を再現しようと試みるならば、おそらくは宣教師たちによってもたらされたであろう、当時の西洋の城郭にこそ、その範を求めるべきでしょう。
| Mac | 歴史散歩 | 09:06 | - | - |
そのときの時代を……
そのときの時代を象徴する人物と云うのが、いるものです。
前時代や後世の人たちから見れば、
「あんなのの、どこがいいの?」
と、思われても、その時代の人にとっては、まさに“神”にも似たような輝きを以て君臨する人物です。
そんな人物の一人が石原裕次郎氏であり、あるいは松田優作氏です。
氏の扮するジーパン刑事に憧れて警官になった者が少なからずいる、と云う都市伝説が、いまでもまことしやかに語られています。
とある雑誌が、日本を代表する男優のアンケート調査を行ったとき、
「おまえら全員、優作にいれろ!」
と、恫喝され(?)、あらためて氏のカリスマ性に驚嘆した、と、云う女性もいたようです。
世代が違うせいか、自分も松田優作氏に対しては、それほどの思い入れもありませんでした。
ジーパン刑事もリアル・タイムでは知りませんし、TVドラマ『探偵物語』の工藤ちゃんを後にレンタル・ヴィデオでみて、愉快の念を抱いたくらいのものでした。
氏や、氏のシンパには申し訳ありませんが、けっして、一世を風靡するような名優とは思わなかったのです。
その評価が変わったのは、『ブラック・レイン』を観たときです。
大学時代の先輩が優作氏のファンで、その先輩に連れられて観に行ったものです。
この映画での氏の演技は、まさに鬼気迫るものがありました。おとなしく、静かにしているときでも、どこか不気味で、油断のならない雰囲気を醸し出しているのです。
そして、一閃動に転ずれば、爆竹が破裂したような迫力と動きで、相手(共演者のみならず、観客をも)を圧倒する、その迫力に、文字どおり、刮目したものです。
マイケル・ダグラス、アンディ・ガルシア、高倉健、若山富三郎の諸氏と並んで引けを取らない、いな、場面によっては氏らを食ってさえいるその演技は、
「なるほど、これが松田優作の真骨頂か」
と、思わせるものがありました。
「この調子であと二、三本も出演すれば、たんなる一世代のカリスマから脱け出て、日本を代表する国際スターになるだろう」
そう思ったものです。
残念ながら、氏はこの映画の完成直後、膀胱癌で亡くなられました。
撮影前から病魔に侵されていたけれども、念願のハリウッド映画出演と云うことでそれを秘匿し、延命治療をも拒み、それゆえにあの鬼気迫る迫力が出たのだ、とも、伝えられています。
氏は若き無名の日、黒澤明監督の御門前に三日三晩土下座して、
「どうか、ぼくを使ってください」
と、懇願し続けられたそうです。
黒澤氏にしてみれば、見も知らない若い者が自分の門前で土下座している、と云うのは、さぞかし不気味に思われたことでしょう。
当時黒澤さんのお宅に同居なされていた土屋嘉男さんのエッセイに、その件のことが記されています。
三日三晩門前に土下座して、それでも色よい返事をもらえなかった優作氏は、悄然として、その門前を去りました。
そのとき氏は、胸中秘かに呟かれたそうです。
「俺はかならず、国際的なスター、“世界のユウサク”になってみせる。
 けれどもそうなっても、俺は絶対、黒澤映画にだけは出演しないぞ」
氏はそのときの無念をみごとに晴らし、“世界のユウサク”となられました。
しかし惜しむべきらくは、念願なされていた“世界のユウサク”となられた直後、他界なされました。
しかしそのことによって、氏は“永遠のカリスマ”と、なられました。
ジーパン刑事や工藤ちゃんによって、“一時代のカリスマ”となった彼は、みずからの夢を果たした『ブラック・レイン』によって、“永遠のカリスマ”となったのです。

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| 映ちゃん | 気まぐれシネマ・デイズ | 10:37 | - | - |
三木武夫が好きだと云うと……
三木武夫が好きだと云うと、
「あぁ、“クリーン三木”ね」
と、鼻で嗤われることがある。
“口先だけの評論家”、“言うことは言うが実行できない”、“キレイごとばっかりで、現実を知らない”……そう云った意味を込めての冷笑嘲笑である。
田中角栄氏に世話になった代議士が、
「田中角栄と云うと、“金権政治家”と云った単純な図式でしか考えることのできない人が多いが、そんな人たちはとても不幸な人だと思っている」
と、云ったことがある。
三木氏にしても、同じである。
三木氏を“クリーン”と云うことだけでしか評価できない人々は、好意をもってのそれにしろ、悪意をもってのそれにしろ、三木氏の本質を見切れていない、と、思うのである。
それでは、その三木氏の“本質”とはなにか、と、問われれば、それはかつて、“バルカン政治家”と称された、そのマヌーバリングの才である。
大自民党のなかでつねに小派閥を率い、それでいながら、各内閣で党の要職、内閣の枢要閣僚の座を占め続けてきた。
戦後直後の片山内閣、芦田内閣は、社会党、民主党、国民協同党の三党連立内閣であったが、社会党党首片山哲も、民主党総裁芦田均も、六十歳近く、それに比して国民協同党委員長三木武夫は、四十歳そこそこだった。親子ほども年齢の違う二人と共同し、戦後の困難な政局を切り回した。
吉田茂自由党内閣時代こそ不遇をかこったものの、次の鳩山一郎内閣においては、運輸相として入閣、短命に終わった石橋湛山内閣では党幹事長、岸信介内閣では党幹事長から経済企画庁長官、池田勇人内閣では科学技術庁長官、党政務調査会会長、党幹事長、佐藤栄作内閣では外務大臣、田中角栄内閣では副総理・環境庁長官と、小派閥、傍流と云われながらも、かならず、党や内閣の要職に喰い込んでいる。
そこに、三木氏の、言い知れぬ政治上の手腕が看て取れる。
“異能の政治家”と呼ばれた田中角栄氏ですら、
「三木をやり手の年増芸者とすれば、福田も大平も女学生みたいなもんだ。三木がプロなら、福田はアマだ。いま俺と自民党のなかで互角に勝負できるのは、三木だけだろう」
と、三木氏には、一目も二目も置いていた。
三木氏はその権謀術数、マヌーバリングの才を如実に発揮して、田中角栄氏の後の自民党総裁・内閣総理大臣の座を射止めた。
その芸術的とも云える政治的辣腕の妙は、角川文庫、毎日新聞政治部の『政変』に詳しい。
「数が力」の政界にあって、小派閥を率い、類稀なる権謀術数、マヌーバリングの才を発揮して、政界最高峰の与党総裁、内閣総理大臣の座を射止めたその才腕こそ、三木氏の真骨頂が現わされているように思われ、それゆえにこそ、「知恵の勝利」を信じてやまない吾人としては、これを称賛するのである。

政変 (角川文庫 (6596))
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毎日新聞政治部
| Mac | 人物往来 | 09:59 | - | - |
武人の魂
議場は緊張に包まれ、寂として声も出なかった。
賛成・反対、当初はそれぞれの立場から野次を飛ばしていた議員たちも、いまは固唾を呑んで、ふたりの応酬を見守るだけだった。
「浜田君の発言は、国民一致の精神を害するから、ご忠告を申し上げる」
そう云って壇上を降りる寺内陸相の満面は、朱を注いだように紅潮し、その声音は抑えきれぬ憤りに震えていた。

浜田君、と、寺内陸相に呼ばれたその男は、政友会所属の衆議院議員、浜田国松である。
このとき齢七十。かつては衆議院副議長を務めた長老である。
寺内陸相を激昂せしめたその演説は、このようなものだった。

「軍部は近年、みずから呼称して、わが国政治の推進力はわれらにあり、乃公出でずんば、蒼生を如何せんの慨がある。五・一五事件然り、二・二六事件然り……」

ときあたかも二・二六事件の勃発によって岡田啓介内閣が桂冠し、広田弘毅内閣が発足した直後の議会においてだった。
軍部が政治に容喙し、この広田内閣においても、軍部は二・二六事件と云う大事件を惹起しておきながら、
「二・二六事件後の粛軍については、政治家もまた自粛自戒をもって協力すべきである」
と、称して、軍部の意に添わない閣僚の就任を拒絶したいきさつがあった。
昭和天皇をして、
「朕が軍隊を私にみだりに動かし、朕が信頼せる重臣を殺戮するとはなにごとか。かかることをなすは、朕が首を真綿にて絞むるにひとしい。陸軍大臣はすみやかにこれら暴徒を鎮圧せよ。陸軍大臣に出来ぬとあらば、朕みずからがこれを平定せん」
とまで激昂せしめた事件を惹起しておきながら、それでもなお軍部は、
「あのような事件を起こしたのは悪かったが、そもそもあんな事件が起こったのは、政治家や財閥、役人たちが悪いからだ」
と云う考えだった。
増長極まれり、の感がある。

浜田氏の演説は、その軍部の専横を鋭く剔抉した。
「……独裁強化の政治的イデオロギーは、つねに滔々と軍の底を流れ、時に文武恪循の堤防を破壊せんとする危険あることは、国民の等しく顰蹙するところである」

この浜田議員の演説に、陸相寺内氏がいきりたった。
待ちかねたように発言を求めると、
「先刻来の浜田君の演説中、軍人に対して、いささか侮辱するような言辞のあったのは、遺憾である」
と、述べた。
それに対し浜田氏は、
「いやしくも国民の代表たる私が、国家の名誉ある軍隊を侮辱した……という喧嘩を売られてはあとへはひけませぬ」
と、応じた。
寺内陸相も負けてはいない。
冒頭に引用した発言が飛び出す。
「浜田君の発言は、国民一致の精神を害するから、ご忠告申し上げる」
これに対し、浜田氏の曰く、
「……国民一致を思えばこそ、軍部の言動について、陸相にご注意申し上げたのだ」
そして、歴史に残る名言が口をつく。
「だいたい、僕がはたして、軍部を侮辱した言葉を吐いたかどうか、速記録をお調べ願いたい。もし、それがありとせば、僕が割腹して君に謝る。だがなかったならば、君、割腹せよ!」
議会史に有名な、“腹切り問答”である。

寺内陸相は直後の閣議で、
「政党を反省させるため、衆議院の解散を要求する」
と、主張して一歩も引かなかった。
他の閣僚や同じ軍人である永野修身海相の説得すら、聞かなかった。
むろん、速記録を調べて、腹を切ろうともしなかった。

浜田氏はその演説中に述べておられる。
「日本の武士というものは古来名誉を尊重します。士道を重んずるものである。民間市井のならず者のように、論拠もなく、事実もなくして人の不名誉を断ずることができるか」

真の「武人の魂」が、浜田代議士、寺内陸相のいずれに存していたかは明らかだろう。
もしこの稿を、陸軍厭悪のゆえ、浜田代議士に肩入れするような書き方をしているのだ、と、おっしゃる向きがあれば……、速記録をお調べ願いたい。割腹は求めないから、安心して楽しい
| Mac | 歴史散歩 | 08:04 | - | - |
9月に入って……
9月に入って、涼しくなったと思ったら、さっそく、風邪をひいてしまった。
喉と鼻の奥に炎症ができたらしく、妙にいがらっぽいし、締め付けられるような感じがする。
声を出そうとすると、やたらに咳き込む。
熱があるのか、身体もだるい。
起きるのが億劫である。
食欲もない。
なにをやろうという気力もない。
今日になってやっと少しマシになり、近くの病院へ行って診察を受けたが、
「急性気管支炎の疑いがある。2〜3日安静にしていなければいけない」
と、云うことで、宅に帰って、療養することにした。
なんだか、年々歳々、季節に対する抵抗力が弱まってくるように感じる。
困ったものである。
| Woody(うっでぃ) | 気まぐれなブログ | 12:50 | - | - |
現在はどうか知らないが……
現在はどうか知らないが、一昔前の中国では、宴会などで出された料理は、残すのが礼儀だったらしい。
それが、「食べきれないくらいに充分にもてなしていただきました」と云う、もてなされる側の言分であり、「充分に客人をもてなした」と云う、もてなす側の満足であった。
その供された料理を食する際にも、いかにも美味しゅうございます、と、云わんばかりに、ピチャピチャと音を立てて食べ、食べ終わった後には、もうお腹いっぱいでございます、と、云うことを表すために、大きなゲップをする。
それが、中国風のマナーだと云うことである。
一夕、会社の慰安会に参加した。年配から若者まで、男女を問わず、来日する中国人旅行者や韓国人旅行者のマナーの悪さを大いに弾劾しておられた。
しかし、少なくとも、食事時のマナーにかんするかぎりは、みな中国風を、キッチリと、順守しておられたようである。
| 遊冶郎 | 悪魔のつぶやき | 13:39 | - | - |
「井戸塀政治家」と云う言葉がある。
「井戸塀政治家」と云う言葉がある。
正確には、「あった」と、云うべきであろう。
これは、政治家になるには金がかかる。選挙に出るには莫大な金が要るし、いろいろな人間の面倒も見なければならない。その金を工面するために、先祖伝来の山林田畑を売り払い、遂には家屋敷まで手放して、あげくには、井戸と塀しか残らないようになる……、と、云うところからきた言葉である。
幼時この言葉を教えられた吾人は、
「なるほど、政治家になったら、あちこちからようけ金もらえるようになるし、そうなったら、井戸や塀のある家にも住めるようになるねんなぁ」
と、思い、その勘違いを嗤われたものである。
しかし世の中には、「無知の諧謔」と云う言葉がある。
案外現在では、吾人の幼時の解釈のほうが、「井戸塀政治家」と云う言葉の真実をうがっているような気がしてならない。
| 遊冶郎 | 気まぐれなコラム | 13:23 | - | - |
ひさしぶりに……
ひさしぶりにグッスリ寝た。
寝つきは、あいかわらず、悪かった。
頭皮と額がムズ痒くなり、撥ね起きたのが真夜中前だった。
いつもなら1時か2時頃なのだから、だいぶ早く撥ね起きた。
一呼吸おいて、ふたたび布団に就いた。
その後は、一度小用に立ったくらいで、後はグッスリ寝た。少なくとも、グッスリ寝た感はある。
就眠前の1個のチーズと、グラス1杯の梅酒が効いたものとみえる。
健康医学の見地からはどうだか知らないが、やはり自分のようなものには、寝酒は効用があるものとみえる。
問題は、調子にのって度を過ごさないように気をつけねば、と、云うことである。
| Woody(うっでぃ) | 気まぐれなブログ | 09:33 | - | - |
しまったぁ〜!
しまったぁ〜!汗
と、(心の中で)大声で叫んでしまったのは、去る土曜日に下拵えしておいた揚げ焼きメンチカツに、下味をつけるのを忘れたことに気づいたからである冷や汗
そして……
今日つくった小松菜と油揚げの煮浸しは、醤油を入れ過ぎて、おっそろし〜く、塩辛くなってしまったショック
いいんだ、いいんだィ。ど〜せ食べるのは、わたいなんだい。いいじゃないか、だれに迷惑かけるもんでもなし……悲しい
涙をこらえてしょっぱい煮浸しを口にはこぶわたいの脳裏に浮かんだのは、
「涙とともにパンを食べたものでなければ、人生の味わいは分からない」
とゆ〜、ゲーテの言葉だった。
それとともに浮かんだのは、
「失敗したのではない。成功しない方法を見つけ出したのだ」
とゆ〜、エジソンの言葉だった……悲しい悲しい悲しい
| ろ〜りぃ | 気まぐれなブログ | 22:09 | - | - |
ピンチ・ヒッターもまたうれし
去る土曜日も例によって、府内某所のライヴ・ハウスに行ってきた。
もちろん、みなさんの歌&演奏を聴きに、である。
なにしろその日は、久しぶりにお会いする方々もいたので、愉しさもひとしおだった。
ところが……あろうことか、そのお目当てのおふたかたが、おふたかたとも、やむなき所用ができて、来られない、と、云う悲しい
「そんなわけで、キミ、今日2番目、30分、な」
ギターも譜面ももってきていない。練習もしていない……冷や汗
しかし……、ご出演なさるのは、みなさん、気心の知れた方ばかりである。
喜んでお引き受けし、なんとか30分、ピンチ・ヒッターのステージをこなしたグッド
以前を思えば、通常のブッキングに参加させてもらえることさえ夢のようだったのに、ピンチ・ヒッターを頼まれるまでになるとは!
いやいや、突然のことではあったが、ピンチ・ヒッターもまたうれし、である嬉しい
| ろ〜りぃ | らいぶ☆にゅ〜す | 22:38 | - | - |
月曜日は……
月曜日は調子が出ない。さすがに“ブルー・マンデー”と云われるだけのことはある。
肌の調子もよろしくない。
しかし、それもこれも、畢竟は、週末に遊びすぎたためである。早い話が、自業自得なのだ。だれを恨むわけにもいかない。
しかしここ数日涼しくなって、大いに助かる。
エアコンが壊れてしまったせいもあるだろうが、この二週間あまりと云うもの、ロクに眠れなかった。
朝晩涼しくなると、なにかとやる気も出てくるだろう、と、期待している。
| Woody(うっでぃ) | 気まぐれなブログ | 22:02 | - | - |


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