ろ〜りぃ&樹里とゆかいな仲間たち

Blog(日記)と云うよりはEssay(随筆)
Essay(随筆)と云うよりはSketch(走り書き)
Sketch(走り書き)と云うよりは……?

 注)タイトルに「*」のついた記事は「ネタバレ記事」です。ご注意ください。
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織部の日のひとりめし(晩)
玉子麦飯(べったら漬け)、即席みそ汁(長ねぎ、とろろ昆布、乾燥わかめ)、牛肉コロッケ(2個)、季節の煮物盛合せ、冷奴、納豆、味付海苔


朝食時にマリネラの少年国王を引き合いに出してふと思ったのだが、彼の友人(?)であるアメリカ中央情報局(CIA)の情報員、アーサー・ヒューイットは、べったら漬けをつくることにかけては自信があるそうだ。
記憶が定かではないのだが、彼は、とある事件に巻き込まれた少女を庇い、敵組織に拉致監禁されている彼女の父親を救い出すべく、情報部員のライセンスを剥奪されかねない危険を冒して、国外逃亡する。その際彼女に、事件が落ち着いたら情報部員を辞めてべったら屋を開こう、と、ひとり決めする。
ヒューイットはこの事件が落ち着いたら、彼女と結婚するつもりで、彼女もその気になっていたのだが、救い出した彼女の父親に猛反対されて、あえなく(正確にはドタバタ騒ぎのうちに)その希望も潰えてしまう……。
精確を期すため、資料を探してみようと思ったのだが、数年前に廃棄処分にしてしまっていて、たしかなことは判らなかった。残念である。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 21:48 | - | - |
織部の日のひとりめし(昼-弁当)
麦飯(べったら漬け)、玉子焼き(2個)、ウインナー(5本)、ほうれん草とひじきの胡麻和え


ほうれん草とひじきの胡麻和えは、近所のスーパーで買ってきた惣菜である。昨日記したような事情で、今週は野菜の摂取量が激減している。とにかくなんでもいいから、少しでもいいから、野菜を摂取せねばならない、と、買ってきたのである。
ひじきはかつては、鉄分の補給に最適、と、云われたものであるが、近頃はそうでもないようである。それは、かつては鉄鍋で調理していたが、最近では鉄鍋を使わなくなったために、ひじきに鉄分が含有されなくなったからであるらしい。と、いうことは、ひじきそれ自体に、鉄分が豊富に含まれている、と、云うわけではない、と、云うわけか? それでも、ひじきは海藻類である。海藻類は、野菜とともに、大いに摂取すべき食材である。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 21:44 | - | - |
織部の日のひとりめし(朝)
トースト(6枚切り×2枚)、半熟卵(2個)、プレーン・ヨーグルト、野菜ジュース、バナナ、みかん


今日は“織部の日”だそうである。
Wikipediaによると、“岐阜県土岐市が1988年に制定”したもので、“慶長4年(1599年)のこの日、古田織部が、後に織部焼と呼ばれることになる自分で焼いた茶器を用いて茶会を開いたことに由来”するのだそうである。
古田織部、と、云っても、あまりなじみのある名前ではなかろう。
これまたWikipediaによると、“戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名、茶人”で、“千利休とともに茶の湯を大成し、茶器・会席具製作・建築・作庭などにわたって「織部好み」と呼ばれる一大流行を安土桃山時代から江戸時代前期にもたらした”人物なのだそうである。
織部は“利休の静謐さと対照的な動的で破調の美を確立させ、それを一つの流派に育て上げ、それは織部流といわれた”のだそうな。
ちなみに、小堀遠州は、この古田織部の弟子である。
もっともそのことと、わたいの食卓に並ぶ献立とには、なんらの関連もない。
茶道の美が静的であろうが動的であろうが、小堀遠州が古田織部の弟子であろうがあるまいが、そのことをマリネラの少年国王がどう思おうが、そんなことにはまったくかかわりのない、いつもながらの、凡俗な献立である。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 21:42 | - | - |
冬の恋人の日のひとりめし(晩)
玉子麦飯(べったら漬け)、即席みそ汁(油揚げ、とろろ昆布、乾燥わかめ)、サバ塩焼、あさりとわけぎのぬた、冷奴、納豆、味付海苔


自己流飛脚玉すらやめて、即席みそ汁にした。手抜きの極みである。それでも心ばかりは、と、とろろ昆布と乾燥わかめを入れた。
サバ塩焼は、今日の昼どきに、突然食べたくなったのである。不思議なもので、今回は突然食べたくなることが多い。昨日のべったら漬けもそうである。まあ、こんなことがあってもいいのではないか。いつもなら、土日に1週間分まとめて料理るので、途中で「あれを食べたい」と思っても、変更が効かない。柔軟性に欠けるのである。それを考えれば、今週のように、あらかじめお菜を料理っていない週(料理らなかった週)などは、ふだん口にしないような、いろいろな食べ物が食べられる好機である。
たまにはこんなことがあってもいいかもしれない、と、思って、ふと脳裏をよぎったのだが、ひょっとすると、1週間分のお菜を料理ったときは、そのことが欲望をつかさどる脳の領域に働きかけて、他の食べ物を食べたいと思わせないように、制御しているのかも知れない。
で、料理をしていないときは、その制御が外れて、逆に、なにか食べ物(お菜)を探さなくてはならない、と、云う、指令を出し、それが欲望をつかさどる脳の領域を刺激して、不意に特定の食べ物が食べたくなる欲求が生ずるのではないだろうか。
脳科学者を称し称されるセンセイがた、いかがでしょうか、この考えは?
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 21:54 | - | - |
冬の恋人の日のひとりめし(昼-弁当)
麦飯(べったら漬け)、玉子焼き(2個)、ウインナー(5本)、菜の花の胡麻和え


先週の土日はグッタリして、どこに行く気にも、なにをする気にもならなかった。とくに熱が出るとか、悪寒がするとか、病気様の症状は感じないのだが、とにかく、意欲も気力も体力も溶解してしまったようだった。平日の仕事が終わると、ドッと怠くなる。過緊張弛緩による加齢性無気力症候群だろうか(そんな病名はない。いま思いつきで記しただけなので、念のため)。
そんなわけで、買物にも行かず、料理もしなかった。一昨日は職場に売りに来る弁当、昨日は外食だったのだが、どうもやはり馴染めない。やはり不味くても、自分で料理った弁当のほうがいい。
さいわい、卵とウインナーがあったので、この献立となった。菜の花の胡麻和えは、べったら漬けと同じく、近所のスーパーで買ってきたものである。昨日焼肉屋に昼食を食べに行ったら、妙にべったら漬けが食べたくなったのである。理由は不明である。ただときどき妙に、どんなお菜よりも、漬物だけで、御飯を食べたくなるときがある。ちょうどまさに、そんなときに合致したのかも知れない。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 21:52 | - | - |
冬の恋人の日のひとりめし(朝)
トースト(6枚切り×2枚)、半熟卵(2個)、プレーン・ヨーグルト、野菜ジュース、バナナ、みかん


今日は“冬の恋人の日”だそうである。
Wikipediaによると、“2月14日のバレンタインデーと3月14日のホワイトデーの間に「恋人同士の絆を深める日」を設けようと、結婚カウンセラーなどが制定した日”なのだそうである。“絆の「ずな」→「づな」→「ツー・ナナ」→「27」の語呂あわせから、2月27日が選ばれた”とあるが、いくらなんでも、強引すぎるだろう。
1992年(平成4年)のアメリカ合衆国の映画に、『冬の恋人たち』と云うのがあるそうだが、未見である。映ちゃんも、観てない、と、云う。映ちゃんが観てない映画を、わたいが観てるはずもない。なんでも、“ペア・フィギュアスケートでアルベールヴィル冬季オリンピック出場を目指す1組の若い男女の姿を描”いた作品だそうである。
冬季オリンピックの映画でわたいたちになじみ深いのは、『白い恋人たち』である。
1968年(昭和43年)に制作されたフランスの映画で、第10回冬季オリンピックの記録映画である。わたいはこの映画も、観たことはない。映ちゃんにしても、なにかの番組で、いくつかのシーンを観たことがあるだけらしい。
それにもかかわらず、わたいたちにとって印象深いのは、フランシス・レイの作曲による、そのテーマ音楽のゆえである。
「白い恋人」と云う名菓があるが、おそらくその名も、この映画の邦題にちなんで命名されたものと思われる。
ちなみに、大阪にはみなさんご存じ、「面白い恋人」と云う新名物がある。大阪らしいユーモア、お笑い精神だと思うのだが、なかには眉をひそめる人もいるらしい。
もっともそのことと、わたいの食卓に並ぶ献立とには、なんらの関連もない。
冬であろうが春であろうが、夏であろうが秋であろうが、恋人なんぞとはまるで無縁の、いたって心寂しい献立である。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 21:50 | - | - |
太子会の日のひとりめし(昼-弁当)
麦飯(ピリ辛らっきょう)、鶏ささみの味噌漬け焼き、菠薐草と生椎茸と薄揚げの煮浸し


鶏ささみの味噌漬けがなくなった。多めに入れたので、キッチリなくなったが、いつもの量だと、あと1食分くらい残ったかもしれない。
精確には若干残っているが、ほんのおやつ程度である。
菠薐草と生椎茸と薄揚げの煮浸しも、ほんのひとつまみほどを残して、ほぼなくなった。今回はなかなか上出来である。
さて来週であるが、来週は豚肉か魚肉か、で、迷っている。
本命は豚肉であるが、魚で廉いのが売っていれば、そちらにしようと思っている。
考えてみれば、こんな思考ができるようになったのは、ありがたいことである。
むかしだったら、あらかじめ献立を決めておいて、その献立に必要な食材を仕入れに行く、と、云う型式でないと、動きが取れなかった。
それがいまでは、いくつかの類型を並べて、取捨選択できるようになったのである。我ながら、大した進歩である。
さて、今年は例年になく、早い春の訪れを感じられそうである。
それはうれしいのだが、気になるのは、昨夜発生した、北海道の地震である。詳細は解らないが、気象庁によれば、当分地震活動は続くそうである。現地の方々には、くれぐれもご用心なされて、一日も早く、安心して暮らせる生活に戻れるよう、お祈り申し上げるばかりである。
それではみなさん、来週もまた、よろしくお願いいたします(^_^)/
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 20:04 | - | - |
太子会の日のひとりめし(朝)
トースト(6枚切り×2枚)、半熟卵(2個)、プレーン・ヨーグルト、野菜ジュース、バナナ、みかん(2個)


今日は“太子会”の日であるらしい。
「今日は何の日〜毎日が記念日〜」と云うWebsiteによると──
622(推古天皇30)年のこの日、聖徳太子が斑鳩宮で薨去した。
聖徳太子ゆかりの広隆寺・法隆寺(3月22日)・四天王寺(4月22日)等では聖徳太子の遺徳を偲ぶ法会が行われる。
推古天皇30年2月22日という忌日は『上宮聖徳法王帝説[じょうぐうしょうとくほうおうていせつ]』に記述されている日附であり、『日本書紀』では推古天皇29年2月5日となっている。
──とのことである。
現在の教科書などでは、その実在が疑われる学説が存在する旨、明記されているようであるが、長らく日本の思想や政治制度に影響を及ぼした人物として尊崇されてきたことは否めない。
ちなみに、聖徳太子こと厩戸皇子は、推古天皇の皇太子となり、摂政を務めた。天皇家の歴史において、摂政を務めた皇太子は、この厩戸皇子と、裕仁皇太子(後の昭和天皇)のふたりだけである。
そのふたりのうち、後に天皇となったのは、裕仁皇太子だけなのだから、昭和天皇がいかに稀な存在であったかがうかがい知れる。
ちなみに、絶対権力者としての天皇と、象徴としての天皇との、両立場を一人で担ったのも、昭和天皇だけだろう。
もっともそのことと、わたいの食卓に並ぶ献立とには、なんらの関連もない。
聖徳太子が実在しようがしまいが、皇太子が摂政を務めようが務めまいが、そんなこととは一切無縁の、いたって平々凡々たる、俗人の献立である。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 20:01 | - | - |
日刊新聞創刊の日のひとりめし(晩)
玉子麦飯、粕汁(鮭、鰯のつみれ、焼麩、大根、人参、白菜、白葱、生椎茸、蒟蒻、ニラ、もやし、貝割、薄揚げ)、菠薐草のお浸し、冷奴、納豆、味付海苔


ようやく粕汁らしい(?)寒さになったようである。とは云え、最高気温は10℃を超えていたのだから、この時季としては、暖かい方であろう。曇天で風も冷たかったから、寒く感じたのかも知れない。だいたい、昨日までが暖かすぎたのである。
菠薐草のお浸しは、以前に湯掻いて冷凍保存しておいたものである。朝出勤前に冷凍室から冷蔵室に移しておいた。これで解凍の時間が短縮できる。
しかし、湯掻いて嵩が減り、解凍時にまた嵩が減り、菠薐草は結構、嵩が減るものである。冷凍保存する際は、あまり湯掻かないほうがいいようだ。もっとも、すぐに食べるときでも、あまり長くは湯掻かない。長くても、30秒ほどだろう。それでも冷凍保存すると、かなり嵩が減るのだから、困ったものである。しかしいいように考えれば、それだけ多量に食べられる、と、云うことである。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 21:53 | - | - |
日刊新聞創刊の日のひとりめし(昼-弁当)
麦飯(海苔と野菜のふりかけ)、鶏ささみの味噌漬け焼き、菠薐草と生椎茸と薄揚げの煮浸し


鶏ささみの味噌漬けが、少々多かったようだ。菠薐草と生椎茸と薄揚げの煮浸しが入りきれなかった。しかし結果としては、それでよかったのかも知れない。
鶏ささみの味噌漬けが、今週で消費しきれるかどうか判らないくらいの量があったのだが、どうやらなんとか、今週中に消費できそうな目途が立ったのである。もっとも、今週中に消費できなくても、味噌漬けなのだから、少々は保つだろう、とは、思っている。
以前も記したが、みそ床は、合わせ味噌(薩摩みそ)、酒、砂糖、みりん、で、料理る。酒で味噌をよく溶き、砂糖とみりんを加えて、よく混ぜるのである。
これに、筋を除ってそぎ切りにしたささみを漬け込む。約1日(一昼夜)も漬け込めば、充分であろう。
それを、クッキング・シートを敷いたフライパンで焼くのである。火力は中〜弱火。
味噌の焼けた味がけっこう香ばしくて、なかなかにイケる献立なのである。
ただ今回は、みそ床に使った砂糖が多かったのか、あるいはみりんが多かったのか、少々べたつくような感じが、食後の口の中に残っている。もちろん、食後の歯磨きはちゃんとやった。歯磨きは食後に、5分かけてするのが、わたいの流儀である。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 21:51 | - | - |
日刊新聞創刊の日のひとりめし(朝)
トースト(6枚切り×2枚)、半熟卵(2個)、プレーン・ヨーグルト、野菜ジュース、バナナ、みかん(2個)


今日は“日刊新聞創刊の日”だそうである。
「今日は何の日〜毎日が記念日〜」と云うWebsiteによると、“1872(明治5)年のこの日、現存する中では日本初の日刊新聞『東京日日新聞』(現在の毎日新聞)が創刊した”ことに由来するようである。
なお、“日本初の日刊新聞は1870(明治3)の『横浜毎日新聞』であるが他社に吸収されているため、現存する中では最古とされている。ただし、毎日新聞は自身のことを「東京で最初の日刊紙」と表現している”そうである。
インターネットの発達によって、新聞を購読しない人も増えたことであろう。かく云うわたいも、その一人である。
公平公正な報道、などと云うのは、純真無垢な青少年、などと云うのと同じ、欺瞞と偽善に満ちたただのタテマエであることは、いまや多くの人が知るところである。なにが悲しくて、偏見偏向に満ちた新聞を、わざわざ金を払って、購読しなければならないのか、理解に苦しむ。
自分に都合の悪い記事を書く一部の新聞記者を阻害し、その質問を妨害し、難癖をつけて排除しようとする某国の官房長官に物申せないような新聞など、存在する価値もない。紙と金の浪費である。貴重な紙資源を、ツマラヌことに使わないでもらいたいものである。
もっともそのことと、わたいの食卓に並ぶ献立とには、なんらの関連もない。
新聞が詰まらなかろうが面白かろうが、新聞社が腐敗していようが堕落していようが、そんなことには一切かかわりのない、いたって清廉潔白な、いつもながらの献立である。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 21:49 | - | - |
世界社会正義の日のひとりめし(晩)
玉子麦飯、粕汁(鮭、鰯のつみれ、焼麩、大根、人参、白菜、白葱、生椎茸、蒟蒻、ニラ、もやし、貝割、薄揚げ)、菠薐草と生椎茸と薄揚げの煮浸し、冷奴、納豆、味付海苔


最近は葉っぱをつけたままで大根を売っていることはまれである。わたいがよく行く商店街の店では、けっこう葉っぱをつけたままで大根を売っていることがあるので、ありがたい。
大根の葉には、β-カロテン(ビタミンA)、カリウム、カルシウム、ビタミンC、鉄分、等が、豊富に含まれている。ひょっとすると、大根そのものよりも、葉っぱのほうが、栄養価は高いのじゃないか、などと思ってしまう。
その大根の葉っぱを、なぜ棄てるのか? 謎である。
わたいなど、大根の葉っぱだけでもいいから、売ってほしいくらいのものである。 
椎茸は意外と重宝する。昔はそれだけで焼いて、酢醤油で食べたものだが、最近はできるだけ、いろんな献立に混ぜるようにしている。それはなにも、椎茸だけに限らず、えのき、しめじ、舞茸、エリンギ、等、いわゆるキノコ類は、できるだけ、さまざまな形で摂取しようとしている。
よく考えれば、キノコ類や海藻類はなかなか摂取する機会がない。できるだけ、気をつけて摂りたいものである。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 21:55 | - | - |
世界社会正義の日のひとりめし(昼-弁当)
麦飯(海苔とかつおのふりかけ)、鶏ささみの味噌漬け焼き、菜の花のからし和え


鶏ささみの味噌漬け焼きは、以前にいた職場の同僚女子に教えてもらったものである。この献立が大のお気に入りのひとつであることはこれまでもたびたび記してきたが、料理ったのは、実に久しぶりのような気がする。
いままでにもたびたび、料理ろう、料理ろう、と、思いながら、その都度さまざまな事情により、かなわなかったのである。
今回やっと念願かなって、料理ることが出来た。味噌の香ばしさとささみのやわらかい味わいが上手く合致して、素晴らしい味わいである。魚肉の味噌漬け────さわらの西京漬けや、鯛の味噌漬けなど────も旨いが、この、鶏ささみの味噌漬けも、なかなかの絶品である。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 21:52 | - | - |
世界社会正義の日のひとりめし(朝)
トースト(6枚切り×2枚)、半熟卵(2個)、プレーン・ヨーグルト、野菜ジュース、バナナ、みかん(2個)


今日は“世界社会正義の日”なのだそうである。
Wikipediaによると、“2007年の国連総会決議で制定され、2009年から実施された国際デー”であり、“貧困削減や、国際労働機関の定める労働者の権利の促進を目的に制定”されたのだそうである。
実施されてから10年になるが、“貧困”も“労働者の権利”も、いよいよ深刻の度合いが増しこそすれ、減じる気配は感じられない。
そもそも、“貧困撲滅”と“労働者の権利の促進”だけが、“社会正義”である、とも、思われない。
“正義”の実現は、洋の東西、時の古今をつうじて変わらぬ、不変の希求であるが、それがはなはだ困難である所以のひとつは、なにが“正義”なのか、その内容が、人によって全然ちがうことであろう。
早い話が、「貧困は怠惰の報いであり、それゆえ怠惰な者が貧困になることこそ、“正義”の実現である」と、考える輩も、けっして少なくはないのである。漢字を常用する中国以外の国の、いわゆる”まともな人間”だけでなく、壁の建設に拘泥する某国の大統領なども、そんな考えを持っているような気がする。困ったことであり、恥ずかしいことである。
もっともそのことと、わたいの食卓に並ぶ献立とには、なんらの関連もない。
社会正義とも、貧困とも、一切無縁の、まことにありがたい、しあわせな献立である。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 21:50 | - | - |
天地の日のひとりめし(晩)
玉子麦飯、粕汁(鮭、鰯のつみれ、焼麩、大根、人参、白菜、白葱、生椎茸、蒟蒻、ニラ、もやし、貝割、薄揚げ)、菜の花のからし和え、冷奴、納豆、味付海苔


今週は暖かくなるらしいから、粕汁はどうかな? とも思ったのだが、あまり深く考えずに、半分惰性で料理ることにした。
なにしろ、一汁三菜を目標としてはいるのだが、冬場はこの粕汁が一汁でありかつ一菜(主菜)であるのだから、なかなかこの献立を抜かすわけにはいかないのである。
昼の弁当のお菜にした鶏肝の生姜煮もそうだったが、菜の花のからし和えも辛くなってしまった。こちらはどうやら、菜の花自体を、いつもより少なめに購入したのに、味付けをいつもどおりにしてしまったことに起因しているようである。
ちなみに、以前にも記したかもしれないが、味付けは、缶入りのからし粉と顆粒のあごだしと薄口醤油を混ぜたもので、これに、ざっと湯掻いて粗熱を除った菜の花を和えるのである。旬の菜の花の野生の苦味と、からし粉の辛味が巧く合わさって、絶妙の味わいを醸し出すのである……いつもならば。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 22:06 | - | - |
天地の日のひとりめし(昼-弁当)
麦飯(海苔とたまごのふりかけ)、鶏肝の生姜煮、菠薐草と生椎茸と薄揚げの煮浸し


インフルエンザだのはしかだのの感染拡大に警戒感が拡がっている昨今、滋養強壮、栄養補給に、と、鶏肝の生姜煮を料理ったのだが、なにをどう間違ったのか、腎臓が破壊されるんじゃないか、と、思うほど、強烈に鹹かった。これでは滋養強壮、栄養補給どころの話ではない。
醤油を入れ過ぎたのだろうが、それとも思ったより煮つめすぎたのだろうか。まさか、砂糖と塩を入れ間違えたのではあるまい。
菠薐草と生椎茸と薄揚げの煮浸しは、上手くいった。こちらは少々甘いくらいである。これはやはり、菠薐草の旬の甘み、と、云うやつだろう。菠薐草も一年中食べられるようになったが、やはり旬のものは、文字どおり、ひと味違う、のである。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 22:04 | - | - |
天地の日のひとりめし(朝)
トースト(6枚切り×2枚)、半熟卵(2個)、プレーン・ヨーグルト、野菜ジュース、バナナ、みかん(2個)


今日は“天地の日”だそうである。
Wikipediaによると、“地動説を主張したニコラウス・コペルニクスの誕生日に由来”するものだそうである。
小学生の頃は、地動説を提唱したのはガリレオだ、と、思っていたが、ガリレオはコペルニクスの説が正しいことを主張したのだそうだ。
なお、“地動説(太陽中心説)確立の過程は、宗教家(キリスト教)に対する科学者の勇壮な闘争というモデルで語られることが多いが、これは19世紀以降に作られたストーリーであり、事実とは異なる”そうである。(Wikipediaより)
ちなみに、今日の夜から明日の未明にかけては、本年最大のスーパームーンが観測できるそうである。もちろん、晴れていれば、の、話だろうが。精確な時刻は、明日20日深夜0時54分頃だそうである。
コペルニクスの誕生日、“天地の日”に、本年最大のスーパームーンを観測させてくれるとは、天体もなかなか粋な演出をするものである。
お時間がおありの方は、ご覧になられてはいかがだろうか。わたいは床についているだろうが。
もっともそのことと、わたいの食卓に並ぶ献立とには、なんらの関連もない。
天が動こうが地が動こうが、月が最大に見えようが最小に見えようが、まったく一切関係のない、いたって凡俗な献立である。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 22:02 | - | - |
エアメールの日のひとりめし(晩)
玉子麦飯、自己流飛脚玉、かきのフライ(5個)、菠薐草と生椎茸と薄揚げの煮浸し、冷奴、納豆、味付海苔


今日の晩食は手抜きである。以前にも記したが、飛脚玉、とは、むかし忍者が使っていた、携帯用の簡易味噌汁である。
とろろ昆布をひろげ、そこに、味噌、梅肉、小口切りした葱をのせる。
とろろ昆布を包んだら出来上がり、と、云うのが、わたいが知った飛脚玉の料理り方である。
わたいの場合、持ち運ぶ必要はないので、器に味噌、あごだし(顆粒)、鰹節、乾燥わかめ、とろろ昆布などを入れ、お湯を注いで出来上がり、と、なる。沖縄のかちゅー湯と云う料理(?)、と、云った方が、近いかも知れない。
かきのフライは近所のスーパーで買ってきた。先日近所のスーパーで見かけて、久しぶりに食べたくなったのである。近所のスーパーは、なかなか好い惣菜が売ってあるので、面倒くさいときなどは重宝である。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 22:09 | - | - |
エアメールの日のひとりめし(昼-弁当)
麦飯(海苔とさけのふりかけ)、鶏肝の生姜煮、菜の花のからし和え


今日は“エアメールの日”だそうである。
「今日は何の日〜毎日が記念日〜」と云うWebsiteによると、“1911年のこの日、インドで、飛行機によって初めて郵便物が運ばれた”ことにちなんで制定されたのだそうである。“アラハバードで開かれていた博覧会のアトラクションとして、会場から8km離れたナイニジャンクション駅まで6000通の手紙が運ばれ”、“ナイニジャンクション駅からは普通に列車で運ばれた”のだそうである。
インターネットの普及にともなって、エアメールも使われなくなったんじゃないか、と、思われるが、詳しいことは解らない。
なにしろわたい個人としては、エアメールのやりとりをする海外の知り合いなどいないのだから、無理もなかろう。
もっともそのことと、わたいの弁当の中味とには、なんらの関連もない。
海外の知り合いがいようがいまいが、エアメールであろうが電子メールであろうが、一切無関係の、いつもながらの献立である。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 22:03 | - | - |
わ〜ぉ!
な、なんと、昨日のアクセス数が、3896を達成した!楽しい拍手
今週はろ〜りぃが飯の写真をアップしていないにもかかわらず、みなさん、ありがとうございますm(__)m
みなこの数字に、よろこんでおります。ろ〜りぃはひとり、複雑そうでありますが……。
それはともかく、気まま気まぐれ、無精者ぞろいのこのBlogではありますが、みなそれなりに精進してまいります。
これからもよろしくご贔屓くださいますよう、よろしくお願い申しあげます(^^)/
| Woody(うっでぃ) | 投稿者より | 22:16 | - | - |
「駅長 」〜ロシア文学への招待状
   はじめに

“名作とは、その話のなかに、歴史の流れが感じ取られる作品の事である。”
 と、云うのが、持論です。
 だからと云って、歴史上の人物や出来事を盛り込んだ話が名作である、と、云う意味ではありません。
当然、歴史小説が最高の小説である、と、云う意味でもありません。
歴史上の人物や出来事を盛り込んではいても、つまらない小説はいくらでもあります。
読む価値のない歴史小説も、山ほどあります。
では、“その話のなかに、歴史の流れが感じ取られる作品”とは、どのような作品なのでしょうか?

「駅長」と云う作品が、その答えのひとつです。
ロシアの国民作家、と、云われる、アレクサンドル・プーシキンの作品です。
“ロシア文学”と、云いますと、思わず身構えられるかたが多いのではないでしょうか。
“暗くて、重苦しくて、やたらに長い”――それが、おおかたの人がもつ、ロシア文学にたいする印象ではないでしょうか。
 なるほど、あながち、間違っている、とは、申しません。しかし、どうぞご心配なく。
 ここにご紹介する「駅長」と云う作品は、「ベールキン物語」と云う、それ自体短い作品群の中の一編です。
文庫本(岩波文庫)にしてわずか22頁――1時間ちょっと、通勤の合間に読めるくらいの分量です。
主な登場人物は三人――駅長のシメオン、その娘ドゥーニャ、ペテルブルグの若き驃騎兵士官ミンスキイ、です。
この、たった三人の登場人物のそれぞれが、悠久なロシアの歴史の流れを、その一瞬を、みごとに体現し、この短い物語のなかに滔々として流れる、雄大な歴史の流れを感じさせてくれるのです。
それではこれから、この短い作品の中に表現されている、雄大な歴史の流れを感じ取って行きましょう。どうか、ご一緒に。

本 論〜「駅長」精読

さて、タイトルの「駅長」ですが、当時のロシアにあって“駅長”とは、どのような存在だったのでしょうか?
それは、「十四等官の官等をもつ紛れもない受難者で、この官位のおかげでわずかに殴打を免れているに過ぎず、それとて常に免れるものとは限っていない」のです。
 帝政ロシアにあっては、官吏――現在で云う公務員――には、それぞれ等級が定められていました。十四等官は、それらの官等中、最も低いものです。
その職務は、「それこそほんとうの苦役」です。
「昼も夜も心の休まるひまとてはない。退屈な旅のあいだに積もり積もった鬱憤をのこらず、旅行者は駅長にぶちまけるのである。天気が我慢ならん、道がわるい、御者が強情だ、馬が進まん――みんな駅長のせい」です。
旅行者は駅長を目の敵にします。
その旅行者がすぐに発ってくれればもっけの幸いですが、あいにく馬がなかったら……。なんという罵詈雑言が、なんという嚇かし文句が、彼の頭上に降り注ぐことでしょうか!
 雨が降ろうが、霙が降ろうが、駅長は、馬を求めて、一軒一軒、近在の百姓家を探して回らなければなりません。
暴風の日でも、厳寒の最中でも、駅長はその貧しい住家の玄関の板の間へ出ていきます。いきり立った宿泊人の怒号や腕力沙汰からのがれて、せめて一分間でも身を休めるために、です。

この物語の主人公、シメオン・ヴイリンも、そんな駅長のひとりです。
その粗末ながらも小ざっぱりした住家には、安っぽい絵草子が飾られています。
それは、放蕩息子の物語です。
一枚目には、寝室帽をかぶって寛やかな部屋着をきた有徳の老翁が、心の落ち着かない若者を旅立たせています。若者はそわそわして、老人から祝福と財布を受取っています。
二枚目に描かれているのは、その若者の放埓な行状です。彼は「偽りの友達や恥知らずの女たち」に取り巻かれて、食卓に向かっています。
三枚目では、零落した若者が襤褸をまとい、三角帽をかぶって、豚の番をしながら、自分も豚と同じ餌を食べています。
四枚目、最後の一枚には、彼が父親のもとへ帰ったところが描かれています。心善い老翁が、一枚目の絵と同じく、寝室帽と部屋着の姿で、息子を迎えに走り出ています。息子はひざまずいています。遠景では料理番が、肥ふとらせた犢を屠っています。
この一連の絵草子が、シメオンの生き方を象徴しています。
華美贅沢を望まず、つつましやかに、その日その日を黙々と生きていくことにこそ、真の幸福がある、とする、生き方です。
シメオンの駅舎を訪れる旅人たちと、駅長たるシメオンとの間には、越えることの出来ない、身分の懸隔があります。
シメオンの駅舎を訪れる旅人たちは、身分高い「奥様」と呼ばれる人たちや、「旦那がた」と呼ばれる人々です。最下級の官等である十四等官のシメオンにとってみれば、それこそ、雲の上の人たち、別世界に住む人たちです。
そんな旅人たちの振舞いや言動が如何に横暴で、如何に理不尽であったとしても、シメオンは抗いません。抗おうとする感情すら生じません。
それどころか、旅人たちの横暴で理不尽な振舞いや言動を、横暴である、とか、理不尽である、とか、そんなふうに思うことすら、ありません。
旅人たちは身分高く、身分高い人たちはそういったもの、自分がこのように扱われるのも当然のこと、そう云った諦めにも似た感情が、シメオンを支配しています。
それがシメオンにとっては、当然の感情であり、ふつうの考えです。
「ロシア人の……特徴の一つは、その大きな忍耐力、耐乏心、苦痛に抵抗する力である。ロシア人は耐えることを知っている。一生がきびしくあろうと、ときとして残酷であっても、おどろきもしないし、激昂もしない」
と、云った人がいますが、まさにシメオンの生き方にぴったりの言葉です。
 最下級の官吏である、十四等官としての生活、長年にわたる駅長としてのその生活が、シメオンにそのような生き方を染み込ませたのです。

ただ、シメオンが他の駅長たちと違っていたのは、彼にはかわいい娘、ドゥーニャがいたことです。
ドゥーニャは「利発なすばしこい」娘で、どんな旅人でも彼女を褒めない人はなく、だれひとり、彼女の悪口を云う人はいませんでした。
身分高い「奥様」と呼ばれる人たちは、ドゥーニャをかわいがって、彼女にハンカチや耳輪を与え、「旦那がた」と呼ばれる男連中は、少しでも彼女と一緒に居たいがために、食事をするようなふりをして、その出発をのばしました。
どんなに憤っている旅客でも、ドゥーニャが姿を現すとその怒りを鎮め、シメオンにも、優しい口をきくようになりました。
部屋の始末から料理まで、何もかも立派にこなして、実際、ドゥーニャがいてこそ、シメオンの家も持っていたようなものでした。
そんなドゥーニャを、シメオンは、いくら眺めてもながめ足りない、いくら賞でても賞できれないほどに、かわいがっていました。シメオンはあらんかぎりの愛情をもって、我が娘ドゥーニャを慈しんでいました。
しかしそのドゥーニャが、シメオンのもとを離れて行ってしまったのです。

 事の起こりは、ある冬の、暮れ方のことでした。
ひとりの若い驃騎兵士官が、シメオンの駅舎に乗りつけてきました。
その驃騎兵士官は馬を求めましたが、あいにく、馬は残らず出きっていました。
例によって、その若い驃騎兵士官も、怒声と革鞭を振り上げようとしましたが、そんな場面には慣れているドゥーニャが走り出てきて、その若い驃騎兵士官の怒りを静めました。
この若い驃騎兵士官――ミンスキイと云います――も、他の旅人同様、ドゥーニャの魅力に、すっかり、参ってしまいました。
ただ彼が他の旅人たちと違っていたのは、ドゥーニャと食事をしたり、会話を愉しんだり、自分の持物を与えたり、と、そう云ったことだけでは満足せず、彼女を連れ出そうとしたことです。
ミンスキイは病を装い、往診した医者を金と嚇しで懐柔しました。そして、床に臥せっている間、懸命に、ドゥーニャを口説いたのです。
ドゥーニャの決心がついたとみるや、ミンスキイはたちまち元気になりました。
「彼は非常な上機嫌で、駅長やドゥーニャを相手に冗談口をたた」き、「口笛で唄をうたうやら、旅人たちと話をするやら、彼らの駅馬券を駅逓簿へ写しとるやらで、すっかり人のいい駅長の気に」入りました。シメオンは、「この親切な泊まり客と別れるのを、辛く思ったほど」でした。
ミンスキイとともに旅立つことを決心したにもかかわらず、ドゥーニャにはためらいがありました。
ドゥーニャは、旅人の鞭と怒声に脅え震えながら毎日を過ごす年老いた父親を一人残して行くのです。その哀れな、年老いた父親を、騙すようにして旅立っていくのです。それまでの、貧しく、慎ましやかながらも、幸せだった日々と訣別するのです。もう二度とこの地に戻ってくることはないでしょう。もう二度と、父親に会うこともないでしょう。
さまざまな想いがドゥーニャの胸を去来します。
そんな思いを断ち切ったのが、皮肉にも、父シメオンの言葉でした。
「なんのこわいことがあるものかね?」……「このかたが狼じゃあるまいし、お前を取って食べようとはおっしゃるまいよ。教会まで乗せて行っておいただき。」
 それはまさに、歴史のひと言でした。歴史がシメオンを捉え、シメオンをして云わしめた言葉でした。

 ミンスキイは、ロシアの歴史の流れ――より精確に云えば、ロシアの商品経済の発展――が産み出した、新しい個性、新しい人物です。
 シメオンが歩んできた人生からすれば、ミンスキイのような人間は、とても信用できる人間ではありません。
 シメオンから見れば、ミンスキイのような人間は、退屈な旅のあいだに積もり積もった鬱憤をのこらずぶちまけ、その場その時の癇癪にまかせて怒声と革鞭を振り上げ、打擲するような人物です。
 旅先で見かけたちょっとかわいらしいおぼこ娘を言葉巧みに誘惑して、しばらく囲ったあげくにぽんと振り捨てるような、そんなことをしかねない、そんなことをしても不思議ではない、そんな人間です。
 ところが、そんな人物であるはずのミンスキイを、シメオンはすっかり気に入ってしまったのです。彼との別れを辛く思うようにすらなったのです。
 これまでのシメオンからすれば、考えられないことです。
 ドゥーニャをかわいがって彼女にハンカチや耳輪を与えた身分高い「奥様」がたも、少しでも彼女と一緒に居たいがために、食事をするようなふりをして、その出発をのばした「旦那がた」と呼ばれる男連中も、十四等官の駅長であるシメオンが、そのために彼らを気に入り、別れを辛く思うような、親しみを感じる人々ではありませんでした。彼らとシメオンとの間には、埋めることのできない、巨大な懸隔――身分の差が、厳然と存在しており、シメオンはそのことをつねに、感じ取っていました。
ところがミンスキイには、そのような巨大な懸隔――身分の差が、やはり、厳然として存在しているにも拘らず、そのことを忘れさせ、シメオンをして彼を気に入らせる個性があったのです。
 ミンスキイは、ドゥーニャの決心がついたとみるや、すっかり上機嫌になり、シメオンやドゥーニャ相手に冗談口を叩いたり、旅人たちと話したり、旅人たちの駅馬券を駅逓簿に写しとったりしました。旅人たちの駅馬券を駅逓簿に写しとる、と、云うのは、十四等官と云う最下等の官等である駅長の仕事でして、ミンスキイのような驃騎兵士官が手を染めるような仕事ではありません。にもかかわらず、ミンスキイは気軽にそれをやったのです。
 ミンスキイの振舞いは、ドゥーニャをかわいがって彼女にハンカチや耳輪を与えた身分高い「奥様」がたや、少しでも彼女と一緒に居たいがために、食事をするようなふりをして、その出発をのばした「旦那がた」と呼ばれる男連中には、見られないことでした。
その新しい個性、新しく生み出された人物に接したシメオンの心には、いままで生じたことのなかった、新しい感情が生じました。
それが、ミンスキイを気に入り、彼との別れを辛く思い、愛娘ドゥーニャに彼との相乗りを勧める言葉となって、現象したのです。
しかしシメオンには、そんな自分の心の動きを理解できようはずもありません。
 実際シメオンは、半時間もたたないうちに、心が妙に疼きはじめ、しきりに胸騒ぎがしてきました。
「哀れな駅長は、どうしてドゥーニャに士官との相乗りを許したのか、なぜそんなにも目が眩んだものか、そのときの自分の分別がどうなっていたのか、われながら訳がわからなかった。」と、作者は書いています。
 ミンスキイとの接触は、シメオンの心に、いままでになかった、新たな感情を生みだしました。そのミンスキイが旅立ってしまうと、シメオンの心は、以前の状態に戻ります。
 それゆえ、「半時間もたたないうちに、彼の心は妙に疼きはじめて、しきりに胸騒ぎがして来た」のであり、「どうしてドゥーニャに士官との相乗りを許したのか、なぜそんなにも目が眩んだものか、そのときの自分の分別がどうなっていたのか、われながら訳がわからなかった」のです。
 そしてとうとう、居ても立ってもいられなくなって、自分で教会へと出かけて行きました。
ところが、ドゥーニャの姿はどこにも見えません。
悄然として帰宅したシメオンは、それでもなお、ドゥーニャが自分のもとから去って行ったとは、思えませんでした。
ミンスキイとドゥーニャを乗せて行った馭者は、日暮れになってやっと帰って来ると、
「ドゥーニャさんは次の駅からまだ先へ、士官(ミンスキイ)といっしょに発って行きなすった」
と、報告しました。
それはシメオンにとって、恐ろしい報告でした。
“あの旅の若者に、かどわかされた。”
シメオンがそう思ったとしても、無理からぬことでしょう。
馭者から、「ドゥーニャは途々ずっと泣きどおしだったけれど、そのくせ自分から好き好んで乗って行くような様子だった」と、聞かされても、その言を素直に信じることができず、ドゥーニャはミンスキイに騙されたのだ、と、信じていました。
シメオンにすれば、都会でのきらびやかな生活は、軽佻浮薄なものでしかなく、彼の旅宿の壁に掲げてある安っぽい絵草子が示しているように、やがては零落して乞食同様になるのが、必然の運命です。「利発なすばしこい」娘であるドゥーニャも、当然そのことは理解しているはずであり、彼女がミンスキイと共に去ったのも、一時の気まぐれ、気の迷いにすぎず、だからこそ、ドゥーニャを「うちの迷える子羊」と思い、自分が行って説得すれば、かならず、連れもどせる、と、信じました。
シメオンはミンスキイの旅券で、その行く先がペテルブルグであることを知っていました。
シメオンはミンスキイの宿に赴いて、取次を頼みますが、旦那は十一時前にはだれにもお会いにならない、と、告げられます。
 そして、いったんそこを出て、指定された時刻に戻ってきます。
 ミンスキイは自分で会いに出てきますが、
「なんの用かね、君」
 と、その応対は、如何にも横柄です。
 シメオンは、
「旦那さま!……どうぞお慈悲でございます!……」
と、わななく声で云います。
「失せた物はもう取り返しはつきません。でもせめて、うちのかわいそうなドゥーニャだけはお返しくださいまし。もう十分におなぐさみになったじゃありませんか。どうぞ罪もないあれの身を破滅させないでくださいまし。」
 娘を拐され、なぐさみものにされた(と、信じている)にもかかわらず、シメオンは卑屈とも思えるような態度で懇願します。
 厳然と存在する、ロシア社会の身分差の烈しさです。
 シメオンはしがない十四等官の駅長、ミンスキイは立派な驃騎兵士官です。
 驃騎兵士官であるミンスキイにたいして、十四等官にすぎないシメオンは、愛娘を拐され、なぐさみものにされた、と、信じていても、娘を返せ、と、強く出ることはできず、懇願するように、相手にすがるしかないのです。

「できてしまったことは元には返らないものなあ」と青年はひどく当惑の態で答えた。「君には済まないと思うし、また喜んで君の赦しを乞いもしようさ。だがこの私がドゥーニャを見捨てる、なんていうことは思わないでくれないか。あれはこの先も幸福なはずだ、これはきっぱり請け合うよ。それに、君があれを取り返してみたところで何になるかね? あれは私を愛している。あれはもう、以前の身分なんぞはすっかり忘れてしまっているんだ。君にしてもあれにしても、いったん覚えた味は忘れられまいじゃないか。」

 そう云ってシメオンの袖の折り返しに、五〇ルーブルの紙幣を押し込んで、彼を帰します。
 貧しい老親から最愛の娘を奪い取っておいて、金でかたをつけようなんぞとは、なんと卑劣なヤツ、と、いまのわたしどもでしたら、そう思うかもしれません。
 なるほど、そう思うのも無理はありません。ですが、先程述べたような、厳然たる身分の差を思い起こしてください。そのような、その身分差が当然であったロシア社会では、このミンスキイの対応は、むしろ、良心的、と、云ってもいいものかも、しれません。
 憎むべきものがあるとすれば、それはミンスキイの対応ではなく、そのような対応をあたりまえのものとする、ロシア社会そのものでしょう。
 シメオンはわが家へ帰ろう、あの宿場へ帰ろう、と、決心しますが、その前にもう一目だけ、かわいそうな我が娘を見ておきたく思い、ふたたびミンスキイの宿を訪れます。
 ところが、従卒に門前払いを食わされ、すごすごと引き返さざるを得ませんでした。
 哀れな駅長は、お寺へ行って祈願した帰り、馬車に乗ったミンスキイの姿を認めます。
 その姿を目にしたシメオンは、一計を案じ、首尾よく、ミンスキイの訪れた部屋に入り込みます。
 そこでシメオンが見たものは、
「流行の粋をつくした装いで、さながらイギリス鞍に横乗りになった乗馬婦人のような姿勢をして、男の椅子の腕木に腰をかけ」、「優しい眸をミンスキイに注ぎながら、男の黒い捲毛を自分のきらきら光る指に巻きつけている」我が娘、ドゥーニャの姿でした。
「かわいそうな駅長よ! 彼には、わが娘がこれほど美しく見えたことはかつてないのだった。」
と、作者は書いています。
 その姿は、ただたんに美しいだけではありません。このうえもなく幸福な姿、幸せに満ちあふれた姿でした。それは、いかにシメオンが娘を愛していても、どうしても与えることの出来ない幸せでした。
「十四等官の官等をもつ紛れもない受難者」、「それこそほんとうの苦役」であるような生活を強いられている駅長が、いかにその愛情をそそごうとも、これほどに娘を幸せにすることはできないのです。
 いみじくもミンスキイが述べたように、シメオンがドゥーニャを取り返してみたところで、いったい、何になるでしょうか。どうにもならないのです。それどころか、「いったん覚えた味」、いったん馴染んでしまったしあわせな生活、ミンスキイを愛し、ミンスキイに愛され、それが実感として現象している生活から、元の貧しい生活、「それこそほんとうの苦役」であるような生活に引き戻されるのは、不幸以外のなにものでもないでしょう。
 作者が「かわいそうなシメオンよ!」と、述べず、「かわいそうな駅長よ!」と、書いているのは、そのためです。シメオンの悲哀、その絶望は、ただたんに、シメオン個人のことではなく、「駅長」と云う、「十四等官の官等をもつ紛れもない受難者」、「それこそほんとうの苦役」であるような生活を強いられている人間一般に共通するものなのです。
 愛情は物質上の満足に優る、いかに物質上の満足を得られても、心からの愛情には及ばない――だれもが、そう信じたいでしょう。物質上貧しい人たちは、ことに、そう思い、そう信じたいことでしょう。
 しかし残念ながら、それは、虚しい願い、はかない思いにすぎません。
 逆説のようですが、そのことを痛切に感じているからこそ、人は、“金(物質上の満足)がすべてではない”、“しあわせは金で買えない”と、強弁するのです。
 虚しい幻想です。
 悲しいかな、愛情は、それが物質と云う具体なものに現象してこそ、理解されます。
 雲をつかむような“愛情”は、しょせん幻想――物質上の満足の前には、あとかたもなく雲散霧消してしまう、儚い幻想でしかないのです。
 その幻想を打ち破るのは、“現実”と云う名の、実際の現象です。
 シメオンも、その幻想を、「わが娘がこれほど美しく見えたことはかつてない」その光景を目の当たりにすることによって、打ち破られました。
 ドゥーニャのその美しさは、ただたんに彼女を囲む物質のきらびやかさ、贅沢さによるものではありません。その美しさは、ミンスキイの愛を受け、心底しあわせに暮らしている生活から醸し出される美しさでした。
 それは、あまりにも残酷な光景でした。
 歴史はその真実を知らしめるため、時に残酷きわまりない仕打ちを個人に与えます。
 逆に云えば、個人が歴史の真実を身に沁みて理解するためには、このような残酷な打撃を甘受せねばならないのです。
 思いがけぬ父親の姿を目の当たりにして、ドゥーニャは絨毯のうえにばったり倒れ、シメオンは忿怒に身を震わせたミンスキイによって、放り出されます。
 シメオンの友人は、告訴するように勧めましたが、シメオンはちょっと思案した後、諦めることに決心して、二日後にはペテルブルグを発って、自分の宿駅さして帰路につきました。そしてふたたび、その職務に返ったのです。
 たとえ友人の勧めにしたがって告訴したところで、「十四等官の官等をもつ紛れもない受難者」である駅長が、ペテルブルグの驃騎兵士官に勝訴することはできないでしょう。よしんば勝訴し得たにしても、その結果は、娘のしあわせを奪い、「紛れもない受難者」、「それこそほんとうの苦役」である生活へと引き戻すことにしかなりません。
 ミンスキイの云うように、「いったん覚えた味」、都会の生活、その華やかな暮らしのなかにしあわせを見いだした以上、元の貧しい暮らしに戻ることは、それこそ、「苦役」以外のなにものでもないでしょう。
 そのことを理解したからこそ、シメオンは告訴もせず、元の、自分の宿駅に帰り、その職務に返ったのです。
 シメオンは、しかし、都会の華美な生活のなかに、人間のしあわせがあるとは、どうしても思えません。シメオンに実感できるしあわせとは、華美贅沢を望まず、旅人の無理難題、横暴打擲に耐え、その日その日を無事に過ごしていく、そんな生活です。
 いまやシメオンは、自分が感じるしあわせと、娘が求めるしあわせとが、まったく違ってしまったことを理解しました。
 同時に、自分が、娘に、娘の望むしあわせを与えてやれないことにも気づきました。
 残酷なことです。悲しいことです。
 どんなに愛し、どんなに慈しんでいても、もはやシメオンには、我が娘をしあわせにすることはできないのです。

「これでもう三年目になりますよ」駅長は昔馴染みの旅人(この物語の語り手)に、一部始終を語って聞かせると、そう云って、言葉を結びました。「この家にドゥーニャがいなくなって、あれのことを風の便りにも聞かなくなってからね」
 現在となっては、駅長は、自分のかわいい娘が、生きているのか死んでいるのかすら、知りません。
 ただ彼は、ドゥーニャが「しばらく囲われたあげくにぽんと振り捨てられ」、「木賃宿にごろごろしてる連中の仲間入りをして、街路掃除でもしていようという浅慮女」たちと同じようになる、と、そのことだけは、信じて疑っていません。
 実際ペテルブルグには、「旅の悪戯者に誘き出されて、しばらく囲われたあげくにぽんと振り捨てられ」た女、「今日のところはやれ繻子だ、やれ天鵞絨だとぴかしゃかしているが、明日になって見りゃ、木賃宿にごろごろしてる連中の仲間入りをして、街路掃除でもしていようという浅慮女が、うんとこさ」いるのです。
 駅長は、「ドゥーニャも成れの果てにはそんなふうになるのじゃあるまいかと思うたびに、罪深い話ですがつい私は、いっそあれが死んでくれればいいにと思いましてね」と、その苦衷を打ち明けます。
 しかし、そう思う一方で、ドゥーニャのしあわせが、少しでも長く続くように、と、思わずにはいられなかったでしょう。

 シメオンは、酒の飲み過ぎで、亡くなりました。
 酒に溺れてはいても、シメオンは、子どもには優しく、慕われていたようです。
 風笛のつくり方を教えたり、胡桃を分けてあげたり、しょっちゅう、子どもたちと遊んでいました。
 或る夏の日、「どっかの奥さん」が、シメオンを訪ねてやって来ました。
 その「奥さん」は、「六頭立ての箱馬車で、小ちゃな坊ちゃん三人と、乳母と、真黒な狆を連れてやって来た」のですが、「駅長が死んだと聞くと、泣き出し」て、子どもたちを残して、シメオンの墓に参りました。
 その「奥さん」はシメオンの墓前に来ると、そこへ「ぶっ倒れたなり、いつまでも起きあが」りませんでした。
 そしてその「奥さん」は、坊さんにお金を渡し、シメオンのことを教えてくれた子どもにも五コペイカ銀貨をあげて、行ってしまいました。
 この物語の語り部は、「私もその男の子に五コペイカやったが、この村に寄ったことも、それに使った七ルーブルも、もはや惜しいとは思わなかった。」と、結んでいます。

 シメオンを訪ねてやって来た「どっかの奥さん」が、ドゥーニャであることは、間違いないでしょう。
 ドゥーニャは「しばらく囲われたあげくにぽんと振り捨てられ」、「木賃宿にごろごろしてる連中の仲間入りをして、街路掃除でもしていようという浅慮女」たちと同じ運命に陥ることなく、ミンスキイに愛されて三人の子どもをなし、かつて自分に「ハンカチや耳輪を」くれた、身分高い「奥様がた」のひとりとなって、父のもとを訪れたのです。
 ミンスキイはシメオンに請け合ったように、ドゥーニャを見捨てるようなことはせず、その後もドゥーニャの幸福は続いたのです。

この書評の冒頭で、筆者は述べました。
「この短い物語のなかに、雄大な歴史の流れが、感じられる」、「たった三人の登場人物のそれぞれが、悠久なロシアの歴史の流れを、その一瞬を、みごとに体現して」いる、と。
以下にそのことを、もう少し詳しく述べてみましょう。

付論〜「駅長」その背景にあるもの

 この作品に登場する三人の主要人物――駅長のシメオン、その娘ドゥーニャ、ペテルブルグの若き驃騎兵士官ミンスキイ――、彼らの背後にあって、彼らの感情、彼らの思い、彼らの考え、彼らの意志……、そして、彼らの運命すらをも支配していたのは、ロシアの歴史、より精確に云えば、ロシアにおける商品経済の発展です。
 経済――商品経済の発展が、どうして個人の思い、感情、考え、意志、等々を支配できるのか、おおかたの人は、そのような疑問を抱かれることでしょう。
 その疑問にお答えしよう、と、云うのが、この付録の内容です。
 商品経済の発展とは、多くの商品が生産され、流通し、消費されるようになることです。
――なにを分りきったことを……。
 と、云わないで、もう少し、お付き合いください。
 そもそも商品とは、なんでしょうか。
 さまざまな意見、解釈、定義があるでしょうが、ここでは、それを生産した人以外の人によって消費されるために生産されたモノ、と、理解しておいてください。
 さて、生産されたモノ――生産物――が、たんに生産物であるにとどまらず、商品となるには、その生産物が、他の生産物と交換されなければなりません。
 この、他の生産物も、それとは違う、他の生産物と交換され、それを生産した人以外の人によって消費されるために生産されます。
 したがって、商品は、たがいに交換されなければ、少なくとも、交換を目的として生産されなければ、商品とは云えません。
 さて、商品が、交換を目的とした生産物である以上、当然に、その生産物と交換される、他の生産物を必要とします。その、他の生産物が、手近にあればいいのですが、なければ、あるところまで、その生産物を捜し求めねばならないでしょう。みずからの生産物を持って、その生産物と交換され、みずからが必要とする他の生産物を求めて、他の地に赴きます。
 流通の原初形態です。行商や交易、あるいは、貿易、などと呼ばれるものの、原初形態、基本形態です。
 流通が発展しますと、商品を媒介として、必要とする商品を入手するようになります。
 具体例としまして、Aと云う商品を生産した人が、Xと云う商品を必要としているとしましょう。
 AとXとを、直接交換できればいいのですが、実際には、なかなかそうは、まいりません。
 そこでAと云う商品を生産した人は、自分が生産した商品であるAを、とりあえず、Bと云う商品と交換します。Aの代わりにBを手に入れたAの生産者は、今度はそのBを、Cと云う商品と交換します。そしてそのCを、今度は、Dと云う商品と交換し……、その過程を繰り返して、やっと、Xと云う、自分が望んでいた商品を手に入れます。
 この過程を手軽にするために発生したのが、金銭――いわゆる“カネ”――です。
 金銭(カネ)は、あらゆる商品の共通項です。Aと云う商品は、かならずしも、他のあらゆる商品と交換され得るとは限りません。Bとなら交換されるかもしれませんが、Fとは交換できない、そんな場合が、往々にして発生します。
 しかし、金銭(カネ)は、あらゆる商品と交換され得るのです。金銭(カネ)が珍重される由縁です。
 話を戻しましょう。
 商品はその性質から云って、他の商品と交換されなければ、意味を成しません。商品は他の商品と交換され得るために、相手にとって、魅力のある生産物でなければなりません。その商品を手に入れたい、その商品を消費したい、そのような、人間の欲望をかきたてなければなりません。
 シメオンの駅舎を通過する身分高い「奥様」と呼ばれる人たちがドゥーニャに与えてくれるハンカチや耳輪、「旦那がた」と呼ばれる男連中の身装、それらはみな、それらを手に入れたい、と、思わせる、立派な商品です。
 魅力ある商品は、人びとに、それが豊富に存在し、手に入れやすく、消費されている地域――いわゆる都会への憧れを呼び起こします。
 ドゥーニャは駅舎を訪れる旅人たち――身分高い奥様や旦那がたと呼ばれる人たち――と接することによって、彼らとの会話や、奥様と呼ばれる身分高い女性がくれるハンカチや耳輪などを通して、それらの商品を得ること、それらの商品を得られる生活にたいする欲望、都会への、そこでの生活への憧れをかきたてられます。
 豪華な服装や装身具、きらびやかな生活にたいする憧れなどは、いかにも軽佻浮薄、いかにもミーちゃんハーちゃんした感覚、と、しか、思えないかもしれません。
 それは、しかし、シメオンとおなじ感覚感情です。
 シメオンが生きてきた時代は、華美華麗を希まず、与えられた生活に満足し、慎ましやかに暮らしていくことが幸福であったような時代でした。
 華美華麗、贅沢な生活を望んでも、それは果敢ない、徒な望みにすぎません。
 運よくそのような華美華麗な生活、贅沢な生活に触れることが出来ても、それはほんの一時のことにすぎず、すぐに零落して、みじめな境遇に陥ることになる……。
 それがシメオンの生きてきた時代であり、それはそれで、真実でした。
 しかし真実は、時の流れとともに変容していくものです。
 シメオンの真実は、彼の娘ドゥーニャにとっては、もはや真実ではありませんでした。
 ドゥーニャが都会の生活に憧れ、ミンスキイの誘いに乗って、ミンスキイとともに都会――ペテルブルグ――に出て行こうとするその思いは、なるほど、軽佻とも思えましょう。浮薄とも評されましょう。
 しかし、そのドゥーニャのその思い、その感情は、商品経済の発展が産み出した、新しい思い、新しい感情です。
 ドゥーニャとて、やさしく、自分を愛してくれている父親との生活に、なんらの不平不満もなかったことでしょう。
 ドゥーニャがミンスキイとともに、長年住み慣れた我が家を離れようとしていたときに見せた表情――ミンスキイが「ついでに村はずれの教会まで送って行ってやろうと言い出した」とき、「当惑してたたずんでいた」、そのときに見せた表情、そして、「途々ずっと泣きどおしだったけれど、そのくせ好き好んで乗って行くような様子だった」、そのときの感情、それらはまさに、歴史の進展が、個人の肩に重くのしかかってきたときに、その重圧に耐える個人に芽生える感情です。
 いくら眺めてもながめ足りない、いくら賞でても賞できれないほどに、かわいがってくれた父親、旅人の理不尽な罵詈雑言や鞭に怯えて、雨が降ろうが、霙が降ろうが、馬を求めて、一軒一軒、近在の百姓家を探して回らなければならない、老いた父親を残して、旅立って行くのです。
 その心に哀惜未練の念が起らないはずはありません。
 しかし、そんな念、そんな思い以上に、商品の魅力がもたらす、都会への憧れは、強いものなのです。
 老いた父親と、その愛情に育まれた生活への訣別、華やかな都会での生活にたいする憧憬、その葛藤が、ドゥーニャの感情を困惑させ、出立に際しての当惑した表情、「途々ずっと泣きどおしだったけれど、そのくせ好き好んで乗って行くような様子」として、現れたのです。自分ではどうすることもできない、相反する感情の葛藤がきわまったとき、堰を切った涙として現象したのです。
 ミンスキイは、ロシアの商品経済の発展が産み出した、新しい個性です。
 商品経済の発展は、当然に、商品の流通を促進し、それにともなって、人びとの流通――交流をも、促進させます。
 その結果として生じる人と人との接触は、いままでになかった新しい感情を、人びとの胸の内に、生じさせます。
 商品経済が発展する以前の社会組織は、いわゆる、封建社会、と、称されています。
 封建社会は、人びとを、そのたずさわる職業によって固定し、それを世襲とすることによって、支配層の安定を期し、ひいては、社会の安定を期そうとします。
 人びとは法によってその職業を固定され、その職業を世襲とすることを余儀なくされ、住む地域すら、定められます。さらには、そのたずさわる職業ごとに社会での関係を秩序づけられます。いわゆる、身分制度、門閥制度、と、云うものです。
 商品経済の発展は、そのような封建社会を、根底から破壊します。
 誤解のないように申し添えておきますが、封建社会において、商品の生産や流通、消費が、まったくなかったわけではありません。封建社会においても、商品は生産され、流通し、消費されていました。ただ、その生産力が低かったために、各種のモノが滞りなく生産されるよう、生産者の職業を固定し、その職業を世襲と定めざるを得なかったのです。
 およそ、封建社会のみならず、いかなる社会においても、また、支配層であれ、被支配層であれ、より豊かな生活を指向するのは、人間本来の欲望――本能、と、云っても、いいでしょう。動物でも、よりおいしい獲物、より多くの獲物を指向するものです。
 封建社会では、貢納(税金)と生産物の自家消費を経済の建前としています。しかし、より豊かな生活を指向すれば、当然、より多くのモノを生産しようとし、また、生産させようとします。そうして、より多くのモノが生産され、その生産物が、貢納や自家消費の限界を超えるようになりますと、その超過分――余剰物は、商品と化して、流通するようになります。むろん、納屋や倉庫などで死蔵され、腐敗したり、錆壊したりする場合もあるでしょうが、それよりも、商品として流通させ、他の商品と交換するほうが、はるかに得である――欲望を満足させる――ことは、だれにも明らかです。
 生産力が発展し、ますます多くの生産物が商品となり、その流通が活発になりますと、人の往来交流もまた、活発になります。当然です。商品がそれ自体で移動するわけではないのですから。
 封建社会の下に制限された居住地域から離れ、実際にその人びとと触れ合えば、人間が拵えた身分差などは、雲散霧消します。もちろん、長きにわたって植えつけられた観念――ここでは、身分差の自覚――が、一朝一夕に雲散霧消するわけではありません。実際、シメオンの駅舎を訪れる旅人たちは、遠慮会釈もなく、腹立ちまぎれに、怒声と革鞭を浴びせかけ、無理難題を押し付けます。それがふつうのことであり、旅人もシメオンも、それを不条理とも、理不尽とも思いません。それが、封建社会における人びとの意識です。
 ミンスキイは違いました。なるほど、ミンスキイも最初は、怒声と革鞭を振り上げようとしました。しかし後には、シメオンやドゥーニャ相手に冗談口を叩いたり、旅人たちと話したり、旅人たちの駅馬券を駅逓簿に写しとったりするようになりました。
 当時のロシアにあっては、驃騎兵士官と云えば、貴族も同然の身分です。そのミンスキイが、戯れにもせよ、駅長と云う、最下等の官等をもつ人間の仕事を引き受けるのです。
 シメオンはこのミンスキイをすっかり気に入り、彼が出立するに際しては、彼と別れるのを、辛く思うようにまでなりました。
 またミンスキイは、ドゥーニャを棄てることなく、ドゥーニャはミンスキイに愛されて三人の子どもをなし、かつて自分にハンカチや耳輪をくれた、身分高い奥様がたのひとりとなりました。
 個人の愛情が、封建社会の作り出した「身分」の壁を打ち壊したのです。
 なるほど、それは、偶然だったのかも知れません。たまたま、ミンスキイが、身分差などにこだわらない、やさしい人間だったのかも知れません。
 しかし、そうでないことは、つたないながらも、本論で述べてきたところです。
 ドゥーニャの欲望、憧れも、ミンスキイのやさしさ、愛情も、ロシアにおける商品経済の発展がもたらしたものなのです。
 それでは、シメオンの場合は、どうでしょうか。
 シメオンにも、この、老いた駅長にも、ロシアにおける商品経済の発展がもたらした影響は及んでいます。
 精確に云いますと、シメオンには、この老いた駅長には、ロシアにおける商品経済の発展がもたらした影響は、及びませんでした。
 妙な比喩ですが、我が国の明治維新期において、多くの下級士族たちが時勢に順応し得ず、没落していったようなものです。
 悲しいかな、シメオンは時勢に順応するには、あまりに年老いてしまっていました。
 年をとると、時代についていけなくなっていく、とは、よく聞く言葉です。
 それではなぜ、人は年をとると、時勢についていけなくなるのでしょうか。
 思いますに、個々の体験が長年にわたって蓄積され、経験として強固に確立されるためでしょう。その生活が変化に乏しく、単調であればあるだけ、おなじ体験が繰り返され、積み重なり、それだけ、強固な経験となります。
 余談ですが、我らが仲間の哲やんは、「経験とは、体験が積み重なったものである」と、述べています。
 そして、「経験を基礎として、それに知性の働きが加わり、さまざまな思惟様態――意見、意志、考え、判断、信念、思想なんか――が産まれる」と。
 閑話休題。
 生活のなかで蓄積され、経験として固まった体験に知性が働いて生じた観念は、人生観、処世訓、生活の知恵、などと、呼ばれます。
 それらの観念――人生観、処世訓、生活の知恵、など――の基となる経験が強固であればあるだけ、それらの観念もまた、強固になります。長い年月を経て強く固められたそれらの観念――人生観、処世訓、生活の知恵、等々――は、容易なことでは改められません。そして、新しい事象、時代の変化について行けなくなります。
――最近の若い者は……。
――昔はよかった……。
 そんな思いが脳裏をよぎったり、口を突いて出るようになります。
 それだけならまだいいのですが、時代の流れは、ときとしてそんな個人に、残酷きわまりない、痛烈な打撃を与えます。
 シメオンは、ミンスキイとともに旅立ったドゥーニャを、「うちの迷える子羊」と考え、自分はきっと彼女を「連れもどせることになるだろうよ」と、信じます。
 利発であるドゥーニャが、自分の駅舎の壁に飾ってある安っぽい絵草子の放蕩息子のように、軽佻浮薄な(と、シメオンには思える)都会でのきらびやかな生活に憧れを抱くはずがない、と、シメオンは固く信じています。
 年老いたシメオンには、時代の流れ――ロシアの商品経済の発展がもたらした、ドゥーニャの欲望も憧れも、とても理解できるものではありません。
 身分の差を考慮しないミンスキイの個性も、シメオンには、理解できないものです。
 ミンスキイがいくら、「この私がドゥーニャを見捨てる、なんていうことは思わないでくれないか。あれはこの先も幸福なはずだ、これはきっぱり請け合うよ。」と云っても、とても信じられません。
 シメオンは、やがてドゥーニャも見捨てられ、「木賃宿にごろごろしてる連中の仲間入りをして、街路掃除でもしていようという浅慮女」と、同じ運命に陥るであろうことを、信じて疑いません。
 なるほど、シメオンがその生涯の大半を過してきた時代では、そうだったでしょう。ミンスキイのような人間――ミンスキイのような身分の人間は、シメオンのような十四等官の人間なぞ、人間とも思わず、感情のおもむくまま、遠慮会釈なしに、怒声と革鞭を振り上げ、その娘なぞ、しばらく囲ったあげくにぽんと振り捨てても、なんら良心の痛痒も感じないような人間だったでしょう。
 実際、ペテルブルグと云う都会には、「旅の悪戯者に誘き出されて、しばらく囲われたあげくにぽんと振り捨てられ」、「木賃宿にごろごろしてる連中の仲間入りをして、街路掃除でもしていようという」ていたらくになった女たちが、無数にいます。
 それでも、それが解っていても、ドゥーニャのような娘たちは、都会に憧れ、都会に出て行こうとします。その都会の魅力、ドゥーニャのような娘たちを――あるいは若い男たちをも――惹きつける都会の魅力が、商品経済の発展によって醸成された魅力なのです。
 そしてまた、ドゥーニャを見捨てなかったミンスキイの個性が、おなじくロシアの商品経済の発展が産み出したものであることも、上述したとおりです。
 たしかに、「旅の悪戯者に誘き出されて、しばらく囲われたあげくにぽんと振り捨てられ」、「木賃宿にごろごろしてる連中の仲間入りをして、街路掃除でもしていようという」ていたらくになる女たちは、この物語の後にも、数多く醸成されるでしょう。商品経済が発展するにつれて、それだけ都会への憧れは増し、強くなり、都会へ出て行こうとする若者は、ますます増えるでしょう。そうして都会に出て行き、零落して行く人びとも、増えていくでしょう。
 しかしその一方で、ドゥーニャのように、身分高い立派な奥さま、となるような人間も出てきます。
 ミンスキイのように、十四等官の娘であるにもかかわらず、そんな身分差など歯牙にもかけず、ひとりの人間を、ひとりの人間として愛するような人間も出てきます。
 それが、商品経済の発展が個人に及ぼす成果です。
 シメオンにはそのことが理解できません。シメオンは、ドゥーニャもやがて、ミンスキイに見捨てられ、「木賃宿にごろごろしてる連中の仲間入りをして、街路掃除でもしていようという浅慮女」と同じ運命に陥るであろうことを信じて疑わず、「ときどきドゥーニャも成れの果てにそんなふうになるのじゃあるまいかと思うたびに、罪深い話ですがつい私は、いっそあれが死んでくれれはいい」とまで、思うようになります。
 そう確信していても、シメオンには、どうすることもできません。いみじくもミンスキイが云ったように、「いったん覚えた味」、都会でのきらびやかな生活は、忘れられるものではありません。しかもそれは、ドゥーニャが夢見、憧れ、望んでいた生活なのです。そのうえ、ドゥーニャがミンスキイに愛され、いかに幸せであるかは、シメオン自身が、その目で見た86ところです。
 そんなドゥーニャを無理矢理連れ戻し、元の生活に戻しても、その生活は、「紛れもない受難者」の生活、「ほんとうの苦役」であるような生活です。いったん都会でのきらびやかな生活、ミンスキイの愛情を受けた、幸せそのものの生活――しかもその生活は、かつて夢見、憧れ、望んでいた生活――を送ったドゥーニャにとっては、かつての暮らしに戻ることは、それこそ、二重にも三重にも、辛く、悲しいことになるでしょう。その生活は、ドゥーニャにとって、「木賃宿にごろごろしてる連中の仲間入りをして、街路掃除でもしていようという」生活と変らないものでしょう。いえ、たとえ「木賃宿にごろごろしてる連中の仲間入りをして、街路掃除でもしていようという」生活でも、ドゥーニャには、そのほうが好ましく思えるでしょう。
 なるほど、「木賃宿にごろごろしてる連中の仲間入りをして、街路掃除でもしていようという」生活も、「紛れもない受難者」の生活、「ほんとうの苦役」であるような生活であることに変わりはありません。しかし、おなじ「紛れもない受難者」の生活、「ほんとうの苦役」であるような生活ならば、いったん都会での生活を経験した、ドゥーニャのような人は、都会での生活を選ぶでしょう。
 それほどまでに、都会の魅力――あらゆる商品が集積し、販売され、消費される都会での生活は、強いものなのです。
「ちょっと待てよ」と、云う声が聞こえてきます。「なるほど、都会での生活はいいものだろうよ。でも、みんながみんな、都会にしがみついてるわけじゃないぜ。若い人たちでも、都会での生活を離れて、田舎に戻って、充実した生活を送ってる人たちはたくさんいるじゃないか」
 と、その声は云っています。
 もっともです。しかしそれは、商品経済が発展して、田舎も都会化し、あるいは田舎にも都会への発展の可能性が芽生え出してきた時点において、現象することです。
 この作品の中の時代は、まだそのような時代ではありません。特定の地域が、ようやく都会として、成立しだした時代です。歴史の観点から云えば、封建社会が崩壊し始め、新たな時代が開けようとしていた時代なのです。そのことを念頭に置いておかなければなりません。
 閑話休題。
 シメオンは、もはや、ドゥーニャが求める幸せと、自分が信じる幸せとが、まったく違ったものであることを理解しました。理屈ではなく、「流行の粋をつくした装いで、さながらイギリス鞍に横乗りになった乗馬婦人のような姿勢をして」、「優しい眸をミンスキイに注ぎながら、男の黒い捲毛を自分のきらきら光る指に巻きつけている」、「これほど美しく見えたことはかつてない」ドゥーニャの姿を、実際に自分の目で見て、理解したのです。
 強烈な体験でした。残酷な体験でした。歴史がシメオンに与えた、残酷な体験でした。
 シメオンには、そのような幸せを、我が娘、ドゥーニャに与えてやることはできません。
 シメオンがどんなにドゥーニャを愛し、かわいがっても、「いくらながめてもながめ足りない、いくら賞でても賞できれない」ほどかわいがっても、シメオンには、我が娘、ドゥーニャが望み、求める幸せを与えてやることはできないのです。
 そして、我が娘、ドゥーニャが、「いくらながめてもながめ足りない、いくら賞でても賞できれない」ほどかわいがっていた我が娘が、やがてはミンスキイに見捨てられ、「木賃宿にごろごろしてる連中の仲間入りをして、街路掃除でもしていようという浅慮女」と同じ運命に陥るであろうことを信じていながらも、どうすることもできないのです。
 なんと残酷なことでしょうか。なんと悲しいことでしょうか。
 歴史が与えた残酷な仕打ち、その悲しみが、シメオンを酒に走らせます。かつては「粗末ながらに小ざっぱりした住家」、「鳳仙花の鉢植えや、色模様の帳のかかった寝台や」は、「窓べにはもう花はなくて、あたりのものはみんな古色蒼然と、荒れるに任せた様子」になってしまいました。
 シメオンは、酒の飲み過ぎで、死んでしまいます。
 それほどまでに酒に溺れながらも、子どもには慕われていたようです。
 いまではビール醸造人の家となっている、かつてのシメオンの駅舎を訪ねてきたこの物語の語り部は、そのビール醸造人の息子――襤褸をさげた赤毛で片目の男の子――の案内で、村はずれの墓地に赴きます。
 その道すがら、亡くなった駅長、シメオンのことを訊ねます。
 
「お前、死んだ駅長さんを知ってたかい?」
「知ってたとも! 俺ら風笛のこしらえ方を教えてもらったっけ。小父さんが居酒屋から出て来るとな(天国に安らわせたまえ!)、俺らはみんなであとからくっついてって、『小父さん、小父さん! 胡桃をくんな!』って言うんだ。するとみんなに胡桃を分けてくれるんだよ。しょっちゅう俺らと遊んでたよ。」

 みずからの無力を思い知らされ、歴史の流れに取り残されたシメオンには、子どもたちとの交流が、唯一の心の慰めだったのでしょう。
 子どもたちには、まだ、商品経済の発展の影響は及んでいません。昔ながらの風笛で遊んだり、胡桃を欲しがったり、商品経済の発展から取り残されたシメオンにとっては、心を通わせられる存在です。
 「子どもたちには、まだ、商品経済の発展の影響は及んでいません。」と、記しました。そう、「まだ」なのです。シメオンを慕っている子どもたちにも、やがて、商品経済の発展がもたらす影響は及んでくるでしょう。シメオンは、商品経済の発展から取り残された人間です。しかし、子どもたちは、これから、商品経済の発展の洗礼を受ける人間です。
 シメオンにも、そのことは解っていたでしょう。厳しい“現実”によって、もはや自分が歴史の流れ――商品経済の発展――から取り残された、無力な人間であることを体験したシメオンには、理屈ではなく、実体験として、そのことが理解できたことでしょう。
 この物語の語り部は、シメオンの墓に案内してくれた子どもから、ドゥーニャと思われる「きれいな奥さん」が、「六頭立ての箱馬車で、小っちゃな坊ちゃん三人と、乳母と、真黒な狆を連れてやって来た」ことを聞きます。
 この物語の語り部は、シメオンの墓に案内してもらい、ドゥーニャがこの墓を訪ねてきたことを話してくれた男の子に、「五コペイカをやったが、この村に寄ったことも、それに使った七ルーブルも、もはや惜しいとは思わなかった。」と、結んでいます。
 それはただたんに、ドゥーニャがミンスキイに見捨てられ、「木賃宿にごろごろしてる連中の仲間入りをして、街路掃除でもしていようという浅慮女」と同じ運命に陥ることなく、かつて自分に「ハンカチや耳輪を」くれた、身分高い「奥様がた」のひとりとなり、それでも自分をかわいがってくれた、できるかぎりの、最大の愛情を注いでくれた父親のことを忘れず、そのもとを訪ねてきたことを、嬉しく思ったばかりではないでしょう。
 ドゥーニャがミンスキイに見捨てられることなく、立派な「奥様」となって、幸せに暮らしていることは、これから、そのような人たち――ドゥーニャのような人たち――が、ますます多くなってくるであろうことを、予感させます。
 歴史の流れは、シメオンのような人々を多く作り出す一方で、ドゥーニャやミンスキイのような人々――人間が創り出した身分などを歯牙にもかけず、人間を、ひとりの人間として、愛し、愛されるような人々――をも、作り出します。
 都会に憧れ、都会に出てきても、「木賃宿にごろごろしてる連中の仲間入りをして、街路掃除でもしていようという」生活に陥る人々も、少なくなっていきます。
 それが、歴史の発展であり、商品経済の発展がもたらす成果です。
 この物語の語り部は、ドゥーニャ、ミンスキイ、シメオンの、それぞれの人生によって、そのことを理解したからこそ、この物語を書きとどめ、また、シメオンの墓に案内してくれた子どもに、「五コペイカをやったが、この村に寄ったことも、それに使った七ルーブルも、もはや惜しいとは思わなかった」のでしょう。

   おわりに

 いかがでしたか?
 「はじめに」で述べた、“名作とは、その話のなかに、歴史の流れが感じ取られる作品の事である。”と云う意味が、少しでも、お解りいただけましたでしょうか。
 重箱の隅をつつくような細かい詮索に、ウンザリされたかたもいらっしゃるかも知れません。
 また、文学作品の理解のために、歴史――とりわけ、経済の発展形態――を必要としたことに、面食らわれたかたもいらっしゃることでしょう。
 しかし、「はじめに」で述べましたように、“名作とは、その話のなかに、歴史の流れが感じ取られる作品の事である”以上、その作品をより深く理解するために、その話のなかに流れる歴史をも、理解しなければならないのは、当然でしょう。
 逆に申しますれば、その作品のなかに流れる歴史を理解することによって、その作品の理解がいよいよ深まるような作品こそが、“名作”と賞されるにふさわしい、とも、云えるでしょう。
 なお、ここで一言しておきますが、“理解”、あるいは“理解する”と、云いますと、なにやら、無機質な、味気ない、頭だけでの把握、と、思われがちですが、けっしてそんなことはありません。
 この小論をお読みいただいたかたなら、お解りいただけたことと思いますが、より深く“理解する”ことによって、より深い“感動”が生まれるのです。
 なるほど、たとえロシアにおける商品経済の発展を知らなくとも、最愛の娘ドゥーニャを失ったシメオンの悲しみ、父のもとを離れ、ミンスキイとともに旅立ってゆくドゥーニャの揺れ動く心、しがない十四等官の娘であるドゥーニャを見捨てなかったミンスキイのやさしさ、この物語を聞き知った語り手の想いなどは、充分な感動――あるいは共感――を、わたしたちに与えてくれるでしょう。
 しかし、その背景をなす歴史の流れを知れば、その感動は、よりいっそう、深まるでしょう。
 この小論を草したのも、そのことを実証せんがためなのですが、はたしてその目論見が功を奏したかどうかは、この小論を読んでいただいたみなさんのご判断を俟つのみです。
| 築山散作 | 評論もどき | 18:14 | - | - |
針供養の日のひとりめし(昼-弁当)
麦飯(茄子のからし漬け)、甲子園弁当、菜の花のからし和え


一時は、どうなるか、と、危惧していたが、見事に(?)お菜を消費することが出来た。余ることなく、足りぬことなく、キッチリ消費しきった。なかなかに気分の好いものである。
甲子園弁当の味付けも上手くいき、菜の花のからし和えも味付けが固定できるようになってきた。
そんなわけで、来週の献立であるが、今週が(豚コレラに罹患していない)豚肉だったので、来週は、鶏肉か魚肉にしよう、と、考えている。どちらにするかは、買物に行ったときの気分次第、で、ある。
それにしても我ながらリッパになったなぁ、と、思うのは、以前ならば、献立を確定してからでないと、買物ができなかった。店先で食料品を見ただけでは、自分に調理できるかどうか、どんな献立が料理れるのか、判断がつかなかったのである。それがいまでは、大まかな献立を考えておけば、食材と売値次第で、臨機応変に、当初の予定を変じて過たぬようになったのである。その成果が来週の献立にどう活かせるか、我が秘かなる愉しみである。
さて、明日から3連休であるが、例年に比べて温暖だった今週と違い、また冷え込みがお戻りになられるそうである。
みなさまがたには、体調管理にご留意くだされて、愉しい3連休をお過ごしになられますように!
それではまた来週、元気にお会いいたしましょう(^_^)/
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 20:06 | - | - |
針供養の日のひとりめし(朝)
トースト(6枚切り×2枚)、半熟卵(2個)、プレーン・ヨーグルト、野菜ジュース、バナナ(2個)、みかん(2個)


今日は“針供養の日”である。
Wikipediaによると、“折れた針を豆腐やこんにゃくに刺して供養し、裁縫の上達を願う行事”とあるが、たいていの日本人なら、このことはご存知だろうと思う。
と、記してから思ったのだが、今日び“たいていの日本人”は、針仕事など、しないのではないだろうか。なお、ここで云う“針仕事”とは、鍼灸師や衣類の仕立工場での仕事などの意味ではない。家庭内で行うボタン付けや衣服の繕い、つぎあて、穴かがりなどの裁縫のことである。
こう記していまさらながらに思うのが、今日びの家庭では“針仕事”などはしないのではないだろうか、と、云うことである。パッチワークや和裁洋裁など、いわゆる手芸をしている人はいるにしても、それらは“趣味”であり、”針仕事”ではなかろう。そう云えば、ミシンを使っている、などと云うことも聞かなくなった。
昭和のTVドラマなどでは、炊事、食事、洗濯、裁縫などの場面が、家庭の雰囲気を表現する手段として、用いられていたものなのだが……。
やはり、昭和も遠くなりにけり、なのだろう。
もっともそのことと、わたいの食卓に並ぶ献立とには、なんらの関連もない。
裁縫とも手芸とも昭和の生活とも、まったく関係のない、いたって不器用な献立である。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 20:03 | - | - |
創政会発足の日のひとりめし(晩)
玉子麦飯、粕汁(鮭、鰯のつみれ、焼麩、大根、人参、白菜、白葱、生椎茸、蒟蒻、ニラ、もやし、貝割、薄揚げ)、菠薐草のお浸し、冷奴、納豆、味付海苔


甲子園弁当が明日の昼の弁当のお菜の分だけになった。
よほど料理った、と、思っていたが、存外それほどでもなかったようである。
今日の晩食に食べてしまって、明日の昼の弁当のお菜は、玉子焼きとウインナーと菜の花のからし和えにしようか、とも思ったが、ただでさえ食べ過ぎなのだから、1食1品減らすくらいでちょうどよかろう、と、考えたのである。
懼れていたとおり、粕汁が1食分弱、余ってしまった。しかしさいわいなことに、と、云ってはなんだが、明日あたりからまた冷え込みが強くなりそうなので、そのときのためにとっておいてもいいかも知れない。夜食のスープ代わりにする、とか。
栄養も満点で、身体も温まる。まったく粕汁は、冬場には重宝な献立である。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 22:26 | - | - |
創政会発足の日のひとりめし(昼-弁当)
麦飯(茄子のからし漬け)、甲子園弁当、菠薐草のお浸し


仕事場に置いておいた醤油がなくなっていた。勝手に棄てられたものか、間違って落っことして、どこかに転がって行ったのか、不明である。願わくば、後者であらんことを。
さいわいにして、菠薐草それ自体の味で、醤油なしでも美味しく食することはできたのだが、どうも心持ちが悪い。
それはさておき、菠薐草のお浸しは、去る日曜日に湯掻いて冷凍保存しておいたものである。
これを電子レンジで解凍すると、時間も長くかかり、水分が溢れてターン・テーブルがベチャベチャになる。そこで、今回は昨夜のうちに冷凍室から冷蔵庫に移しておいた。おかげで朝のあわただしい時間に時間がさほどかからず、水分が溢れすぎることもなかった……と、云うことは、若干は漏れ出してはいたが。
茄子のからし漬けも、順調に消費しそうである。これはこれでお気に入りなのだが、だからと云って、いつまでも置いておくわけにもいかない。やはり食べ物は、食べてなんぼ、なのである。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 22:24 | - | - |
創政会発足の日のひとりめし(朝)
トースト(6枚切り×2枚)、半熟卵(2個)、プレーン・ヨーグルト、野菜ジュース、バナナ(2本)、みかん(2個)


1985年(昭和60年)の今日、田中角栄を頂点とする自民党田中派内に、竹下登を会長とする派中派「創政会」(後の「経世会」)が発足した。
これによって、自民党領袖の世代交代が一気に加速した。
「創政会」自体は翌1986年(昭和61年)に解散したが、ただちに「経世会」が結成された。
以後、自民党内の一大勢力は「田中派」から「竹下派」に移り、いわゆる「経世会支配」を確立していくことになるのである。
ちなみに「創政会」と云う名称については、「みなから、ああせい、こうせい、と、云われているうちに、そうせい会になった」と、会長の竹下登氏がなにかで述べていた。
DAIGO氏がその竹下登氏の孫であることは、いまや有名である。
竹下登氏なる人物は、DAIGO氏の祖父である、と、云った方が、現在では通りがいいかも知れない。
もっともそのことと、わたいの食卓に並ぶ献立とには、なんらの関連もない。
派閥とも権力闘争とも、一切無縁の、いたって平和で穏やかな献立である。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 22:22 | - | - |
ブログの日のひとりめし(晩)
玉子麦飯、粕汁(鮭、鰯のつみれ、焼麩、大根、人参、白菜、白葱、生椎茸、蒟蒻、ニラ、もやし、貝割、薄揚げ)、甲子園弁当、菠薐草のお浸し、冷奴、納豆、味付海苔


去る日曜日に、菠薐草を湯掻いて冷凍保存しておいた。おかげでなんとか、今週一杯持ちそうである。
甲子園弁当も、あとは明日明後日の弁当分だけ、で、ある。
一昨日は粕汁を料理りすぎてしまったので、今回は心持ち控えめにしてみた。具材が多いとは思わないが、やはり最初に水を入れ過ぎているのだろうか。
具材だけでなく、酒粕にも、たんぱく質、ビタミンB1、B2、B6、葉酸、食物繊維、その他カリウムやマグネシウム、亜鉛などの豊富な栄養分が含まれている。
なるほど、粕汁は栄養満点の、いかにも冬にピッタリな献立、と、云えるであろう。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 22:02 | - | - |
ブログの日のひとりめし(昼-弁当)
麦飯(茄子のからし漬け)、甲子園弁当、菜の花のからし和え


ようやく先週の残り物が片付き、去る日曜日に料理った菜の花のからし和えを持参した。やはり緑の輝きがちがう!? 長く放置していた(わけではないが)ものは味が滲みてそれなりに旨いが、やはり菜の花特有の味わいやシャキシャキ感などは、さほど時日が経っていないもののほうがよい。やはり、料理って1週間以内が限度であろう。
甲子園弁当と筑前煮と、どうちがうのだろう、と、ふと思った。調べてみると、豚肉を使っている(甲子園弁当)か、鶏肉を使っている(筑前煮)か、くらいで、大したちがいはないようだった。そう云えば以前一度、筑前煮も料理ったことがあるはずである。今度料理ってみようか。と、思うと、今度は肉じゃがが料理ってみたくなる。う〜ん喜ばしくも、悩ましいところである。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 21:59 | - | - |
ブログの日のひとりめし(朝)
トースト(6枚切り×2枚)、半熟卵(2個)、プレーン・ヨーグルト、野菜ジュース、バナナ(2本)、みかん(2個)


今日は”ブログの日”だそうである。
Wikipediaによると“サイバーエージェントが2007年に制定”したのだそうで、“「ブ(2)ログ(6)」の語呂合わせ”なのだそうである。
制定されて12年になるが、ブログなるものが巷間に広まり、猫も杓子もブログなるものを記しだしたのは、もっと以前からのような気がする。
いまさら記すまでもないのだが、Wikipediaによると、“ブログ (blog) は、World Wide Web上のウェブページに、覚え書きや論評などを記すウェブサイトである。「WebにLogする」のウェブログ (weblog) をブログ(Blog)と略称する。執筆者はブロガー (blogger)、個別記事はブログエントリーと呼ばれる”、と、なっている。
日本では、“ 2002年(平成14年)頃から急速に普及し、2005年(平成17年)3月末の時点においては日本国内での閲覧者数(少なくとも月に1度はブログを閲覧している)が約1,651万人いると総務省から発表され”、“また、2004年(平成17年)9月から翌年9月にかけての利用者数の増加が特に顕著であり、この間に約2倍に増加したことによって2,000万人を超えたという調査報道もなされた”そうである。
今日びほとんどの人が、なんらかの形で、ブログに絡んでいるのではなかろうか。
現にわたいなども当初は、ブログなど自分には縁もゆかりもないもの、と、決め込んでいたが、いまではこうして、投稿し続けている。
他の仲間たちも、このブログのみならず、各自個別にブログを開設しているようである。もっともそれらのブログも開店休業状態で、このブログ同様、滅多に記事を投稿することもないようであるが……。
もっともそのことと、わたいの食卓に並ぶ献立とには、なんらの関連もない。
“ゆかいな仲間たち”のブログが開店休業状態であろうが、商売繁盛笹の雨状態であろうが、いっこうに影響のない、いたってさっぱりあっさりした、いつもながらの献立である。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 21:56 | - | - |
笑顔の日のひとりめし(晩)
玉子麦飯、粕汁(鮭、鰯のつみれ、焼麩、大根、人参、白菜、白葱、蒟蒻、生椎茸、もやし、ニラ、貝割、薄揚げ)、甲子園弁当、菜の花のからし和え、冷奴、納豆、味付海苔


先週料理った菜の花のからし和えがこれでなくなった。やれやれ、一安心である。ただ、羹に懲りて膾を吹いたわけではないが、去る日曜日に料理った青菜類が少なかったために、今週分あるかどうかが不安になってきた。また、こんなときに限って、冷凍保存のブロッコリも尽きている。なかなかうまくいかないものである。
菠薐草にしろ、菜の花にしろ、余ったら冷凍保存しておけばよさそうなものだが、それが、冷凍室の空間が狭かったり、味付けをしてしまった後だったりして、思うに任せないのである。要は、PDCAのCとAができてない、と、云うことになるのだろうか。もっとも現在ではPDCA自体、その存在価値が否定されているようではあるが……。
昨日今日と、この時季にしては暖かい日が続いた。だがありがたいことに(?)、晩方になると、この時季らしい気温に下がるので、やはり粕汁が旨い。
例によって今日の分は、昨日まとめて料理っておいたものである。今回も料理りすぎてしまったようである。どこで調整しなければなるまいが、はてさてどうなることやら……。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 22:09 | - | - |
笑顔の日のひとりめし(昼-弁当)
麦飯(茄子のからし漬け)、甲子園弁当、菜の花のからし和え


いよいよ献立が固定し、代り映えしなくなっている。
菜の花のからし和えは先週の残りの消化だし、茄子のからし漬けも、いくらなんでもそろそろ消費しつくさないとヤバいだろう。
茄子のからし漬けは、今週中の消化を目標としている。
甲子園弁当は好きなお菜なので(そもそも、自分で自分の嫌いなお菜などつくらない)、1週間続いてもなんら問題はない。
昨日も記したが、甲子園弁当の材料は、蒟蒻、ちくわ、椎茸、ゴボウ、豚肉、で、ある。味付けも、酒、みりん、薄口醤油に、少々のにんにく、と、和風そのものである。身体によろしいはずである。
まぁもっとも、どんなに身体によろしい食材を使用して料理ったお菜にしても、毎回毎回そればかり、と、云うのでは、それ自体、身体によろしくなかろう、と、思わないでもないのだが、それでも1週間くらい(実質5日間)なら、なんら問題なかろう、と、高を括っている。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 22:07 | - | - |
笑顔の日のひとりめし(朝)
トースト(6枚切り×2枚)、半熟卵(2個)、プレーン・ヨーグルト、野菜ジュース、バナナ(2本)、みかん(2個)


今日は“笑顔の日”であるらしい。
Wikipediaによると、“2と5の語呂合わせで、いつもニコニコと笑顔になっていようという日”だそうである。
なるほど、2と5でニコ、と、云うわけである。
命名の由来も意図もよく解るのだが、それにしても昨今は、とりわけ笑顔になれるようなニュースが少ない。テニスの大坂なおみ選手の活躍くらいのものであるが、それしても、いきなりマスゴミどもがもちあげ、しかもインタヴュウなどではかなり的外れな、無礼な質問をしたりしているのだから、興ざめ、と、云うか、呆れかえる、と、云うか、せっかくの彼女の快挙に水を差すことおびただしい。
国の基本統計の問題や資質を欠いた官僚閣僚政治家などの存在、そんな政治家が選ばれる民度の低さ、子どもに対するいじめ、虐待、殺人、それに対する学校や行政、関係機関や周囲の大人たちの無理解無反応、等々、いちいち数え上げればきりがない。
とても笑顔になれるような風潮ではない。
しかし、逆説になるが、だからこそ、こう云った、“笑顔の日”なるものの存在が基調になるのかも知れない。
みんなが笑顔でいられる社会であれば、そのような社会がわざわざ、“笑顔の日”など、制定する必要もないだろう。
もっともそのことと、わたいの食卓に並ぶ献立とには、なんらの関連もない。
笑顔とも涙とも、まったく関係のない、いたって平和穏和な献立である。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 22:05 | - | - |
ザ・ビートルズの日のひとりめし(晩)
玉子麦飯、粕汁(鮭、鰯のつみれ、焼麩、大根、人参、白菜、白葱、蒟蒻、生椎茸、ニラ、もやし、貝割、薄揚げ)、甲子園弁当、菜の花のからし和え、冷奴、納豆、味付海苔


久しぶりに甲子園弁当を料理ったら、料理りすぎてしまった……。
そんなわけで、カボチャの煮物をやめて、晩も甲子園弁当を食することにした。野菜が1種類減るが、やむを得ない。
以前にも記したが、この甲子園弁当なる献立は、母者のオリジナルで、昔、家族が甲子園に阪神タイガースの応援に行く際に、料理って持って行ったところから、命名されたのである。
今回は、母者に教えてもらったレシピを自己流にアレンジして料理った。
糸蒟蒻を、板蒟蒻を使った捩り蒟蒻に替え、ゴボウを入れた。
味付けは砂糖を抜き、酒とみりんと薄口醤油で味付けた。チューヴのにんにくと、唐辛子を少し入れてみた。以前に料理ったときよりもまろやかな味になったような気がする。
それにしても、自分ではさして多くの材料を使ったつもりはないのだが、かなりの量になってしまったのは困ったものである。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 22:03 | - | - |
ザ・ビートルズの日のひとりめし(昼-弁当)
麦飯(茄子のからし漬け)、甲子園弁当、菜の花のからし和え


今日は“ザ・ビートルズの日”だそうである。
Wikipediaによると「ファンがビートルズの愛称"Fab.4"を"Feb.4"(February 4)にかけたもの」なのだそうである。
英国のロック・バンド、ザ・ビートルズを知らない人はいないだろう。およそ半世紀ほど前のグループであるにもかかわらず、いまだにそのファンは多く、また、ミュージシャンのみならず、多くの人びとに影響を与え続けている。
そんな彼らの愛称"Fab.4"とは、"ファブ・フォー"と読み、FabはFabulousの略、「素晴らしい4人」あるいは「いかした4人組」という意味なのだそうである(Wikipediaより)。なるほど、うなずける言葉である。
彼らの楽曲はわたいも好きなのだが、彼らのウィットにとんだエピソードもまた、わたいの好むところである。
もっともそのことと、わたいの弁当の中味とには、なんらの関連もない。
楽曲ともウィットとも、まるで関係のない、いたって凡俗な献立である。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 21:58 | - | - |
自由の日のひとりめし(昼-弁当)
麦飯(茄子のからし漬け)、玉子焼き(2個)、ウインナー(5本)、菜の花のからし和え


ようやく卵が通常の量まで減った。1日5個消費したのだから、単純計算でも、25個、消費したことになる。25個と云えば、2パック半である。それでもまだ、1パック残っている。どれだけ買ってたんだ!? と、云う話である。
菜の花のからし和えが後5食分、菠薐草と椎茸と薄揚げの煮浸しが後1食分、残っている。菜の花のからし和えは、来週に持ち越しても大事なかろう。菠薐草と椎茸と薄揚げの煮浸しは、この土日で食するつもりである。
さて来週であるが、来週の献立はほぼ確定している。
献立、と、云っても、実際考えなければならないのは、昼の弁当の主菜だけである。
朝晩の献立は固定しているし、昼の弁当の副菜も一定している。
偏っている、と、云えば、云えないこともないだろうが、栄養素は偏在なく摂取できているはずである。
明日から来週にかけては、この時季らしくない気温の高さに恵まれるそうである。昨日は関東圏では降雪に見舞われたそうだが、こちらはいまのところ、平穏無事である。
この平穏無事が続くとともに、1日も早く、インフルエンザの猛威が鎮静するよう祈りつつ、みなさまがたには、よい週末を過ごされますように(^_^)/
また来週、お会いしましょう♪
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 20:19 | - | - |
自由の日のひとりめし(朝)
トースト(6枚切り×2枚)、半熟卵(2個)、プレーン・ヨーグルト、野菜ジュース、バナナ(2本)、みかん(2個)


今日は”自由の日”であるらしい。
と、云っても、なにも好き勝手していい日、と、云うわけではない。
これはアメリカ合衆国での記念日らしく、Wikipediaによれば“1865年のこの日、アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンが奴隷制全廃を定めるアメリカ合衆国憲法修正第13条に署名した”ことにちなんでいるのだそうである。
エイブラハム・リンカーン(最近では、昔のように、「リンカン」と表記するらしい)と云えば、アメリカ合衆国建国の父であるジョージ・ワシントンと並んで、歴代大統領のなかでも、1、2を争う人気と好評を得ているが、なんといっても、丸太小屋で生まれ、苦労の末に大統領となったこと、南北戦争と云う国難を乗り切ったこと、そして、黒人奴隷を解放したことが、その実績として評価されている。
Macによれば、そのリンカーンも、奴隷解放宣言を出すタイミングについては、苦慮したらしい。
次のようなジョークがある、と、云う。

奴隷解放宣言を出し渋るリンカーンに、奴隷解放推進派の側近が業を煮やして、早急に奴隷解放宣言を出すよう進言した。
リンカーンはその側近に、
「馬の尻尾を足と呼んだら、馬には足が何本あることになるかね」
と、問いかけた。
側近は呆気にとられて、
「それは大統領、5本でしょう」
と、答えた。
リンカーンは悲しげに首を振ると、
「それはちがうな。いくら馬の尻尾を足と呼んだところで、馬の足は4本しかないのだよ」

お分かりだろうか?
いくら呼び方を変え、いくら体裁を整えても、実質が変わらなければ、なにも変わったことにはならない、と、云うことである。
某国政府の政策施策を見るにつけ、このジョークが笑えないジョークになってくる。
いくら「民主国家」を標榜していても、実際に民主主義が民主主義として機能していなければ、しょせんは「馬の尻尾」なのである。
もっともそのことと、わたいの食卓に並ぶ献立とには、なんらの関連もない。
自由とも、解放とも、擬似民主国家とも、一切無縁の、平々凡々たる、いつもながらの献立である。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 20:14 | - | - |
お詫び
昨2017年の今日、2月1日の「ろ〜りぃの食卓」において、記事のタイトルを「フランツ・シューベルトの誕生日の日のひとりめし」としておりましたが、フランツ・シューベルトの誕生日はその前日の1月31日でした。
昨2017年1月31日の記事のタイトルも、「フランツ・シューベルトの誕生日の日のひとりめし」だったため、「どちらがほんとの誕生日なんだ」、「それともフランツ・シューベルトは2度生まれたのか」などと、混乱させたこと思います。
参考資料などで、人物の誕生日や命日などが2つあると、「2度生まれたのか?」、「2回死んだのか?」などと記していましたが、自分自身も同様の間違いをしておりました。
ここにお詫びし、あらためて、1月31日がフランツ・シューベルトの誕生日であることをお伝えいたします。
なお今後も、参考資料などで、人物の誕生日や命日などが2つあると、「2度生まれたのか?」、「2回死んだのか?」などと記していくつもりですので、その点は、あしからずご了承願います。
| ろ〜りぃ | 投稿者より | 10:32 | - | - |


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