2014.08.25 Monday
煙草が肺がんの……
煙草が肺がんの重大原因の一つであることは、いまや子どもでも知っている事実だが、その原因物質は、じつは、ニコチンではなく、タールなのである(ニコチンが有害物質であることに変わりはないが)。
タールが発癌の原因であることを立証したのは、日本人、山極勝三郎である。 彼はウサギの耳にコールタールを塗擦し続けると云う、単純で地道な作業を三年以上にわたって繰り返し、遂に世界初の人工癌の発生に成功した。 現在、人工癌の発生とそれによる研究とは、山極勝三郎氏の業績として称賛されている。 氏は1925年、1926年、1928年、1936年と、4度もノーベル生理学・医学賞の受賞者として推薦されたが、受賞には至らなかった。 1926年にノーベル生理学・医学賞を受賞したのは、デンマークの病理学者:ヨハネス・フィビゲル(英語読み:ヨハネス・フィビガー)である。受賞理由は「寄生虫発ガン説に関する研究」である。 しかしこの業績は、現在では否定され、ノーベル賞における三大ミス・ジャッジのひとつとして語られている。 日本人とノーベル生理学・医学賞とは、じつは深い関係、と云うか、因縁がある。 第1回のノーベル賞が授与されたのは1901年だが、このときのノーベル生理学・医学賞は、ドイツのベーリングに授与された。その授賞理由は、「ジフテリアに対する血清療法の研究」と云うものだった。 しかしベーリングの研究成果のほとんどは、北里氏によるものであり、ベーリングはその共同研究者にすぎなかった。ベーリングの「ジフテリアに対する血清療法の研究」自体、それ以前に北里氏が行った破傷風菌純粋培養法(破傷風菌だけを取りだすことに、世界で初めて成功した)、破傷風菌抗毒素の発見、さらに血清療法の開発と云う業績を模したものだった。 北里氏も第1回ノーベル生理学・医学賞の受賞者として推薦を受けたが、結果はベーリングのみの受賞となった。 日本人にいちばんなじみの深い医学研究者と云えば、なんと云っても、野口英世であろう。 2004年から発行されている千円札に、その肖像が用いられている。 氏の研究業績は、蛇毒の血清学的研究 (蛇毒の最初期の血清学的研究として評価されている )、梅毒スピロヘータの純粋培養、梅毒スピロヘータを進行性麻痺・脊髄癆患者の脳病理組織内で発見 (進行性麻痺・脊髄癆が梅毒の進行例であることを証明したもの)、梅毒スピロヘータの感染実験による梅毒の再現 (進行性麻痺患者の脳組織からウサギへの感染実験により麻痺を再現)、小児麻痺病原体特定、 狂犬病病原体特定 、南米・黄熱病病原体特定、ペルー疣とオロヤ熱が同じカリオン氏病の症状であることを証明、熱帯リーシュマニア症の研究 、トラコーマ病原体特定、と、多岐にわたっている。 それらの業績によって、氏もまた、ノーベル生理学・医学賞の受賞者候補に挙げられた。 しかしその業績の大半は、後に至って、否定されている。氏の生きていた世界は細菌学の世界であり、ウイルスによる発病に関しては、まったく、手も足も出なかったのである。 1945年のノーベル生理学・医学賞は、英国の細菌学者、アレクサンダー・フレミング氏に授与された。 授賞理由は、「ペニシリンの発見、および種々の伝染病に対するその治療効果の発見」である。 ペニシリンが青カビの一種で、それが偶然に発見されたことは、有名な話である。 偶然による産物だっただけに、これを実用化するのは、容易なことではなかった。 結局フレミング自身はペニシリンの精製には成功できず、ハワード・フローリーとエルンスト・ボリス・チェーンと云う二人の科学者によって、ペニシリンの精製、および効果的な製剤にする方法が開発された。ペニシリンが発見されてから十年が経った、1940年のことである。 ペニシリンは、第二次世界大戦中には薬剤として大量生産できるようになった。 大戦終了後の各国、とりわけ敗戦国では、ペニシリンは“奇跡の薬”と称され、多くの患者――とりわけ、栄養不足からくる結核患者――とその家族にとっては、渇望はなはだしいものがあった。 敗戦後のウィーンを舞台にした映画『第三の男』で、オーソン・ウエルズ扮するハリー・ライムが、ペニシリンの闇をやっていたことは、映画ファンならよくご存じのことだろう。 日本でも、新憲法の草案を起案していた当時の総理大臣:幣原喜重郎氏が、その重責と過労によって危篤状態に陥ったとき、ペニシリンの投与で一命をとりとめた、と、云う話がある。これは総理大臣と云う地位にあったからこそ可能であったことで、敗戦国の一般庶民には、とても手の出る薬ではなかった。 そう云えば、NHKの大河ドラマ『山河燃ゆ』でも、主人公に扮する松本幸四郎の弟役、西田敏行が、ペニシリンの闇をやって捕まるエピソードがある。 フィビゲル氏や、野口氏の業績のように、今日は栄光に輝いている業績も、時の流れのなかで、否定されていくこともある。 山極氏や北里氏、フレミング氏の業績のように、当時は歯牙にもかけられなかった研究成果が、後に至って、その真価を認知されることもある。 毀誉褒貶は浮薄なる世の常、蓋棺論定の言葉もある。 爾来、STAR細胞の有無をめぐって、騒動が続いている。 割烹着姿で研究を行う女性研究者を、あたかもアイドルの如くにもてはやしておきながら、STAP細胞の存在に疑義が呈されると、手のひらを返して罵詈雑言するマスコミの軽佻浮薄な態度は、冷静沈着に事実を報道すると云う本来の使命や責任、それにともなう矜持を忘却した、まさに、“マスゴミ”と呼ぶにふさわしい態度である。 煽動と阿諛追従に長け、分析綜合の能力に欠ける報道機関のことであるから、いまさら奇異とするにも足りないが、少しは「恥」と云うものを知ってもらいたいものである。 それまでは羨望渇仰憧憬していながら、フラれた途端に悪口を言い触らして歩く中学生と変わりない、と、云えば、いまどきの中学生にたいして、失礼であろうか? 吾人としては、個人のプライバシーをあからさまにすることを“報道の自由”と勘違いしているマスコミと称される低能児どもや、弱者を叩くことを以て正義の発露と思い込んでいる“庶民”と云う名の銀蠅どもの雑音に煩わされることなく、地道に研究を続けられ、いずれの日にか、みごとにSTAP細胞を作りあげることに成功していただきたい、と、願うものである。 |