2014.03.16 Sunday
『荒野の七人』論〜1.メキシコの寒村
作品の主な舞台となるのは、アメリカ合衆国との国境付近に位置する、メキシコの一寒村です。
その村に、カルヴェラ率いる山賊の一団がやってきます。彼らは拳銃やライフルなどで武装し、好きなときにこの村にやってきては、食糧や衣類など、自分たちの生活に必要な物資を略奪していきます。 村の地理的な位置と未熟な生産力が、長いあいだこの村を、山賊たちの略奪からまぬがれさせてきました。山賊たちにとって、遠路わざわざ略奪に来る労力に見合うだけの物資を生産し蓄積している村ではなかったのです。 いまでも村の状態は変わりません。村の外の状態が変わったのです。 カルヴェラたち山賊が、傍若無人に町や集落を襲って、金でもなんでも盗り放題にできたのは、昔のことになってしまいました。 いまでは首に賞金を懸けられて、漁りまわらなければならなくなりました。 アメリカ合衆国の西部地域は、とくに南北戦争の終結によって、飛躍的な発展を遂げました。交通手段が整備拡充され、交易が盛んになりました。物資の流通がはげしくなり、商人として、あるいは賃金労働者として、多くの人が行き来するようになりました。金銀、家畜、金銭などの富が、多く集積する町も生れるようになりました。 金銀、家畜、金銭などの富は、カルヴェラたちのような山賊にとって、魅力的な略奪対象であり、大いにその欲を刺激します。多くの富を集積する町は、彼らの、恰好の襲撃対象となります。 そのような町は、頻繁に略奪者たちの襲撃を被り、それ相応の損害を受けますが、反面、しだいに自衛の組織も整えられ、強固になっていきます。 蓄積された富は、カルヴェラたちのような略奪者たちを引き寄せる一方で、より性能のよい銃を購入し、より銃の扱いに巧みな人物を、より多く雇い、町の防備をより強固にすることを可能にします。 町は、個々に防備を強固にするばかりでなく、利害を共有する他の町々とも連繋して、互いの利益を守るようになります。さらには、自分たちの利益を侵害する者の首に賞金を懸けて、未然にその害を防ごうとします。 町を襲うことは、それによって得られるであろう富の大きさにもかかわらず、割に合わない、危険な行為となりました。 その変化が、カルヴェラをして、「世の中は変わった」、「世知辛い世の中だ」と、実感させます。 そのような状況のもとで、辺境に位置する生産力の未熟な村が、危険にさらされずにそこそこの物資を獲得できる、恰好の略奪対象となってきます。 カルヴェラたちは危険をおかすことなく、必要な物資を、必要なだけ略奪して、それを消費した頃にまたやって来て、また必要なだけ略奪していけばいいのです。 すべての物資を略奪する必要はありません。村の物資をすべて略奪してしまえば、それらの物資を消費し尽くしたとき、新たに略奪の対象となる村を捜さねばなりません。それよりも村人たちが生きていくために必要な分(おそらくは必要最小限でしょうけど)は残しておき、自分たちがまた略奪できるだけの物資を生産できるように、彼らを生きながらえさせておく方が効率的です。 得られる物資は、村の未熟な生産力からして、カルヴェラたちの欲望を充分に満足させるほどのものではありません。それらの物資が、危険や困難をともなわずに得られ、自分たちが生きていくために充分であれば、それで満足するように、カルヴェラたちの欲望自体も変わってきています。 「この村が」カルヴェラたちに襲われるようになったのは「偶然」です。カルヴェラたちにとっては、できるだけ危険が少なく、できるだけ多くの物資を略奪できるところなら、どこでもよかったのです。 しかし、この村がカルヴェラたちに「襲われるようになった」のは、合衆国西部地域の発展にともなう「必然」です。 合衆国西部地域の発展が、カルヴェラの首に賞金を懸け、かつては金でも何でも盗り放題だった西部の町から、発展の遅れた辺境の寒村へと追いやり、危険を冒して莫大な富を得ようとするよりも、危険さえなければそこそこの物資で満足するように、その欲望を変化させるのです。 カルヴェラたちにとって、危険も困難もなく、必要な物資を得られるこの村は、実に「いい村」であり、抵抗する力をもたない村の人たちは、「神さま」です。 カルヴェラたちが村を去ろうとするとき、激怒した一人の村人が、鎌を手に単身カルヴェラに立ち向かっていき、射ち殺されてしまいます。 カルヴェラは、村人が自分に立ち向かってきたことに憤ります。 カルヴェラは、自分が村を強力に支配していると認めています。カルヴェラにとって、村人が自分に立ち向かってくることは、村に対する自分の支配力が軽んじられているように思われます。カルヴェラには許せないことです。 「今度来るときは覚悟してろよ」 カルヴェラは捨て台詞を吐いて、村を後にします。 「今度また荒らされたら、自分で頸を掻き切って死んだ方がマシだ」 村人たちは追い詰められ、危機感を募らせますが、有効と思われる手だては思い浮かびません。 村を捨てて他所の土地へ移住しようとしても、家や田畑を持っていくわけにはいきません。見知らぬ土地で、またはじめから、大地を切り拓き、耕して、農耕に適するまでにしなければなりません。現在の生活状態に達するまでには、並大抵ではない苦しい労働を必要とするであろうことは容易に感じられます。その困難を堪え忍び、乗り越え、なんとか現在までの生活状態に達し得ても、そのときにまた、カルヴェラたちのような山賊の略奪の対象とならないとも限りません。むしろ、また略奪の対象となる確率のほうが高いのです。そのことを村人たちは、苦しい生活の中で、実感として捉えています。厳しい日々の生活が、そのことを実感として捉える感性を、村人たちに形成させています。 物資を全部隠してしまうことも、残してくれる分量を多くするよう頼んでみようとすることも、切羽つまったあまりの、苦し紛れの思いつきにすぎません。なんらの効果もないことは、すぐに感じ取られます。カルヴェラたちに逆らったら、あるいはその気分や感情を害しただけでも、その結果がどうなるかは、たったいま実例として、目の当たりにしたところです。 「なにもしないほうがいい」 ソテロが云います。 なにもせず、堪え忍んでさえいれば、なんとか現状は維持されます。少なくとも、生きていくことはできるのです。 生きていくことはできるでしょうが、それは、朝から晩まで働いても、食うものもろくに食えず、カルヴェラたちが必要とする物資を生産するためにだけ、カルヴェラたちのためだけに生きているような、生かされているとさえ、云えるような状態です。その状態すら、いつなんどき、どんな瑣細なキッカケで崩壊するか分かりません。生活のすべて、生命すらが、カルヴェラたちの恣意によって左右されるのです。 「なにもしないほうがいい」 「なんとかせにゃあだめだ」 どちらの思いも、安心して生活のできる平和な村でありたいと云う、共通の思いに基づいています。この思いは、生存に関わる、切実で強力な欲求です。安心して生活のできる平和な村の在り方を、現状以上のより良きものとして求めるのか、現在より酷くならないよう維持しようと考えるかで、その意見が分かれます。 多くの村人たちが、「なんとかせにゃあだめだ」とは思いますが、「じゃあ、どうする」と問われると、いい思案がありません。 村人たちは長老に相談します。 「戦え。立ち上がるんじゃい。戦え」 みんなで金になる物を出し合い、銃を買い、みんなでその使い方を習う。みんなでカルヴェラたちと戦う。戦う意志のある者だけが戦うのではなく、みんなが、村人全員が、一致団結し、協力し合い、一丸となって、カルヴェラたちと戦う。 それが長老の意見です。 村人たちは農耕を主な生業としています。村人たちは集住し、共同で大地を耕作することによって得られた生産物を、あるいは自分たちで消費し、あるいは他の必要な生活物資と交換することによって、生活を維持しています。村は、村人たちの生活の基盤です。 村を守ることは自分たちの生活基盤を守ることであり、自分たちの生活を守ることです。長老は、大自然を相手にした日々の労働も、カルヴェラたち山賊を相手に村を守ることも、ひとしく「戦い」と捉えています。むろん、大自然相手の戦いと、銃を手にした山賊相手の戦いとでは、全然違います。 長老にとっては、どちらの戦いも、自分たちの生活基盤である村を守り、自分たちの生活を維持するために、せざるを得ない戦いです。 自分たちの生活基盤である村を守り、自分たちの生活を守って維持していくための戦いであるからこそ、村人たち全員、みんなで戦わなければなりません。 それが長老の意見です。 |