2014.03.19 Wednesday
濱口雄幸
いくら無礼講と云っても、そこは日本国、おのずからなる礼儀作法がある。
部長はあくまで部長であり、主任はあくまで主任である。 課長はあくまで課長であり、平社員はどこまでも平社員である。 仕事を離れた歓送迎会、ゴルフ、カラオケ、親睦会と云っても、つねに肩書はついて回るし、またつけて回らねばならない。 平社員同士で酒を注ぎ合うのは、先に部長に酒をお注ぎしてからである。 料理に箸をつけるのも、肩書が上の人が食べてからである。 ゴルフでも肩書が上の人には勝ってはならないし、カラオケでも肩書が上の人がマイクを放してはじめて、下の肩書の者が歌えるのである。 これが伝統ある日本国における、正しい社外での付合い方である。 同じ会社の社員同士が社外で付き合う場合だけではない。 業種職種、勤め先を異にしている仲間内の付き合いでも、肩書は大事である。 ○○会社の部長さんには、××会社の係長さんは、ご機嫌を取り結ばなくてはならない。 たとえ○○会社と××会社の間に、なんの取引関係もなくても、である。 △△社の平社員は、○×社の課長のおっしゃることに従わねばならない。 たとえ△△社が製造業であり、○×社が食品会社であっても、である。 また、居酒屋やスナック、カラオケ店やゴルフ場の従業員は、つねにお客の肩書に気を配らねばならない。 いままで平社員と思っていた若造が課長であると判明したときには、「若造」ではなく「エリート」として接するよう、すみやかにその態度をあらためなければならない。 退職した年金生活者と思っていた高齢者が、取締役会長と知ったときには、言葉づかいはもちろん、身振り手振りの端々にいたるまで、迅速に気の使いようを改めねばならない。ぞんざいな言葉遣いを丁寧な敬語に改め、反り返っていた背骨を前に倒さねばならない。 肩書を大事にし、肩書に誇りを抱いている人たちに限って、いかにも「自分は肩書なんか気にしてないよ。肩書なんか関係ない。みんなおなじ、ひとりの人間と人間じゃないか」と云う風を装うのだから、接客業に従事する人たちの苦労も並大抵ではなかろう。 しかし、大切なことである。 接客業に従事する人たちばかりでなく、およそ社会人たるもの、必ず身につけるべき、「常識」と云うものである。 これこそが、日本が世界に誇る、礼儀正しさ、奥ゆかしさ、謙譲の美徳、お・も・て・な・し、等々の真髄である。 「お客さまはみな同じです。社長さんであっても、平社員のかたであっても、学生さんであっても、主婦のかたであっても、一切関係ありません。 お客さまはみな一様に、同じ“お客さま”として、接します」 と云う店もあろうが、もっての外である。 濱口雄幸と云う男がいた。 戦前の政治家で、昭和4年(1929年)から6年(1931年)まで、内閣総理大臣を務めた。 平成26年(2014年)3月現在まで、高知県出身の、唯一の総理大臣である。 官僚出身(大蔵省)ながらも、その風貌や謹厳実直な姿勢から、「ライオン宰相」として大衆に親しまれ、政財界人の信頼をも得て、強烈な存在感を示した。 濱口は待合政治、接待政治を嫌い、つねに剛直謹厳に事に処した。 そんな濱口が組閣することになったのは、第1次大戦後の深刻な不景気と、張作霖爆殺事件(満洲某重大事件)で内外の政治状況が険しくなっているさなかであった。 緊迫する情勢の下、濱口はわずか1日で内閣を組織し、当時の宮内大臣牧野伸顕をして「意気込頼母敷感じたり」と記せしめた。 決して見倣ってはならない人物である。。 なにしろこの濱口、大蔵省の官吏時代、大臣官舎の修繕を命じた上司に、「そんな無駄な予算はありません」と一蹴したため左遷され、長きに亘って地方勤務を繰り返させられた(干された)のである。 高知中学(当時)在学時も、好成績の故を以て、褒賞として三本の赤線で学帽を飾ることを許された(ちなみに、二等は二本、三等は一本)のに、彼はその帽子を、学校以外のところでは決してかぶらなかった。 ──成績の優劣など、学外では意味はない。 と、云うことだったのだろう。 とんでもない男である。 予算があろうがなかろうが、上司の命には従わねばならぬ。無駄であろうがなかろうが、大臣の官舎は修繕しなければならぬ。 褒賞は大いに吹聴して、大いに自慢して、しかも、自分はそんなこと、少しも偉いとは思っていないよ、と云う風をして見せなければならぬ。 こんなことだから、銃撃されて、死亡するのである。 銃撃された際、「男子の本懐」と呟いたそうであるが、濱口は日頃、「みずからの信ずるところを断行せば、たとえそれがために中途にて命を失うとも、男子の本懐である」と云う意味の言葉を口にしており、それが、東京駅で遭難した際に吐いた言葉として、巷間に広まったものらしい。 なんともカッコの悪い死に方ではあるまいか。 ねぇ、みなさん? |