2014.03.23 Sunday
「体験」と「経験」
むかし、親爺に云われたものである。
「道を歩いてて転んだとせえ。 『運が悪かった』ですますヤツもおる。 『こんなとこに石があるから悪いんや』と、思うヤツもおる。 『注意が足りんかった。今度から注意して歩こう』と、思うヤツもおる。 『この道は危ない。ちがう道を通ろう』と、思うヤツもおる。 『思いもせんかったことで怪我した。これからも、思いもせんことで怪我するようなことがあるかもしれんなぁ』と、思うヤツもおるやろ。 おんなじ目に遭うても、それをどう考えるかは人それぞれや。 どうせやったら、ちょっとでもマシなことを考えるようにせえよ」 とある漫画のなかに、こんなセリフがあった。 「どんなに経験をつんでも、それを知識として活かせなければ、たんなる時間のムダづかいにすぎませんよ」 叩き上げの警官にエリートのライバルが云うセリフである。 アリストテレスはその『形而上学』のなかで、このように述べている。 「同じ事柄についての多くの記憶がやがて一つの経験たるの力をもたらす」 「学問や技術は経験を介して人間にもたらされる」 そして、 「技術の生じるのは、経験の与える多くの心象から幾つかの同様の事柄について一つの普遍的な判断が作られたときにである。」 個々に遭遇する出来事は「体験」である。 多くの「体験」を総括してそれらに共通するものを抽出し、自覚したとき、はじめてそれは、「経験」となる。 そしてその「経験」をつみかさね、総括して、「技術」を得る。 アリストテレスはこの「技術」と云う語のなかに、我々が云う、「理論」、「法則」、「知識」の意味を含ませている。 人は毎日毎日、いやおうなく、多くの苦労や愉しみやつらさや喜びを感じながら暮している。 そのひとつひとつが「体験」である。 どうせなら、それらの「体験」を良き「経験」と為し、良き「技術」を身に付けたいものである。 |