2014.06.09 Monday
森雅裕氏の……
森雅裕氏の『あした、カルメン通りで』のなかに、
「言葉で遊ぶなんて、性的不能者のやることだ」 と云うセリフがある。 別に性的不能者ではないが、どうも言葉にこだわる性癖がある。 若き日に小説家を志していたせいかもしれない。 その若き日にも、すでに、「ムカツク」と云う言葉に対して、批難が浴びせられたことがある。 この言葉は本来、胸部や胃腸の不快感を表す言葉であったのだが、当時から、「腹が立つ」と云う意味で使われ始め、現在に到っている。 言語は生き物であり、その時代時代によってその語の示す意味内容は変遷していくものだと思っているから、そのことに異議や批難を加えるつもりはない。 しかしどうにも気に触る言葉、あるいは言葉遣いもある。 昨今の典型が、いわゆる「『ら』抜き言葉」である。 「食べられる」→「食べれる」 「見られる」→「見れる」 などである。 若い者が使っている分には、気に触りながらも、「これもまあ、一種の潮流か」と、思わないでもないのだが、イイ年をしたものが使っていると、「言葉遣いを知らぬヤツ」、「イイ年して若者ブッて」と、苦々しく思うこと、しばしばである。 「いやぁ、これはこれで、いい面もありますよ」と云う人もいる。「『可能』と『尊敬』を使い分けているんです」と云う。 なるほど、「食べられる」では、『可能』か『尊敬』か、アイマイである。 「食べれる」ならば、これは『可能』の意味であろうことはすぐに察知できる。 しかし、である。 「食べられる」の『尊敬』は、本来、「召し上がる」である。 「見られる」は、「御覧になる」である。 碌に敬語の使い方も知らないから、こんなことになる。 国際化とやらで、幼少時からの英語教育の必要性が喧しくなって久しいが、自国の文化や歴史(言語も文化であり、歴史の所産である)をキッチリと身に付けてこその国際化である。 徒らに外国に追従することが国際化ではない。 逆説めくが、真の“ナショナリスト”であってこそ、真の“インター・ナショナリスト”となり得るのである。 「英語より 敬語を使える 若者に」 |