2014.09.14 Sunday
安土城の……
安土城を再現する、と、云う、TV番組を観たことがあります。
と、云っても、昼飯を食べながらいいかげんに観ていただけなので、細かなことまでは憶えてないのですが……。 信長は日本史上類稀な英雄とされておりまして、自分も大好きな人物です。 (もっとも、友人づきあいをしたい、と、思うような人間ではありませんが) それで、幾許かの興味をもって観ていたのですが、やがてその幾許かの興味も失せてしまいました。 かすかに憶えているところでは、資料などによると、安土城には巨大な吹き抜けの空間があったらしいのですが、遺構から判断した建築学上の観点からすると、そのような吹き抜けの存在はあり得ようがないらしい、と、云うことでした。 それはともかくとして、興味が失せた理由の大半は、安土城の再現に際して、当時の城郭や、その後の城郭、安土城以前の城郭の構成をもって、安土城の再現を試みようとしていたことです。 以前のものからどのような影響を受けたか、以後のものにどのような影響を与えたか、同時代のものと比較類推することによってある程度の姿が想像されるだろう……。 歴史再現の手法としては常道と云えるかもしれませんが、この場合はまるで役に立たないでしょう。 早い話が、日本城郭史上、最初に天守閣を築いたのは、松永弾正少弼久秀が築いた多門山城だった、と、云われています。たとえ天守閣にどのような画期的な役割があったにしても、だからと云って、信長がそれを真似た、と、云う理由は、どこにもないでしょう。 また、信長の跡目を継いだ秀吉が築城した大坂城にしても、彼が安土城をモデルにして大坂城を構築した、と、云う証拠は、ないんじゃないでしょうか。 云っちゃあなんですが、信長はそのスケールが桁外れな人物です。 彼のような人物が現われ出たのは、日本史上の奇跡、と云っても、いいくらいです。 とうてい、秀吉や家康なんかの及ぶところではありません。 信長の考えを知ろうとするならば、同時代の、あるいは後世の、西洋人(当時の言葉で云いますと、南蛮人)に、その近似値を求めるべきでしょう。 現に、信長が部下を見出し、育成した方法は、西洋においてはナポレオンが創始して、プロシャが採用した、と、云われていますし、その戦闘方法も、昔の日本よりは、後代の西洋(特にナポレオン)の方法に近似している、と、云われています。 信長が宣教師たちを厚遇していたことは有名ですが、彼らから、地球は丸い、と聞き、 「その説、理にかなう」 と、うなづいた話も、これまた、有名です。 その信長が、古来の日本の城郭を模した城を、我が居城として建築するとは考えられません。 また、それほどの信長の考えを、後代の人間がよく理解し得たとも思えません。 信長が構築した安土城を再現しようと試みるならば、おそらくは宣教師たちによってもたらされたであろう、当時の西洋の城郭にこそ、その範を求めるべきでしょう。 |