2014.09.15 Monday
板張りの田舎の教室では……
板張りの田舎の教室では、子どもたちが一列に並び、自分の順番が来ると、先生の前に立って、一生懸命、自分の好きな歌を歌っていた。
教科書に載っている歌のなかから、自分の好きな、歌いたい歌を選んで、それを先生の前で、最初から最後まで歌う、それが今回の授業の主旨であり、音楽の試験のひとつだった。 彼の番になり、先生の前に立つと、先生は冷たく云った(少なくとも、彼の耳にはそう聞こえた)。 「あなたは一番だけでいいから」 先生がそう云った理由は、幼い彼にも分かった。彼が自分でも解かるくらいの音痴だったからである。 少なからず傷ついたが、それでも幼いながらに、 ――自分が音痴なんだからしょうがない。悔しかったら、ちゃんと歌えるようになればいいんだ。 と、みずからを慰めた。 晩飯が終わり、父は居間に寝っ転がって、テレビの時代劇を見ている。 母は台所で後片付けの洗い物をしている。 彼と妹は、テーブルの椅子に腰かけたまま、まったりとした気分に浸っている。 ふと、ある疑問がわいた。 「なあ、母さん、この歌、なんて歌やったっけ?」 彼はそのメロディを口ずさんだ。 洗い物をしながら、しばらくそのメロディに耳を傾けていた母親は、 「知らんなぁ。聴いたことないわぁ」 と、首を振った。 横で聞いていた妹が、口をはさんだ。 「兄ちゃん、その歌、これちゃう」 と、云って、口ずさんだ。 「そや、それやで」 とたんに母親は、 「ああ、それやったら知ってるわ。有名な曲やん」 ――彼が高校時代の、ある夜の一コマである。 したたかに飲んだ。痛飲した。 会計を終えて店を出ると、 「おう、カラオケ、行かんか?」 と、彼の友人は云いだした。 「おっしゃ、行こか」 彼が即答したのは、なにもカラオケ自体が目当てではなかった。 ふたりは同期で、趣味の面でも、考え方の面でも、妙に気が合い、ために入社してから現在にいたるまで、かくも長きに亘る付き合いが続いているのである。 二時間あまり、徹底して飲み、徹底して語り明かしたはずなのだが、二時間くらいで別れるのは、どうにも物足りなかった。 「しかしそれにしても」 ふたりでカラオケ・ボックスに入り、それぞれに飲み物と食べ物――正確に記せば、酒とつまみ――を註文すると、彼はソファにもたれて云った。 「男二人でカラオケっちゅうのも、イロケないな」 「まぁな」 「それにしても、おまえがカラオケ行こう云うとは、思わんかったな」 「いやじつはな」と、彼の友人は云った。「俺はたいがい、音痴でな。飲み会とか行っても、歌われへんねん。 ちょっとは練習しょう、思うても、まさか、男ひとりで、カラオケ屋なんか行かれへんやろ。 だれかと行こう思うても、相手が上手かったら、気が退けて行かれへんやん。 そこいくと、おまえは俺とおんなじくらい歌下手やから、気兼ねなく、来れるねん」 ――彼は納得せざるを得なかった。 「ど〜も、“ろ〜りぃ”でしたぁ!」 そう云って右手をあげると、集まった人たちから、あたたかい拍手があがる。 義理かもしれない。オアイソかもしれない。お世辞や、ヒヤカシ、お付き合いかもしれない。 しかし、そのつど思う。 たとえそうだとしても、その拍手は、とっても、あたたかい。 あれだけ下手だの、音痴だのと云われていた自分が、ひょんなめぐりあいからギターを触りはじめ、こうしてステージに出させてもらって、好きな歌を歌い、あたたかい拍手をもらえるまでになっている。 歌えるということは、なんと素晴らしいことか! 人とは、なんとあたたかいものか! そして、いまこの瞬間は、なんと幸せなものであることか! ステージでギターを弾き、歌うごとに、そう思わずにはいられない。 |