2014.10.14 Tuesday
2014年のノーベル物理学賞は……
2014年のノーベル物理学賞は、三人の日本人に授与されることが発表された。
赤崎勇氏、天野浩氏、中村修二氏の三名である。 10月7日(火)18時52分に配信された時事通信の記事には、「授賞理由は『明るく、省エネルギーの白色光を可能にした効率的な青色LEDの開発』。選考委員会は、世界の電力消費の4分の1が照明に使われる中、LEDが資源の節約に大きく貢献したと高く評価した。」と、ある。 陰惨でやりきれない、心が暗澹となる報道が続くなか、光り輝くような明るい報せ、いわゆるひとつの久々のビッグ・ニュースである。 さながら重苦しい灰色の雲間から、明るいオレンジ色の陽光が差したような心地がする。 日本中がこの報道に沸き立ち、快哉を叫んだのも無理はない。日本中の人々が、大いに誇りとしたのも理解できる。 しかし、と、ここで吾人は思う。 お三方のうち中村氏は、かつて所属しておられた会社で発明し、それによって得た特許に対する報酬があまりに少ないとして(報奨金2万円だったと聞き及ぶ)、会社を相手どって訴訟を起こされた。 この訴訟によって、会社がいかに、自己に属する研究者を冷遇しているかを知った人も少なくないであろう。 実際中村氏の、その発明に対して得た報酬額を聞いたアメリカの研究者たちは、氏のことを、「スレイブ・ナカムラ」(スレイヴ=奴隷)とあだ名して、同情を表した、と、云う。 この訴訟が起こったとき、日本の世論はどうだったであろうか? あまりに低すぎるその対価報酬にたいして、 「搾取だ!」 「企業横暴!」 「従業員をなんと思っているのか!」 との声を挙げたであろうか? なるほど、そう云った声も、皆無ではなかった。 しかしそれらの声を圧倒して世論を形成していたのは、 「金のために研究しているのか!」 「自由に研究させてもらっておいて、恩知らずだ!」 「学者(研究者)のくせに、金に汚い!」 と、云った声が大半だったように思う。 当時この訴訟沙汰を耳にして、江戸幕府が倒れてから130年以上が過ぎ、終戦からでさえ55年以上が過ぎて、平成の御世も10年を過ぎ、21世紀の幕が開いたと云うのに、日本にはいまだに、「滅私奉公」、「名利を顧みず、公に尽くす」、「尽忠報国」を美風とし、労力や成果に正当な対価を与えることを拒否し、労力や成果に正当な対価を要求することを、なにか俗悪なことででもあるかのように感じる心性が残っているのだな、と、情けなく思ったものである。 そのときふと思い出したのは、どこの国だったかは忘れたが、欧州か米国かの、軍隊での話である(アメリカ合衆国の南北戦争だったかな?)。 「ボランティア」と云うと、日本では「みずからの意志で無償奉仕を行う人や、それを行うこと」と、解されているようだが、英語圏では、「義勇軍」という意味もあるそうである。 で、その「ボランティア」=「義勇軍」として戦争に参加した人たちに、軍部は、徴兵した兵士たちよりも、「高い」給料を払ったそうである。 「みずからの意志で志願した」と云う志に、金銭を以て報いたわけであり、しかもそのことを奇異としない心性があるわけである。 我が友、遊冶郎が、 「ボランティア タダで使える 労働力」 と皮肉ったどこかの国の現状とは、エライ違いである。 “マンガの神様”手塚治虫氏は、その名著『ブラック・ジャック』のなかで、主人公ブラック・ジャックに、このように云わせている。 「人の命を救うために懸命に闘っている医者が、正当な報酬を得て、なにが悪い!」 中村修二氏は米国籍を取得され、「アメリカ合衆国市民」となられている。 その動機が、以上述べたような日本人の心性にアイソを尽かされたものだとは、思いたくない。 中村氏のノーベル物理学賞受賞は、日本人がノーベル賞を受賞した、と、云うことよりも、日本人のノーベル賞受賞に歓喜している日本人が、その受賞者がみずからの発明特許にかんして正当な対価報酬を求めて訴訟を起こしたとき、どのように反応し、どのような感想を抱いたか、それをいま一度顧みる機会を与えられたという意味において、慶賀し、祝福すべき出来事であると思う。 |