2014.10.14 Tuesday
「人間は生まれつき……」
「人間は生まれつき、知ることを欲する」
アリストテレスの『形而上学』の冒頭にある、有名な言葉である。 しかり、人間は生まれつき、知ることを欲する。 それはなにも、学校の学問だけではない。 耳学問、と、云うと、なにやら俗っぽいが、本来学問に、耳学問も、目学問も、口学問もない。 あるのは学問、森羅万象、この世の自然現象、人間社会のあれこれ、いままで人間が紡いできたあれこれ、人の心の不可思議さ……、それらを知ろうとする欲求、知りたいという欲求があるだけだ。 「この天地のあいだには、人智などの思いも及ばぬことが幾らもあるのだ」(『ハムレット』、福田恒存訳、新潮文庫)。しかし人間は、その限られた智嚢の全力を尽くして、それらの謎に挑むことができるのである。 自分が成し得たことと成し得なかったことを自分の弟子や子に伝え、その弟子や子は師匠先輩親の成果や教えを引き継ぎ、その成し得なかったことに挑み、さらにその自分の成し得たことと成し得なかったことをさらにその子や弟子に教え引き継ぎ……。 かくして人間は歴史を紡ぎ、進歩していく。 ただたんに本能のおもむくままに、食って寝て、交合して、子孫を残して……、それだけならば、他の動物と変るところはない。 「知りたい」 その欲求は、人間を人間たらしめる、人間に特有な欲求である。 明治維新政府が成立したとき、当時の文部省は「被仰出書」のなかで、このように述べている。 「人たるもの誰か学ばずして可ならんや」、「必ず邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん事を期す」 こんな話を聞いたことがある。 被差別部落に生れ、育った、女性の話である。 彼女はその出生のゆえ、小学校にすら行けず、幼い頃から子守や家事奉公などの働きに出され、以来働きづめで、結婚して子供をもうけ、家庭を築いても、字を読むことも、書くことも、出来なかった、と云う。 世が進歩し、便利になってからも、苦痛が耐えることはなかった、と、云う。 買物に、近所のショッピング・センターに行く。 「ポイント・カード、おもちですか?」 と、訊かれる。 「いえ……」 と、云うと、 「おつくりになられませんか?」 と、レジの人は屈託のない笑顔で云う。 “その笑顔が悲しい” と、彼女は云う。 レジの店員は、彼女になんの恨みもあるわけではない。 それは分かっている。 でも、それでも、そのレジの店員を恨みたくなる。 “字が書けないんです” “部落の人間なんです” 云えない言葉が、心を駆け巡る。 ぼくらは平然と云う。 「なんて名まえ? へぇ、どんな字? どう書くの?」 「どこに住んでんの?」 それに応えられない人がいる。 「ここにお名まえとご住所をご記入ください」 その言葉が、どれほど残酷な響きを帯びているか、ぼくらはふだん、考えない。 その彼女は、七十歳近くになってから、近所の識字学級に通いだした。 そこで初めて、自分の名まえを、「文字」で書いた、と、云う。 白い紙の上に書かれた、自分の手で書かれた、その「文字」を見たとき、彼女は、涙があふれて止まらなかった、と、云う。 「これがわたしの名まえ……。これが、わたしの、名まえ……。 きれいな名まえ……。とっても、きれいな、名まえ……」 マララさんが、2014年のノーベル平和賞を受賞なされた。 喜ばしいことである。 しかし、マララさんが本当に欲しいのは、ノーベル平和賞なんかではなく、女の子が、友だちと一緒に、なんの不安もなく、ワチャワチャ騒ぎながら、愉しく学問のできる環境なんじゃないだろうか。 マララさんが欲しいのは、ノーベル賞のメダルよりも、教科書、ノート、鉛筆、そして、みんなで楽しく学べる教室なんじゃないだろうか。 マララさんの受賞を喜ぶ「おとな」のみなさん、マララさんを祝福しているヒマがあったら、マララさんを祝福する心があったら、女の子が、友だちと、キャッキャ、キャッキャ云いながら、愉しく学問できる場所をつくってあげましょうよ。 それが、「おとな」の責任じゃないですか。 |