2014.10.26 Sunday
勉強、学問、研究
むかし、「♪ べんきょうしま〜っせ、引越のサ○イ」と、云うCFがあった。
いかにも商人の町大阪らしいCFで、当時はかなり流行ったものだ。 「勉強」と云うと、たいていの人は、学校や塾での授業、家での予習復習、宿題などを思い浮かべることだろう。 ところが、言葉の本来の意味からすると、この「勉強しまっせ」と云う使い方が正しいのだそうである。 「勉」も「強」も、「つとめる、しいる」と云う、“強制”の意味であり、「できないけれども、ムリヤリやる」と云うニュアンスなのだそうである。 だから大阪商人が使う「勉強しまっせ」と云う言葉は、商売のことを学ぶ、と云うのではなく、(値引)できないけれども、涙を呑んで、ムリムリ、値引きします、と云う意味なのだそうである。 アリストテレスはその『形而上学』の冒頭に、「人間は生まれつき、知ることを欲する」と、記している。 「知りたい」と、云うことは、人間の本能のひとつであると云ってもいい。 その対象は、なにも学校や塾での科目に限らない。 「どうしたらアイツの球が打てるか」 「どうしたらおいしく焼けるか」 「どうしたらあの娘とデートできるか」 すべての事象において、人は知ることを欲する。 それは本来、愉しいものである。 けっして、他から強制されてするべきものではない。 だから吾人は、「勉強」と云う言葉を好かない。 「学ぶ」と云う語も、「まねる」の変化形であると云うので、これも好かない。 独創がないからである。 「猿マネ」と云う言葉があるように、ただまねるだけ、ただ憶えるだけでは、「知ること」にはならない。 「学問」はまだいい。「問う」があるからである。たしかに、先人の得た知識を憶える、まねることは大事である。いけないのは、それだけでとどまっていることである。 先人の得た知識を憶え、まね、そこに疑問をもつ。この、“疑問をもつ”と云う姿勢が、大事である。 「研究」と云う言葉は好きである。 「研究」と云うと、理工科系の実験を思い浮かべる人が多いであろう。 しかし、「研究」はなにも、理工科系の専売特許ではない。 「研」も「究」も、「とぐ、みがく」と云う意味がある。 先人から得た知識をとぎ、みがき、よりよきものに仕上げていく。 みずからの心性をとぎ、みがいていく。そんなニュアンスが、「研究」と云う言葉にはこめられているように思う。 だから、さぁ、みなさん! 大いに「学問」し、大いに「研究」しましょう! |