2014.11.08 Saturday
「ある」と「なる」
「ある」と「なる」とは、哲学における重要な概念のひとつ(ふたつ?)です。
と、云えば、 「なにをバカなことを」 と、おっしゃる方もいらっしゃるかもしれません。 しかし哲学は、この世に存在するすべてのものの根本に「ある」もの、すべてのものがそれから「なる(生じる)」ものはなにか、を、問うところから始まりました。 そしてその思考の歴史のなかで、やがては、「“ある”とは、なにか」あるいは「“ある”とは、どういうことか」、「“なる”とは、なにか」あるいは「“なる”とは、どういうことか」を問うようにまでなりました。 これを、実際からかけ離れた閑問題、閑人の遊び、と、思われるでしょうか? おそらく、多くの人たちは、そう思われるでしょう。 なるほど哲学は、実際上の事物や出来事から遠く遊離した抽象をその対象とします。 だからと云って、実際上の事物や出来事と無縁であるとは云えません。 むしろこのような思考に不案内であるために、実際上の事物や出来事を考察し、把握するに際して、大きな困難や誤解を生じ、混乱迷乱を招き、不利益害悪をもたらす場合が少なくないのです。 「ある」と「なる」とを規定し得ないがために、どのような混乱迷乱、不利益害悪が生じているか、一例を申し上げましょう。 “子どもの人権”を声高に主張する輩の言説(「言説」などと云えるような内容のない場合がほとんどなのですが、ここは一応、敬意を表しておきます)は、子どもが人で「ある」ことに重きを置きすぎて、子どもが人に「なる」ことを閑却しているきらいがあります。子どもが人に「なる」権利を奪っているのです。 そのような人たちには、人に「なる」、とは、どういうことか、「人」とは、なにか、そんな疑問すら、思い浮かばないでしょう。 逆の例は、犯罪者の場合です。 犯罪者に「なる(なった)」ことに重きをおいて、犯罪者で「ある」ということが閑却されています。 当然、「犯罪」とはなにか、などと云う疑問も、生じないでしょう。 物事をその根本義にまで遡って考える、これは哲学の要諦であるとともに、実生活上においても、非常に重要なことなのです。 |