2014.11.30 Sunday
TV時代劇
TV時代劇を見なくなって久しくなりました。
と、云っても、自分が観ていたわけではありません。TV番組のなかで見なくなって、久しい、と、云う意味です。 昔は各局とも、ゴールデン・タイムには、かならず、と、云っていいほど、やっていたものです。 『銭形平次』、『水戸黄門』をはじめとして、『大岡越前守』、『遠山の金さん』、『長七郎江戸日記』、『桃太郎侍』、『破れ傘刀舟』、『荒野の素浪人』、はては、『座頭市』まで……。 まさにキラ星の如く、TV時代劇が製作され、放映されていたものでした。 主演を勤める方々は、いずれも映画史に残る大スターばかり。 東野英治郎さん、西村晃さん、加藤剛さん、北大路欣也さん、中村梅之助さん、松平健さん、高橋英樹さん、松方弘樹さん、里見浩太郎さん、萬屋錦之介さん、そして、近衛十四郎さん、勝新太郎さん、三船敏郎さんまで、それぞれ、一本の映画で主役を張るに充分な方々が、こぞって、TV時代劇に出演なされていたのです。 まさにその頃は、TV時代劇の全盛時代、TV時代劇花盛りの時代でした。 しかし自分は、まともにそれらのTV時代劇を観たことはありませんでした。 理由は簡単です。 あまりにも、安っぽいからです。 セットもお粗末、撮影もお粗末、演出もお粗末、せっかくの大スターも、失礼ながら、片手間に遊んで演じておられるかのようにしか、思えませんでした。 そしてなによりも、脚本と云いますか、お話がいただけません。 「庶民が悪いヤツにいじめられている(庶民はたいがい長屋暮らしの町人で、悪いヤツはたいがい代官とか商人とかです)。そこに主人公の侍がやってきて、悪人を懲らしめて、善良な庶民を救う」と、云った話です。 要は、“庶民”は、まじめに正しく生きていれば、いつか“白馬に乗った王子さま”ならぬ、“正義の侍” があらわれて、その苦難を救ってくれる”と、いうワケです。 悪い意味での“他力本願”です。 そこには、“自分(たち)の苦難は、自分(たち)でなんとかしてみせる”と、云う、力勁さがありません。 それが“庶民”だと云うのでしょうか? だとすれば、あまりに情けない心性と云えるでしょう。 “お上”になんとかしてもらうのではなく、“自分たちでなんとかする”と、云う、気位と心意気があってこその、“庶民”ではないでしょうか。 “政治家がワルい”、“役人官僚がワルい”、“財界のヤツラがワルい”などと云っていても、なにも変わりはしません。 変えることができるのは、“庶民”なのです。 “庶民”がその力を発揮してこそ、変わるのです。 数ある(あった)TV時代劇のなかで、唯一観ていたのが、“必殺シリーズ”でした。 それは、「水戸黄門の印籠を叩き落として足で踏みにじるような」、「それまでの時代劇が、体制側、権力の側から描かれていたのを、反体制、反権力の側から描く」ドラマでした。 そこに描かれる“庶民”は、官憲や悪徳商人、あるいは法網をかいくぐって生きている輩に対する、尽きせぬ恨みを晴らすために、仕事人にその復讐を依頼します。 仕事人も、それら“庶民”の涙で、その復讐を引き受ける訳ではありません。対価となる金銭を要求します。“庶民”は血の涙で稼いだ幾許かの金銭でもって、仕事人に復讐を依頼するのです。 その仕事人たちも、いわゆる“表の顔”は、市井の庶民です。下級官僚であったり、簪屋の職人であったり、三味線の師匠であったり、一介の書生であったり、です。 彼らはいわゆる“正義の味方”などではありません。 金で殺しを請け負う、“職業殺し屋”です。 彼らはそのことを熟知し、そこに毅然としたけじめを画しています。 「世直しなんて、まだそんな甘っちょろいことを考えているのか」 とあるエピソードのなかで、仲間の若い仕事人は云われます。 また、別のエピソードのなかでは、幼馴染の無念を晴らしてやりたいあまり、 「俺に払える仕事料はこれしかねぇ」 と、云って、簪を仲間の前に出す男に、 「そいつはしまえ。今回の仕事料は俺が出す」 と、云って、足袋のなかから、ヘソクリの金を投げ出します。 仕事人仲間のうちでも、とりわけ金にこだわる主水が云うからこそ、活きる場面です。 “自分たちは、金で殺しを請け負う、殺し屋にすぎない” その自覚が頑としてあればこそ、たとえ形だけにせよ、“仕事料”にこだわるのです。 そう云った“仕事人”を必要とし、そう云った“仕事人”を必要とされる世の中とは、なんと悲しい、なんと惨めな、世の中でしょうか。 しかしそこには少なくとも、“庶民”が自分たちの力で、自分たちの出来る精一杯のことで、“お上”に、“権力”に、抗おうとする姿勢が垣間見られます。 それこそが、数ある(あった)TV時代劇のなかで、“必殺シリーズ”が、異色、と、云われた所以であり、また、他のTV時代劇を観ない層(当時の若い世代)をも、惹きつけた所以でもあったのであろう、と、思われます。 |