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“形而上学”とはなにか
『形而上学』と云う書名は、アリストテレスの全集を編纂するに際して、これを『自然学』の後に置いたところから、“TA META PHYSIKA”(『自然学』の後の書)と呼ばれたことによる。
ところがこれが期せずして、その内容からみても、これに相応しい書名となった。
と、云うのも、形而上学とは、自然の背後にあって、自然を規定するもの(「すべての存在のそのように存在するのは、それからであり、それらすべてはそれから生成し来り、その終りにはまたそれにまで消滅していくところのそれ」)、「第一の原因や原理を対象とする」学問であるからである。
それがやがてその対象範囲を拡げていき、社会の在り方(様相)やその進展(歴史)――社会組織、すなわち共同体やその発展形態としての国家、生産・流通・消費などの総体を意味する経済など――、さらには意識の在り方やその発展――意識の表現としての美術、法律、宗教、道徳、そして、精神そのもの――までをも規定する「第一の原因や原理」を追究するようになった。
それは哲学そのものであり、したがって、“形而上学”とは、まさに、哲学そのものの別名である。
エンゲルスは(おそらくは、マルクスやレーニンも)この“形而上学”と云う語を、認識方法、あるいは思考方法の意味に捉え、“弁証法”と対立させた。
ヘーゲルは“形而上学”の内容に、“論理学”の名称を与えた。
いずれも無用の語義変更であり、混乱のもとである。
“形而上学”は、あくまでも、“形而上学”であり、そしてそれは、“哲学”そのものなのである。
| 哲ッちゃん | コラム―哲学もどき | 11:21 | - | - |


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