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エンゲルス批判
エンゲルスは『空想より科学へ――社会主義の発展――』の英語版の序文の中で、次のように述べています。

「不可知論者」は云う。
「われわれのすべての知識はわれわれの感官をつうじてわれわれが受け取る情報にもとづくものである」
「われわれの感官が、この感官をつうじてわれわれが知覚する対象の正しい描写をわれわれにあたえるかどうかということを、われわれはどのようにして知るのか?」
「自分が対象やその性質について語る場合にはいつでも、実際にはこれらの対象や性質のことを言っているのではなく――これらのものについてはなにごとも確実には知ることができない――、ただそれらのものが自分の感官に生じさせた印象のことを言っているだけである」

「こういう議論のすすめ方は、疑いもなく、たんなる論証によってはうちやぶることはむずかしいと思われる。しかし、論証のあるまえに行動があった。」
「プディングの味は食ってみればわかる。これらの対象のうちにわれわれが知覚するいろいろな性質に応じて、われわれがそれらの対象を自分の役にたたせるその瞬間に、われわれは、われわれの感官知覚が正しいか正しくないかについてまちがいのない吟味をしているのである。」

ここでエンゲルスが「不可知論者」と云うとき、だれを念頭に置いているのかは判然としませんが、少なくとも、カントでないことだけは、確かなようです。
 カントが述べているのは、“我々が確実に認識し得るのは、我々が経験し得る範囲内だけでのことであって、我々の経験の範囲外にあること――神の存在やその永遠不滅、世界の始元とその終末、魂の不滅と消滅、等々――については、我々にはこれを知ることができない。”と、云うものです。
 カントが我々の認識し得る領域を我々の経験し得る領域に限り、それ以外の領域――カントのいわゆる「可想界」――は、我々には認識し得ない、と、厳密かつ明確に区分したことは、哲学史上に画期をなす、大いに意義のある成果でした。
このことによってカントは、哲学から経験科学を追放し、純粋に哲学の領域を明瞭にしたのです。
しかしカント自身は、その意義を正しく認識することはなかったようです。
彼が明確にした哲学の領域は、彼にとっては、認識不可能な領域だったのです。
カントはその領域における認識を放棄し、そこに神の定言命令――あらゆる人が逆らうことの出来ない、「かくせねばならない」、「かくあらねばならない」と、云う、道徳的規範――を、見出そうとしました。
エンゲルスはこのカントの成果から後退しています。
しかも、甚だしく、後退しています。
ここでエンゲルスがまとめている見解は、不可知論者のそれと云うよりも、懐疑論者のそれに近いようです。
不可知論者は、少なくとも、経験世界における認識の正しさを退けてはいません。
「対象や性質」と、「それらのものが自分の感官に生じさせた印象」とが一致する可能性を、不可知論者は否定していないのです。
その一致を、あるいはその不一致を、いかに論証するか、それが不可知論者たちを後継する哲学者の課題でした。
その課題は「疑いもなく、たんなる論証によってはうちやぶることはむずかしい」課題です。
エンゲルスはその課題を、「論証のあるまえに行動があった。」「プディングの味は食ってみればわかる。」と、述べて、解決しようとしました。あるいは、解決したつもりになっているようです。
しかしこれは問題の解決ではなく、問題のすりかえです。
「論理の筋道」を、「議論によって打ち破る」べきであるのに、エンゲルスは、「この論理の筋道」を、「議論によって打ち破る……困難」から、逃避しています。
エンゲルスのこの態度は、古代ギリシアの時代、キニクの徒であるシノペのディオゲネスが、有名なゼノンのパラドックス(「アキレスは亀に追いつけない」、「飛んでいる矢は静止している」)に対する反論として、無言のまま立ち上がって、あちらこちらと歩き廻った、と、云う逸話を思い出させます。
このことについて、ヘーゲルは次のように述べています。
「つまり彼は、それを行動によって反駁したのである。けれども、理論の闘争には理論に基づく反駁のみが有効である。我々は感性的確実性に満足すべきでなく、概念的に把捉すべきである」
エンゲルスもヘーゲル哲学から出発したようですが、ヘーゲルの『哲学史』は、読み落としていたようです。あるいは読んでいても、忘れてしまったのかもしれません。それとも、エンゲルスがこの稿を書いた頃には、ヘーゲルの『哲学史』は、出版されていなかったのでしょう。あるいは、出版されていても、手に入らなかったのかも、しれません。
とまれ、ここで、エンゲルスが、哲学を放棄していることはたしかです。
“プディングとはなにか”を規定しようとしているときに、“食べてみればわかる”と云うのですから、その滑稽は容易に看取されます。
それがプディングであるか、そうでないかが、その味で決定されるのだとしたら、それがプディングであるか、そうでないかを知るためには、あらかじめ、プディングの味を知っていなければなりません。
と、すれば、その人はすでに、プディングのなんたるかを、知っていることになります。
プディングとはなにかをすでに知っている人に、プディングとはなにかを説明するのは、それも、「概念的に把握」させようとするのならまだしも、「食ってみればわかる」と云うのは、いかにも滑稽ではありますまいか。
プディングを食べたことのない人間にプディングを食べさせて、
「これがプディングだよ」
と、云っても、その人はプディングのなんたるかを知ることはないでしょう。
エンゲルスは“プディングとはなにか”と云う問題を、“プディングの味”の問題にすりかえています。
事象を思惟によって把握するのが哲学です。
エンゲルスは――少なくとも、ここでは――哲学を放棄しています。
経験世界の事象だけに限定しても、プディングならばそのものを差し出し、食べさせてみることも可能でしょうが、これが例えば、「愛」ですとか、「友情」ですとか、「無限」、「善」、「空間」、「絶対」とかでしたら、エンゲルスは、どのように説明するのでしょうか?
食べさせてくれるのでしょうか?
哲学は、これらの経験世界における諸規定などよりも、もっと抽象された概念を取り扱います。
そうなると、エンゲルスは、とても太刀打ちできないでしょう。
第一、プディングならば食べられるかもしれませんが、ストリキニーネとなると、そうはいかないでしょう。
それともエンゲルスは、ストリキニーネの味は食べてみればわかる、と、云って、食べてみるのでしょうか?
| 哲ッちゃん | 哲学のおと | 11:03 | - | - |


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