ろ〜りぃ&樹里とゆかいな仲間たち

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 注)タイトルに「*」のついた記事は「ネタバレ記事」です。ご注意ください。
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『こころ』読中-1
『こころ』を読んでいます。
と、云うと、
「?」
と、云う顔をされます。
「読んだことなかったの?」
と、云う人もいます。
「いまどき、なんで『こころ』なん?」
と、云う顔をする人もいます。
じつを申しますと、『こころ』は何度も読んでいます。何度読んだかわからないくらい、読んでいます。
にもかかわらず、今回も読んでいます。
「読んでても、忘れてるところとか、あるからな」
と、云うのは、好意の表われでしょう。
ラブレーだったか、他の人だったかの言に、
「一読して再読されぬ書物のみ書庫に満つるは寂漠である」
と云う意味のことがあります。
世の人が多く小説を読むのはなんのためでしょう。
人生の教訓を得るため?
波瀾万丈のストーリーにハラハラドキドキするため?
世間の話頭にのぼっているため?
文学史的な知識を獲得するため?
なるほど、それはそれで結構でしょうし、そういう読み方が悪い、と、断ずるつもりもありません。
しかし、それならば、一読するだけで充分でしょう。
なにも高いお金を払って本を買い、場所をとって保管して置く必要もないでしょう。
図書館で借りて、読んだら返せばそれで充分です。
いえ、あえて読む必要も、ないかもしれません。
粗筋と見どころを解説した本を読めばいい話です。
小説から人生の教訓を得ようと思えば、自分で考えなければいけません。
にもかかわらず、それすら面倒くさがって、いわゆる文学評論家なる者の所説をおぼえこんで、あたかもそれが自分の見解のように思い込む、お目出度い人もいらっしゃいます。
小説そのものなどそっちのけで、それに対する諸家の評をのみ珍重する人もいらっしゃいます。
あっぱれ、かくあるべきインテリの姿です。
漱石の諸作は、そんなインテリ諸公に対する、一種の試金石となります。
と、申しますのも、漱石の諸作に対する、いわゆる文学評論家の解釈、見解は、ことごとく、間違っているからです。
とりわけその傾向は、『こころ』において、はなはだしいものがあります。
『こころ』と云いますと、「主人公である『先生』は、かつて親友を裏切って恋を得たが、親友が自殺したためにその罪の呵責に耐えかね、ついには自らも命を絶つ」物語、と、思っている人が、けっこういるようですが、しかし、その見方は、とんでもない間違いです。
漱石は十九の最後に書いています。

「先生がまだ大学にいる時分、大変仲の好い御友達が一人あったのよ。その方が丁度卒業する少し前に死んだんです。急に死んだんです」……「実は変死したんです」
「……その事があってから後なんです。先生の性質が段々変ってきたのは。……」
「……しかし人間は親友を一人亡くしただけで、そんなに変化できるものでしょうか。……」
私の判断はむしろ否定の方に傾いていた。

先生が親友(K)の自殺によって罪の意識に責め苛まれていた、と、考える人は、奥さんや私ほど、先生を理解していない、と、云えるでしょう。つまり、『こころ』という作品を、読み込んでいない、と、云えます。

Kの自殺の原因を、先生に出し抜かれて失恋したため、と、考えるのも、同様に、Kにする無理解、誤解です。
五十三の最後に、漱石は書いています。

「私はKの死因を繰り返し繰り返し考えたのです。その当座は頭がただ恋の一字で支配されていた所為でもありましょうが、私の観察はむしろ簡単でしかも直線的でした。Kは正しく失恋のために死んだものとすぐ極めてしまったのです。しかし段々落ち付いた気分で、同じ現象に向って見ると、そう容易くは解決が着かないように思われて来ました。」

Kの自殺の原因をお嬢さんに対する失恋に帰する考えが、「簡単でしかも直線的」である、と、漱石自身が、キッパリと述べています。

にもかかわらず、「Kは先生に出し抜かれ、お嬢さんに対する失恋のゆえに自殺した」などと、平然と述べている、いわゆる文学評論家などと称される人々の脳細胞は、いったいどのような構造をしているのでしょうか。文学的とは別の意味で、興味をそそる問題です。

別の面から見てみましょう。
もし『こころ』の内容──主題、と、云っても、いいかもしれませんが──が、いわゆる「先生の過去」──お嬢さんをめぐる先生とKの葛藤─にあるのだとしたら、上、中、下の三つの章からなる『こころ』の構成が、意味を成さなくなってしまいます。上、中、の二章が、まったく、意味を成さなくなるのです。
三つの章のうち、「下」が、いわゆる「先生の過去」です。
「上」は「先生と私」と、なっていまして、若い私が、先生と出会い、その魅力に惹かれていく態が描かれています。
「中」は「両親と私」となっていまして、田舎暮らしの両親と私、そして、私から見た両親と先生との比較が描写されています。
じつは『こころ』においては、この両章こそが、重要なのです。
語り手である私は、なにゆえに先生に惹かれるのか?
先生とも両親とも違う、私の新しい精神とはどんなものか?

先生は自分の過去に代表される「明治の精神」を、若い私の前に明かにすることによってその精神を受け継がしめるとともに、その「明治の精神」に殉じます。

先生はなにゆえに、私に、自らの過去を打ち明けたのか?
自らの過去を私に打ち明けることによって、先生はなにを望んだのか?
他人を疑い、自分自身をすら疑ってる先生が、なぜ、私だけには、自分の過去を打ち明けるほど、信用したのか?
そんな先生を信用せしめるほどの私の精神──おそらくは、「明治の精神」とはまるで違う、新しく生まれ出でた精神──とは、どんな精神なのか?
先生のいわゆる「明治の精神」とはなにか?

『こころ』が世に出て、百年にもなります。
にもかかわらず、上述の疑問に答えられていないどころか、疑問とすら、されていません。
なさけないことです。
それを明らかにし、それを読解してこそ、真に、『こころ』を読んだ、と、云えるでしょう。
| 築山散作 | 気まぐれなブログ | 09:25 | - | - |


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