2020.06.01 Monday
写真の日のひとりめし(晩)
玉子麦飯、揚げない鶏の唐揚げ、ほうれん草のお浸し、わかめと野菜の酢漬け、木綿奴、納豆、味付海苔
揚げない鶏の唐揚げが、思っていた以上にうまくいった。見てくれはもちろん、使用した油も余さずにすんだ。むしろ足りないぐらいだった。善哉善哉。ただ惜しむべきらくは、塩胡椒をするのを忘れた。とは云っても、酒、醤油、にんにく、生姜で一晩漬けこんだのだから、味はしっかりついているはずである……と、弁解しておこう。 揚げ油はオリーブ油を使用した。いささか贅沢であろうとは思ったが、このところ、焼き物も炒め物も滅多に料理らないし、揚げ物もそうそう料理るわけでもなし、たまに料理るときくらい贅沢してもよかろう、と、自分を甘やかしたのである。 どこのだれが、どんな食材や調味料を、どれだけ使って作ったのかよく分からない外食や店屋物(出前もの)などで贅沢するよりも、自分で使う食材や調味料で贅沢するほうが、よほど贅沢の仕甲斐があると思うのだが、如何だろうか。 今回は溶き卵もパン粉も使わなかった。小麦粉と片栗粉を混ぜたものを、茶漉しでまぶしただけである。しかしこれが、なかなか茶漉しの網の目を通ってくれなくて、大いに難儀した。 足も短く気も短いわたいとしては、いっぺんにぶちまけたくなったが、そこはそれ、秋山淳五郎眞之氏も述べておられる如く、短気は損気、急がば回れ、で、ある。深呼吸して気を静め、どうすればうまくいくかを思考しつつ、はやる気持ちを抑えて、なんとかうまくぜんたいにまぶすことができた。 料理一膳、献立一品料理るにしても、修行である。掃除も洗濯も、心構えひとつで貴重な体験、有難い修行となり得る。その積み重ねが、人性人格を陶冶するのである。頭だけで物事を理解しようとし、また理解できるつもりになっているインテリ諸公には終に理解の及ばぬ境地である。 と、云っても、云ってるわたい自身がこの程度なのだから、説得力に欠けること甚だしいが……。 |