2020.08.26 Wednesday
シルマンデー・ユースホステルの日のひとりめし(晩)
玉子麦飯、鰯の生姜煮、小松菜のわさび和え、茄子とゴーヤとピーマンの佃煮風、木綿奴、納豆、味付海苔
昼の弁当に入れられなかった副菜の、茄子とゴーヤとピーマンの佃煮風を晩食にまわした。これでなんとか、7種類の野菜を摂取したことになる。とは云っても、タテマエ上は、と、云うか、名目上は、と、云うか、だが、それでもまったくないよりはマシであろう。一輪咲いても、花は花、なのである。 小松菜のわさび和えに苦味を感じる。湯掻き時間が足りなかったのだろうか。しかし小松菜は、生食できるほど、アクのない食材である。湯掻くのも、湯掻くと云うよりは、さっと湯に潜らせるだけでいいくらいである。どうも妙だ。腹を壊したりはしていないから、腐っているわけではない。まあたまにはこんなこともあるのだろう。 鰯の生姜煮もサッパリして、クセがなかった。妙なものである。イワシやサバなどの、いわゆる青魚は、生臭さが苦手だ、と、云う人がいるらしいが、わたいはついぞ、生臭さを感じたことがない。むしろ幼い頃、肉の生臭さに辟易して、以来中学二年になるまで、肉の入っている献立は、ハンバーグとコロッケ以外、食べられなかった。どうやら幼にして人とは一風、変っていたらしい。人とおなじと云うことは、べつにその人が居なくても、いくらでも代替が利く、と、云うことであるから、人とは違うほうが好ましい。個性や自我が喪失したり埋没したりすると云うことは、事実上抹殺されることである。それを好んできたのが、日本人の社会風土なのだから、いよいよ日本人と云うのも、変った国民である。こんな変りかたでも、世界規模から見れば、それはそれでまた、なんらかの価値があるのかもしれない。そんな価値など、わたいはタダでも要らないが。 |