2014.05.25 Sunday
『どん底』と云う作品のなかに……
『どん底』と云う作品のなかに、ナースチャと云う娘がいる。
年は24歳。 ほら穴のような地下室に暮らす住人たちの生活には、夢も希望も楽しみもない。 学問も、勤勉も、自尊心も、優しさも、……、この“どん底”では、なんの役にも立たない。 あるのは、酒とバクチとバカ騒ぎだけ。 人に金をたかり、あるいはバクチで小金を稼ぎ、酒を食らっては高歌放吟……。 それが“どん底”の住人たちの生活である。 いくらクレーシチが「おら――これでも職人だよ……おれは出てみせるよ……皮が破れても、抜け出てみせらあ」と意気込んでも、決してこの“どん底”から抜け出すことはできない。 彼の女房のアンナの病が治る見込みもない。クレーシチがいくら女房を気づかっても、彼にはなにもしてやることはできない。 いくらペーペルが腕のいい泥棒で、だれをも恃まず、自分一個で生きていけるだけの技倆と度胸を持っていても――実際ワシリーサも、後にはナターシャも、彼が自分をこの“どん底”から連れ出してくれることに望みをかけるのだが――、それでも、この“どん底”から抜け出すことはできない。 そんななかでナースチャは、フランスの小説に憧れ、自分にもその小説に描かれているような恋があったと思い込もうとしている。 人を愛することもなく、人に愛されることもなく、恋に胸をときめかせたこともなく、この“どん底”で老いさらばえていくのは、それを如何ともしがたい真実と受け入れることは、若いナースチャには耐えられない。 彼女の思い込みは確信へと変わり、自分自身、ほんとうにフランスの小説に描かれているような色恋沙汰があったと信じるようになる。 「あたしにゃそれがあったんだよ……ほんとうの恋がさ!」 しかし、と、云うより、もちろん、他の住人たちは、そんなことは信じない。 ブブノーフは「あはは……とんだほらふき阿魔だ!」と、哄笑する。 男爵は「みんな『運命の恋』という本にあることだよ……みんな――でたらめよ!」と、云う。 実際、男爵の云うとおりである。 しかし、それゆえにこそ、ナースチャは自分の嘘を本当のことだと信じ込もうとする。 「ほんとに……あれはあったことだよ! 何もかもあったことだよ!……これが嘘だったら、あたしこの場で、雷に打たれて死んでもいいわ!」 人はだれしも嘘をつく。 ナースチャは惨めな境遇のなかで生きていくために、自分にもフランスの小説に描かれていたような恋があったと云う嘘を信じ込もうとしている。 逆の場合もある。 惚れ込んだ相手に裏切られ、恋を失ったとき、「あれは恋ではなかった」、「自分はあの人を愛してはいなかったのだ」と、思い込もうとする。 その人への思いが強ければ強かっただけ、その人と過ごした時間が愉しければ愉しかっただけ、その人とともに笑い、はしゃぎ、ふざけあい……、一緒にいた月日が幸せであればあっただけ、それだけ強く、それだけ強烈に、懸命に、あれは恋ではなかった、愛してはいなかったのだ、と、思い込もうとする。 だれしも、真実を受け入れることは、辛く、苦しいものだ。 ルカは云う。 「かんじんなことは話でなく、なぜそんな話をするかということなんだからね――ここを見てやらなくちゃいかんよ!」 そしてナースチャに、 「わしは知っている……わしは信じている! お前さんがほんとうで、あの人たちがでたらめなのだ……お前さんが自分で、そういう真の恋をしたと信じこんでいるなら……それはもうあったことに違いないのだ! 違いないのだ!」 そういうルカの言葉も嘘である。 サーチンは云う。 「爺さんは嘘をついた……だがそりゃ、お前たちを憐れに思う思いやりから出た嘘なんだぞ、畜生め!」 そして云う。 「しっかりした人間……人を頼りにしない、他人のものをあてにしない人間には、嘘をつく必要は少しもねえ。嘘は――奴隷と君主の宗教だ……真実は――自由な人間の神さまだ!」 サーチンには解っているのだ。 「しっかりした人間」、「自由な人間」など、この世にはいない、と、云うことが……。 人はみな、嘘を必要とする、「奴隷と君主」なのだ、と、云うことが……。 もし、「しっかりした人間……人を頼りにしない、他人のものをあてにしない人間」がいるとすれば、それは、まさにこの“どん底”に生きている人間――すべてを失い、すべてを奪われ、ただ「人間」である、と云う、それだけのものしか残されていない人間なのだ、と、云うことが……。 それが「真実」である。 それゆえにこそ、「真実」は、辛く、苦しく、受け入れがたい。 「自由」は、巨大な犠牲を代償にしなければ得られない。 それでも人間は生きていく。すべてを失い、すべてを奪われ、ただ「人間」である、と云う、それだけのものしか残されていなくとも、人間は――ルカの言葉によれば――、「よりよきもののために」生きてゆく。 だからこそ、サーチンは叫ぶ。 「にいんげぇん! どうだ――てぇしたものじゃねぇか!」 どん底 (岩波文庫) 中村 白葉 |