2014.09.23 Tuesday
羅城門址
久能 大
羅城門には鬼が棲む。その昔、渡辺綱が退治(たいじ)たのはその中の一匹だけであって、それ以前にもそれ以後にも、羅城門には、数多の鬼が棲んでいる……。 羅城門跡を見に行こうと、ふと思った。或る夏の日の、午后の事だった。 デートの予定だった。予定の遣繰をつけて、一日の時間を確保した。仕度を調えて部屋を出ようとしたところで、電話が鳴った。 ――ゴメン。急にバイト、代わってくれって、云われてん。今度埋め合わせするから、ごめんな。 忘れてた授業に原因不明の頭痛や発熱、そして急に頼まれたアルバイト、いずれも聞き飽きた言訳だった。さすがにうんざりしたが、できるだけ平然とした口吻で、了承の意を伝えた。 電話を切った途端、一日が味気なくなった。 空虚な一日だった。本来なら、こんな一日を過ごせるような立場じゃなかった。 就職活動は捗々しくなかった。卒論も手詰まりだった。取得しなければならない単位も残っていた。先の事を考えると、暗鬱になった。 新聞も、テレビも、みな、不景気な話ばかりだった。 個人に対する税金は上がる、銀行や大企業への減税は継続される、省庁と民間企業とは癒着し、地方では知事と業者との贈収賄が問題になっている。官僚はその杜撰な仕事ぶりを暴露され、政治家の発言は傲慢で、大企業は好調な輸出に支えられて潤いながら、下請けの中小企業には無理難題を押し付ける。その中小企業に対して、納税を猶予されている銀行は貸し渋り、貸し剥がす。求人率は落ち込み、就職できない人たちが職を探して彷徨っている。犯罪は激増し、兇悪無惨の度は目を覆う。ただ鬱憤を晴らすためだけに、面識もない行きずりの他人を襲う。不惑の公務員が痴漢行為を働き、音が煩いと注意された女子高生が相手の男に痴漢行為の濡れ衣を着せる。イジメられないために他人をイジメる。イジメられた子が自殺する。教師は責められるが、イジメた子やその親は責められない。大学が躾をすることを売り物に学生を集めようとする。人権の名の下に、好き勝手する奴輩が庇われて、害を被った者が泣き寝入る。 世も末だと思うようなことばかりだった。 六畳一間の畳の上に寝っ転がって両手を頭の下に組み、染みの浮き出た板張りの天井をぼんやりと眺めながら、索漠とした時間を消費した。 灰色の天井と漆喰の壁が、窓から差し込む強烈な西陽に照らされ出した頃、羅城門跡を見に行こうと、ふと思った。 京都に来て三年余りになるが、この有名な史跡を見に行ったことは、まだなかった。勿論、芥川の作品は、高校時代に、現代国語の授業で習っていた。渡辺綱が鬼の片腕を斬り落として退散させた伝説も知っていたし、黒澤監督の映画も観たことはあった。にもかかわらず、この地を見に行ったことはなかった。 身体を起こして手もとの京都観光案内地図を捲ってみると、後ろの方のページの片隅に、小さな写真と簡単な説明文が、申し訳のように添えてあった。 その地図で経路を確かめて、侘しい六畳一間の下宿を後にした。 ブロック塀の連なる小路では、子供たちが楽し気に騒噪(はしゃ)ぎ廻り、近所の主婦たちが四方山話に花を咲かせていた。両手にスーパーの袋を下げた母親の姿も見られた。その足下を、幼い子が、ちょこちょこと駆けまわっていた。 近くの停留所で、煙草に火をつけた。 バスを待っている人は、他にもいた。背広姿の四十がらみの男性と、腰の曲がった老婆、それに、四歳くらいの男の子をつれた、夫婦と思しき男女の五人だった。 煙草を二本灰にしたところに、バスが来た。ステップを上がり、整理券を取って、座席に座った。乗客は少なかった。バスはゆっくりと停留所を離れ、閑散とした車道を進んで行った。 市街地は午后の陽光に満たされていた。大通りを数多の車が行き交い、歩道も多くの人で雑踏していた。 書店、ATM店舗、コンビニ、家電量販店、レンタル・ビデオ店、食料品店……。 道の両側に立ち並ぶ巨大な店舗が、市街地に集う人々を、あるいは吸い込み、あるいは吐き出していた。 バスは車の群れに巻き込まれて這うような速度になり、いつしか乗客も多くなっていた。速度に変化をきたすたび、吊り革につかまった乗客の身体が揺れ、身体が触れた。 京都には「古都」というイメージがあるが、なにも京都中が、壊れかけた築地や、煤けた板塀の家屋で満たされているわけではなかった。巨大な量販電気店のビルもあれば、五階建ての書店もあった。一ブロック分もあるようなゲーム・センターもあるし、コンビニやファースト・フードの店にいたっては、それこそ無数だった。京都といっても繁華街は、大阪や東京のそれと較べて、少しの遜色もなかった。京都には様々な顔があるのだ。 ある友人は、京都は学生の町だ、と云った。なるほど、そうかも知れなかった。京都には多くの大学があった。それぞれが長い伝統に育まれ、独自の個性を確立していた。そしてその個性を新たな魅力に変える進取の気性に富んでいた。 なによりも共通して、自由とおおらかさがあった。立身出世を求めるでなく、頭でっかちの秀才を育てるでなく、ひたすらに学問の楽しさを追求し、それにもまして、若き日の喜びを満喫することに、その価値を見出していた。権威に反し、俗に逆らい、自ら信ずる事を真と信じ、自己を研鑽し、自らを新しき世の開拓者とするの意気に燃えていた。教授たちも、学生たちも、そうだった。 その校風に憧れて、多くの若者たちがこの町にやって来た。他の大学に入れなかったから、と云う者も、もちろんいた。だがそういう若者の多くも、一年経つか経たぬかのうちに、我知らずこの町の雰囲気に、馴れ親しんでいくのだった。 京都の風景も、名所旧跡ばかりで成り立っているのではなかった。各所に散らばる様々なデート・スポットの存在も、この町を学生の町と思わせている一因だった。 長い歴史の面影を、ロマンティックに彩って、現在にただよわせているそれらの場所は、多感な若者たちを魅きつけるのに、充分な魅力を備えていた。 紅葉美しい清水寺、宵闇薫る桂川、夏の大文字焼きは暑気を払って一服の清涼を感じさせ、新緑萌える嵐山は春の息吹に日頃の塵労を洗い落とす。修学旅行や観光だけでは体感できない奥深い魅力が、この町にはあるのだ。 京都駅から少し離れた停留所でバスを降りた。向かいには東本願寺があった。広大な空を背景に、瓦を葺いた白壁にかこまれ、黒々とした樹木につつまれたその姿は、荘厳と云うに相応しい趣きを感じさせた。 目を転じると、銀行や百貨店のビルが見えた。地元の商店街は、夕暮れの客で賑わっていた。子供たちが笑い声をあげながら駆けていき、主婦らしい人々が談笑しながら店先を巡っていた。背広姿の男性や、制服姿の中高生たちもいた。みな生き生きしていた。一日の仕事や勉強の疲れなど、微塵も見られなかった。 次に乗ったバスは、高校の横を通り過ぎ、下町風情の残る細い道を走って行った。著名な歴史的背景こそもたないが、こうした佇まいも、古都を思わせるひとつの要素だった。 歩道のない一車線の道路が真っ直ぐにのび、その両側には、古びた木造の家屋が立ち並んでいた。門から玄関まで、三歩もあれば到達するような、昔ながらの下町の家だった。角にはこれまた昔ながらの雑貨屋があり、ところどころに、大衆食堂を兼ねた居酒屋や、喫茶店などがあった。こういった町筋に、自動販売機などはなかった。煙草は爺さんの頃から知ってる角の煙草屋で買い、酒はリカー・ショップやコンビニではなく、米や味噌も売っている、行きつけの酒屋で買うのだ。 バスはその古風な町並みを、急かずあわてず、のんびりと走り続けた。その緩慢な振動に揺られながら、三年近い月日の間に忘れ去りつつあった京都の町の新鮮な魅力が、あらためて甦ってきた。 「羅生門前」と云う停留所で、バスを降りた。鄙びて閑散とした下町の佇まいは、観光地としての京都と云うよりも、昭和三十年代の映画に見られるような風景だった。木造りの家が多く、自転車屋や古びた本屋、酒屋や米屋なども見受けられた。 バス停から少し離れたところに、「羅生門跡」と書かれた、小さな石標があった。 膝ぐらいの高さしかない、小さな石標だった。板塀に挟まれた細い路地がのびており、そこを抜けると、小さな児童公園があった。 空があかね色に染まる夕暮れ時、晩御飯を前に控えたそのひとときを、小さな子どもを連れた人たちが談笑していた。狭い公園の中を、子どもたちが駆け回り、ブランコやすべり台で遊んでいた。 その公園の中程、滑り台の傍に、細い鉄柱で囲まれた一画があって、「羅城門遺址」と彫られた石柱と、羅城門の由来を記した立札が立っていた。 傍によって見てみると、 「この地は、平安京の昔、都の中央を貫通する朱雀大路(今の千本通にあたる。)と九条通との交差点にあたり、平安京の正面として羅城門が建てられていた。門は二層からなり、瓦ぶき、屋上の棟には鴟尾が金色に輝いていた。正面十丈六尺(約三十二メートル)、奥行二丈六尺(約八メートル)内側、外側とも五段の石段があり、その外側に石橋があった。嘉承三年(一一〇七年)正月山陰地方に源義親を討伐した平正盛は京中男女の盛大な歓迎の中をこの門から威風堂々と帰還しているが、この門は平安京の正面玄関であるとともに、凱旋門でもあったわけである。しかし、平安時代の中後期、右京の衰え、社会の乱れとともにこの門も次第に荒廃し、盗賊のすみかとなり、数々の奇談を生んだ。その話に取材した芥川龍之介の小説による映画「羅生門」は、この門の名を世界的に有名としたが、今は礎石もなく、わずかに明治二十八年建立の標石を残すのみである。」 と、あった。 平安の往時に思いを馳せて、ふと我に返ると、いつの間にか、四、五歳くらいの女の子が、傍に立っていた。 その子も同じように立札を見上げていたが、やがて眼が合うと、 「おいちゃん、ここ好きなん」 と、聞いてきた。 「なんで」 おいちゃんと云われたことに苦笑しながら聞き返した。 「だって、おいちゃん、このへんでは見いへんし、やのに一生懸命、この立札見とったやろ」 要は、この場所に興味があって、わざわざ訪ねて来たのだろう、と、云う意味らしかった。 「うん。おいちゃん、ここ好きやねん」 「あのな、ここ昔、門が建ってたんやって」 「そやってな。『羅生門』、云うんやってな」 「ちゃうで。『羅城門』、云うんやで」 その子は真剣なまなざしで云った。大きな眼がくりくりした、かわいらしい子だった。 「そうか。ほな、おいちゃん、間違えとったんやな。でも、偉いな。だれかに習うたんか」 「ううん。昔からそない云うてるもん」 そう云って足元の石ころを蹴ると、 「なあ、おいちゃん」 と、その目をあげた。 「ここ昔、鬼がおったんやで。知ってる?」 「知ってるよ。渡辺綱云う人に殺されたんやってな」 「ちゃうわ。渡辺綱は、鬼の左腕を斬り落としただけや。鬼はうまいこと、逃げたんや。渡辺綱なんか、あんなん、鬼が退治でけるようなヤツちゃうわ」 その剣幕に、いささか面食らった。 どうみても、小学校入学前の年頃にしか見えなかった。白いブラウスに肩紐のついた紺色のスカート、どこにでもいる、ふつうの子どもだった。 「なあ、おいちゃん、いまでも鬼って、おるんかなあ」 「いまはおらんよ。鬼がおったんは、昔々の話や」 「そうやろうなあ。いまは、平和やもんなあ」 その子は淋しげな溜息をついて、また足元に視線を落とした。 「でもな、おいちゃん。いまでも鬼は、おるかも知れへんで」不意に目を上げて、その子は云った。「税金はようけ取られるし、物は高うなるし、仕事でけへん人かって、ぎょうさん、いてるんやろ。みんなギスギスして、人殺しとかも増えてるやん。鬼が出てきよるんちゃうか」 その子はふたたび彼方の夕焼けに目を向けた。 「あのなあ、おいちゃん、鬼はな、人の心の中に居るんやで。虐められて、踏みつけられて、悔しくて、悔しくて、泣いて、泣いて、涙も無うなるくらいに泣いて、それでも歯食いしばって生きていかなあかん人たちが、自分たちかってまともで平和な生活したい、自分たちにもまともで平和な生活させえ云うて立ち上がるとき、人は鬼になるんやで。 鬼云うのはな、おいちゃん、そんな人たちを虐めて、踏みつけてきたヤツラが云いよんねんで。自分たちが美味い汁吸うために、おんなじ人間をさんざん踏みつけにして、虐めて、搾り取ってきたヤツラが、自分らにもまともで、平和で、安心して暮らせる暮らしさせえ云うて立ち上がった人らを、鬼云うんやで」 鳥肌が立ち、背筋に寒いものが走り抜けた。 「まだ鬼は出てけえへんかもしれへん。でも、そのうち出てくるで。そのうちまた、昔みたいに、ぎょうさんの鬼が出てくるようになるで。だって、だれも平和な生活なんかくれへんもん。人を虐めて踏みつけにするヤツラは、平和な生活なんかくれへんもん。それやったら、鬼になって、自分らで、平和で、まともな暮らしを掴み取るしかないやん。ええ世の中にしよう思うたら、鬼になるしかないやん」 冷たい秋風が吹いた。 思わず知らず身震いすると、いつかその子に目を凝らしていたことに気付いて、あわてて周囲を見回した。 その子は、そんなことにはお構いなく、相変わらずその大きな瞳で、彼方の夕焼けを眺めていた。 夕闇が迫り、周囲は黄昏てきた。遊んでいた子どもたちも、三々五々、親たちに手をとられて、夕餉の待つ宅に帰っていった。 いきなり後ろから声をかけられて、その子は振り返った。 「あ、お父ちゃん」 「なにしてたんや。帰るで」 たくましい体つきの、四十年輩と思しきその人は、厳つい鬚面に柔和な笑みを湛えて、近づいてきた。 女の子はこぼれるような笑みを浮かべてその男に走り寄ると、その手をとって、 「あのな、あのおいちゃんと、お話しててん」 と、楽しげに云った。 「そうか、そりゃ、よかったなあ」そう云って優しくその子の頭を撫でると、その柔和な目を転じて、こちらを見た。「どうも、この子がお邪魔したようで」 「いえ、別に……」 ドギマギしてそう云うと、 「ありがとうございます」 と、父親らしいその人は、女の子の頭に手を乗せたまま、ペコリと、頭を下げた。 「ほら、おいちゃんに、ありがとう、は」 「おいちゃん、ありがとう」 父親に云われて、その子もペコリと頭を下げた。 「こちらこそ」 と、同じように頭を下げた。 「行こか」 「うん」 かつて、渡辺綱は、羅城門に巣くう鬼を退治した。鬼は片腕を斬り落とされただけで、命までは失わなかった。鬼は逃げ、行方をくらました。 羅城門には鬼が棲む。その昔、渡辺綱が退治(たいじ)たのはその中の一匹だけであって、それ以前にもそれ以後にも、羅城門には、数多の鬼が棲んでいる……。 板塀に囲まれた路地は、夕闇に暗くなっていた。洞穴のようなその路地を、その親子は手を取り合って歩いていった。 鬼のことを熱っぽく語った、不思議に大人びた女の子と、その父親――片腕のない、その父親が……。 |