2015.07.20 Monday
*『ゼロの焦点』読後感*
『ゼロの焦点』を読了しました。
2回目ですけど、やっぱり、と、云いましょうか、思ったとおり、と、云いましょうか、あんまり面白くありませんでした。 いったいに清張氏の作品は、TVドラマや映画のほうが面白くて、本のほうはつまりません。 総じて推理小説と云うものは、本のほうが面白くて、TVドラマや映画はつまらないものです。 推理小説でも、いわゆるハードボイルド物やサスペンス物などは、映像化されても面白いものでして、清張氏の推理小説も、いわゆる本格派、謎解きの興味を中心とした物ではないのですから、その映像化作品が面白いことは不思議ではないのですが、この手の作品は、本も面白いけど、映像化作品も面白い、と、云うのが一般ですのに、清張氏の作品に限っては、映像化作品のほうが格段に面白く、本のほうは全然つまらないのだから、面白いものです。 例えば、この『ゼロの焦点』ですが――、 新婚早々、行方が知れなくなった夫を捜して、新妻が暗鬱な北国の町をさまよい歩く、と、云う設定は悪くありません。 でも、この最初の設定が、この大枠の設定の魅力を半減させています。 「推理小説の発端は、人間消失の謎にまさるものなし」とは、エラリー・クイーンとJ・D・カーが、一晩語り明かして合意した意見なのだそうですが、ここで云う人間消失の謎とは、姿をくらますことが不可能な状況下で姿をくらます、と、云う、“密室の謎”の一種、あるいはその変形のことです。 “密室の謎”とは、絶対に逃げることができない閉された部屋のなかでの犯行であるにも拘らず、そこに犯人の姿がない、と、云うものでして、これもひとつの“人間消失の謎”です。 しかしここで云う“人間消失の謎”とは、姿をくらます人間が、かならずしも、犯行を犯した人間ではありません。 当人に何らかの事情があって姿をくらましますが、とても姿をくらまし得えない状況下でそれが行なわれるために、“なぜ姿をくらませたのか”と云う興味のほかに、“なぜそのようなことができたのか”と云う興味が加わるのです。 この種の作品の最も優れたものとしては、カーター・ディクソン(J・D・カーのペン・ネーム)の、『妖魔の森の家』が挙げられます。 そう云った意味では、“人間消失の謎”ではありませんが、失踪もまた、広義では、“人間消失の謎”と、云えるでしょう。 『ゼロの焦点』は、そのスタイルを踏襲しています。 しかしその最初の設定が誤っているために、せっかくの設定が、台無しになっています。 いったいにこう云った設定では、およそ失踪しそうもない人が、なぜ失踪したのか、と、云うところに、その興味が生じるものです。 本来ならば、幸せいっぱい花いっぱい、ふたりの人生花盛り、ふたりのために世界はあるのよ、と、云わんばかりの幸せに満ち溢れている新婚夫婦の片方が、突如、何の前触れもなく姿を消すところに、意外性と興味が生ずるのです。 あらゆる状況から考えて、とても自分から姿をくらますようには思えない。かといって、なにものかに拉致されたようにも思えない。犯罪に巻き込まれたようにも思えない。 なのになぜ、消えてしまったのか? それが興味を引くのです。 ところがこの作品では、新婚早々から、夫にはなにか謎めいた暗い陰が暗示されています。 いきなり失踪しても不思議ではないような雰囲気が漂っているのです。 その分、新婚の夫の失踪と云う、本来衝撃的であるべきはずの出来事のインパクトが、相当に毀損されてしまっています。 また、新妻のほうにも、夫に対する愛情が、あまり感じられません。 人を愛すれば当然生じるであろうような、その人のことを知りたい、その人と一緒にいたい、その人の苦しみを和らげてあげたい、その人と一緒に笑いたい、そんな感情、そんな思いが、この作品の主人公である禎子には、まるで感じられないのです。 本来この作品は、突如失踪した夫の行方を求めて、新妻が必死の思いで、見も知らぬ暗鬱な北国の町をさまよい歩く、と、云う、話であるべき筈ですが、新妻の夫に対する愛情が稀薄であるために、その効果が弱められています。 禎子の、憲一に対する愛情が強烈であれば、憲一の兄である宗太郎や、憲一の後任者である本多の出る幕はありません。彼らの果した役割を、禎子自身がやればいいのです。そのほうが、小説としても、緊迫感が出ますし、禎子の切実さも伝わってきます。 いらぬ人物が出てきてウロチョロしていると、小説としての興味は削がれてしまいます。 清張氏としては、謎の核心に迫った宗太郎や本多を殺害することによって、より緊迫感を高め、より謎を深めようと画策したのでしょうけれど、いらぬお世話、余計なお節介、です。 また、田沼久子なる人物を登場させたのも、不手際です。 こう云うミス・ディレクション――いかにも犯人らしい人物ではあるが、じつは犯人ではない――は推理小説の常套手段ですが、それだけに読者は、ははぁ、こいつは犯人じゃないな、と、いち早く、見破ってしまいます。 それだけに、その使い方には、細心の注意が必要です。 その人物が犯人ではない、と、解かっていながらも、なおかつ、読者の興味を惹きつけなくてはなりません。 それが一番成功しているのは、クイーンの『オランダ靴の謎』です。 あるいは、バルネス・オルツィの『隅の老人の事件簿』です。 『オランダ靴の謎』では、クイーン父子がいかにもそれらしい人物を犯人と目して、事件の検討を行います。(その際、読者がともに事件を検討できるよう、ページに余白を取ってメモのスペースを拵えているのが、いかにもクイーンらしい遊び心です。) 『隅の老人の事件簿』は、そのトリックのほとんどが、“入れ替わり”です。犯人と目された人物と、被害者と思われた人物とが、じつは入れ替わっている、と、云うものです。 そのことが解かっていながらも、“この入れ替わりが、どのようなきっかけで判明するのか”、“どのようにして、その入れ替わりを可能ならしめたのか”、そこに重点があるため、トリックは解っていても、興味がなくなることはありません。 清張氏はそのへんの呼吸が未熟でして、読者には、そうではない、と、解っているにも拘らず、いかにも犯人らしい人物の描写に紙数を費やしているために、物語の展開が冗漫になり、退屈になってしまいます。 この弊害は、『砂の器』において、顕著に表れています。 関川にかんする描写を省けば、もっと簡潔になり、それだけスッキリした作品に仕上がっていたろうに、と、思われます。 『ゼロの焦点』における田沼久子の存在も然りでして、なまじ彼女を登場させることによって、そして彼女を犯人らしく仕立てることによって、話が冗漫になり、密度が薄くなってしまいます。 憲一が彼女と束の間の生活を共にするようになった動機も、彼女との生活を清算して禎子との新生活に踏み切る動機も、ぼんやりとして、まったく曖昧なままです。 不思議な感覚ですが、かつて取り締まられる側の人間と、取り締まる側の人間とが、それぞれ当時の素性から離れた現在において、偶然に北国の田舎町で巡り合う、と、云うのも、これがふたりだけでしたら、なるほど、そう云うこともあろうか、と、納得できるのですが、これが三人となると、いくらなんでも、そんな都合のいいことはないだろう、と、思ってしまいます。いわゆる、ご都合主義、と、云うやつです。 久子と佐知子が、久子と憲一が、憲一と佐知子が、それぞれ、どうやって知り合ったのか、そして、どうやって、ふたりの女の暗い過去が暴かれたのか、禎子の推測でしか描かれていません。 この設定は、憲一と真犯人との二人に絞った方が、締りのある展開になったろうと思われます。田沼久子の存在は、不要です。 この作品が生ずるキッカケとなったのは、次のような思いつきからだった、と、云われています。 「米兵を中心とする連合軍に占領されていた頃は、米兵相手に売春をしていた女(いわゆるパンパン)たちが街にあふれていた。最近はそんな女たちの姿を見ないが、彼女たちはその後、どうなったのだろう。なにをしているのだろう。もし彼女たちが更生して、いまでは平穏で幸せな生活を送っているのだとしたら、もしその忌まわしい過去が明るみに出されようとしたら、彼女たちは現在の生活を衛るために、あえて殺人をも辞さないのではあるまいか」 『砂の器』もそうですが、清張氏の作品で特筆するに値するのは、犯人の動機の設定です。 惜しむべきは、清張氏は、それを充分に生かしきれていない、と、云うことです。 先述しましたように、氏は、妙に推理小説仕立てにしようとして、本多良雄、義兄の宗太郎、田沼久子などの、余計な人物を登場させて、物語を散漫にさせています。 この作品の最後の場面もそうです。 直接の当事者でない二人――禎子と儀作――の口から事件の真相、その動機が語られるために、いままでの謎が一挙に明瞭になるカタルシスが感じられません。 ここは禎子と佐知子を相対させるべきでした。 あるいは、回想シーンを使って、憲一と佐知子を相対させるべきでした。 そうして、佐知子が――彼女はもともと、名家の生まれ育ちで、学生時代に得意だった英語が、敗戦後に災いした、と、述べられています――どのような経緯を経てパンパンとなったのか、その生活がいかなるものだったのか、そこからいかにして地方都市の名流婦人となったのか、そこに力点を置くべきでした。 清張氏の筆力、“清張節”と云われた、その独自の文体をもってすれば、推理小説史上に残る名場面となったことでしょうに……。 それをなし得なかったがために、この作品には、妙にもどかしい、消化不良の、スッキリしない思いが残るのです。 最後に犯人が、荒れ惑う北陸の海にひとり漕ぎ出していく、と、云うのも、不自然です。 なぜそんなことをする気持ちになるのでしょうか。 清張氏はそのあたりの心の動きを、充分に筆写しているとは、云いかねます。 その行動は妙に芝居がかっていて、わざとらしいものがあります。 それよりも、断崖で禎子と相対してすべてが明るみになったのち、身を翻して断崖から飛び降りる方が、よほど劇的な効果があるでしょう。 実際、そのような幕切れにしたTVドラマもあったように思います。 清張氏の作品は、その着眼点が優れているため、また、その筆力――独特の文体――があるため、読む人をよく魅了しますが、残念ながら、その美点は短編においてこそ発揮されており、長編、とりわけ推理小説の分野においては、さほど成功しているとは云えない、と、云うのが、正直な感想です。 あえて云いますと、清張氏を評価する人々は、その原作と、TVドラマや映画とを、混同しているのではないか、と、思われるのです。 ハッキリ云いまして、清張氏の長編推理小説は、取るに足りません。 |