ろ〜りぃ&樹里とゆかいな仲間たち

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Sketch(走り書き)と云うよりは……?

 注)タイトルに「*」のついた記事は「ネタバレ記事」です。ご注意ください。
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ろ〜りぃが“師匠”と呼ぶ人が……
ろ〜りぃが“師匠”と呼ぶ人が三人いて、その人たちとの出会いによってろ〜りぃはギターを弾き始め、もって我々は、ヤツの下手くそなギターと音痴な歌を聴かされるハメになったわけあるが……、
そのお三方のなかのお一人は、ギターの絃を替えるとき、使い終わった絃を、一本一本、丁寧にボディから外され、キチンと巻いたうえで、
「いままで、いい音出してくれて、ありがとな」
と、一礼してから捨てられるそうである。
ろ〜りぃがその方を“師匠”と呼ぶのも、もっともだ。
その方のギターは、きっと、やさしい音色を出されるに違いない。
| Woody(うっでぃ) | 気まぐれなコラム | 15:37 | - | - |
『大論理学』(上巻の一)読了
昨日、『大論理学』(上巻の一)を読了した。
いわゆる「有論」の「質」に該当する部分である。
「有論」は『大論理学』の、と云うことは、ヘーゲル哲学の核心をなす部分であり、エッセンスが凝縮されているところである。
ヘーゲル哲学の理解にとって、最も重要なところである。
しかし、逸脱や混乱、先走りなども多く見られる。
それらの――謂わば――“贅肉”を削ぎ落とし、スッキリとした論理の体系として把握するには、そうとうな思惟の力を必要とする。
その力があるかないか、それはやってみなければ分からない。
「泳ぎをおぼえるためには、まず、水の中に入らなければならない」のである。
| 哲ッちゃん | 哲学のおと | 15:01 | - | - |
黒澤明監督が……
黒澤明監督がオスカーを受賞されたときのスピーチで、
「私には映画がまだよく分かっていない」
と、述べられたとき、会場から失笑にも似た笑い声が起こった。
それは、「クロサワに映画が分かっていなくて、だれに映画が分かっていると云うのか」、「いかにも日本人らしい謙遜だ」と、云う風に聞こえた。
しかし、氏は別に謙遜されていたわけではないと思う。
氏がインタヴューなどで、
「ご自身の最高傑作はなんですか?」
と、訊かれるたびに、
「次回作です」
と、答えておられたのは、有名な話である。
おそらく黒澤さんは、よりよき映画を追い求め、追い求め、追い求め続けられたのであろう。
そしてときには、映画を捉まえることに絶望して自殺未遂をはかられ、ときには、スタッフに対して怒鳴り散らしたりもなされたのであろう。
それはあくまでも真摯に、真面目に、生一本に、映画を追い求められたがゆえのことだったと思う。
追い求めても追い求めても追い求めても捉まえきれない自分を歯痒く思いながら、しかし決してあきらめることなく追い続けるとき、人は傍から見れば「謙遜」とも思える心性を獲得する。
「謙遜」が美しいのは、「謙遜しなければならない」、「謙虚であらねばならない」と云う道徳的な訓戒を守っているからではなく、おのずと「謙遜」と思われるような心性になるほどに、ある一つのことを追い求め続けるからであろう。
| Woody(うっでぃ) | 気まぐれなコラム | 14:35 | - | - |


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