2014.06.22 Sunday
「歴史とは……」
「歴史とは、現在と過去との対話である。」
これはイギリスの歴史家、E・H・カーの言葉です。 現在は現在として、独立して存在しているのではありません。 現在は過去の延長線上にあり、未来は現在の延長線上にあります。 過去を知らずして現在を知ることはできませんし、現在を知らずして未来を展望することはできません。 だからこそ、将来如何にあるべきかに思いを馳せる人は、現在が如何なるものであるかを知ろうとし、それゆえに過去を知ろうと欲します。 そして、過去をどう捉えるかによって、現在をどう見るかも違ってきます。 現在を知るためには、どうしても過去を知らねばなりません。 歴史を軽んずる人は、現在を、そして将来をも、軽んずる人です。 とある歌のなかに、 「人は愛を紡ぎながら歴史をつくる」 と云うくだりがあります。 歴史を学ぶと云うことは、人物の名前や起こった事件の年代を憶えることではありません。 歴史を学ぶと云うことは、現在は名も知られていない無数の人々が、泣き、笑い、苦しみ、怒り、悲しみ、喜び、楽しみ、……、精一杯、生きてきたことを、その生きざまを、その生活を知ることです。 その時代、時代を、懸命に生きてきた人たちの心を、気もちを、理解することです。 その人たちが、なにに憤り、なにを求め、なにに喜び、なにに悲しみ、なにに苦しんだのか、……、それを理解しようとする心こそ、歴史を学ぶと云うことなのです。 とある漫画のなかに、石仏を研究している人物が登場します。 その人物が、なぜそんなものの研究をしているのか、と、問われ、答えます。 「むかし、たくさんの人たちがさ、自分たちのいろんな願いがあって、いろんなことを聞いてほしくて、石の地蔵さんをつくって、その地蔵さんに、いろんなことを、訴えかけてたんだよね。 いまはもう、その人たちはいなくなってさ、だけども、地蔵さんはいまでもそこにあってさ、いまはもういないその人たちの声に、いまでも耳を傾けてるんだよね。 いまはもう、その人たちがどんなことを願ってたのか、どんな思いでその地蔵さんを拝んでたのか、分からなくなっちゃったけど、でもそれでも、いつか俺にも、そんな人たちの声が聞こえたらいいな、と、思って、さ」 歴史を研究する人たちの心に共通した想いです。 「歴史は暗記もの」と信じて疑わない人々は、みずからの不明不徳を恥じ、その心性の貧しさを反省するべきでしょう。 |