ろ〜りぃ&樹里とゆかいな仲間たち

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Sketch(走り書き)と云うよりは……?

 注)タイトルに「*」のついた記事は「ネタバレ記事」です。ご注意ください。
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円安によって……
円安によって食料品が値上がりし、庶民の家計を圧迫している、と、云う。
不思議な話である。
経済に詳しいわけではないが、それでも、円安になれば輸出産業は潤い、輸入産業は渇する、と、云うことくらいは知っている。
庶民は、例の中国餃子事件以来、「食の安全」、「安心安全な食品」を心がけ、「安くてもキケンな外国産食品」よりも、「高くても安心できる国内産食品」を購入しているはずではないか?
円安によって値上がりしているのは、「キケンな」外国産の食糧であり、「安心安全な」国内産の食糧は、円安であろうが、円高であろうが、なんの関係もないはずではないのか?
それならば、「安心安全な国内産食品」を求める庶民の家計に、影響が及ぶはずはないではないか?
なんとも、不思議な話である。

| 遊冶郎 | 悪魔のつぶやき | 15:24 | - | - |
某ファスト・フードの店で……
某ファスト・フードの店で提供されるチキン・ナゲットが、中国で生産・加工されたものであることが明らかになって、しかも大量にあるそのうちのたったひとつが、不衛生な床に落とされたものを再び生産過程の戻されたことがネットで拡散して、以来、そのファスト・フード店の売り上げが激減したことは、いまなお、庶人の記憶に新しいことであろう。
そのさい、庶人の感想に、
「中国産は信用できない」
「やっぱり、中国人はいいかげんだ」
「中国人は自分勝手で、衛生観念がない」
「中国人は、自分たちが不衛生なものでも平気で食っているから、あんなことができるんだ」
などと、憤慨したものである。

むかし、米国から輸入された食用牛肉が、狂牛病に汚染された可能性のあるものだったことが発覚したことがある。
そのさい日本の庶人は、
「アメリカ産は信用できない」
「やっぱり、アメリカ人はいいかげんだ」
「アメリカ人は自分勝手で、衛生観念がない」
「アメリカ人は、自分たちが不衛生なものでも平気で食っているから、あんなことができるんだ」
などと、憤慨しただろうか?

日本人の、西洋人に対する、卑屈な奴隷根性と、日本人以外の東洋人に対する、見苦しい優越感情は、いつになったら、払拭できるのであろうか?
| 遊冶郎 | 悪魔のつぶやき | 13:51 | - | - |
“形而上学”とはなにか
『形而上学』と云う書名は、アリストテレスの全集を編纂するに際して、これを『自然学』の後に置いたところから、“TA META PHYSIKA”(『自然学』の後の書)と呼ばれたことによる。
ところがこれが期せずして、その内容からみても、これに相応しい書名となった。
と、云うのも、形而上学とは、自然の背後にあって、自然を規定するもの(「すべての存在のそのように存在するのは、それからであり、それらすべてはそれから生成し来り、その終りにはまたそれにまで消滅していくところのそれ」)、「第一の原因や原理を対象とする」学問であるからである。
それがやがてその対象範囲を拡げていき、社会の在り方(様相)やその進展(歴史)――社会組織、すなわち共同体やその発展形態としての国家、生産・流通・消費などの総体を意味する経済など――、さらには意識の在り方やその発展――意識の表現としての美術、法律、宗教、道徳、そして、精神そのもの――までをも規定する「第一の原因や原理」を追究するようになった。
それは哲学そのものであり、したがって、“形而上学”とは、まさに、哲学そのものの別名である。
エンゲルスは(おそらくは、マルクスやレーニンも)この“形而上学”と云う語を、認識方法、あるいは思考方法の意味に捉え、“弁証法”と対立させた。
ヘーゲルは“形而上学”の内容に、“論理学”の名称を与えた。
いずれも無用の語義変更であり、混乱のもとである。
“形而上学”は、あくまでも、“形而上学”であり、そしてそれは、“哲学”そのものなのである。
| 哲ッちゃん | コラム―哲学もどき | 11:21 | - | - |


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