ろ~りぃ&樹里とゆかいな仲間たち

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仰げば尊し
昨日のLIVEで、「仰げば尊し」を聴いた。
いかに卒業シーズンであり、いかにお年を召されたかた(失礼!)であるとは云え、ライヴで「仰げば尊し」とは、サプライズである。
もっとも、自分も、同じライブ・ハウスでロシア民謡を演り、マスターをして、
「長いことこの仕事やってるが、ライブ・ハウスでロシア民謡演ったヤツは初めてや」
と、笑われたくらいだから、人さまのことは云えない。
しかし、ロシア民謡であれ、「仰げば尊し」であれ、佳曲は佳曲なのである。
現に自分程度の者でも、ロシア民謡で喜んでくださるかたもいらっしゃる。
「懐かしい」
「昔はよう歌ぉた」
[“うたごえ喫茶”ちゅうのがあってなぁ」
と、目を細めて喜んでくださる。
昨日の「仰げば尊し」も、まさに、そんな感じだった。

かつて生意気盛りの小・中学生の頃は、この歌が嫌いだった。
自分が音痴だったからではない。
先生に、ありがとう、と、云い、先生に感謝する歌を、先生たちが自分たち生徒に歌うように強いるとはなにごとか、と、反発したのである。
中学校を卒業するときは、あえて歌わず、口パクでごまかしたことを憶えている。

あれから三十余年、「仰げば尊し」を憶えておいてよかった、と、思う。

親友とも云うべき友人の一人が、中学校の教師になる、と、その将来の希望を述べたとき、自分はおこがましくも、このような忠告を与えたものである。
「先生ちゅうのは、損な商売やぞ。
おまえがいくら、一生懸命、生徒たちのためを思うて、生徒たちのためによかれと思うて、生徒たちのために頑張っても、生徒たちはそんなこと、ちっとも、解かりはせん。
『うっとうしい先公や』
『なんで、あいつの云うこと、聞かなならんのや』
『ほっとけよ、キモイねん』
云うのがほとんどや。
おまえがやったことが生徒たちの身に沁みるのは、生徒たちが卒業して、大人になって、あちこちに散って行って、嫁はん旦那子ども出来たときやねん。
そんときに、
『あぁ、あんときは反発ばっかりしてたけど、あの先生に会えてよかったなぁ』
『俺の(あたしの)中学校のときのあの先生、ええ先生やったなぁ』
『いまんなって、あの先生の云うてたこと、解かるなぁ』
云うて、思ってもらえるねん。
でもそんな思いは、おまえは聞かれへんねんぞ。
そんなこと、思うてくれるヤツがおるかどうかも、おまえには解れへん。
ただ、信じるしかないんや。
なんの根拠もなくても、
『俺の気もちは、俺のやってることは、きっとこいつらのためになる。こいつらも、いつの日にか、きっと、解かってくれるはずや』
そう信じて、毎日毎日を生きて行かなあかんねん。
ツラいぞ。シンドイぞ。
おまえ、そんだけの覚悟、あるか?」
その友人は、一言だけ、云った。
「ある」
と。

自分が、黒澤明監督の熱烈な信者であることは、知る人ぞ知る事実である。
その黒澤明監督の遺作となった『まあだだよ』の冒頭は、こんなシーンであった。
百閒先生の家に、かつての教え子たちが集まってくる。
みな、立派な背広に身をかためた、一人前の大人である。
彼らは先生夫妻とともに、“馬鹿鍋”をつついている。
馬の肉と鹿の肉を鍋にしているから、“馬鹿鍋”である。
「あんときの先生にはまいったよなぁ」
「あの悪戯の発起人は、たしか、君だったな」
「バカ云え、僕はそんなこと云いはせん。ありゃ、こいつが云いだしたんだ」
「おいおい、そりゃ誤解だ。僕はなにも……」
そんな会話が続き、和気藹々とした雰囲気のなか、突如、みなが膝を正すと、
「♪仰げばぁ~、尊しぃ~、我が師の~、恩~」
と、歌い出す。
すばらしく美しいシーンである。

かつて自分が小・中学生の頃に思ったようなことを、いまだに思い続けている親がいるらしい。
先生たちが自分たちに感謝するような歌を、子どもたちに歌わせるとはなにごとか、と。
貧しい心性である。
子どもたちがかわいそうである。
彼ら彼女らが大きくなったとき、かつての自分を振返って、自分たちを育ててくれた先生たちに感謝の念を表したいと思ったとき、彼ら彼女らは、なんの歌を歌うのだろうか?
それとも、そんな親に育てられた彼ら彼女らは、先生に対する尊敬、ありがたさ、懐かしさをも、感じ得ない人間に成り果ててしまうのだろうか?
もしそうならば……人間として、じつに、悲しいことである。

| ろ~りぃ | 気まぐれなコラム | 12:51 | - | - |
漱石の日
昨2/21は、“夏目漱石の日”だったそうである。
漱石は、鴎外などとは違って、真に“文豪”と称されるに相応しい作家であり、大好きな作家のひとりなのだが、その漱石が文部省から博士号を授与されることになったとき、

ホトトギス 厠半ばに 出かねたり

の、句を詠んで、これを辞退したことは有名な話である。

それが2月21日のことだったので、この日を以て、“夏目漱石の日”としたのだ、と、云うことである。

漱石はその著、『彼岸過迄』を公けにするにあたって、「文壇の裏通りも露路も覗いた経験」のない、「全くただの人間として大自然の空気を真率に呼吸しつつ穏当に生息している」、「教育あるかつ尋常なる士人の前にわが作物を公けにし得る自分を幸福と信じている。」
と、述べている。

そんな漱石にとって、勿体らしい博士号など、無用の装飾であったであろう。
いやむしろ、侮辱とすら、感じられたかもしれない。
博士号の授与を“侮辱”と感じる心性は、漱石の作品を読めば、よく解かるだろうと思う。
| 築山散作 | 気まぐれなコラム | 10:08 | - | - |


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