2015.01.18 Sunday
「脱亜入欧」から「和魂洋才」へ
福澤諭吉の著作は読んだことがないので、はたして彼が、その高い世評に相応しい思想家であるかどうか、判別はつきかねる。
それでも、「脱亜入欧」と云う言葉が、彼の言葉であることくらいは知っている。 明治維新政府は、欧米列強によるアジア蚕食に対する危機感と、徳川幕府の政策に対する不信感によって成立した。 それゆえに、「尊皇攘夷」――天皇を尊び、夷狄を攘ち払う――が、討幕のスローガンとなったのである。 しかし、「尊王攘夷」を旗印にして成立した明治維新政府は、欧米列強との親交を篤くし、交易を盛んにした。 そして、国力を充実させ(いわゆる“富国強兵”、“殖産興業”)、遂には欧米列強に比肩する一等国となった。 「攘夷」を旗印にして成立した明治維新政府が、なにゆえに欧米列強に追随するような政策、いわゆる“欧化政策”を採ったのか? 幕末の尊攘志士久坂玄瑞は云った。 「彼の国の勝れたところを学び、その知識を以て、彼の国から我が国を衛るのである」 と。 激烈なる帝国主義の時代、弱肉強食、勝てば官軍、の、時代である。 プロシャの宰相、ビスマルクは云った。 「国際法などと云うものは、強国のためのものだ。弱小国にあっては、国際法など、なんの役にも立たない。弱小国が恃めるのは、みずからの軍備だけだ」 と。 そんな時代に、日本が独立を維持し得たのは、四方を海に囲まれている、と、云う、地理上の要因も大きかったであろう。 また、アジアを蚕食せんとする欧米列強の勢力が、東アジアにあって均衡していた、と、云う、地政学上の要因もあったであろう。 それにも増して、欧米列強によるアジア蚕食に対する危機感が、強烈に発酵していたことが挙げられるであろう。 日本人は、欧米列強の蚕食からみずからの国を衛るために、欧米列強の文物を採り入れ、国力を充実させて、みずからの尊厳と独立を衛り抜いた。 これこそが、真の“攘夷”である。 その“攘夷”を完遂するために欧米列強に学ぶと云う姿勢が、後進諸国たる亜細亜から脱して欧米の仲間入りをせねばならぬ、と、云う、当時の風潮の思想上の表現が、福澤のいわゆる「脱亜入欧」である。 なるほど、当時としては、当然の思想であったであろう。 しかし、現在はどうか? 同じ東洋人種でありながら、同じ東洋人種の人々を蔑視し、欧米人種には媚びへつらう。 情けない心情である。 在日の韓国・朝鮮の人々が特権を受けているのは我慢できなくても、在日米軍人が特権を受けているのは我慢できる。我慢しているどころではない。なんとも思っていないのである。 在日米軍人が日本人の少女をレイプしてもなんらの抗議の声も挙げないが、在日韓国・朝鮮人が生活保護受けていれば、直ちに抗議の声を挙げる。 どこまで白人種に媚びへつらえば、気がすむのか? それが日本人の、“美しき心情”か? 現在、日本人の志向する“保守回帰”、“日本の誇り”なるものは、じつは、明治以後、欧米の思想を導入してつくりあげられた思想である。 我々は、自分たちの国、自分たちを表現するに際して、「和」と云う。 日本食とは、和食である。 日本国とは、和国である。 日本人とは、和人である。 そして、「和」とは、「平和」の「和」である。 「和らぎ」の「和」であるである。 聖徳太子は云った。 「和をもって尊しとなす」 と。 日本人は世界にも類を見ないほどの悠久たる歴史をもち、その長い歴史のなかで、明治以前、外国に攻め入ったことは、秀吉の文禄・慶長の役以外、一度たりとも、なかった。 明治天皇は、日露戦争の直前、このような歌を詠まれた。 「四方(よも)の海 みな同胞(はらから)と思う世に など波風の 立ち騒ぐらむ」 自然を愛し、自然と共に生き、人を愛し、人と共に生き、争わず、闘わず、みな和やかに暮らしていくこと、みな和やかに暮らしていけるような世の中にしていこうと、日々努力しているところにこそ、世界に誇れる日本人の心情の美しさがあるのではないのか? なるほど、西洋に学ぶべきところはまだまだ多い。 しかし、なにがなんでも、西洋がいいわけではない。 西洋の「才」は採っても、「和」の「魂」を売り渡してはならない。 福澤諭吉は、「脱亜入欧」を唱えるとともに、「和魂洋才」をも唱えた。 明治維新から150年近くになろうとしている。 もうそろそろこのへんで、徒らな欧米追従――「脱亜入欧」とは縁を切り、「和魂洋才」へと、切り換えるべきではなかろうか。 |