ろ〜りぃ&樹里とゆかいな仲間たち

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 注)タイトルに「*」のついた記事は「ネタバレ記事」です。ご注意ください。
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『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』
 はい、みなさん、こんばんは。
 今日は、『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』、この映画のお話、しましょうね。
 『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』、これは、一九八四年に公開された、アニメ映画、アニメーション映画ですね。
 は、はあ、アニメ、なんだ、子供向けの映画か。
 あら、あなた、ずいぶん古いこと、おっしゃるのね。まあ、いまどきそんなこと云う人、珍しいね。骨董品、古代の遺跡、世界遺産、天然記念物、絶滅危惧種、ね。
 あら、あなた、怒ったの? ごめんなさい、でもこれ、ほんとうのことですよ。
 いまやアニメは、日本を代表する、立派な、立派な文化、日本が世界に誇る、立派な、立派な、文化ですよ。
 いえ、いまや、じゃないね。むかしから、アニメは、日本の、素晴しい、素晴らしい文化だったの。ただだれも、そのことに、気づかなかったのね。残念ね。貧しいね。アニメの素晴しさを分からない心性、貧しいね。悲しいね。
 で、この『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』、これは、テレビで放映された作品の映画化なのね。テレビで毎週放映して、評判よかったんで、よっしゃ、映画にしよう、云うて、映画になったのね。あのころはそんなアニメ映画、たくさん、あったのね。
 『ルパン三世』もそうでした、『うる星やつら』もそうでした。あの頃はまだ、映画だけで、映画の企画だけで、アニメーションつくろうなんて、そんな時代じゃなかったのね。
 でもそうやってつくられた映画は、テレビとは別の、それ自身で完結した、それ自身で立派な、みごとな、映画になってるのね。そのへんに、映画をつくった人たちの、心意気が見えますね。魂が感じられますね。
 この映画もそう。この映画も、それ自身だけで独立した、テレビ観てなくても解かる、テレビ観てなくても面白い、それ自身だけで完結した、素晴らしい映画になってますね。
 この映画は、宇宙が舞台で、宇宙を舞台に、戦争してるの。
 地球人たちは、地球に住めなくなって、宇宙に出て、宇宙を彷徨って、でもいつか、自分たちの故郷、地球に還ろうとして、宇宙を彷徨ってるのね。
 そんな地球人たちが乗ってる、大きな、大きな宇宙船が、“マクロス”、云うのね。この映画の、タイトル・ロールね。
 そんな地球の人たちは、宇宙を彷徨いながら、戦争してるの。その相手が、とっても、とっても大きな人種。その大きな人種が、二種類、いるの。
 一方は、ゼントラーディって云って、これは男ばかり、男の人ばっかりの宇宙人なの。
 で、もう一方は、メルトランディって云って、こっちは女ばかり、女の人ばっかりなの。
 地球人は、この二つの種族と戦ってるんだけれども、この二つの種族──ゼントラーディとメルトランディも、おたがいに戦ってるのね。まぁ、複雑ね、ややこしいね。
 で、地球人は、戦闘機に乗って、闘うのね。これが、戦闘機、飛行機なんだけれども、ロボットにもなるの。その頃流行った言葉で云えば、“モビル・スーツ”になるのね。
 余談だけれども、「ロボット」云うのは、チェコの、チェコスロヴァキアの劇作家、カレル・チャペック云う人が、造った言葉なのね。
 チャペックは、チェコ語の「ラボル」云う言葉をもじって、「ロボット」云う言葉を造ったのね。
 「ラボル」云うのは、「労働」云う意味。人間に替って、人間の替りに、しんどい労働する人造人間、それが、「ロボット」なのね。
 だから、鉄腕アトムや、ドラえもんは、ロボット、ね。
 でも、マジンガーZや、コンバトラーVなんかは、ロボットじゃないんですね。
 それで、人間が乗り込んで、人間が操る、人間みたいな恰好をした機械のことを、“モビル・スーツ”云うようになったんですね。
 この“モビル・スーツ”云う言葉は、『機動戦士ガンダム』で、初めて使われたんですね。
 それまでは、人間が乗り込んで、人間が操る、人間みたいな恰好をした機械のことも、“ロボット”云うてたのが、この『機動戦士ガンダム』以来、“モビル・スーツ”云うように、なったんですね。
 それで、この映画で、この『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』では、“バルキリー”云う、戦闘機、飛行機なんだけれども、これが、人型の、“モビル・スーツ”にもなるのね。
 その“モビル・スーツ”を操って、地球人は、ゼントラーディや、メルトランディーと、闘うのね。
 その闘い、その戦闘のときに、地球人のひとりが、ゼントラーディに捕まって、捕虜にされて、地球人のこと、訊かれるんですね。尋問、されるんですね。
 そのとき、地球人が、人間が産まれることを説明するんですけど、それが、ゼントラーディの人たちには、解からないのね。
「産まれるとは、生産されることか?」
なんて、云うんですね。
 まぁ、悲しい、なんて、悲しいことなんでしょう。
 人間が産まれる、新しい生命が芽生える、愛し合って、愛し合った人たちの間に、新しい生命、新しい生命が誕生する、素晴らしい、とっても素晴らしいことなのに、それを、「生産される」なんて、まるで、機械を製造するみたいに……。
 でも、それが、ゼントラーディの人たちの考えなんですね。闘うためだけに存在する種族、闘うことだけが存在意義である種族、そんな種族には、「産まれる」と云う思いなんか、ないんですね。「生産される」と云う考えしか、ないんですね。悲しいですね。とっても、悲しいことですね。
 ゼントラーディの人たちは、地球人が持ってた、オルゴール、スウィッチを押すと、音楽が流れ出す人形を、とっても、恐がるんですね。
 戦闘のことしか知らない、戦争することしか知らない、ゼントラーディの人たちは、なんでこんな機械があるのか、解からないんですね。
 なんでそんな機械が、オルゴールなんてものがあるのか、なんでそんなものが必要なのか、理解できないんですね。
 でも、その機械から流れてくる音楽、そのメロディを聴くと、自分たちの戦闘意欲、戦争しよう、敵をぶっ殺そう、そんな気もちが萎えてくる、戦闘意欲が、相手をぶっ殺そう、そんな気もちが消えていく、それは、理解するんですね。
 それで、ゼントラーディの人たちは、これは、兵器だ、音波兵器だ、俺たちの戦意を殺ぐために造られた、地球人独特の兵器に違いない、なんて、云うんですね。
 この映画には、たくさんの、たくさんの、ほんとうに、ほんとうに、素晴らしい人たち、とっても、とっても、ステキな人たちが登場するんですけれども、主人公は、一条輝と云って、バルキリーのパイロットなんだけれども、まだまだ青二才、未熟なのね。
 その一条輝が憧れているのが、アイドル歌手のリン・ミンメイ。
 この一条輝は、ふとしたことがきっかけで、このリン・ミンメイと仲良しになって、ふたりでデート、するのね。それが、いかにも若者風の、いかにも、愉しげなデートなの。
 ショッピングして、ゲーム・センター行って、夕暮に公園行って、ふたりで愉しい時を過ごすのね。いかにも、ミーちゃん、ハーちゃんした、いかにも、愉しげなデートなのね。
 一方、輝には、女の人の上官がいるのね。早瀬未沙って云って、この人が、美人なんだけれども、とってもコワイ、とっても厳しい人なの。
 それで、よく輝とも、ケンカになるの。
「なんだよ、あの女」
「なによ、あのひよっこ」
なんて、ケンカになるのね。
 そのふたりが、とある戦闘で敵にやられて、味方のところに帰れなくなって、漂流することになるのね。
 そのふたりが漂流した先が、これがまぁ、なんとも荒れ果てた星、宇宙から見捨てられたような星、ゴースト・タウンのような星、そんな星に、流れ着くのね。
 それで、ふたりで、この星は、なんて星なんだろう、こんな、見捨てられたような星、この星は、どんな星なんだろう、そう思って探っていくのね。
 この対比、この二人の女の子と、男の子、輝との、デート、道行、その対比が、いかにも、巧いね。上手だね。達者だね。
 ひとりは、みんなのアイドル、いかにも、ミーちゃん、ハーちゃんした、キャピキャピした女の子。
 もうひとりは、軍人、いかにも、シッカリした、カタブツの、上官の、女の子、女の子、と、云うよりも、女の人、オトナの女性。
 輝は、この、まだまだ未熟な男の子は、憧れていたアイドルの女の子とデートできて、コワイ、コワイ、キビシイ、上官の女の人と彷徨って、まぁ、形の違った二人の女性と、形の違った、時間を過ごすんですね。
 このへんの演出が、巧いね、上手だね、達者だね。
 輝は、この、未熟な、いかにも、坊ちゃん、坊ちゃんした、男の子は、コワイ、コワイ、いつも、喧嘩ばっかりしていた、年上の、女の、上官と、流れ着いた星を、この星は、いったい、どんな星なんだろう、そう思って、二人で一緒に、この星を探検しているうちに、じつは、この星こそが、マクロスの住民たちが、マクロスのみんなが、恋焦がれていた、いつか帰るんだ、って、思っていた、地球だった、って、解かるのね。
 そこで、いろんなことが解かってくるの。
 ゼントラーディも、メルトランディも、じつは、異星人、宇宙人なんかじゃなくて、自分たちと同じ、人間だ、って、解かるのね。
 昔々、人間が戦争してた頃、相手よりも強い兵士を造ろう、強い兵士を製造しよう、云うんで、遺伝子を操作して、造り上げたのが、男はゼントラーディ、女はメルトランディ、なんですね。
 まぁこの二種族とも、人間が、戦争のために、戦争に勝つために、自分たちを操作して、造りだしたんですね。非道いね。非道いことするね。
 そんなに、競争することって、勝つことって、大事なことなんでしょうかね。
 その競争が、戦争が、戦闘が、だんだん、だんだん、激しくなって、しだいに、しだいに、激烈になって、地球人たちも、必死に戦うんだけども、だんだん、だんだん、追いつめられて、もうダメ、もういかん、もう負ける、そうなったときに、相手は音楽を聴くと、戦闘能力が鈍る、音楽聴くと、戦意が落ちる、そのことが解かって、マクロスの軍人たちは、音楽を流そう、音楽を流して、相手がひるんだ隙に、総攻撃をかけよう、そう思うのね。
 それで、ミンメイに、歌ってくれ、云うて、頼むのね。
 ミンメイは、輝のことを好きになって、好きになって、好きになって、もうたまらんくらい好きになって、輝が戦争に行くのを嫌がるのね。
 輝が戦争に行って、万一敵に殺されたら……そんなことを考えるだけでも、ゾッとして、恐ろしくなって、怖くなって、悲しくなって、涙が出てきて、もうどうにも、やりきれなくなるのね。
 それで、
「みんないなくなればいい。みんないなくなったら、戦争もしなくてすむ。殺し合いなんかしなくてすむ。輝と私だけいればいい」
なんて、云うのね。
まぁそれほど、この娘は、ミンメイは、輝のことを、好きになったのね。惚れ込んじゃったのね。
そのミンメイを、輝は叱るのね。
「だれも殺し合いなんてしたくない。だれも死にたくないし、死なせたくないんだ。
 ぼくはそのために、精一杯、自分にできることをするんだ」
 その言葉を聞いて、ミンメイも決心するのね。
 自分は歌う。歌うことが、自分の役目なのだから。自分が歌うことで、みんなに勇気を与えられる。みんなの力になれる。自分が歌うことで、みんなが幸せになれる。
 だったら、自分は歌う。自分のためだけじゃなくて、輝のためだけじゃなくて、みんなのために、歌うことが、自分の使命なんだ。
 そう思って、マクロスの、巨大戦艦の先頭に立って、歌うのね。
 その歌が、『愛 おぼえていますか』ですね。
 これがとっても素晴らしい歌、とってもステキな歌ですね。
 みなさん、おぼえてますか?
 はじめて、好きな女の子と、あるいは、男の子と、手をつないで学校から帰ったときのこと、おたがいに目を見交わせて、恥かしくて、思わず目をそむけてしまったときのこと、ドキドキしながら、「好きです」と云った、あのときのこと……。
 それが愛の始まり、それが、人間が、人間を慈しむ、大事に思う、その、始まりなんですね。
 ミンメイが必死になってこの歌を歌って、みんなが突撃して行って、それでも戦況が地球人に不利になったとき、あぁ、もうダメだ、ゼントラーディには勝てないんだ、そう思ったとき、
 その、ゼントラーディの一部隊が、地球人の味方に付くんですね。
 自分たちの同胞を、仲間を、味方を、裏切って、地球人たちの側に付くのね。
 地球人の総司令官が、感謝しつつも戸惑って、驚いて、サンキュー、サンキュー、ありがとう、なんて云っても、驚いて、当惑して、なんで味方してくれるんですか、云うのね。
 もっともね。負けそうになってる地球人に味方しても、自分たちの仲間裏切っても、なんのメリットもないわね。
 でもそのとき、ゼントラーディの副官、参謀が、云うんですね。
「この偉大な、“文化”を、失うわけには参りません」
 素晴しい言葉ですね。歴史に残る、素晴らしい言葉ですね。
 遥かな昔、紀貫之は、『古今和歌集』の仮名序に、こう記しました。
「生きとし生きるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり」
 まさに、歌とはこれ、文化とはこれ、ですね。
 “文化”なんて、なんのことか分らない、オルゴール聴いても、音楽聴いても、音波兵器としか思わない、思えない、そんなゼントラーディの人たちをも、ミンメイの歌は、感動させて、心動かして、自分たちには分らないけれども、このとっても素敵な、“文化”と云うものを、衛らせようとするのね。
 いまだに戦争に明け暮れて、戦闘能力を強化しようとして、戦争のことばっかり考えている国民なんて、ほんとうに、恥かしいね。まるで、ケダモノね。おぞましいね。
 この『愛 おぼえていますか』云う歌、これは、じつは、早瀬未沙が、輝と一緒に地球を放浪しているときに見つけたものなんですね。
 それはどんな歌なんだい、と、聞かれた未沙は、
「むかし流行った、なんの変哲もない、ラブソングよ」
 云うんですね。
 これが、いいんですね。
 文化、文明、芸術、それはなにも、バッハやモーツアルト、ベートーヴェン、ピカソやゴッホや、モネやマネ、シェークスピアやバルザック、ゲーテやトルストイ、そんなんじゃ、ないんですね。それも立派な、文化、文明、芸術なんだけれども、それだけじゃ、ないんですね。
 ヒットして、一年で消えてしまう、そんな音楽にこそ、そのときに生きた、そのときに笑い、悲しみ、はしゃぎ、ケンカし、落ち込み、殴り合い、仲直りした、友だちと一緒に自転車こいで家に帰った、学校サボって映画観に行った、空地で野球した、下校中の喫茶店で、好きな男の子や、女の子たちの話した、道路で鬼ごっこした、そうした、そのときに、精一杯生きた人たち、その人たちの想いが、つまってるんですね。
 それこそが、“文化”なんだ、それこそが、人間が、人間として存在している、いちばんの理由なんだ、そのことを、この映画は、教えてくれるんですね。
 この素晴らしい映画、アニメだけれども、とっても素晴らしい映画、この『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』、ぜひ、ご覧なさいね。

https://www.youtube.com/watch?v=L6ItZbHKEBY

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| 映ちゃん | 今夜もしねま☆と〜く | 21:15 | - | - |
『荒野の決闘』
 はい、みなさん、こんばんは。
 今日は、『荒野の決闘』、この映画のお話、しましょうね。
 『荒野の決闘』、これはもう、有名な、有名な、西部劇。
『駅馬車』と並ぶ、西部劇の、二大巨峰、双壁、いえ、たんに、西部劇、と、云うだけじゃなくて、映画の、二大巨峰、映画の、双璧、ですね。映画の歴史に残る、名作ですね。
 原題は、“My Darling Clementine”、「愛しのクレメンタイン」。
 この映画は、あの有名な、O.K.牧場の決斗、アープ兄弟と、クラントン一家との銃撃戦、実際にあったあの事件を、もとにしてつくられた作品ですね。
 アメリカ人は、まぁ、たいへん、この事件が、好きなんですね。この事件をもとにした映画を、たくさん、たくさん、つくってますね。
 日本で云う、「忠臣蔵」みたいなもんね。
 『O.K.牧場の決斗』がありましたね、よかったなぁ。
 『墓石と決闘』がありました。よかったなぁ。シブかったなぁ。
 『ワイアット・アープ』と云うのもありました。大作でしたね。
 それから、『トゥームストーン』がありましたね。カッコよかったね。
 ほかにも、たくさん、たくさんの作品が、この事件をもとにして、つくられました。
 『荒野の決闘』も、もちろん、この、O.K.牧場の決斗を描いてはいるんですけれども、でも、他の映画とは、ちょっと、違うの、描き方が。雰囲気、ニュアンスが、ちょっと、違うのね。
 そうね、ローレンス・カスダンが監督した、『ワイアット・アープ』、これが、ちょっと、似てるかな? でも、やっぱり、どこか、違うのね。
 『荒野の決闘』は、『荒野の決闘』云うけれども、決闘がメインじゃないの。
 そこにあるのは、西部の、開拓時代の、アメリカの、生活。その頃、そこに住んでた人たちの、その頃、そこで暮らして人たちの毎日の生活、それが、描かれてるんですね。
 ぼくの友だちが、この映画を評して、
「西部の生活の匂いがする」
 云いましたけど、まさに、そのとおり、ですね。
 この映画には、いい場面が、たくさん、たくさん、あります。
 牛追いをしてるアープ兄弟が、トゥームストーンという町に立ち寄ります。
 そこで、町なんて久しぶりだ、と云うので、みんなで町に行こうとします。ところが、だれかひとりだけ、牛の番をしてなきゃいけない。ひとりだけ、牛たちを見張ってなきゃいけない。
 そのとき、兄弟のなかでも、いちばん末っ子の男の子が、いいよ、俺が牛の番しとくよ、兄さんたち、町行ってきなよ、なんていって、自分が牛の番、引き受けるんですね。
 この子は、もうすぐ故郷に帰れる、故郷に帰れば、恋人が、許嫁が待ってる。だから町へ行くよりも、町へ行ってお酒飲んで陽気に騒ぐよりも、ひとりで、その恋人のこと、考えていたいんですね。恋人にあげるプレゼントも買った、そのプレゼント、大事に、大事に持ってる、故郷に帰ったら、これをあの娘に渡そう。なんて言って渡そうかな、これ気に入ってくれるかな、いつ会いに行こうかな……、そんなこと、考えていたいんですね。
 お兄さんたちも、そのこと分かってるから、ああそうか、すまないな、じゃ、よろしく頼むよ、なんて云って、町に行くんですね。
 ところが、お兄さんたちが町に行って、この子がひとりで牛の番をしてるところに、泥棒が来ちゃうんですね。泥棒と云っても、コソコソした泥棒じゃない、仲間の大勢いる、徒党を組んでる泥棒、強盗なんですね。
 その牛泥棒、牛強盗に、かわいそうに、この子、殺されちゃうんですね。殺されて、アープたちの牛、みんな、持ってかれちゃうんですね。
 お兄さんたちが町から戻ってみると、牛が一頭もいない。末っ子の、弟の姿も見えない。どこ行ったんだ、どこにいるんだ、って、みんなで捜してると、その子が殺されて、倒れているのを見つけるんですね。
 で、お兄さんたちは、穴掘って、お墓つくって、この子を埋めてあげるんですね。
 雨が降ってる。そのお墓の前で、雨に濡れながら、お兄さん、ワイアット・アープが、かわいがってた、末っ子の、お墓の前で、悲しむんですね。まだ若いのにな、あんなに彼女に会うの、恋人に会うの、愉しみにしてたのな……。
 泣いてないの。涙は、一滴も、流してないの。苦しそうな、胸のモヤモヤを、懸命にこらえてるような、苦しそうな表情してるんだけど、涙は流してないのね。その代わり、雨が降ってるの。ザア、ザア、ザア……、って、雨が降ってるの。それが、このお兄さんの、涙なのね。
 悲しい、悲しいけれど、きれいな、きれいな場面ですね。すてきな場面ですね。
 それで、このお兄さん、ワイアット・アープは、この町、トゥームストーン云うこの町で、保安官になるのね。ワイアットは、牛追いする前は、保安官だったの、他の町で。名保安官だったのね。それでこの町でも、保安官にならないかって云われたんだけど、最初は断ったの。俺は牛を追って、故郷に帰るんだって云って、断ったのね。それは、末っ子の弟が殺される前。
 末っ子の弟が殺されて、自分たちの牛盗まれて、ワイアットは、この町で保安官になることにしたのね。自分たちの牛取り戻して、末っ子の弟の仇とるために。
 保安官になったワイアット・アープは、この町、トゥームストーンを牛耳っている親分に、渡りをつけよう、この町の実力者に挨拶しよう思うて、酒場に行くのね。
 この町を牛耳っている実力者、それが、ドク・ホリデイ。ドク、云うのは、ドクター、お医者さんのことですね。このドク・ホリデイは、もともとは、東部で開業してた、立派なお医者さんだったんだけど、結核になって、当時は不治の病、云われた結核になって、西部の乾燥した空気が結核にはいいから、云うて、西部に来たのね。
 ところが、西部に来ても、お医者さんはやらなくて、不治の病、結核になった云うんで、すさんで、荒れ果てて、自暴自棄になって、呑んだくれになって、博奕うち、ギャンブラーになって、人殺しまでするようになって、あいつの歩いた後には墓場ができる、なんて、云われるようになったのね。
 そんな物騒な男なんだけれども、根は善人で、アープもこの男のことを好きになって、友だちになるのね。
 ドク・ホリデイは、博奕うち、人殺し、なんだけれども、お医者さん、インテリで、この町に、トゥームストーンに、旅回りの役者が来て、酒場で『ハムレット』のセリフを云ってる時に、この役者が後が続かなくなって、セリフを思い出せなくなったときに、後を引き取って、そのセリフを続けるのね。
 これがいい場面なのね。
 傍にいたワイアットが、ビックリして、こいつ、インテリだな、なんて表情をするのが、とっても面白いね。このあたりの呼吸、ヘンリー・フォンダ、さすがですね、巧いね。
 さて、このドク・ホリデイのことを、好きで好きでたまらない女の子が、東部からやって来るんですね。元はドク・ホリデイのところで、看護婦をやってた女の子、その娘が、ドクを追っかけて、西部まで、このトゥームストーンまで、やって来るのね。
 その娘が、クレメンタイン、云うのね。
 ドクもこの娘が好きなんだけど、自分は結核患ってる、自分は博奕うち、人殺し、もう昔みたいなお医者さんじゃない、とても、クレメンタインみたいな、純情な、かわいらしい、お嬢さんと一緒にはなれない、そう思って、なんでこんなとこ来た、ここはおまえなんかの来るようなところじゃない、さっさと東部に帰れ、云うて、わざと冷たくするんですね。
 それでも、クレメンタインは、帰らないんですね。博奕うってても、呑んだくれてても、人殺ししても、それでもドクは善人だ、ドクはいい人だ、この人は、わざと悪い人を演じているだけだ、そう信じて、ドクを昔のドクに戻そうとするのね。
 ドクには恋人がいて、ドクはそんなにその女のこと、好きじゃないんだけれども、女のほうは、すごくドクのこと、好きなのね。
 その女が、チワワ、云うて、まぁ、かわいらしい、ワンちゃんみたいな名前なんだけど、これが酒場の歌姫、娼婦、なのね。
 クレメンタインが訪ねてきて、ドクが苦しんでるときに、チワワは、なんとかドクを励まそう、元気にさせよう、思うたけど、ドクは、それどころじゃなくて、チワワに冷たくしちゃうのね。
 それで、チワワは怒って、浮気しちゃうの。浮気して、かねてから言い寄って来てたクラントン家の若い人と寝ちゃうの。
 そのとき、クラントン家の、その若者が、チワワに、これ、プレゼントだよ、云うて、ペンダント、あげるのね。
 ところがそのペンダントは、ワープの弟、あの、殺された、末っ子の弟が、故郷の恋人にあげよう、思うて、持ってたものなのね。
 それで、アープがそのことに気づいて、これはどうしたんだ、だれに貰ったんだ、云うて、チワワを問い詰めるのね、ドクも一緒になって。
 チワワは、最初は、ドクにもらった、云うてたけど、それがワイアットの弟を殺した犯人が持ってるもんだって知って、ほんとうのこと云うのね、
 そしたらそのとき、窓の外でそのやり取りを見ていたクラントン家の若者が、バン、って、拳銃撃って、チワワを殺そうとするのね。
 チワワは撃たれたけど、拳銃で撃たれたけど、死ななかったの。急所に命中しなかったんだね。でも、撃たれた、拳銃で撃たれた、重症、重体になっちゃった。
 さあ、どうしよう、えらいことになった、このままじゃこの娘、死んじゃう、どうにかせにゃ、なんとかせにゃ。
 そこで、ワイアットがドクに、おまえ医者だろう、おまえが手術しろ、おまえが手術して、この娘の身体から弾を取り出せ、云うのね。
 ドクは、俺はもう医者じゃない、もう何年も手術なんかしたことない、そんなのムリだ、できない、云うのね。
 でもワイアットは、おまえが出来なきゃ、この娘は死んじゃう、おまえしか出来るヤツはいないんだ、云うて、ドクに、手術させるのね。
 そして、クレメンタインが看護婦になって、ドクを助けて、無事、手術は、成功するのね。
 そして、みんなで、よかった、よかった、手術は成功だ、さすがはホリデイ先生だ、なんて云って、乾杯するのね。
 そのとき、おばさんが、このおばさんは、町の風紀取締委員なんかやってる、かたい、かたい、おばさんなんだけれども、ふだんは、チワワみたいな女がいると、町の風紀が乱れる、ドクのような男がいると、町が物騒になる、なんて、チワワやドクのことを軽蔑して、毛嫌いして、忌まわしく思って、町から追放しよう、なんて、云ってた人なんだけれども、そのおばさんが、ドクのことを、「先生」云うて、チワワを自分ちで面倒見てあげたい、なんて、云うのね。
 いいねぇ。きれいな、とっても、きれいなシーンだね。
 ドクも、なんだ、いままで散々、バカにしてやがったくせに、なんて、云わないのね。サンキュー、ありがとう、云うて、そのおばさんに感謝するのね。
 そうして、外に出て行くと、クレメンタインが、ドクのことを好きな看護婦さんが、後を追っかけてきて、
「ホリデイ先生、わたし、あなたのことを、誇りに思います」
云うのね。
これは、I Love You 云うことなのね。あなたのこと、大好きです、云うのね。
 ドクもそれは解かるんだけど、だけど今の自分は、呑んだくれの、結核もちの、人殺しの、博奕うち、昔のお医者さんじゃない、そう思ってるもんだから、
「ありがとう。チワワは強い子だ」
云うて、わざと、チワワを褒めて、クレメンタインを、このお嬢さんを、突き放して、そして、去っていくのね。
 クレメンタインは、まだあの人は、まだドクは、強がってる、わざと強がって、昔の自分に戻ろうとしない、そう思って、その後ろ姿を見送るのね。
 それを、酒場のカウンター、カウンターの端っこから見てたワイアットが、悲しそうに、寂しそうに、
「なぁ、マック、恋をしたこと、あるか」
云うのね、バーテンに。
 そしたら、そのバーテン、マックは、
「いいえ。バーテン一筋の人生でしてね」
なんて云うのね。
 いいなぁ。きれいだなぁ。巧いなぁ。
 これだけで、このやりとりだけで、この二人の気もち、この二人の思い、このふたりの人生、それが、全部、表現されてるのね。
 ワイアットは、保安官やったり、牛飼いやったり、いろんなことして、一生懸命生きてきて、とっても、恋なんてしてるヒマ、なかった。
 バーテンのマックも同じ。西部に来て、知り合いもいない、友だちもいない、スッカラカンの、裸一貫、そこから、一生懸命働いて、働いて、働いて、やっと、自分のお店、自分の酒場がもてるようになって、とっても、恋なんてしてる時間、なかった。
 ふたりとも、この西部で、一生懸命、一生懸命、働いて、働いて、働いて、とても、女の子と仲良くなる、女の子と手つないで歩く、女の子と遊びに行く、そんなこと、できなかったのね。
 その人生が、全部、解かるの。これだけの会話で。すごいですね。すばらしい脚本、すばらしい演出ですね。
 しかも、そのワイアットが恋してる相手は、クレメンタインは、ワイアットの親友、ドクのことが好きで、大好きで、ドクを追っかけて、東部から、はるばる、西部までやって来た女の子なんですね。
 ワイアットは、クレメンタインのことも好きなんだけど、ドクのことも好き。ドクには、男と男の心意気、男と男の友情、そんなのを、感じてるんですね。
 だから、とても、ドクからあの娘、あのかわいい女の子、クレメンタインを奪ってやろう、そんなふうには、思えないんですね。
 その思いが、その苦しさが、「なぁ、マック、恋をしたこと、あるか」云う、たった一言のセリフのなかに、こめられてるんですね。その、たった一言のセリフの中に、ワイアットの、なんとも云いようのない、なんともやるせない思いが、にじんでるんですね。
 素晴しい場面、ステキな場面、映画史に残る、素晴らしい場面ですね。
 さて、この映画、最後は、アープ兄弟と、クラントン一家との、決闘、果たし合い、銃撃戦になるんですけれども、この、クラントン一家が、アープたちの、末っ子の弟を殺して、まだ小っちゃい、故郷に帰って、恋人に会うのを楽しみにしてた、そんな末っ子を殺して、アープたちが大事に、大事に運んできた、牛を盗んだんですね。
 それで、ワイアットを始めとするアープ兄弟と、クラントン一家が、決闘するんですね、O.K.牧場で。
 この決闘に、この果たし合いに、ドクも、ドク・ホリデイも、参加するの。
 ドクは、チワワの手術が成功して、チワワの手術がうまいこといって、ちょっと自信を取り戻しかけてたのね。ところが、そのチワワが死んじゃった。やっぱり、うまく行かなかった。やっぱり俺は、名医なんかじゃないんだ、もう俺は、昔の、ドクター・ホリデイじゃないんだ。やっぱり俺は、ヤクザな呑んだくれ、博奕うち、人殺しなんだ、そう思って、自棄になっちゃうのね。
 それで、自棄になって、自暴自棄になって、半分、自殺するみたいに、O.K.牧場の決闘に参加するのね。
 それで、その、O.K.牧場の決闘の、その、撃ち合いの、最中に、喀血して、咳き込んで、口から血流して、それで、敵の弾に撃たれて、死んじゃうのね。
 最後、ラスト・シーン、クラントン一家はいなくなっちゃった、町は平和になった、だけど、ドクは死んじゃった、いなくなっちゃった、それでも、クレメンタインは、ドクのことを、心から大好きだった、クレメンタインは、この町に残って、この町で、先生やって、子どもたちを育てて行こう、思うのね。
 アープは、ワイアットは、故郷に帰って、お父さん、お母さんに、このこと話して、いままでのこと話して、気持ちを切り替えて、これから、新しい人生、新しい生き方、しよう、思うのね。
 そのとき、クレメンタインと別れるとき、アープは、
「ぼく、クレメンタイン、云う名まえ、大好きです(I like that name……Clementine)」
 云うて、クレメンタインのほっぺに、キス、するのね。
 そうして、去っていくの。
 まぁ、きれいですね。ほんとに、きれいな、すてきな、ラスト・シーンね。
 この素晴らしい映画、ステキな映画、ジョン・フォードの傑作、『荒野の決闘』、ぜひ、ごらんなさいね。

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| 映ちゃん | 今夜もしねま☆と〜く | 21:52 | - | - |
サウンド・オブ・ミュージック
はい、みなさん、こんばんは。
今日は、『サウンド・オブ・ミュージック』、この映画のお話、しましょうね。
『サウンド・オブ・ミュージック』、これはもう、みなさん、よくご存知ですね。
ミュージカル映画の傑作、とってもきれいな映画、とってもさわやかな映画、とってもステキな映画、ですね。
こないだテレビのニュース番組観てたら、あら、あんたもテレビ観るの? ですって?
まぁ、失礼ね。わたしだって、テレビくらい観ますよ。たまには。
そんなわけで、テレビのニュース番組観てたら、この『サウンド・オブ・ミュージック』の特集、やってるの。あら、どうしたのかしら、イキなことしてるじゃない、なんて思って観てたら、なんと、今年2015年は、この『サウンド・オブ・ミュージック』が出来て、ちょうど、50年になるんだって。
なるほど、この映画は、1965年、昭和40年の映画だから、今年でちょうど、50年になるわけね。
50年と云えば、半世紀、もう半世紀も前になるのね、この映画がつくられてから。
まぁ、古い映画になっちゃったね。
でも、やっぱり、きれいな映画、さわやかな映画、ステキな映画であることには、変わりありませんね、50年経っても、半世紀経っても。
この映画は、オーストリアの、きれいな山並み、あのアルプス連山の、あの綺麗な山並みや、その麓にひろがる、いかにもきれいな町並みを舞台にして、あのアルプスの大自然を、いかにもきれいに、撮影してますね。
この映画を評して、「ミュージカルのキャメラが、大自然に入った」なんて云った人がいましたけど、まさに、そのとおりですね。
それまでミュージカルの映画と云えば、撮影所にセットを組んで、撮影所のなかで、撮影所の中だけで、撮影してたんですね。ロケーションなんて、なかったんですね。それが、この映画で、ロケーション撮影が行われたんですね、ミュージカル映画で。これは、じつに、画期的なこと、斬新なこと、新しいことだったんですね。
1961年に、『ウエストサイド物語』ができたときにも、「ミュージカルのキャメラが、街中に飛び出した」なんて云われましたけど、この『サウンド・オブ・ミュージック』のときにも、同じように云われたのね。
この『サウンド・オブ・ミュージック』の主人公は、マリアさん、と、云って、修道女、シスター、西洋の、キリスト教の教会の、尼さん、その尼さんの、見習い、学生なんですね。
これから一生懸命、お勉強して、聖書、キリスト教のお経を勉強して、お勤めして、説法聴いて、そうして、一人前の尼さん、シスターになる、そんな人なんだけど、まぁ、このマリアさんと云う娘が、トンデモナイ娘さんなのね。
お勉強キライ、お経、聖書キライ、お勤めキライ、説法聴くのキライ、そんな辛気臭いことしてるより、お外行って、踊って、はしゃいで、歌唄ってるのが好き、そんな、ほかの尼さんたちから見たら、とんでもないお転婆娘なのね。
それで、あなた、そんなことではいけません、そんなことでは、立派な尼さん、立派なシスターになれません、なんてお説教するんですけど、このマリアさんは、全然、堪えないのね。
怒られて、お説教されて、そのときは、シュン、と、なってるんだけど、ちょっとすると、もうまた、お外行って、歌って、はしゃいで、そんなことの繰り返しなのね。
それで、シスターたち、尼さんたちが、もうあの娘は手におえない、好い子なんだけど、とっても手におえない、わたしたちではどうしょうもない、なんて、とうとう匙を投げちゃうんですね。
そこで、尼さん、シスターたちは、一計を講じるんですね。
ある日、このマリアさんを呼び出して、あなた、家庭教師、やりなさい、云うんですね。
マリアさんが吃驚してると、トラップさんと云う軍人さんのお家が、お母さんがいなくて、子どもさんたちの面倒見る人を探してる、あなた、そのお家に行きなさい、あなたみたいな子は、厳しい軍人さんのお家で、厳しくしてもらわなくてはいけません、なんて云って、ムリヤリ、この娘さん、尼さん見習いのマリアさんを、軍人さんの家の、家庭教師にしちゃうんですね。
まぁ、そんなのイヤ、そんなのイヤ、軍人さんのところなんて、そんなところ、軍隊みたいなところに決まってる。そんなところ行ったら、もうお外出て歌えない、勝手にお外に出て、歌ったり、踊ったり、はしゃいだりできない。イヤだ、イヤだ、イヤだ。
でも、とうとう、マリアさんは、この軍人さん、トラップさんのお家に行くことになるのね。
そのときマリアさんは、これからの自分を勇気づけるように、歌を歌うのね。
マリアさんを見送るシスター、尼さんたちも、「神さま、マリアをお見守りください」なんて歌うのね。
いい場面ですね。きれいですね。
厳しいけれども、恐いけれども、それでも、このシスター、尼さんたちは、やっぱり、マリアのことを気にかけて、心配してるのね。マリアのことが好きなのね。マリアに、立派なシスター、尼さんになってもらいたい、思ってるのね。
そう思って、わざと、厳しい軍人さんのお家に、家庭教師として、送り出すのね。
さて、マリアさんは、その軍人さん、トラップさんのお家に着いて、お父さんと会って、お父さんに、お家のこと、教えてもらうのね。
あぁ、君がマリア君か、よろしく頼むよ、家は子どもが多くてね、大変だろうが、しっかりやってくれたまえ、なんて云って、よし、じゃあ、子どもたちに引合わせよう、云うて、スッ、と、椅子から立つと、呼子笛を出して、ピー、って、鳴らすのね。
マリアさんが吃驚してると、二階の部屋のドアが、バタバタバタ、って、開いて、子どもたちが、ドタドタドタ、って、部屋から出てきて、ダンダンダン、って、階段を駆け下りてきて、お父っつあんの前に、ピタッと並ぶのね。きれいに、整列するのね。
そして、お父っつあんが、今度来てくれた先生だ、なんて、マリアを紹介して、みんな、ご挨拶しなさい、なんて、云うのね。
そしたら子どもたちが、一番年上の娘が、一歩前に出て、ご挨拶するのね。
そしてその娘が一歩下がって元の位置に着くと、今度は次に大きい子が、また一歩前に出て、ご挨拶するのね。
それがすむと、その子もまた一歩下がって、元の位置について、今度は……。
云う具合に、みんなが先生、マリアさんにご挨拶するのね。
それを見てマリアさんは、もう吃驚仰天、なにこれ、まるで軍隊じゃない。そう思うのね。
あぁ、エライ大変なところに来てしまった……、そう思うのね。

それでもマリアさんは、一生懸命頑張って、だんだん、子どもたちと仲良くなって、いろんなお話しするようになるんだけど、あるとき、このお家では、歌唄っちゃいけない、って、聞くのね。
このお家では、歌を唄っちゃいけないんだ、亡くなったおっかさんが歌が好きで、しょっちゅう歌ってたんだけど、そのおっかさんが亡くなって、歌うと、その、亡くなったおっかさんのことを思い出して辛いから、歌唄っちゃだめだ、って、お父っつあんが云うんだ、云うのね。
そしたらマリアさんが怒って、まぁ、なんてひどい、なんてひどいんでしょ、歌唄っちゃいけない、なんて、そんなのひどい、ひどい。
歌を唄うのは素晴らしいこと、ステキなことなのに。
イヤなこと、ツラいことがあったとき、歌を唄ったら、そのイヤなことも、ツラいことも、みんな吹き飛んで、みんななくなって、とっても仕合せになれるのに。
愉しいこと、嬉しいことがあったとき、そんなときに歌を唄うと、その愉しみが、その嬉しさが、もっと、もっと、愉しく、嬉しくなるのに。
なのに、歌を唄っちゃいけないなんて、そんなのひどい、そんなのひどい……。
そこでマリアさんは、一計を講じるのね。
マリアさんはお父っつあんに、子どもたちをピクニック、ハイキングに連れて行きたい、云うのね。
お父っつあんは、うん、ピクニックか、ハイキングな、うん、それはいい。軍人の子どもたるもの、つねに身体を鍛えておかねばならん、ピクニック、ハイキングは、身体を鍛えるにはいいことだ、行きたまえ、行きたまえ、なんて云って、喜んで、賛成するのね。
さぁ、子どもたちは大はしゃぎ。長いことお外に出るなんてこと、なかった。お外に出て、山の中の、大自然の中で、厳しいお父っつあんのいないとこで、みんな遊んで、はしゃいで、お弁当食べて、愉しむのね。
マリアさんはそんな子どもたちを見て、ほんとうに仕合せそうに、ニコニコしてるのね。
そしたら一人の子どもが、先生が、マリアさんが、なんか変なもの持ってるのに気づいて、先生の傍に来るのね。
先生、変なもの持ってる、見たことないもの持ってる、あれなんだろう、お弁当箱かな? おもちゃ箱かな?
先生、それなに? それ、なにが入ってるの? 云うと、先生、マリアさんは、これ? って、悪戯っ子みたいな微笑みを浮かべて、とっても素晴らしいものよ、って云って、その入れ物開けるのね。
そこから出てきたのは、ギター、なのね。
マリアさん、お父っつあんに内緒で、ギター、持ってきたのね。
そして、さぁ、みんなで歌いましょう、云うのね。
そしたら子どもたちは、ダメだよ、お父っつあんに、歌っちゃいけない、歌ったりしたら、お父っつあんに叱られるよ、云うんですね。
大丈夫よ、ここならお父っつあんにバレないわ。だから安心して、みんなで歌いましょう、云うのね。
子どもたちも喜んで、歌おうとするんだけど、でも先生、ぼくたち、歌なんて知らないよ、歌なんて、どうやって歌うの、どうすればいいの、云うんですね。
マリアさんは、簡単よ、こうすればいいの、云うて、ギターを弾いて、歌い出すんですね。
それが有名な、『ドレミの歌』ですね。
しばらく聴いていた子どもたちも、あぁ、これなら歌える、これなら歌える、云うて、みんなで、この『ドレミの歌』を、歌うんですね。
いいですねぇ。きれいですねぇ。とっても、ステキな場面ですね。
オーストリアの、アルプスの、真っ白な雪が見える山の中、大自然の中で、子どもたちと先生が、一本のギターで、一緒の歌を唄う。愉しそうに、嬉しそうに、みんなで歌う。
とってもステキな、とっても素晴らしい場面ですね。

お父っつあんは、歌を唄っちゃいけない、云うたけれども、それは、歌がキライなんじゃなくて、歌を唄うと、亡くなったおっかさん、大好きだった嫁さんを思い出して辛いから、歌唄っちゃだめだ、云うてたんですね。
ほんとはお父っつあんも、歌は大好きなんですね。
それで、このお父っつあんと、先生のマリアが、だんだん、だんだん、仲良くなってきて、だんだん、だんだん、お互いのことが解かって来て、そうしてとうとう、このふたり、結婚することになるんですね。
子どもたちも、みんなこの結婚に、この縁組に賛成して、このお家が、トラップ家が、とっても仕合せに、とっても和やかに、とっても幸福に、なるんですね。
ところが、そこに、ナチがやってくるの。

隣の国のドイツ、ナチが、ナチスが、軍隊を繰り出して、オーストリアを、乗っ取っちゃう、オーストリアを、併合しちゃうんですね。
お父っつあんは、軍人だけれども、ナチは嫌い、大嫌い、ナチが、オーストリアの全部の家の軒先に、ナチの紋章、ハーケンクロイツ、鉤十字の紋章の旗を掲げろ、なんて指令を出したときは、そのナチの旗、ナチの紋章、ハーケンクロイツ、鉤十字の紋章の旗を、ビリビリ、って、破り裂いた、それくらい、ナチが嫌いなんですね。
そのナチが、ナチスが、軍隊を繰り出して、ムリヤリ、力づくで、オーストリアを併合したけれども、俺たちはなにも、野蛮人じゃない、おれたちだって、文化的なんだ、それを教えてやろう、なんて、考えて、音楽会を開くんですね。自分たちも、音楽に理解があるんだ、そういうことを示そうとして、音楽会を開くんですね。
その音楽会に、トラップ一家を招くの。招く、と、云うよりも、出ろ、出場しろ、云うて、強制するのね。
ナチの圧力だから、この音楽会には出なくちゃいけない、でも、ナチの支配する、ナチに併合されたオーストリアにはいたくない、オーストリアのことは好きだけれども、ナチに支配された、ナチに併合されたオーストリアは、ほんとうのオーストリアじゃない、こんな、ナチに支配された、ナチに併合されたオーストリアは出て行って、オーストリアが、ほんとうのオーストリアになれるよう、頑張ろうじゃないか、そう云って、お父っつあんは、オーストリアを出て行こうとするのね。
マリアさんや子どもたちに、そのことを話すと、みんな、マリアさんも、こどもたちも、お父っつあんに賛成するのね。賛成するけれども、音楽会には、出なくちゃいけない。じゃあ、その音楽会が終わったら、みんなでオーストリアを出て行こう、みんなでアメリカに行こう、云うことになるのね。
それで、その音楽会、ナチス主催の音楽会に、トラップさんの一家は、出るんだけれども、そこで、お父っつあんは、『エ―デルワイス』を、歌うのね。
エーデルワイスは、オーストリアの国花、国の花、なのね。
それは、ひまわりや菊みたいな、堂々とした花じゃないの。チューリップみたいな華やかな花でもないし、桜みたいな絢爛な花でもない、それは、アルプスの高原にひっそりと咲く、小っちゃな、小っちゃな花、小っちゃな、小っちゃな花だけれども、それは、とってもきれいな花、小っちゃくて、真っ白で、とっても、とっても、きれいな花。
オーストリアも、そんな国、小っちゃくて、小っちゃくて、大きな、大きな、ナチスに併合されちゃったけれども、それでも、オーストリアは、きれいな国、すてきな国、とっても、とっても、素晴らしい国、この『エーデルワイス』は、そんな歌なのね。
お父っつあんは、この歌を唄ってる最中に、涙ぐんで、涙が出てきて、声がつまって、歌えなくなっちゃうのね。
オーストリアはいい国、オーストリアは素晴らしい国、オーストリアはとってもきれいな国、そう思って歌ってたんだけど、そのオーストリアは、ナチスに併合されちゃった、ナチスに占領されちゃった、もうステキなオーストリア、素晴らしいオーストリア、きれいなオーストリアはなくなっちゃった。もうオーストリアはないんだ、なくなっちゃったんだ。
そう思うと、悲しくなって、悲しくなって、歌えなくなっちゃうんですね。
舞台の上で、涙出てきて、声がつまって、歌えなくなったお父っつあんに、会場から、客席から、マリアさんが立ち上がって、後を続けるんですね。マリアさんが、おっかさんが、お父っつあんの後を引き継いで、お父っつあんの後を、歌い継ぐんですね。
そしたら、今度は子どもたちが、歌い出すんですね。
そうして、お父っつあんも、勇気づけられて、元気になって、これじゃいかん、思うて、また、歌い出すんですね。

♪エーデルワイス エーデルワイス 真っ白な花よ
 清く揺れる 雪に咲く花

そしたら、会場中が歌い出すんですね、会場に来ていた、オーストリアの人たちが立ち上がって、

♪香れ朝の風に 永久に咲けよ

そして、みんなが、声を揃えて歌うんです。

♪エーデルワイス エーデルワイス
 祖国の花よ

みんなが、会場中のみんなが、歌うんですね。
みんなが、会場中のみんなが歌う、その歌声の中に、

トラップさん、大丈夫ですよ。
オーストリアは、けっして、なくなったりしませんよ。
みんな、オーストリアが、大好きなんですよ。
みんな、オーストリアを、忘れませんよ。
ナチに併合されても、わたしたちは、オーストリアを、忘れませんよ。
あなたがたが、わたしたちが、この素晴らしい国、このステキな国、このオーストリアを忘れないかぎり、オーストリアは、絶対に、なくなったりはしませんよ。
だから安心して、アメリカへお行きなさい。

そんな気もちが、聞こえてくるんですね。
オーストリアを、自分たちが生まれ育ったこの国を、愛し、慈しみ、誇り、いつまでも忘れまいとするその心に、周辺を警備していたナチの連中も、手も足も出ないでいるんですね。
まぁ、きれいな場面、すてきな場面、素晴らしい場面ですね。
国の素晴らしさ、国の偉さ、国の偉大さは、まさに、軍隊が強いか、領土が広いか、そんなことにあるんじゃない、国の素晴らしさ、国の偉さ、国の偉大さは、いかにその国を愛している人がいるか、いかにその国を慈しんでいる人がいるか、いかにその国を大事に思っている人がいるか、そこにあるんですね。
そしてその思いは、決して、強制や、圧力なんかで、ムリヤリ植えつけられたりするもんじゃないんですね。
いくらナチが、ナチスが、軍隊の力で、今日からおまえたちはドイツ国民だ、だからドイツを好きになれ、ドイツの国を、いい国だ、思え、云うても、とても、そんなことはできませんね。
愛国心、なんて云うのは、そんなものじゃありませんね。
その国の文化、その国の自然、その国の歴史、そう云ったものが、ほんとうに、心の底から、あぁ、いいなぁ、素晴らしいなぁ、すてきだなぁ、思うたときに、その国に対する愛情、その国を大切に思う気持ち、この国に生まれてよかった、この国に育ってよかった、この国のためになにかしたい、そんな気もちが、芽生えてくるんですね。

それと、この映画で素晴らしいのは、トラップさんとこでは、なにか、みんなで、こうしよう、ああしよう、なんてことを決めるときに、子どもたちも一緒になって、その意見を聞くのね。
ふだんはお父っつあんが、ああしなさい、こうしなさい、云うけれども、大変なとき、一大事のとき、これまでとは大きく物事が変わるときには、子どもたちにもそのことを話して、子供たちの意見を聞いて、それから決めるのね。
お父っつあんがマリアさんと結婚しよう、云うたときも、みんなでアメリカに行こう、云うたときも、みんなで決めたんですね。みんなで、子どもたちもみんな入って、決めるのね。
そのとき、一人でも、たった一人でも、反対したら、それは、なしになるのね。
いちばん小っちゃい、いちばんチビの子でも、その子が反対したら、それはなしになるのね。
すばらしいですね。素敵ですね。みんなにかかわることは、みんなで決める。お兄さんも、お姉さんも、妹も、弟も、チビちゃんも、お父っつあんも、みんな、同じ人間、同じ一人、として、見なされるんですね。
お父っつあんも、賛成しなさい、なんて、云わないのね。チビちゃんも、イヤだ、イヤだ、なんて、ダダこねないのね。
こうだからこうなんだ、でもこうなんだから、こうでしょ、なんて、みんなで話し合って、結論を出すんですね。
それを、みんなが納得するまでやるの。みんなが、いちばん小っちゃいチビちゃんも、心の底から納得できるまでやるの。どうしても納得できなかったら、それはなしになっちゃうのね。
まぁ、なんてステキなんでしょ。なんて素晴らしいんでしょ。なんて立派なんでしょ。
これこそ、民主主義、これこそ、自由、ですね。

そんなわけで、この『サウンド・オブ・ミュージック』、これは、とってもステキなミュージカル映画ですけれども、それだけじゃない、人間が生きて行くうえで、とっても大切なこと、とっても大事なことを教えてくれる、とってもステキな映画ですよ。
この素晴らしい映画、『サウンド・オブ・ミュージック』、ぜひ、ご覧なさいね。

サウンド・オブ・ミュージック 製作50周年記念版 DVD(2枚組)
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| 映ちゃん | 今夜もしねま☆と〜く | 10:37 | - | - |
『王様と私』
はい、みなさん、こんばんは。
今日は、『王様と私』、この映画のお話、しましょうね。
『王様と私』、これは、もともとは、ブロードウェイのミュージカルとして、発表された作品ですね。
ブロードウェイのミュージカルとして発表されて、ブロードウェイの舞台で上演されて、それで、それがあんまりにも素晴らしかったので、これを映画にしよう、映画にしよう、云うて、映画化されたのが、この、『王様と私』ですね。
これが映画になる前、ブロードウェイの舞台で上演されてたとき、王様の役を演じていたのが、ユル・ブリンナーですね。
このユル・ブリンナーが、とっても素晴らしかったので、映画にするときでも、あの王様はユル・ブリンナーじゃなくちゃいかん、ユル・ブリンナーこそ、あの王様だ、なんて云って、映画でも、この王様を、ユル・ブリンナーが、演じることに、なったのね。
それで、この王様になったユル・ブリンナーが、その演技が、とっても素晴らしかったので、ユル・ブリンナーは、この映画で、1956年(昭和31年)のアカデミー主演男優賞を獲得しました。
まぁ、ほんとうに、ユル・ブリンナーの王様か、王様のユル・ブリンナーか、そんなふうになったのね。
そんなわけで、ユル・ブリンナー、この王様役で、いっぺんに有名になったんだけど、さぁ、困ったことができた。
それは、ユル・ブリンナーは、この王様役を演るのに、東洋の、いかにも、東洋風の、そんな、エキゾチックな雰囲気をだそうとして、頭を、ツルツルに剃ったのね。
頭をツルツルに剃って、スキン・ヘッドにして、いかにも、東洋風な、王様の雰囲気をだそうとしたのね。
それが受けて、大いに受けて、みんなが拍手喝采して、そのツルツル頭、スキン・ヘッドが、とうとう、ユル・ブリンナーの、トレード・マークになっちゃったのね。
それでとうとう、ユル・ブリンナーは、髪を生やせなくなったのね。毎日毎日、お風呂で、自分で、頭の毛を剃って、ツルツルにしてたんですね。
それで、ユル・ブリンナーと云えば、ツルツル頭、ツルツル頭と云えば、ユル・ブリンナー、それくらい、有名になったのね。
その、ユル・ブリンナーを有名にした『王様と私』、これは、本当にいた王様、昔のシャム、現在のタイに、実在した王様を、モデルにしてるのね。
その王様は、ラーマ4世と云って、まぁ、マーガリンみたいな名前だけど、これがとっても、すごい王様なの。
この人は1851年から1868年まで、タイの王様だった人なんですね。
1851年と云えば、中国では洪秀全の太平天国の乱が起こり、フランスではルイ・ボナパルト、後のナポレオン三世がクーデターを起こして、日本では2年後に、ペリー提督の率いるアメリカ合衆国艦隊、いわゆる黒船が来た頃なのね。
そして1868年と云えば、日本は王政復古して、明治維新政府が出来た年なのね。
まぁそんな物騒な時期、そんな大変な時期に、この人は、国王だったのね。
それで、世界的にそんな物騒な時期に、この人は、タイも、いつまでもこのままじゃいかん、西洋文明のよいところを採り入れて、国を新しくしなくちゃ、なんて思って、イギリスと通商条約を結んで自由貿易を進めたり、仏教を近代風に改革したり、農商業を励行して生産を増やしたりしたのね。
そんな改革のなかで、これからは、王子や王女たちにも、西洋風の教育をしなくちゃならん、云うので、イギリスから、家庭教師を招くのね。王子や王女たちの教育を委せる、家庭教師を、イギリスから雇うの。
そうしてやってきたのが、アンナ・レオノーウェンズ云う人なのね。
この人がそのときのことを小説に書いた『アンナとシャム王モンクット』と云うのが、ミュージカルになって、『アンナとシャム王』になって、これが、シャム王の、ユル・ブリンナーが、あんまり素晴らしいので、最初は、家庭教師のアンナが主人公だったんだけれども、ユル・ブリンナーがあんまり素晴らしいので、主人公が逆転して、王様が主人公になっちゃって、『王様と私』になって、ついにとうとう、映画にまで、なったんですね。
この『王様と私』の場面で、すごく好きな場面があって、それは、王子や王女たちに、アンナが、雪のことを教えてるの。
アンナは、王子や王女に、雪のことを教えるんだけど、ここは、タイの国、熱帯の国、そんなの、見たことない、そんなの、聞いたことない、みんなそう云うのね。
王子や王女は、まだこの先生に、アンナに、反撥してて、この先生を困らせてやろう、そう思ってるのね。
それで、
「先生は嘘つきだ、先生は嘘つきだ、そんな白いのが、空から降って来るもんか」
教室が騒然となって、アンナが困ってるとき、王様が入って来るの。王様が、ユル・ブリンナーが、さて、子どもたちはちゃんと勉強してるかな、なんて思って、教室に入って来るの。
そしたら、教室が騒がしい、王子や王女が騒いでる、アンナが困ってる、いったいどうしたんだ、訳を訊いてみると、
「お父さん、お父さん、アンナは嘘つきだよ、アンナは嘘つきだ。空から白いものが降って来るって云うんだ。そんなの嘘だよね」
云うんですね。
王様が、ユル・ブリンナーが、アンナに訊いてみると、
「雪のことを説明してたんです……」
云うんですね。
すると、ユル・ブリンナーは腕を組んで、
「雪か。ウン、昔、若い頃に見たことがある。山の上にある、白い帽子のようなものだった」
云うんですね。
そしたら子供たち、王子や王女たちが、
「ほら、やっぱり先生は、アンナは嘘つきだ。そんな山の上にあるもんが、降ってきたりするもんか」
騒ぐんですね。
そしたら王様が、ユル・ブリンナーが、
「静かにしなさい」
云うて、王子や王女たちを、叱るんですね。
そして、
「知らないことを学ぶからこそ、学ぶんだ。知ってることだったら、学ぶ必要はない」
云うんですね。
いいセリフですね。
学ぶこと、知ること、教えてもらうこと、そのことに、どれだけ謙虚になってるのか。
知ることはすばらしいこと、とっても、ステキなこと、いままで自分が知らなかったことを知ること、それがどれだけ素晴らしいことか、素敵なことか、それを教えてくれるのは、どれだけありがたいことか。
いまの日本の教育は、この根本がないんじゃないか、そんな風に思いますね。
この場面の後で、いかにもミュージカルらしく、ユル・ブリンナーの歌が始まるんですね。
その歌は、
「いままで自分が信じてきたことは何だったのだ。いままで自分が信じていたこと、それが覆ってしまった。しかし、いままで自分が信じていたことの方が間違いで、いま教えられたことのほうが正しいように思われる。いままでのわたしはなんだったのだ」
云うんですね。
これはすばらしいですね。いままでの自分は間違っていた、と、認める、勇気がありますね。新しいことを学ぼう、知ろう、とする、度胸がありますね。
素晴らしい場面ですね。
そして、この王様は、イギリスと通商条約を結んで、イギリスからアンナを家庭教師に招いて、いかにも西洋風な王様なように思われますけど、心の底には、やっぱり、昔風の、タイの、東洋風の、考えが、残ってるんですね。
そんな王様を、なんとか、西洋風の、文明的な王様にしたい、アンナは、この王様を、だんだん、だんだん、好きになっていって、そんな風に思うように、なるんですね。
そこで、アンナは、この王様を、ダンスに誘うんですね。
ダンス、と、云っても、社交ダンス、そんなんじゃないの。
とっても素晴らしい、本当に、いかにも人間らしい、本当に素敵なダンスなんですね。
「思い浮かべてごらんなさい。
 星々がまたたく、静かな夜。
 あなたの腕に抱かれたいと思う女が、精一杯美しく着飾って、あなたの前にいる。
 あなたは正装して、彼女を迎えている。
 聞こえるでしょう? 胸の高鳴りが。
 あなたは優しく彼女の肩に手をまわし、
 彼女はあなたの腰に手を添える。
 さぁ、踊りましょう。
 ふたりで愉しく、踊りましょう」
そうして、あの有名な、“Shall we dance”のメロディーが流れるんですね。
このダンスが、素晴らしいのね。
アンナは、イギリスの上流の婦人。ダンスの作法も礼儀も知ってる。
でも、王様は、古い、古い、シャムの王様。
王様はステップもターンも知らない、力強い、野性的な、バーバリズムそのもの、それでも、音楽に合わせて、いかにも、愉しそうに、ダイナミックに、踊るんですね。
そして、踊ってるうちに、なんとも云えん愉しい気分になって、とっても素敵な気分になって、
「あぁ、これが、西洋文明だ。これが、西洋文明の、すばらしさだ」
なんて、思うんですね。
イイですね。素晴らしい場面ですね。
堅苦しい学問、歴史とか、物理とか、化学とか、数学とか、文学とか、そんなんじゃなくて、音楽、ダンスで、西洋の文化の、いちばん大事な、いちばん素晴らしいところ、人間は、みんな同じ人間なんだ、王様も、家庭教師も、西洋の人間も、東洋の人間もない。人間はみんな同じ。男も、女も、王様も、農民も、商人も、貴族も、みんな、みんな、音楽聴けば、愉しい気持ちになって、仕合せな気分になって、みんなウキウキして、踊りだしたくなるんだ。それはとっても、すばらしいことなんだ。それを解らせてくれる、とっても、すばらしい場面なのね。
この映画の最後、ラスト・シーン、ユル・ブリンナーの王様は、病気になって、床に着いて、もうダメ、もうダメ、いよいよ、この王様も、息を引き取る、そんな最後のシーンに、この、ユル・ブリンナーの王様は、長男をベッドの傍に呼び寄せて、
「これからはおまえが王様だ。おまえの思ったとおりにやりなさい」
なんて、遺言するのね。ユル・ブリンナーの王様はまだ生きてるけど、そう云うのね。
そしたら、この、新しい王様、ユル・ブリンナーの王様の長男が、新しい王様だ、これからはこの人が王様だ、云うんで、兄弟姉妹が、みんな、跪くのね。
跪いて、この新しい王様、自分たちのお兄さんに、敬意を表すのね。
自分たちのお兄さんだけど、王様だ、王様だから、敬意を表して、跪かなきゃならない、みんなそう思って、跪くのね。
そしたらこの王子は、新しく王様になった、この王子は、アンナから、西洋風の教育を受けてるから、そんなのおかしい、そんな、兄弟姉妹が、同じ兄弟姉妹に跪くなんておかしい、そう思うのね。同じお父さん、お母さんから生まれた、同じ兄弟姉妹じゃないか。
一緒に遊んで、一緒に勉強して、一緒に泣いて、一緒に笑って、一緒にいた兄弟姉妹じゃないか。
なのになんで、その兄弟姉妹を、跪かせなきゃいけないのか。
でもそれが、昔からの、タイの、風習、しきたりなのね。
新しく王様になったその子は、ベッドの上で、病気になって、死にそうになってるお父さん、ユル・ブリンナーのほうを見るんですね。
そしたら、ユル・ブリンナーは、死にそうになりながら、死の床から、
「これからは、おまえが王様だ。おまえが思うようにやりなさい」
云うのね。
そしたら、その新しい王様、まだ幼い、その王様は、
「みんな、立つんだ。跪く必要なんてない。
 ぼくらは同じ人間じゃないか。
 同じ人間が、同じ人間に、跪く必要なんてない」
そう云うんですね。
そう云って、ふっと、お父さん、死にかけてる、ユル・ブリンナーのほうを見るんですね。
やっぱり、ちょっと、気になってるんですね。
そしたら、ユル・ブリンナーは、いかにも、満足したような、いかにも、嬉しげな表情を浮かべるんですね。
アンナも、傍にいて、いかにも、嬉しそうに、微笑んでるんですね。
そうして、王様は、この、ユル・ブリンナーの王様は、静かに、息を引き取るんですね。
そんなわけで、この『王様と私』、この映画は、ミュージカル、ミュージカルの傑作だけど、それだけじゃなくて、とっても素晴らしい映画、とっても素敵な映画、とっても、とっても、素晴らしい、とっても、とっても、素敵な映画ですよ。
そんなわけで、この素晴らしい映画、この素晴らしいミュージカル映画、1956年(昭和31年)の、『王様と私』、ぜひ、ごらんなさいね。

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| 映ちゃん | 今夜もしねま☆と〜く | 09:18 | - | - |
*『スミス都へ行く』
はい、みなさん、こんばんは。
『スミス都へ行く』、今日は、この映画のお話、しましょうね。
『スミス都へ行く』、これは、フランク・キャプラの作品ですね。フランク・キャプラの監督ですね。
フランク・キャプラ、この人は、とってもいい映画、つくってますよ。とってもいい映画、とっても素晴らしい映画、あぁ、よかったなぁ〜、すばらしかったなぁ〜、云う映画、たくさんつくってます。
すばらしい、とってもすばらしい、監督ですね。
『我が家の楽園』がありました。よかったなぁ。
『或る夜の出来事』、よかったなぁ。
『素晴らしき哉、人生!』、よかったなぁ。
他にも、たくさん、たくさん、たくさん、あります。とってもいい映画を、たくさん、たくさん、つくった人ですね。
この人の映画、拳銃出てこないの、撃ち合いないの、ドンパチ、ないのね。
建物爆発しない、列車も車も暴走しない。
刀やナイフ、出てこない。
人が殺されて、ブワッ〜、と血が出る。
そんなのないの。
なあんだ、退屈じゃんか。
そんなことないの。とっても面白いの。
そんなこと云う、あなたの感性、おかしいのね。
そんなわけで、そのとってもすばらしい映画のなかのひとつが、『スミス都へ行く』ですね。
アメリカの田舎に、スミス云う人がおりました。アメリカの、田舎も田舎、アメリカに、こんなとこあったんか、云うぐらいの田舎。
そこに住んでたスミスさん。スミスさん、まぁ、平凡な名前、田中さん、小林さん、山本さん、そんな名前。どこにでもありそうな、平凡な名前。
その人が、とっても真面目な、好青年なんですね。
町のお掃除する、子どもたちの面倒見る、困っている人の相談にのってあげる、いかにも、いい人、好青年なんですね。
あるとき、国会議員の選挙が行われることになった。自分たちを代表して、自分たちがいつも思っていることを云って、自分たちがして欲しいと思っていることをやってくれる人を推薦して、国会に行ってもらえることができる。おかみに物申す人を、自分たちが選ぶことができる。
町の人たち、考えた。だれにしよう、だれにしよう。だれに国会、行ってもらおう。
スミスさんがいい、そうだ、スミスさんがいい、スミスさんにしよう。
そんなわけで、スミスさんが国会に行くことになったんですね。
スミスさん、ビックリしちゃった。国会なんて、なにするとこ? 国会なんて行って、なにしたらいいの?
全然、そういうこと、知らないのね。
とまどっちゃうんですね。
町の人たちは、スミスさんが当選した、スミスさんが国会に行く、スミスさんだったら、自分たちの云いたいこと、云ってくれる、スミスさんだったら、自分たちのやってほしいこと、やってくれる、そんなんで、大喜びしたんですね。
スミスさん万歳、スミスさん万歳、云うんで、スミスさんの、壮行会、開くんですね。激励会ですね。スミスさん、がんばってくださいよ、なんて云って、パーティー、するんですね。
そこで、スミスさんに鞄をあげることにした。国会行って、議員になって、お仕事するんだから、立派な鞄が要るだろう、スミスさんに立派な、きれいな鞄、あげよう、そういうことになって、町の人たちが、お金出し合って、スミスさんに、きれいな、きれいな、立派な、立派な、鞄あげるのね。
まぁ、そんなのより、もっといいのあげればいいのに。でもこの鞄には、町の人たちの気持ちが、町の人たちの厚意が、いっぱい、つまってるのね。いまは空っぽの鞄だけど、町の人たちの気もち、スミスさん、がんばってくださいよ、スミスさん、応援してますよ、そんな気もちが、いっぱい、つまってるのね。
それ渡すのが、町の子ども。町の子どもなんだけど、その子が、まぁ、なんとも不器用な子。とっても不器用で、もっさりしてて、いかにも劣等生、いかにも落ちこぼれ。あぁ、この子、勉強できないだろうなぁ。あぁ、この子、駆けっこ、ビリだろうな。給食食べるの、遅いだろうな。女の子にももてないだろうな。そんな子が、スミスさんに、鞄渡すの。
その子が、スミスさんに鞄渡すとき、やっぱり、スピーチ、うまく云えないの。一生懸命練習したんだろうけど、やっぱり、云えないの。
それを仲間の子どもたちが、ひやかさないの。笑わないの。みんな、がんばれ、がんばれ、云うの。大きな声では云わないんだね。大きな声で云ったら、その子が恥かくから。ちっちゃな声で、それでも精一杯、がんばれ、がんばれ、こう云うんだ、こう云うんだ、云うのね。みんな、握りこぶし固めて、からだ前にのりだして、必死で、その子応援するのね。
それでその子、やっと、
「スミスさん、がんばってください」
それだけ云って、鞄渡すのね。
みんな拍手するの。よくやったな、おまえ。がんばったな、おまえ。そんな思いが、その拍手から伝わってくるのね。
いいなぁ。きれいだなぁ。
キャプラ、うまいなぁ。
ここで、生徒会長とか、勉強がトップの子とか、駆けっこの速い子とか、そんな子を出さないところが、いかにも、いいんだね。キャプラ、うまいんだね。
勉強もできない、駆けっこも遅い、いかにも、もっさりした子、いかにも目立たない子、その子を、スミスさんに鞄を渡す晴れ舞台に選ぶところが、いかにも、キャプラらしいね。
スミスさんもおんなじだね。アメリカの、田舎から、国会議員に選ばれて、なにしたらいいか分からない、とりたてて頭いいわけじゃない、お金あるわけじゃない、政治のこと知ってるわけじゃない、ほんとにシロウト、ほんとにおのぼりさん、そんな感じで、国会行くんだね。自分になにができるだろう、自分はなにやったらいいんだろう。だけど、町の人が、一生懸命応援してくれてる、町の人が、がんばれ、がんばれ、云うてくれてる。よし、がんばるぞ、そう思って、スミスは国会に行くのね。スミス、都へ行く、のね。
スミスさんは国会議員になったけど、まだ当選一回のペーペー。新米議員。それで、大物の政治家のところに行くのね。国会議員になったけど、政治のことなんにも分かりません、政治のこと、教えてください、云うて、その大物のところに行くの。
この大物政治家が、クロード・レインズ。『カサブランカ』の警察署長、ルノー署長ですね。うまいんですね、この人が。
ああ君がスミス君か、がんばりたまえよ、なんて云って、いかにも、大物なんですね。
ところが、この大物の先生、裏では大会社と一緒になって、その会社の得になるような法律つくって、お金もらってるんですね。悪い人なんですね。
スミスさんはそんなこと知らないから、この人について、この人を先生にして、政治のこと、勉強しようとしてるんですね。
一方、政治家たちのことを記事にしてる新聞記者がいるんですね。これがトーマス・ミッチェル。『駅馬車』の酔いどれ医者、『風と共に去りぬ』の、ヴィヴィアン・リー、スカーレット・オハラのお父さんですね。このトーマス・ミッチェルがうまいの。
政治家のことを書く新聞記者だけど、新聞では、いいことしか書けないの。きれいごとしか書けないのね。だけど政治家たちが、そんなにいい人じゃない、あいつら、利権ばっかりむさぼって、自分たちのことしか考えないで、国のこと、国民のことなんか、ちっとも考えてない、そのこと、知りすぎるくらい、知ってるのね。でもそのこと、記事にかけないのね。書いても、新聞社のお偉方が、握りつぶしちゃうのね。そんなこと書かれたら、うちの新聞社がニラまれちゃう。そんなんで、お偉方は、そんな記事、載せないのね。きれいごとしか載せない。あの先生、いい人だ。あの先生、立派な政治家だ。そんな記事しか載せないの。それでこの記者、嫌になって、でも、記事書かないとご飯食べられないから、馘になっちゃうから、嘘の記事書くのね。それで、ご飯食べてるのね。そんな自分が嫌になって、酒浸りになっちゃうのね。昼間っからお酒飲んで、頭痛くなって、ソファにゴロンと寝転んでるの。
もうひとり、そんな彼を励ましてる人がいるの。これが、ジーン・アーサーね。『シェーン』のお母さんね。『平原児』のカラミティー・ジェーンね。とっても、いい女優さんね。
この人が、トーマス・ミッチェルに、いい人が議員になったわよ、なんて、スミスさんのことを云うのね。でも、トーマス・ミッチェルは全然、信用しないのね。いまにそいつも、利権のことばっかり考えるようになるさ、なんて云って、ソファにゴロンとなるのね。
スミスさんは、だんだん、政治のことが分かってくるのね。でもそれは、いいことじゃなくて、嫌なこと、こすっからくて、汚いこと、そんなことが、だんだん、だんだん、分かってくるのね。こんなのおかしい、こんなのひどい、そう思っても、クロード・レインズの先生は、キミ、これが現実だよ、なんて云ってるのね。
スミスさんは納得できないのね。我慢できないの。それで、とうとう、議会で演説するの。こんなこと、おかしい。こんなことじゃダメだ。そう云って、演説するの。
すると、クロード・レインズの議員は、あいつ、なまいきだ、あいつ、おれたちのためにならん、なんて云って、スミスさんを悪者にしようとするの。
お金使って、新聞社を買収して、全国に、スミスさんの悪口書いた新聞をバラまくの。
スミスは悪い奴だ、あいつは大会社と一緒になって、利権をむさぼってる、あいつは国民をだまして自分のことばっかり考えてる、なんて、自分たちがやってることを、全部、スミスさんになすりつけちゃうの。自分たちがやってきた悪いことを、全部、スミスさんのせいにしちゃうの。
スミスさんを国会議員に選んだ地元の人たちは、それ読んで、スミスさんがそんな悪い人のはずがない、スミスさんは悪い人じゃない、スミスさんはいい人だ、云うて、自分たちで、スミスさんの応援するの。スミスさんを応援してた子供たちが、学校でガリ版刷って、自分たちで新聞つくって、自転車こいで、あちこちに自分たちがつくった新聞配って、スミスさんはいい人です、スミスさんは立派な人です、みんなスミスさんを応援してください、云う新聞配るの。
ジーン・アーサーも、トーマス・ミッチェルも、その子らの応援するの。トーマス・ミッチェルなんか、なあに、スミスもすぐにきたない政治家になるさ、自分の利権ばっかり考えるような政治家になるさ、なんて云ってたのに、スミスさんが一生懸命がんばってるのを見て、自分も精一杯、スミスさんを応援しよう、云う気になるのね。このへんの呼吸、トーマス・ミッチェル、うまいなぁ。フランク・キャプラ、うまいなぁ。
ジーン・アーサーも、子供たちを応援するの。あんたたち、違うわよ、印刷はこうするの、輪転機はこうまわすの、なんて、子供たちが新聞つくるの、手伝うんですね。
みんな精一杯、スミスさん、応援するんですね。
でも、ダメね。向こうはお金持ってる。たくさんお金持ってて、そのお金で新聞社買収して、スミスさんに悪い記事書かせて、それ新聞に載せて、全国にばらまいてる。
みんな、スミスさん、悪い人、悪人だと思っちゃう。
こっちは、学校でガリ版刷って、輪転機手で回して、顔も服も、インクで汚れて、真っ黒になって、自転車で走り回って、必死になって、スミスさんはいい人ですって云うけれども、とてもかなわないね。
スミスさんも、最初は子供たちが一生懸命頑張ってくれてることを知って、よし、自分も頑張るぞ、思って演説してるけど、だんだん、買収された新聞社の記事が来るのね。みんな、スミスさんのことを悪く云ってる記事ばかり。スミスは悪い奴だ、スミスみたいなのがいると、この国は悪くなっちゃう、スミスは辞めろ、そんな記事ばっかり。
とうとう、スミスさんは演説やめて、泣き伏しちゃうんですね。ああ、ぼくの気持ちは分かってもらえなかった。みんな必死で応援してくれたのに、自分は悪者になっちゃった。自分を国会議員にしてくれた人たちに申し訳ない。自分を応援してくれた子供たちに申し訳ない。そう云って泣き崩れるんですね。
それを見ていたクロード・レインズ、大物議員、この人の表情が、だんだん、だんだん、変っていくのね。スミスを打ちのめした。自分が勝った。だから、喜んでいいはずなのに、この人の表情が、いかにも、苦しげに、ゆがむんですね。
ああ、俺も国会議員になったときは、スミスみたいだったな。俺も最初は、スミスみたいだったな。純真だったな。スミスみたいに、国民のこと、考えてたな。スミスみたいに、この国をいい国にしよう、思うて、がんばってたな。いつから俺は、こんなに汚い人間になったのかなぁ。
そんな表情になるんですね。
それで、このクロード・レインズ、途中で席を立って、控室に行くんですね。そしたら控室のほうから、さっき、クロード・レインズが入っていった控室のほうから、バーン、て云う、銃声がするの。
クロード・レインズ、自殺しちゃったのね。スミスを見てて、スミスの云うこと聞いてて、だんだん、自分が恥ずかしくなっちゃったのね。それで、控室戻って、ピストルで自殺しちゃったの。
このとき議長を演ってた人が、ハリー・ケリー。ジョン・フォードの親友で、サイレント時代の大スターなんですね。この人がまたうまいの、上手なの。議長だから、どっちかを応援するなんてことはできないんだけど、スミスさんを応援してる雰囲気が、じつに上手に出てるの。
この人が議長席にもたれて、頭の後ろに腕を組んで、ああ、終わった、終わった、なんて表情をするの。それがとってもさわやかで、いいんだねえ。
もちろん、実際の政治の世界なんて、こんなもんじゃありませんね。これは、おとぎ話だね。正義は勝つ、悪い人はいい人にやっつけられる、お姫様は王子様と結婚する、そんな、おとぎ話だね。
でも、本当のことになったらいいな。本当に、こんなふうになったら、いいなぁ。
それは、おとぎ話だけれども、ひょっとしたら、できるかも知れない。ひょっとしたら、本当のことになるかも知れない。
ぼくたちが、もうちょっとだけ、勇気をだせば。もうちょっとだけ、頑張れば。もうちょっとだけ、人を信じることができれば。そう、スミスさんを信じて、一生懸命、一生懸命、自転車をこいでた、あの子供たちみたいに。
これは、そんな気持ちにさせてくれる映画、夢を与えてくれる映画、よし、がんばろう、そういう気にさせてくれる映画、とってもすばらしい、映画ですよ。
一九三九年、昭和十四年の映画です。このすばらしい映画、『スミス都へ行く』、ぜひみなさん、ご覧なさいね。

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ファーストトレーディング
| 映ちゃん | 今夜もしねま☆と〜く | 16:18 | - | - |
*『第七天国』
はい、みなさん、こんばんは。
今日は、『第七天国』、この映画のお話、しましょうね。
これは、一九二七年に制作公開された、アメリカ合衆国の映画です。
一九二七年と云えば、日本では、昭和二年です。金融恐慌がはじまり、芥川龍之介が自殺した年です。
まぁ、古い古い映画ですね。この映画は、第一回、初めてのアカデミー賞で、監督賞、主演女優賞を獲得しました。まぁ、すごい映画ですね。
『第七天国』、“The seventh heaven”、七番目の天国ですね。これ、どういう意味でしょうか?
チコと云う、イタリアからの移民の青年がいます。イタリアからの移民は、差別されてたんですね。
それで、このチコと云う青年も、薄暗い、汚い、汚い、地下の下水道の中で、ゴミ掃除の仕事してたんですね。
マンホールの上から、汚いゴミを投げ捨てられて、
「おい、おまえら、しっかり仕事しろ!」
なんて、怒鳴られてるんですね。
チコはしっかり仕事してるんですね。相棒は、おれたちはイタリア人だからしょうがないよ、なんて云ってるんですね。あきらめてるんですね、自分たちはイタリア人だからって。
でも、チコはあきらめないんですね。一生懸命、仕事するんですね。
そのうち親方に認められて、道路の掃除夫になるんですね。
すると、チコが下水道の掃除をしていたときに、マンホールの上からゴミを投げ捨てて、
「おまえら、しっかり仕事しろ!」
なんて怒鳴ってた掃除人が、ニコニコして、チコの肩をたたいて、
「おい、おまえ、偉いな。これからは同僚だ。よろしくたのむぜ」
なんて云うのね。調子がいいのね。
でも、全然、イヤミじゃないの。あっけらかんとしてて、いかにも、気持ちのいい、いかにも、きれいな場面なんですね。
チコも、なんだおまえ、あのとき俺の頭にゴミ捨てやがって、なんて云わないのね。ありがとうって、握手して、
「ぼくはまだまだ、立派になるよ。ぼくは決して負けない人間なんだから」
なんて、笑って云うのね。
そしたらその男も、そうか、がんばれよ、なんて、バンて、背中たたくのね。
いいんだなぁ、その場面が。いかにもアメリカ的なんですね。
一方、ダイエンヌと云う、とってもとってもかわいそうな女の子がいるんですね。この娘、お父さんもお母さんもいないの。お姉さんと二人暮らしなの。ところが、このお姉さんが、ひどい人なんですね。妹を、ダイエンヌを、とってもいじめるの。あなた、あれやりなさい、あなた、これやりなさい、まあ、あなた、なにこれ、あなた、こんなことも満足にできないの、なんて、とっても、ダイエンヌをいじめるんですね。
まるで、シンデレラの継母ね。お母さんじゃないけど、いかにも、シンデレラの継母みたいなんですね。いじわるなんですね。
それで、とうとう、とうとう、ダイエンヌは、がまんができなくなって、がまんできなくなって、うちを飛び出しちゃうんですね。家出しちゃうんですね。
でも、うちを飛び出しても、ダイエンヌには行くところがないんですね。親戚もいない、お友だちもいない、どうしよう、どうしよう。困って、困って、公園のベンチに腰掛けてるところに、チコがくるんですね。
チコはわけを聞いて、ダイエンヌが気の毒になって、かわいそうになって、ダイエンヌを、自分のうちに連れてくるんですね。
チコのうちは、安アパートの最上階、屋根裏部屋なんですね。チコは、仕事は地下の下水道だけれども、住むところは、上のほう、お空に近いところ、天国に近いところ、そんなところがいい、そんなわけで、この安アパートの、屋根裏部屋に住んでるんですね。これが、七階にあるの。
チコがダイエンヌをその部屋に連れてきて、
「ここは天国だよ」
なんて、嬉しそうに云うのね。
天国なんてものじゃないの、きたない、きたない、薄汚れた、安アパートの、屋根裏部屋、なのに、チコにとっては、天国なんですね。
チコは、自分がイタリアの移民、下水道の掃除夫、きたないきたない、薄汚れた安アパートの住人、そんなの、ちっとも気にしないの。自分は立派な人間、自分には能力があるんだ、それを信じて、ちっとも疑ってないの。とっても元気で、明るいの。好青年なのね。
そのチコを、隣の、これもおんなじようなアパートの、おじいさんおばあさんが、かわいがってるのね。
ああ、あの子、いい子だなぁ、いい子だなぁ、立派な青年だなぁ、なんて、かわいがって、ご飯食べにおいで、晩ご飯一緒に食べましょ、なんて云うのね。
あら、あの子、かわいい彼女連れてきたじゃない、彼女もいらっしゃい、いらっしゃい、なんて云うのね。
この、アメリカの下町の人情が、いかにも、いいんだねぇ。こういう人情、人の情け、人の思いやり、そんなのに、国境なんてないんだね。人種の違い、民族の違いなんて、ないんだね。いいんだなぁ。
チコはね、ああ、おじさん、おばさん、ありがとう、いま行くよ、なんて云って、立てかけてあった、長い板切れを渡すのね。自分のアパートの窓と、おじいさんおばあさんのいるアパートの窓とのあいだに。
そしてその板の上を、ススーッと、歩いていくの。
チコは平気で歩いていくのね。ところが、ダイエンヌは、そんなの怖い、そんなの怖い、七階のアパートの上、そんなの、落っこちたら死んじゃう。怖い、怖い。
おびえて、うつむいて、慄えちゃうのね。
チコが戻ってきて云うのね。
「ダメだなぁ、君は。君はいつもそうして、下ばっかり見ちゃう。ぼくはいつも上を見てる。だから怖いものなんかない。上を見るんだ。上を見て歩くんだ。そうしたら、怖いことなんて、あるものか」
はい、みなさん、どこかで聞いたことがありますね。みなさん、かならずいっぺんは、このセリフ、聞いたことがありますね。
この映画が封切られたとき、映画館の暗いなかで、この映画を観て、このセリフを聞いて、いや、その頃はまだサイレントだったから、字幕ですね、その字幕を見て、
「あぁ、いい言葉だなぁ」
と、感動した青年がいました。
その青年は後に、大きくなって、歌の歌詞を書くようになりました。
そのときに、若い頃に観て感動した、この、『第七天国』のセリフを使いました。
それが、『上を向いて歩こう』ですね。
その青年、永六輔さんですね。この歌、メロディーは、中村八大さんの作曲ですね。歌ったのが、坂本九さんですね。当時は、「六、八、九」なんて呼ばれました。
この『上を向いて歩こう』が大ヒットして、みんなが口ずさんで、だれでもが知ってる歌になって、とうとう、アメリカにまで、知られるようになりました。
アメリカでも知られて、とうとう、アメリカでも、一番のヒット曲になりました。当時、日本の曲がアメリカでヒットする、ナンバーワンになるなんて、だれも思わなかったの。それが、アメリカでヒットして、ナンバーワンになっちゃったの。すごいなぁ。
そのときの、アメリカでつけた曲の名前が、『スキヤキ』。まぁ、なんちゅうタイトルだろう。なんて、センスのないタイトルだろう。
あの頃スキヤキは、いかにも、日本的なものだったんですね。だからアメリカの人たちは、日本の音楽のタイトルに、『スキヤキ』なんて、つけたんですね。
もうちょっとしたら、『スシ』とか、『テンプラ』になってたかもしれない。まぁ、ぞぉっとしますね。『ゲイシャ』なんて、イヤだね、あんないい曲に、『ゲイシャ』だなんて。センスが疑われますね。ブチ壊しだね。
いまだったら、どうだろう? 『アキバ』、『アニメ』あるいは『オタク』なんて、こっちのほうが、いいかも知れませんね。
でも、この話で、いちばんいいのは、アメリカの映画に感動してつくられた歌が、今度はアメリカの人たちを感動させたことですね。日本人は、映画でもらったものを、歌で、お返ししたんですね。ありがとう、あなたたちの映画、素晴らしかったですよ、あなたたちの素晴らしい映画のおかげで、わたしたちはこんな素晴らしい歌、つくりましたよ。そうしてつくった歌が、こんどは、アメリカの人たちを感動させたんですね。みごとですね。いいですね。
さて、ダイエンヌは、チコと一緒に暮らすことになりました。いままでにはなかった、しあわせな、しあわせな毎日です。貧しいけれども、やさしいチコがいる、ダイエンヌにとっては、とってもしあわせなんですね。
ところが、戦争が始まりました。第一次世界大戦ですね。戦争が始まって、チコは兵隊にとられちゃった。チコは兵隊にならなくちゃいけない、戦争に行かなくちゃいけない、チコとダイエンヌは、離れ離れになるんですね。
ダイエンヌは、チコが戻ってくることだけを楽しみにして、毎日、毎日をすごしています。チコが戻ってきたとき、うちが汚かったらいけない。チコが戻ってきたとき、着物が汚れてたらいけない。チコが戻ってきたとき、おなか空いてるのに、ご飯なかったらいけない。そうして、うちを掃除して、お洗濯をして、ご飯つくってるんですね。
そこへ、あのお姉さんがやって来たの、ダイエンヌのお姉さん、いじわるな、いじわるなお姉さんが。
あなたなにやってるのこんなとこで、うちに帰りなさい、うちに帰って、あたしの用事しなさい、お金貸しなさい、あんた、あたしのことやりなさい。そう云って、ダイエンヌをおどかすの。
チコがいないから、お姉さんも強気なのね。でも、ダイエンヌは、ノー、云うのね。いやよ、姉さんの云うとおりになんかならないわ、わたしはこのうちで、チコが帰ってくるのを待つのよ、云うのね。もうむかしの、気弱な、気弱な、おびえて、おびえて、ちっちゃく、ちっちゃくなって、震えてる、ダイエンヌじゃないのね。キリッとして、いじわるなお姉さんを追い返すのね。
いかにも、いい場面ですね。チコと一緒になって、チコにやさしくされて、チコに大事に大事にされて、チコの明るさ、元気さに触れて、ダイエンヌは強くなったのね。あの弱い弱い、雨に打たれた小鳥みたいだったダイエンヌが、しっかりした、強い女の子になったのね。いいなぁ。
ところでチコは、戦争で、負傷するんですね。爆弾にやられて、目が見えなくなっちゃうの。失明しちゃうんですね。
それで、これは兵隊にしておけん、戦争させられんって云って、国に帰されるの。
チコは、目が見えなくなっちゃったけれども、やっと、国に帰る、やっと、ダイエンヌのところに帰れる、云うんで、よろこんで、よろこんで、帰ってくるんですね。
最初は、群集の、人ごみのなかに、ちっちゃく、ちっちゃく、チコがいるの。どこにいるのか分からないくらい、ちっちゃく映るの。
そのチコが、一生懸命走りながら、
「ダイエンヌ!」
って、さけぶの。サイレントだから、もちろん、声は出ませんね。字幕ですね。その字幕が、これまた、ちっちゃいのね、その文字が。
今度は、チコが、ちょっと、大きく映る。ああ、チコがいるな、分かるくらい映る。チコは走ってる。
「ダイエンヌ!」
またさけぶ。今度は文字がおっきくなる。
そしたら、その次は、チコのアップ。アップでチコが映る。もう、周りの人が映らないくらいのアップ。
そして、またチコがさけぶ。
「ダイエンヌ!」
今度は、大きな、大きな文字。もう画面からはみ出しそうなほどの文字で、
「ダイエンヌ!」
って、映る。
うまいなぁ。サイレントだから、声は聞こえないんだけれども、いかにも、大声でさけんでる声が、聞こえてくるんですね。映画のマジック、映画の魅力ですね。
そうして、チコはダイエンヌのところに戻ってくる。ダイエンヌも喜んで、チコと抱き合う。それを、あの掃除夫、この映画の最初で、下水道を掃除してたチコの頭の上にゴミを捨てた掃除夫が、いかにも、よかったな、よかったな、おまえら、よかったな、云う顔でながめてる。
そしたら、ダイエンヌが、気づくんですね。
あら、あんた、チコ、あんた、目が見えないんじゃないの、目、見えなくなったんじゃないの。
そうだよ、チコが云うんですね。
まあ、なんてこと、やっと、やっと、戦争終って、人殺ししなくてもよくなって、やっと帰ってこれたのに。
ダイエンヌは泣くんですね。チコ、かわいそうに。チコ、かわいそうに。
そのダイエンヌに、チコは云うんですね。
「ほら、下を向いちゃいけない。上を向こう。上を向いて歩けば、怖いものなんかないんだから。目が見えなくなったくらいでくじけるもんか。ぼくは、やれる人間なんだから」
そう聞いて、ダイエンヌはにっこり微笑みます。
同僚の掃除夫も、そのとおり、と、云うみたいに、バン、と、チコの背中をたたきます。
三人が、明るい笑い声をあげます。もちろん、サイレントだから、その声は聞こえません。でも、耳に聞こえなくても、心には聞こえてくるんですね。その、明るい、とっても、とっても、ステキな笑い声が。
そんなわけで、これは、一九二七年、昭和二年の映画、古い、古い映画、もちろん、モノクロ、もちろん、サイレント。だけれども、とっても、素晴らしい映画ですよ。
この素晴らしい映画、『第七天国』、ぜひ、ごらんなさいね。

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アイ・ヴィ・シー
| 映ちゃん | 今夜もしねま☆と〜く | 16:15 | - | - |
淀川さん、ありがとうございました!
「天使が、神さまの後を追っかけていった……」
淀川長治さんの訃報に接したとき、そう思った。
奇しくもその数ヶ月前、黒澤明監督の訃報に接したばかりだった。
黒澤監督は、まさしく、映画の「神さま」だった。
文化に貧弱な日本を哀れんで、神がこのかたをお使しになったのかと思われるような、そんなかただった。
そして淀川さんは、映画の「天使」だった。
「天使」は「神」ではない。もちろん、「人間」でもない。
「天使」は「神」の声を「人間」に伝え、「人間」が誤りなく「神」から授けられたその使命をまっとうするよう、「人間」に指針を与える。
淀川さんは映画において、まさに、そのようなかたであった。
淀川さんは、映画だけでなく、能狂言、バレエ、舞台、歌舞伎、文楽、絵画、彫刻、音楽など、じつに多岐な分野に渡って、該博な知識を有しておられた。それは、たんなる知識ではなかった。知識に生命を与え、感動を再生させる、すばらしい感受性をおもちだった。
淀川さんは、そのような該博な知識を有しながら、大上段からモノを云うような、学者ぶった評論家ではなかった。
映画のことを語られるときの淀川さんは、まるで、小学生のようだった。
小学生が、学校でなにか面白いこと、嬉しいことに出会う。
先生に褒められた、好きな女の子とおしゃべりできた、友だちと駆けっこした、給食に好きなおかずが出た、……。
そんなことがあったとき、一生懸命走って家に帰って、目を輝かせ、息せき切って、ランドセルを玄関先に放り出して、履を脱ぐのももどかしく、台所にいるお母さんに抱きついて、
「ねぇ、お母さん、お母さん、今日学校でね、こんなことがあったんだよ……」
と、云って、そのことを話す。
映画のことをお話しされる淀川さんは、まさにそんな小学生のようだった。
そのお志、その熱情が、みんなに伝わったのだろう。
戦後、日本に外国映画を普及させたのは、淀川さんと吹替技術である、と、称されたものである。
淀川さんによってすばらしい映画を知り、淀川さんによって映画のすばらしさを知り、そうして、人生のすばらしさを、人間のすばらしさを、生きることのすばらしさを知った人びとは、数多くいるに違いない。
淀川さん、あなたは、あなたのお好きだった、あの、『素晴らしき哉! 人生』、あの映画のなかの、フランク、あの天使、そのものでした。
淀川さん、ありがとうございました。
| 映ちゃん | 今夜もしねま☆と〜く | 21:20 | - | - |


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