ろ〜りぃ&樹里とゆかいな仲間たち

Blog(日記)と云うよりはEssay(随筆)
Essay(随筆)と云うよりはSketch(走り書き)
Sketch(走り書き)と云うよりは……?

 注)タイトルに「*」のついた記事は「ネタバレ記事」です。ご注意ください。
  << April 2014 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>
ろ〜りぃが“師匠”と呼ぶ人が……
ろ〜りぃが“師匠”と呼ぶ人が三人いて、その人たちとの出会いによってろ〜りぃはギターを弾き始め、もって我々は、ヤツの下手くそなギターと音痴な歌を聴かされるハメになったわけあるが……、
そのお三方のなかのお一人は、ギターの絃を替えるとき、使い終わった絃を、一本一本、丁寧にボディから外され、キチンと巻いたうえで、
「いままで、いい音出してくれて、ありがとな」
と、一礼してから捨てられるそうである。
ろ〜りぃがその方を“師匠”と呼ぶのも、もっともだ。
その方のギターは、きっと、やさしい音色を出されるに違いない。
| Woody(うっでぃ) | 気まぐれなコラム | 15:37 | - | - |
『大論理学』(上巻の一)読了
昨日、『大論理学』(上巻の一)を読了した。
いわゆる「有論」の「質」に該当する部分である。
「有論」は『大論理学』の、と云うことは、ヘーゲル哲学の核心をなす部分であり、エッセンスが凝縮されているところである。
ヘーゲル哲学の理解にとって、最も重要なところである。
しかし、逸脱や混乱、先走りなども多く見られる。
それらの――謂わば――“贅肉”を削ぎ落とし、スッキリとした論理の体系として把握するには、そうとうな思惟の力を必要とする。
その力があるかないか、それはやってみなければ分からない。
「泳ぎをおぼえるためには、まず、水の中に入らなければならない」のである。
| 哲ッちゃん | 哲学のおと | 15:01 | - | - |
黒澤明監督が……
黒澤明監督がオスカーを受賞されたときのスピーチで、
「私には映画がまだよく分かっていない」
と、述べられたとき、会場から失笑にも似た笑い声が起こった。
それは、「クロサワに映画が分かっていなくて、だれに映画が分かっていると云うのか」、「いかにも日本人らしい謙遜だ」と、云う風に聞こえた。
しかし、氏は別に謙遜されていたわけではないと思う。
氏がインタヴューなどで、
「ご自身の最高傑作はなんですか?」
と、訊かれるたびに、
「次回作です」
と、答えておられたのは、有名な話である。
おそらく黒澤さんは、よりよき映画を追い求め、追い求め、追い求め続けられたのであろう。
そしてときには、映画を捉まえることに絶望して自殺未遂をはかられ、ときには、スタッフに対して怒鳴り散らしたりもなされたのであろう。
それはあくまでも真摯に、真面目に、生一本に、映画を追い求められたがゆえのことだったと思う。
追い求めても追い求めても追い求めても捉まえきれない自分を歯痒く思いながら、しかし決してあきらめることなく追い続けるとき、人は傍から見れば「謙遜」とも思える心性を獲得する。
「謙遜」が美しいのは、「謙遜しなければならない」、「謙虚であらねばならない」と云う道徳的な訓戒を守っているからではなく、おのずと「謙遜」と思われるような心性になるほどに、ある一つのことを追い求め続けるからであろう。
| Woody(うっでぃ) | 気まぐれなコラム | 14:35 | - | - |
『ドラえもん』のなかに……
『ドラえもん』のなかに、こんな場面がある。
広場にのび太やしずちゃんやスネ夫やの、いつもの面々が集まってくる。
今日はなにをして遊ぼうか?
――野球!
――サッカー!
――鬼ごっこ!
――かくれんぼ!
「あやとり!」と、のび太が云ったのは、いかにものび太らしい。
みなの意見が出そろったところで、ジャイアンが、
――すもう!
と、ひと声上げる。
するとみなが、
――すもうでもいい。
――ぼくも。
――見るだけなら(と、これは、しずちゃんである)。
――すもうやりたい。
と云うが、その表情は、ちっとも嬉しくはなさそうである。
のび太だけが、いわゆる空気を読めず、
――あやとり!
と、叫ぶが、ジャイアンににらまれて、
――すもうをやりたい。ぜひ……。
と、身体を震わせる。
結局みんな、すもうをやることになる。
「日本はムリヤリ、韓国・朝鮮を併合したのではない。
あれは韓国・朝鮮のほうから、『自分たちを日本のなかに入れてください』と、頼んできたのだ」
と、云う人々がいる。
なるほど、表面上から見れば、そうであろう。
ちょうど、のび太やスネ夫やしずちゃんたちが、すもうをやりたがったように……。
| 遊冶郎 | 悪魔のつぶやき | 17:16 | - | - |
『風の谷のナウシカ』と云うアニメ映画のなかに ……
『風の谷のナウシカ』と云うアニメ映画のなかに、こんなセリフがある。
敵軍に捕まった、老農夫の言葉である。
「あんたがたの姫さんも姫さんじゃろうが、わしらの姫さんとは、だいぶ、ちがうのぉ。
(と、節くれだった手を出して)
見てくだされ、この汚い手を。この汚い手を、姫さんは、きれいな手じゃと云うてくださる。働き者の、きれいな手じゃ、と、な」
 
人間、齢を経れば、容色は衰える。頬はたるみ、皺はより、シミやそばかすも出てくる。それは自然の摂理、人間の力ではいかんともしがたい。
主婦は、家族が幸せに暮らしていけるように、毎日毎日、その健康を気づかって食事をつくり、掃除をし、洗濯をし、蒲団を干し、懸命に働く。
盆も暮れも正月もなく働く。いや、みなが憩える盆暮れ正月だからこそ、みなが心置きなく憩えるように、主婦たちは働く。
そして歳を取り、手肌は荒れ、皺が寄り、たるみもできる。
しかし、そのなかにこそ、輝くような女性の美しさがあると思う。
ほとんどの女性が化粧をするが、「化粧」とは、「化け」、「粧う」と書く。
男と生まれたからには、そのような外面の美に惑わされることなく、内面に輝く女性の美を見出したい。
その美しさこそが、ほんとうの女性の美しさであり、その美しさを見出してこそ、ほんとうの男であると思うのである。

風の谷のナウシカ [DVD]
風の谷のナウシカ [DVD]

| Woody(うっでぃ) | 気まぐれなコラム | 17:13 | - | - |
男は黙って……
むかし、「男は黙って……」と云うCFがあった。
“世界のミフネ”が豪快にビールを飲み乾して云うこのセリフは、その当時ばかりでなく、かなり後々まで使われた。
人間が古いせいか、九州で育ったためか、どうも自慢話と云うものにはついていけない。
とくに、男の自慢話は聞き苦しい。
数々の武勇伝、ケンカ自慢にヤンチャ自慢、どれだけ酒に強いか、どれほど女にモテたか……。
とある有名人をつかまえて、
「まだアイツが売れてない頃さ、とある飲み屋でケンカになったことがあってね。
アイツが酔ってからんできやがったんだ。
ボコボコにしてやったよ。
アイツ、いまでこそ売れてエラそうなこと云ってるけど、なに、あんなヤツ、大したヤツじゃないよ」
「いまもうそんなに飲まないけどね、むかしは一升瓶の一本くらい、毎日のように空けてたもんさ。
いまでも飲もうと思えば飲めるよ。
俺は飲めないんじゃない、飲まないだけさ」
「卒業式のときなんか、裏の塀乗り越えて逃げたよ。
だって、裏門にも女の子たちが張ってたからね。
ひとりにでも捕まったら大変さ。みんなが押し寄せてきて、もみくちゃにされるんだから。
実際、学祭のときなんかひどかったよ……」
確かめようのないことは、なんとでも云える。
逆に、確かめようがないから、否定のしようもない。
否定しようとしても、「嫉んでる」、「やっかんでる」、「自分がそうじゃないからって……」などと、嘲われるのがオチである。
そのことをよくわきまえているから、通常の判断力を具備している人は、たとえそれが事実だとしても、そんな自慢話はしない。
そんな自慢話をすること、それ自体が、いかに恥ずかしいことか、どれだけ自分を辱めることかを、感性で理解している。
古代ローマの時代、有力者たちの間で自分の銅像を建立することが流行った。
そのとき大カトーは、
「自分の銅像を建てるよりも、人に『なぜカトーの銅像はないのだろう』と思われたい」
と、述べたそうである。
自分で自分の功績をひけらかすよりも、自分ではなにもしなくても、おのずから自分の功績が認められるようになりたい、と云うことだろう。
中国には、
「桃李不言、下自成蹊(とうりものいわざれど、したおのずからけいをなす)」
と云う諺がある。
「蹊(けい)」とは、小道のことである。
「桃や李(すもも)はなにも云わないが、その美しい花や美味しい果実によって人をひきつけ、その下には自然に道ができる。そのように、心根の正しく美しい人は、弁舌をもってしなくても、その心根を慕って、自然に人が集まってくる」
と云うほどの意味である。
司馬遷は「『史記』李将軍伝賛」中にこの諺を引いて、李将軍の人となり、その心根を称賛した。
男は黙って、大カトーや李将軍のような人物になりたい、と、思うのは、あながち自分が、九州育ちの古い人間だから、と云うばかりではないだろう。
| Woody(うっでぃ) | 気まぐれなコラム | 13:49 | - | - |


 SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
LINKS
PROFILE
OTHERS