ろ〜りぃ&樹里とゆかいな仲間たち

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 注)タイトルに「*」のついた記事は「ネタバレ記事」です。ご注意ください。
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*『ゼロの焦点』読後感*
『ゼロの焦点』を読了しました。
2回目ですけど、やっぱり、と、云いましょうか、思ったとおり、と、云いましょうか、あんまり面白くありませんでした。
いったいに清張氏の作品は、TVドラマや映画のほうが面白くて、本のほうはつまりません。
総じて推理小説と云うものは、本のほうが面白くて、TVドラマや映画はつまらないものです。
推理小説でも、いわゆるハードボイルド物やサスペンス物などは、映像化されても面白いものでして、清張氏の推理小説も、いわゆる本格派、謎解きの興味を中心とした物ではないのですから、その映像化作品が面白いことは不思議ではないのですが、この手の作品は、本も面白いけど、映像化作品も面白い、と、云うのが一般ですのに、清張氏の作品に限っては、映像化作品のほうが格段に面白く、本のほうは全然つまらないのだから、面白いものです。
例えば、この『ゼロの焦点』ですが――、
新婚早々、行方が知れなくなった夫を捜して、新妻が暗鬱な北国の町をさまよい歩く、と、云う設定は悪くありません。
でも、この最初の設定が、この大枠の設定の魅力を半減させています。
「推理小説の発端は、人間消失の謎にまさるものなし」とは、エラリー・クイーンとJ・D・カーが、一晩語り明かして合意した意見なのだそうですが、ここで云う人間消失の謎とは、姿をくらますことが不可能な状況下で姿をくらます、と、云う、“密室の謎”の一種、あるいはその変形のことです。
“密室の謎”とは、絶対に逃げることができない閉された部屋のなかでの犯行であるにも拘らず、そこに犯人の姿がない、と、云うものでして、これもひとつの“人間消失の謎”です。
しかしここで云う“人間消失の謎”とは、姿をくらます人間が、かならずしも、犯行を犯した人間ではありません。
当人に何らかの事情があって姿をくらましますが、とても姿をくらまし得えない状況下でそれが行なわれるために、“なぜ姿をくらませたのか”と云う興味のほかに、“なぜそのようなことができたのか”と云う興味が加わるのです。
この種の作品の最も優れたものとしては、カーター・ディクソン(J・D・カーのペン・ネーム)の、『妖魔の森の家』が挙げられます。
そう云った意味では、“人間消失の謎”ではありませんが、失踪もまた、広義では、“人間消失の謎”と、云えるでしょう。
『ゼロの焦点』は、そのスタイルを踏襲しています。
しかしその最初の設定が誤っているために、せっかくの設定が、台無しになっています。
いったいにこう云った設定では、およそ失踪しそうもない人が、なぜ失踪したのか、と、云うところに、その興味が生じるものです。
本来ならば、幸せいっぱい花いっぱい、ふたりの人生花盛り、ふたりのために世界はあるのよ、と、云わんばかりの幸せに満ち溢れている新婚夫婦の片方が、突如、何の前触れもなく姿を消すところに、意外性と興味が生ずるのです。
あらゆる状況から考えて、とても自分から姿をくらますようには思えない。かといって、なにものかに拉致されたようにも思えない。犯罪に巻き込まれたようにも思えない。
なのになぜ、消えてしまったのか?
それが興味を引くのです。
ところがこの作品では、新婚早々から、夫にはなにか謎めいた暗い陰が暗示されています。
いきなり失踪しても不思議ではないような雰囲気が漂っているのです。
その分、新婚の夫の失踪と云う、本来衝撃的であるべきはずの出来事のインパクトが、相当に毀損されてしまっています。
また、新妻のほうにも、夫に対する愛情が、あまり感じられません。
人を愛すれば当然生じるであろうような、その人のことを知りたい、その人と一緒にいたい、その人の苦しみを和らげてあげたい、その人と一緒に笑いたい、そんな感情、そんな思いが、この作品の主人公である禎子には、まるで感じられないのです。
本来この作品は、突如失踪した夫の行方を求めて、新妻が必死の思いで、見も知らぬ暗鬱な北国の町をさまよい歩く、と、云う、話であるべき筈ですが、新妻の夫に対する愛情が稀薄であるために、その効果が弱められています。
禎子の、憲一に対する愛情が強烈であれば、憲一の兄である宗太郎や、憲一の後任者である本多の出る幕はありません。彼らの果した役割を、禎子自身がやればいいのです。そのほうが、小説としても、緊迫感が出ますし、禎子の切実さも伝わってきます。
いらぬ人物が出てきてウロチョロしていると、小説としての興味は削がれてしまいます。
清張氏としては、謎の核心に迫った宗太郎や本多を殺害することによって、より緊迫感を高め、より謎を深めようと画策したのでしょうけれど、いらぬお世話、余計なお節介、です。
また、田沼久子なる人物を登場させたのも、不手際です。
こう云うミス・ディレクション――いかにも犯人らしい人物ではあるが、じつは犯人ではない――は推理小説の常套手段ですが、それだけに読者は、ははぁ、こいつは犯人じゃないな、と、いち早く、見破ってしまいます。
それだけに、その使い方には、細心の注意が必要です。
その人物が犯人ではない、と、解かっていながらも、なおかつ、読者の興味を惹きつけなくてはなりません。
それが一番成功しているのは、クイーンの『オランダ靴の謎』です。
あるいは、バルネス・オルツィの『隅の老人の事件簿』です。
『オランダ靴の謎』では、クイーン父子がいかにもそれらしい人物を犯人と目して、事件の検討を行います。(その際、読者がともに事件を検討できるよう、ページに余白を取ってメモのスペースを拵えているのが、いかにもクイーンらしい遊び心です。)
『隅の老人の事件簿』は、そのトリックのほとんどが、“入れ替わり”です。犯人と目された人物と、被害者と思われた人物とが、じつは入れ替わっている、と、云うものです。
そのことが解かっていながらも、“この入れ替わりが、どのようなきっかけで判明するのか”、“どのようにして、その入れ替わりを可能ならしめたのか”、そこに重点があるため、トリックは解っていても、興味がなくなることはありません。
清張氏はそのへんの呼吸が未熟でして、読者には、そうではない、と、解っているにも拘らず、いかにも犯人らしい人物の描写に紙数を費やしているために、物語の展開が冗漫になり、退屈になってしまいます。
この弊害は、『砂の器』において、顕著に表れています。
関川にかんする描写を省けば、もっと簡潔になり、それだけスッキリした作品に仕上がっていたろうに、と、思われます。
『ゼロの焦点』における田沼久子の存在も然りでして、なまじ彼女を登場させることによって、そして彼女を犯人らしく仕立てることによって、話が冗漫になり、密度が薄くなってしまいます。
憲一が彼女と束の間の生活を共にするようになった動機も、彼女との生活を清算して禎子との新生活に踏み切る動機も、ぼんやりとして、まったく曖昧なままです。
不思議な感覚ですが、かつて取り締まられる側の人間と、取り締まる側の人間とが、それぞれ当時の素性から離れた現在において、偶然に北国の田舎町で巡り合う、と、云うのも、これがふたりだけでしたら、なるほど、そう云うこともあろうか、と、納得できるのですが、これが三人となると、いくらなんでも、そんな都合のいいことはないだろう、と、思ってしまいます。いわゆる、ご都合主義、と、云うやつです。
久子と佐知子が、久子と憲一が、憲一と佐知子が、それぞれ、どうやって知り合ったのか、そして、どうやって、ふたりの女の暗い過去が暴かれたのか、禎子の推測でしか描かれていません。
この設定は、憲一と真犯人との二人に絞った方が、締りのある展開になったろうと思われます。田沼久子の存在は、不要です。
この作品が生ずるキッカケとなったのは、次のような思いつきからだった、と、云われています。
「米兵を中心とする連合軍に占領されていた頃は、米兵相手に売春をしていた女(いわゆるパンパン)たちが街にあふれていた。最近はそんな女たちの姿を見ないが、彼女たちはその後、どうなったのだろう。なにをしているのだろう。もし彼女たちが更生して、いまでは平穏で幸せな生活を送っているのだとしたら、もしその忌まわしい過去が明るみに出されようとしたら、彼女たちは現在の生活を衛るために、あえて殺人をも辞さないのではあるまいか」
『砂の器』もそうですが、清張氏の作品で特筆するに値するのは、犯人の動機の設定です。
惜しむべきは、清張氏は、それを充分に生かしきれていない、と、云うことです。
先述しましたように、氏は、妙に推理小説仕立てにしようとして、本多良雄、義兄の宗太郎、田沼久子などの、余計な人物を登場させて、物語を散漫にさせています。
この作品の最後の場面もそうです。
直接の当事者でない二人――禎子と儀作――の口から事件の真相、その動機が語られるために、いままでの謎が一挙に明瞭になるカタルシスが感じられません。
ここは禎子と佐知子を相対させるべきでした。
あるいは、回想シーンを使って、憲一と佐知子を相対させるべきでした。
そうして、佐知子が――彼女はもともと、名家の生まれ育ちで、学生時代に得意だった英語が、敗戦後に災いした、と、述べられています――どのような経緯を経てパンパンとなったのか、その生活がいかなるものだったのか、そこからいかにして地方都市の名流婦人となったのか、そこに力点を置くべきでした。
清張氏の筆力、“清張節”と云われた、その独自の文体をもってすれば、推理小説史上に残る名場面となったことでしょうに……。
それをなし得なかったがために、この作品には、妙にもどかしい、消化不良の、スッキリしない思いが残るのです。
最後に犯人が、荒れ惑う北陸の海にひとり漕ぎ出していく、と、云うのも、不自然です。
なぜそんなことをする気持ちになるのでしょうか。
清張氏はそのあたりの心の動きを、充分に筆写しているとは、云いかねます。
その行動は妙に芝居がかっていて、わざとらしいものがあります。
それよりも、断崖で禎子と相対してすべてが明るみになったのち、身を翻して断崖から飛び降りる方が、よほど劇的な効果があるでしょう。
実際、そのような幕切れにしたTVドラマもあったように思います。
清張氏の作品は、その着眼点が優れているため、また、その筆力――独特の文体――があるため、読む人をよく魅了しますが、残念ながら、その美点は短編においてこそ発揮されており、長編、とりわけ推理小説の分野においては、さほど成功しているとは云えない、と、云うのが、正直な感想です。
あえて云いますと、清張氏を評価する人々は、その原作と、TVドラマや映画とを、混同しているのではないか、と、思われるのです。
ハッキリ云いまして、清張氏の長編推理小説は、取るに足りません。
| 築山散作 | 気まぐれ読後感 | 08:57 | - | - |
『神変稲妻車』読後感
『神変稲妻車』なる本を読んでいます。
いわゆるひとつの時代小説でして、いまでこそ下火になっていますが、かつてこのジャンルの読物は、それこそ、一世を風靡したものでした。
海音寺潮五郎氏、山本周五郎氏、藤沢周平氏、五味康祐氏、等々、数多煌めく巨匠たちが、燦然たる諸傑作を、世に送りだしたものです。
さて、その時代小説の一篇、この『神変稲妻車』は、いったいだれの作なのでしょうか?
さして有名でない作家の手になる作?
いえいえどういたしまして。さる有名作家の、これぞ隠れた名品です。
その有名作家とは?
これがなんと驚く勿れ、横溝正史氏なのです。
あの推理小説作家、あの金田一耕助の生みの親、横溝正史氏の時代小説が、この『神変稲妻車』なのです。
横溝正史氏と云えば、その“金田一耕助シリーズ”を拝読していた頃から思っていたのですが、その語り口、その筋運び、いわゆるストーリー・テリングの妙には、はなはだ驚嘆すべきものがあります。
この『神変稲妻車』も、氏のストーリー・テリングの妙が冴え渡っておりまして、あたかも往年の連続活劇を見るが如し、です。
主人公が陥る危機また危機、個性あふれる多彩な人物、敵とも味方とも知れぬそれらの人物が、卍巴と入り乱れ、妖しの幻術、殺陣剣劇の立ち廻り、断崖絶壁の格闘あれば、得体知れぬ毒草の恐怖、そのハラハラドキドキ、波瀾万丈の展開は、「横溝さんは、日本のルーカス、スピルバーグか?」と、目を瞠るものがあります。
“金田一耕助シリーズ”でしか横溝正史氏を知らない方は、ぜひにもご一読ねがいたいものです。
そうすれば、氏の比類のないストーリー・テリングの妙に舌を巻き、あらためて、その才能のすばらしさに、驚嘆することでしょう。

髑髏検校(どくろけんぎょう) (時代小説文庫)
髑髏検校(どくろけんぎょう) (時代小説文庫)
横溝 正史
| 築山散作 | 気まぐれ読後感 | 09:03 | - | - |
『悪魔の手毬唄』
『悪魔の手毬唄』を読み終えました。
言わずと知れた、横溝正史さんの代表作の一つです。
いったいに横溝さんの作品と云えば、「古い因習と桎梏に縛られ、文明社会から隔離された一種の密室ともいうべき村落」を舞台とし、その村における「二大勢力家」を中心にして、「血で血を洗う惨劇」が繰り広げらる、「オドロオドロしき怪奇趣味」に充ち満ちた物語、と、云うのが、たいていの人が抱く印象でしょう。
しかしその見方は、残念ながら、皮相な見方、と、云わざるを得ません。

横溝さんの諸作、少なくとも、その代表作と見做されている諸作品の根底に流れているのは、人間に対する限りないやさしさ、とりわけ、殺人と云う罪を犯さざるを得なかった犯人に対する、そして、咎なくして殺されざるを得なかった被害者に対する、やさしいまなざしです。
金田一耕助氏は、明智小五郎と並ぶ、日本の名探偵の一人ですが、明智氏の人気が、そのスマートでダンディなところに由縁するであろうに反して、金田一氏の魅力は、そのやさしさにあると思われます。
金田一氏は、ハッキリ申しまして、名探偵などではありません。
氏は依頼された職責を果たせません。
なるほど、氏は最後に、犯人の意図を暴き、事件の全容を明らかにします。
しかし、そのときにはすでに手遅れで、犯人の意図は完遂されてしまっています。
実際問題からしましたら、氏は「名探偵」どころではなく、むしろ、「迷探偵」です。
にもかかわらず、氏が名探偵と称されるのは、最後に事件の全容を明かにすることによるとともに、その限りなくやさしい人柄の故にあることと思われます。
金田一氏は、ひとつの事件を解決すると、そのあまりのやるせなさに、漂泊の旅に出ることがしばしばであった、と、云うことを、なにかの作品中に書かれています。
氏は依頼された事件を未然に防ぐことはできません。そう云う意味では、探偵として落第ですが、氏の、人を思いやるこころ、心ならずも殺人と云う大罪を犯さざるを得なかった犯人の心情を、そして、無残に殺されざるを得なかった被害者に対する哀惜の念、それを、我が身に起こったことのように感じる感性、それこそが、金田一氏の魅力であり、横溝正史さんの作品の魅力である、と、思います。

それが如実に現れているのが、この『悪魔の手毬唄』です。
それこそが、この作品をして、横溝氏の代表作たらしめている由縁であり、ぜひ、ご一読を乞うゆえんであります。

金田一耕助ファイル12 悪魔の手毬唄
金田一耕助ファイル12 悪魔の手毬唄
横溝 正史
| 築山散作 | 気まぐれ読後感 | 10:13 | - | - |
『髑髏検校』
むかし、“翻案小説”なるものがありました。
精確には、法律上の厳密な定義や規定があるのでしょうが、大雑把に申しますと、海外の小説などを、物語の筋はそのままに、舞台や人物を日本のそれに置き換えたものです。
明治期に、翻訳家、作家、記者として活躍した黒岩涙香などは、この“翻案小説”の名手でした。
なにしろ、原作よりも、涙香の翻案の方がおもしろい、と、評判されたくらいなのですから、その力量のほどがうかがいしれましょう。
いまでもなじみの深い、『ああ、無情』(原題:レ・ミゼラブル)、『岩窟王』(原題:モンテ・クリスト伯)などの題名は、涙香による命名です。
日本推理小説の祖、江戸川乱歩氏は、涙香の翻案小説に魅了されたあげく、涙香の翻案小説をさらに翻案して上梓しました。
それくらい涙香の翻案小説は、魅力にとんでいたのです。
江戸川乱歩氏と並ぶ日本推理小説界の巨頭、横溝正史氏にも、翻案小説があります。
『髑髏検校』がそれです。
いかにも横溝氏らしい、おどろおどろしい題名ですが、原作は『吸血鬼ドラキュラ』です。
原作は長編としても長大な分量ですが、氏の『髑髏検校』は中編です。
と、云っても、ダイジェストではありません。
あまり人の口の端にのぼりませんが、横溝作品の魅力の一つには、氏の類稀なストーリー・テリングの才があります。
この『髑髏検校』にしましても、ブラム・ストーカーの長大な原作を要領よくまとめ、いわゆるひとつの好読物に仕上げておられます。
とりわけ驚嘆するのは、そのラスト──。
最近でもゲームなどで、無念の思いを抱いて亡くなった歴史上の人物が、最後の大物、と、して登場するパターンが見受けられますが、その遠因はじつに、『魔界転生』にあるのではなく、この『髑髏検校』にあるのです。

髑髏検校 (角川文庫)
髑髏検校 (角川文庫)
横溝 正史
| 築山散作 | 気まぐれ読後感 | 10:05 | - | - |
『虞美人草』随感
『虞美人草』を読了した。
このあたりから漱石に対する評価の分岐が明瞭になり、ナカナカ面白くなってくる。
それはまた後日述べる(?)として、表面上、面白いのは、登場人物の名前である。
甲野欽吾、小野清三、井上小夜子はよかろう。
小夜子の父、井上孤堂も、号と思えば、違和感はない。
しかし、甲野欽吾の親類にして友人である一(はじめ)と、その妹の糸子の名字、「宗近」と云うのは、どうだろう?
「宗近」などと云う名字は、この作品以外で、聞いたことはない。
また、甲野の義理の妹――父の後妻の子――の名前が、「藤尾」である。
名字ならともかく、名前で「藤尾」とは……。
どうにもしっくりこない感覚である。
| 築山散作 | 気まぐれ読後感 | 10:26 | - | - |
「野分」を……
「野分」を読み終えた。
このころの漱石は、まだまだ思想が未成熟で、文章も生硬で、非常に読みにくい。
その読み難いところを以て、漱石の漢文学における素養の深さ、などと云っている批評家がいるのだから、いかに批評家のレベルが低劣かが解る。
漱石も『虞美人草』までは、インテリ連中に受けがよく、したがって、通常な人間、後に漱石が述べた言葉を藉りれば、「文壇の裏通りも露路も覗いた経験はあるまい」と、思われる、「教育あるかつ尋常なる士人」たちには、受けが悪い。
しかし、漱石の本領は、その文豪たる所以は、『虞美人草』以後、『三四郎』からの諸作によって形成される。
で、続いて、『虞美人草』を読もうと思ったのだが、ここらでちょっと小休止して、『ハムレット』を読むことにする。
| 築山散作 | 気まぐれ読後感 | 01:45 | - | - |
漱石と云えば……
漱石の作品と云えば、なんと云っても、『坊ちゃん』でしょう。
読書嫌い、本嫌いの人たちでも、『坊ちゃん』でしたら、読んだ記憶があるのではないでしょうか。
昔は学校の教科書にも掲載されていましたし、子供向けのリライト作品も、各出版社から、さまざまな版が出されていたものです。
『坊ちゃん』は、それほど長い作品ではありません。おそらく漱石の長編作品中では、『坑夫』と並んで、もっとも短い作品でしょう。
文章も軽快で、読み易く、それが『坊ちゃん』の魅力のひとつとなっています。
しかし『坊ちゃん』の魅力の最大なるものは、なんと云っても、“坊ちゃん”をはじめとする各登場人物の、その際立った個性にあるでしょう。
真っ正直で一本気、正義感あふれた江戸っ子の坊ちゃん。
豪快明朗で生徒たちの人気もある毬栗頭の山嵐。
おとなしく、善良で、蒼ぶくれした顔のうらなり。
いやに勿体ぶった、狸のようなご面相の校長。
年がら年中赤いシャツを着て、女のように優しい声を出す、教頭の赤シャツ。
教頭の腰巾着で、へらへらした、芸人風の趣のある、野だいこ。
近在で一番の別嬪で、マドンナの異名を奉られているお嬢さん。
その他、東京の坊ちゃんの家に長く勤めている下女の清や、坊ちゃんの下宿先のおかみさん、坊ちゃんを困らせる生徒たちなど、それぞれに個性豊かで、活き活きとしています。
それらの人物像は、単純で深味がなく、紋切型とも云えますが、むしろそれゆえにこそ成功している、と、云ってもいいでしょう。
この小説が拡まった後、各地の学校で、先生に綽名をつけるのが流行ったそうです。
思い起こせば学生時分、みなで先生たちに綽名をつけて、秘かに喜んでいたものです。
みなさまがたも、おぼえがあるでしょう?
その遠因は、じつに、この、『坊ちゃん』にあったのです。
もっとも、識者に云わせますと、先生に綽名をつけるのは、当時から松山ではふつうに行われていたことのようで、それが『坊ちゃん』にそのまま、採り入れられたのだそうです。
と、すれば、松山中学校に赴任していた当時の漱石は、いったい、どんな綽名をつけられていたのでしょうか?
ちょっと、興味がありますね。
それはそれとして、『坊ちゃん』を読んで思うことは、坊ちゃんの一本気な正義感、江戸っ子気質を好ましく思うとともに、その坊ちゃんの行動に、いささかの滑稽味、微笑ましさを感じることです。
ぶっちゃけて云えば、“若さゆえの客気”、“世間知らずの一本気”、まさに、“坊ちゃん”です。
正味の話、坊ちゃんの行動は、実際上では、なんらの効果も現しません。
うらなりくんの転任を阻止することもできず、マドンナを赤シャツから引き離してうらなりくんに返すこともできず、赤シャツや野だいこを反省させることもできません。
いくら赤シャツや野だいこを奇襲し、玉子をぶつけ、打擲したとて、彼らのもつ力には、なんらの影響も及ぼしません。
そんな所業は、坊ちゃんや山嵐の、自己満足にすぎません。
赤シャツには、野だいこを媚びへつらわせ、マドンナをうらなりくんから奪い、うらなりくんを九州の山奥に転任させるだけの力があります。
赤シャツの力の依って来たる根本を探り、その根本に打撃を与え、その力を根こそぎにしようとはしませんし、そんな考えも浮かびません。
坊ちゃんに捉えられるのは、表面上の現象だけです。
その表面上の現象に嫌悪を抱き、その表面上の現象だけを捉えて、これと格闘しているのが、坊ちゃんの“正義感”です。
表面上の現象であるだけに、その実際上の効果は空しく、坊ちゃんが懸命になればなるほど、その行動は滑稽になります。
坊ちゃんは最初から松山を田舎とバカにし、松山で暮そうとは考えず、東京に帰る事ばかりを考えています。
坊ちゃんの“正義感”は、松山での生活に入っていこうとしない、逃げ腰の、(坊ちゃんの言葉を借りて云えば)臆病です。
それが、赤シャツに反発を感じながらも、赤シャツのもつ力の、その力が依って来たるその根本を探ろうともせず、表面上の現象だけを捉まえて、これを攻撃する動きとなって現象するのです。
それゆえに、坊ちゃんの行動は滑稽に思われます。
しかし坊ちゃんのその行動が微笑ましく思われるのは、読者にも、赤シャツに反発を感じるその感性において、坊ちゃんと一致するところがあるからです。
赤シャツの力の依って来たる根本を探り、その根本に打撃を与え、その力を根こそぎにすることは、これはじつは、非常に困難なことです。
それを経験として理解しているからこそ、凡俗な輩は坊ちゃんを、まさに世間知らずの“坊ちゃん”として軽蔑し、却って赤シャツを“現実的である”として、好意的に評価します。
凡俗な輩は、そう考えることによって、野だいことなります。
野だいこは感性的に赤シャツの力を理解し、赤シャツに媚びへつらって自分の地位を確かなものにしていますが、凡俗な輩は小理屈をこね、その小理屈をもって“現実を知る”と称して、赤シャツのような人間に媚びへつらい、それをもって、“現実的な生き方”と、満足しています。
野だいこ以下です。
漱石は坊ちゃんの“坊ちゃんらしさ”を認めながらも、凡俗な輩のように、それを単純に否定するのではなく、坊ちゃんの“坊ちゃんらしさ”を維持したまま、なお赤シャツに対抗しようと、その模索を続けます。
その系列が、漱石の作品群を成しています。
漱石はその手紙に書いています。
「坊ちやんの如きものが居らぬのは、人間として存在せざるにあらず。居れば免職になるから居らぬ訳に候。……僕は教育者として適任と見做さるる狸や赤シヤツよりも不適任なる山嵐や坊ちやんを愛し候」
如何に狸がバカげており、如何に赤シャツが嫌味であっても、「教育者として適任」であれば、「教育者として不適任」な山嵐や坊ちゃんよりも、意義があります。
にもかかわらず、漱石が「山嵐や坊ちやんを愛し候」と、書いているのは、漱石が狸や赤シャツを「教育者として適任」と認めていないこと、むしろ山嵐や坊ちゃんを「教育者として適任」と認めていることを示しています。
そしてこのことは、“教育とはなにか?”、“教育者とは、いかなる人物か?”もしくは“教育者とは、いかなる人物であらねばならないか?”を、考えさせる契機となります。
この問いは、単に“教育”の分野だけにとどまらず、さらに広く、人生全般、生きることそのもの、人間であることそのものへと、つながっていきます。
漱石は赤シャツに対する坊ちゃんの無力や滑稽を認識しながら、それでも“坊ちゃんらしさ”を投棄てることなく、“坊ちゃんらしさ”を維持したままそれを深化させて赤シャツのような人間に対する闘いを繰り広げ、その成果を蓄積していきます。
そのへんが、文豪漱石と、凡俗な“現実的人間”とを分け隔つ、決定的な第一歩である、と、云えましょう。
| 築山散作 | 気まぐれ読後感 | 12:03 | - | - |
『三四郎』(夏目漱石)
元来胃腸は丈夫なはずなのだが、この時季は不具合をおぼえることが多い。
いわゆる、ウイルス性胃腸炎、と、云うやつである。
近所の町医者に行き、診察を待っている間に新聞を広げてみると、朝日新聞に『三四郎』が再連載されていることを知った。
朝日新聞と云えば、漱石が東京帝国大学教授への昇進を断って、職業作家として入社した会社が発行している新聞である。
若き日に、いわゆる左翼青年だったものの悪癖で、“いまなぜ、漱石か?”と、思いつつも、“漱石は時代を超えて愛読される価値がある。とりわけ『三四郎』はいい。朝日新聞も、なかなか粋なことをする。”と、思わず頬がゆるんでしまった。
漱石と云えば、『坊ちゃん』が有名であるが、『坊ちゃん』は余りに軽快で、お手軽すぎる(読み込めば、思わぬ深さがあり、その奥深さに愕然とするのだが)。
『吾輩は猫である』も読み易いが、かなり長い。(漱石の作品としては、『明暗』に比すくらいの長さである。)
『夢十夜』、『永日小品』などは読み易く、また面白いが、いまひとつ、メジャーではない。
『草枕』、『野分』、『虞美人草』などは、文章が難渋で読みにくい。ハッキリ云えば、下手なのである。
やたらに漢語を並べたような『草枕』や、俳句を連らねたような文章で、「文章に厚化粧があり、会話に厚化粧があり、構成に厚化粧がある」と評された『虞美人草』は、それゆえに、インテリには好まれる(文章が難解ゆえに、それを読んだ、と、云うだけで、自尊心が満たされるのである)が、「全くただの人間として大自然の空気を真率に呼吸しつつ穏当に生息しているだけ」の普通の人間には、はなはだ取っ付き難いものである。
その点、『三四郎』は読み易い。しかも内容が、それまでの作品から格段に進化して、円熟深味を増している。
初めて『三四郎』を読む人は、“今も昔も、青春時代と云うのは、変わらぬものだなぁ”と、思われるだろう。或る人はこの作品に描かれたような大学生活に憧れを抱き(高校時代に初めてこの作を読んだ自分がそうだった)、或る人はこの作品に描かれた大学生活から、かつて過したみずからの青春の日を思い起こすであろう(現在の自分がそうである)。
そのような思いを惹起せしめるところに、漱石の並々ならぬ力量の一片が窺い知れる。
他の万巻の、いわゆる“青春小説”なるいかなる作品よりも、この一篇の『三四郎』こそが、真の“青春小説”と呼ばれるに相応しい。
『三四郎』は、およそ我が国初の“青春小説”であるのみならず、現在なお第一等の“青春小説”なのである。
試みに、他のいわゆる“青春小説”なるものを読んでみたまえ。
なるほど、そのときそのときの風俗や現象などは、描き出されているであろう。しかし、青春の時期に生きる若者たちの心象を、かくまでみごとに描き出した小説は絶えて、ない。
赤川次郎氏も、新井素子女史も、若者の心象を見事に描き出されたとして、それぞれ一世を風靡なされたが、『三四郎』には、遥か及ばず、である。
漱石の大先輩、二葉亭四迷氏の『浮雲』も、その四迷氏の師匠、坪内逍遥氏の『当世書生気質』も、“青春小説”と云う観点からは、『三四郎』には及ばない。
鴎外が『三四郎』に刺激され、ライバル意識を燃やして『青年』を書いた、と、云うが、もしそれが事実なら、無謀も甚だしい。
鴎外ごときが漱石に対抗するなど、身の程知らずと云うものである。
現に『青年』など、じつにツマラヌ作品であった。面白かったのは、主人公の名まえ(小泉純一)くらいのものである。
鴎外の諸作品は、インテリが如何にツマラヌ、腐った心性をもっているか、インテリとはなんと惨めで、憐れな、情けない人間であるか、それをみごとに表現している。
ところが、世のバカな輩は、その鴎外を崇拝し、“文豪”などと、奉っている。
なるほど、鴎外の文章は小難しい。やたらに知識を披露したがる。だからこそ、インテリ連中には、たまらない魅力があるのだろう。漱石の『草枕』や『虞美人草』を読んで得意がっているのと同じである。
「へぇ〜、難しくて読めないの? ボクは読んだよ」
と、いう訳である。
また鴎外自身も、その諸作品で、ツマラヌ、クダラヌ、腐った心性の、どうにも救いようのないインテリを、あたかも立派な人物の如く描いている。
だからこそ、ご同様の、ツマラヌ、クダラヌ、腐った心性の、どうにも救いようのないインテリどもが、狂喜し、崇拝し、崇め奉り、“文豪”と、称しているのである。
その鴎外を、漱石とともに、“近代日本の二大文豪”などと持ち上げているのは、漱石に対する侮辱もはなはだしい。
三四郎は東京へ向かう汽車の中で、「髭を濃く生している」、「面長の痩せぎすの、どことなく神主じみた男」と一緒になる。
その男は、三四郎が
「これからは日本も段々発展するでしょう」
と、云うと、
「亡びるね」
と、云う。

熊本でこんなことを口に出せば、すぐ擲ぐられる。わるくすると国賊取扱にされる。三四郎は頭の中の何処の隅にもこう云う思想を入れる余地はない様な空気の裡で生長した。

と、漱石は書いている。
その男は、

「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」で一寸切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。
「日本より頭の中の方が広いでしょう」と云った。「囚われちゃ駄目だ。いくら日本の為を思ったって贔屓の引倒しになるばかりだ」
 この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出た様な心持がした。同時に熊本に居た時の自分は非常に卑怯であったと悟った。

バカなインテリ連中は、引用した前者の、「亡びるね」と、云う箇所をもって、太平洋戦争における日本の敗戦を予言した、などと、抜かしている。
インテリなどと云う連中は、どこまでバカなのか、程度が知れない。漱石は小説家であって、予言者ではない。
それよりも、後者の引用の方にこそ、多く含むところがあるであろう。
男の言葉を聞いて、“真実に熊本を出た様な心持”になり、“同時に熊本に居た時の自分は非常に卑怯であった”と悟り得る三四郎の感性は、なんと若々しく、みずみずしいことか。
とても鴎外ごときには描写できない心性である。
三四郎は、その若々しく、みずみずしい感性をもって、東京での暮しを開始する。
その三四郎の東京での生活が、これまた、活き活きとしておもしろい。
是非一読を乞う所以である。
| 築山散作 | 気まぐれ読後感 | 12:58 | - | - |
『道草』
『道草』は、漱石の自伝的小説だとか、自然主義的小説だとか云われているようだが、とてもそうは思えない。
自伝的小説や、自然主義の小説のように、作家の過去や日常の出来事、考えなどを小説化した作品ではないのである。
漱石はその小説において、「金の力で支配出来ない真に偉大なもの」を追究し続けた作家であり、『道草』は、それを会得した漱石が、それを会得するまでの過程を小説に蒸留した作品である。
漱石が追究した、「金の力で支配出来ない真に偉大なもの」とはなにか、漱石はどうやってそれを会得したのか、は、漱石の作品を研究することによって、明らかにされる。
それがなんなのかは、まだ判らないが、いわゆる「則天去私」でないことだけは確かである。と、云うよりも、「則天去私」とはなにか、と、云うこと自体、明らかにされていないのだから、漱石が晩年に到達した境地を、「則天去私」の四文字だけで済ますわけにはいかないのである。
そして、21世紀の現代においてもなお、漱石が追究した「金の力で支配出来ない真に偉大なもの」がなんなのかは、明らかにされていない。
漱石は日露戦争後の日本の発展期に、作家としてそれを追究した。
21世紀の日本人は、バブル崩壊以来、混乱迷走のラヴュリントスから抜け出せず、漱石が追究した「金の力で支配出来ない真に偉大なもの」を明らかにする必要に迫られている。まだ明確に意識されていないにせよ、いずれは、人々の意識の俎上に、その必要が明らかになってくるだろう。
だからと云って、なにも眉間に皺を寄せて、鹿爪らしく読む必要はない。
愉しく、気楽に読めばいいのである。実際漱石の小説は、いまなお、愉しく、気楽に読めるのだから。
| 築山散作 | 気まぐれ読後感 | 22:28 | - | - |


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