ろ〜りぃ&樹里とゆかいな仲間たち

Blog(日記)と云うよりはEssay(随筆)
Essay(随筆)と云うよりはSketch(走り書き)
Sketch(走り書き)と云うよりは……?

 注)タイトルに「*」のついた記事は「ネタバレ記事」です。ご注意ください。
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“スター・ウォーズ”新解 PART
「“スター・ウォーズ”新解」をアップした後で気づいたことがあります。
「“スター・ウォーズ”新解」を読んでくださった方は、お気づきになられたかも知れませんが――

「“スター・ウォーズ”新解」によりますと、アナキン・スカイウォーカー即ちダース・ヴェイダーの父は、皇帝パルパティンの師であり、皇帝パルパティンはみずからその師を殺したのであり、アナキン・スカイウォーカー即ちダース・ヴェイダーにとっては、父の仇です。
と、云うことは、皇帝パルパティンは、ルークにとっては、祖父の仇になるわけです。
ルークの、皇帝に対する嫌悪は、共和政に対する敵、父を暗黒面に誘った張本人、と、云うだけでは、なかったのです。
ルークは、皇帝パルパティンすらもが恐れた、そのフォースの感覚をもって、皇帝が、父のみならず、祖父の仇でもあることを、おぼろげながらも感じ取っていた、と、考えるのは、うがちすぎでしょうか。
しかし、そう考えてみますれば、ルークとアナキンは、父子協力して、ルークにとっては祖父であり、アナキンにとっては父である男の仇を討った、と、云うことになるのです。
あまりに因縁話めくようですが、そう考えてみますと、家族の絆の強さと云うものが、よりいっそう、心に迫ってくるように感じられるのではないでしょうか。
| 映ちゃん | 気まぐれシネマ・デイズ | 02:26 | - | - |
“スター・ウォーズ”新解
“スター・ウォーズ・シリーズ”の新作、『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』が、早くも、DVDやBlue-Rayなどになって、市場に出回っているとか、出回るとか……。
“スター・ウォーズ・シリーズ”の熱烈なファン、と、云うわけではありませんが、それでも人並みには観てますし、人並みには好きなシリーズではあるのですが、ここまで来ると、“もうエエやろ”と云う気分になります。
昔懐かしい、ハリソン・フォード(ハン=ソロ)、マーク・ハミル(ルーク・スカイウォーカー)、キャリー・フィッシャー(レイア姫)などが出演しているにもかかわらず、です。

その“スター・ウォーズ・シリーズ”ですが、これはご存じのように、全9作から成る構想でして、その9作が、さらに、前3作、中3作、後3作、と、3部に分けられています。
最初に製作され、公開されたのは、中3作で、それぞれ、『スター・ウォーズ/新たなる希望』(公開当初は、たんに『スター・ウォーズ』だけだったように記憶しています)、『スター・ウォーズ/帝国の逆襲』、『スター・ウォーズ/ジェダイの復讐』(のち、『スター・ウォーズ/ジェダイの帰還』と改められました)と、題されています。先述しました、ハン=ソロ、ルーク・スカイウォーカー、レイア姫などが活躍したのが、この3作です。
ファンの間では、この3作をもって、“ルーク3部作”と、称しているようです。

中3作の後に、前3作が製作、公開されました。
『スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』、『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』、『スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐』です。
この前3作は、中3作で圧倒的な存在感を示した悪役:ダース・ヴェイダーの過去を綴るものです。
――かつて、ジェダイの騎士として、その将来を嘱望されたアナキンが、なぜに、そして、いかにして、暗黒卿ダース・ヴェイダーとなったのか。
――なぜに、どのようにして、共和国は崩壊し、帝国が樹立されたのか。
それが前3作における興味であり、物語の見所でした。

じつを云いますと、この前3作が公開される前から、ひとつの疑念、と、云いますか、危惧がありました。
それは――、
ルーカス氏に、政治上の陰謀や駆引き、裏切りや離合集散などが描けるだろうか?
と、云うものでした。
自分はそれまでに、戸川猪佐武氏の『小説 吉田学校』を読み、政治家たちの繰り広げる、摩訶不思議な暗闘暗躍、離合集散、裏切り、締結、騙し騙されの妙に、すっかり感服していました。もちろんそれは、最高権力者である内閣総理大臣の座、或いは政権与党の座をめぐって繰り広げられるものなのですが、その迫真力、その説得力は、なんど読み返しても、血沸き、肉躍ります。
それが単純な買収供応や旨味のある地位――大臣や党内の役職など――の約束などではなく、あるいは時勢を説き、あるいは大義を唱え、あるいは情に訴え、ときに野心をくすぐり、ときに利害を勘案せしめ、ときに隠微なる嚇しを加え……、
日本と米国とでは、政治上の仕組みは違うとは云え、やはり根底には、同じような現象があろうと思うのです。
“スター・ウォーズ・シリーズ”は、古代ギリシャやローマ、北欧や中東などの神話伝説を参考にして、その世界観が形成された、と、聞きました。
そうしますと、ギリシャがマケドニアに併合された経緯や、ローマが共和政から帝政に移行した際のプロセスなどは、大いに参考にしただろう、と、思ったのですが、残念ながら、前3作には、そのような政治上の、複雑なストーリー・プロセスはありませんでした。
やはりその種のことは、ルーカス氏の手に余るものだったようです。あるいは、ルーカス氏自身、政治上の権力争奪やそのための手練手管、権謀術数、腹芸駆引などには、興味がなかったのかも知れません。
とまれ、最初に危惧していたように――後出しジャンケンのように思われるかもしれませんが――、この点でのストーリー展開は、非常に不充分で、不満足なものでした。
元老院議パルパティーンが、どのようにして銀河皇帝に上りつめたのか、その過程、そのプロセスが、あまりにも単純であっけなく、お座なりになっている感が拭えないのです。

同じことが、アナキンがダース・ヴェイダーになる過程についても云えます。
“フォースにバランスをもたらす子”として、その将来を嘱望された、若きジェダイの騎士:アナキン・スカイウォーカーが、如何にして、恐怖と弾圧の象徴:暗黒卿ダース・ヴェイダーとなったのか……。
そこには、それこそ、観客の心胆を寒からしめると同時に、その紅涙を絞らせ、同情を催させるような、痛切な動機、理由が存在して然るべきはずです。
ところが、それがないのです。
お家芸の特殊撮影技術(SFX)の迫力と、スピーディなストーリー展開で気がつかないかもしれませんが、落ち着いてよく考えてみますと、アナキンがダース・ヴェイダーになる経緯は、はなはだもって単純至極、ハッキリ云ってしまえば、幼稚にすぎるのです。
愛する人の命を助けたい、と、云う気持ちは、解からないでもありませんが、そのために――愛する人の命を救うために――、アナキンは、自分みずから、なんの行動を起こしたのでしょうか。なにもしていません。
ヨーダに相談し、オビ=ワンに愚痴り、そうしてパルパティーンの誘いに、ホイホイと乗って行っただけです。
辛辣な観方をすれば、彼の、パドメにたいする愛も、あやしく思われてきます。
いったいアナキンは、パドメのことを、ほんとうに愛していたのでしょうか?
と、云いますと、愛情に、嘘もほんとうもないだろう、と、 おっしゃられるかもしれません。
なるほど、愛情の真実などは、当の本人同士にしか解らないものでしょう。
しかしその言動から、おおよその思いを察知することはできます。そうしてみますと、アナキンがパドメの思いを理解し、その思いに共感し、共に生きて行こう、と、考えたとは、到底、思えません。
アナキンの考えは、あくまで、自己中心です。
評議会がぼくを評価してくれない、パドメがぼくのことを解ってくれない、オビ=ワンがぼくを理解してくれない、……。
まるで中学生です。
グレた中学生が、好きな女の子と一緒になれなかったために、自棄になって町の不良になった、と、云ってしまえば、いくらなんでも、アナキンに失礼でしょうか?
ですので、どうもこの前3作、いわゆる“アナキン3部作”には、いまひとつ、スリルとサスペンスが欠けているように感じられてしまうのです。
スリルやサスペンスと云うものは、特殊撮影技術(SFX)の妙からではなく、人間同士の相克葛藤から生じるものであり、それをうまく表現し得た者が、よき脚本家、よき演出家、と、呼ばれ得るのです。
“スリラーの神さま”、“サスペンスの神さま”と賞されたアルフレッド・ヒッチコックはもとより、“西部劇の神さま”と呼ばれたジョン・フォードも、“世界のクロサワ”こと黒澤明監督も、またルーカス氏の先輩、フランシス・コッポラ氏、ルーカス氏の盟友、スティーヴン・スピルバーグ氏も、みなそうです。
残念ながらルーカス氏は、その着想、そのアイディアの点では、優れたものをもっておられる(“スター・ウォーズ・シリーズ”の着想や、“インディアナ・ジョーンズ・シリーズ”の着想など)ようですが、演出家としての力量は、先述の人々には及ばないようです。
それはともあれ、この前3作を何回か観て、面白いことに気付きました。これはおそらく、だれも云っていない、と、思うのですが――、
前3作の第1作目で、ジェダイの騎士:クワイ=ガン・ジンは、アナキンの母シミに、アナキンの父親はだれなのか、訊ねます。
シミは、あの子に父親はいない、自分が一人で身籠って、一人で産んだのだ、と、云います。
この話は、世界各国の開国伝説に見られる、処女懐胎伝説を彷彿とさせます。
建国の英雄は、天からの使命を受けた娘(処女)から産まれる、と、云うものです。いちばん有名なのが、イエス・キリストの生誕物語でしょう。
しかし、前3作の3番目の作品で、アナキンを暗黒面に誘惑しようとする元老院議長パルパティーンは、パドメの死を憂うるアナキンに、賢人:ダース・グレイヴルの話を聞かせます。
ダース・グレイヴルは、フォースの源であるミディクロリアンに影響を与え、生命を創造した、と、云うのです。
彼は自分の弟子に殺された。生命を創造しながら、自分の生命は救えなかった、皮肉な話だな、と、パルパティーンは、アナキンに話します。
さらにアナキンが、パドメを死の淵から救うためにパルパティーンの弟子となり、ダース・ヴェイダーの名を与えられたとき、パルパティーンはアナキンに云います。
――死を免れる術はわたしの師だけが獲得したものだが、われわれ二人が力を合せれば、その秘奥を突き止めることが出来る。
お分かりですか?
必要ないかもしれませんが、整理してみましょう。
・アナキンは、父親無くして産まれた。
・ダース・グレイヴルは、フォースの源であるミディクロリアンから、生命を創造した。
・ダース・グレイヴルは、自分の弟子に殺された。
・死を免れる術を獲得し得たのは、パルパティーンの師だけである。
さて、厳密には、「死を免れる術」と、「生命を創造する」こととは、別物のように思われましょうが、ここでは、おなじことだと考えてみましょう。
すると、どうなるでしょうか?
アナキンはダース・グレイヴルがミディクロリアンに影響を与えて産みだした子であり、それゆえにこそ、ヨーダをも超えるようなフォースの潜在力をもっているのであり、また、シミが云ったように、父親はいないのです。
そして、ミディクロリアンに影響を与えてアナキンを産みだしたダース・グレイヴルは、彼の弟子であるパルパティーンに殺されたのです。
つまりアナキンは、自分の父の弟子に弟子入りし、しかもその師は、自分の父を殺害した人物でもあるのです。
中3作の3作目、『スター・ウォーズ/ジェダイの復讐』(『スター・ウォーズ/ジェダイの帰還』)において、ダース・ヴェイダーは、瀕死の身体に鞭打って、皇帝パルパティーンをデス・スターの動力炉に投げ込み、息子であるルーク・スカイウォーカーの生命を救います。
しかし、前述のように考えてみますと、ダース・ヴェイダーは、息子の生命を救ったのみならず、自分では知らずして、父親の仇を討ったことにもなります。
知らぬこととはいえ、父を殺した男の弟子となり、息子の生命を救うと同時に、父の仇を討つ、と云う宿命を背負った男の人生の、なんと悲しいことでしょうか。
そう考えてみますと、最後の最後に、息子の手で暗黒のマスクを外してもらい、自分の眼で成長した息子の姿を見、人工の呼吸器をとおさぬ自分の声で、娘への愛を語ることのできた彼は、その人生の最期において、最高の、至福のときを得たのではないでしょうか。
いみじくも、ヨーダが云ったように、フォースは、戦いや、スリルや、冒険のためのものではありません。
それは、他人の幸福を願い、他人の幸福のために尽力し、他人の笑顔をもって、みずからの笑顔と出来るような、そんな力なのではないでしょうか。
少なくとも、わたしは、そう思います。
| 映ちゃん | 気まぐれシネマ・デイズ | 21:47 | - | - |
*『かわいい女』*
 散作が、中学生の頃から持っていたチャンドラーの『かわいい女』が、正確な意味での全訳ではないらしいことが判って、かなり落ち込んでいる。
 原書と比較してみると、訳されていない段落や文章、言葉の省略などがあると云う。
 原書と云っても、版によって異同はあるだろうし、そんなに落ち込むこともあるまい、と、思うのだが、当人にとっては、深刻なようだ。
 それなら、他の日本語訳の本と対照させて読んでみればいいじゃないか、と、云うと、そんな根気はない、と云う。
 じゃあ、原書だけを読めば、と、云うと、そんな語学力があるか、と、云う。
 やっかいな男である。
 チャンドラーの小説(ただし、長編)は、ほとんど映画になっている。
 『かわいい女』は、1969年(昭和44年)の作品、ジェームズ・ガーナーがマーロウを演じた。
 マーロウはいわゆる“夢の人物”であって、日本人の作家でも、“ハードボイルドが好きなんじゃない、マーロウが好きなんだ”と、云う人がいるくらいである。
 だから映画化されても、“この人こそ、マーロウ!”と、云う役者はいない。
 みなどこかしらに、いくばくかの、不満を抱いている。じゃあだれが適役か、と、云うと、だれも、“この人!”と、推薦し得ない。
 原作者のチャンドラーは、「ケイリー・グラントに似ている」と、云ったそうだが。
 また、歴代のマーロウ役者が、“これは、ミス・キャストだ!”と、云うのがいるか、と、云うと、それも、いない。みんなどこかしらに、マーロウらしさを醸し出している。
 やっかいと云えば、やっかいなキャラクターである。
 自分が観たのは、『三つ数えろ』のハンフリィ・ボガート、『さらば愛しき人よ』のロバート・ミッチャム、『ロング・グッドバイ』のエリオット・グールド、そしてこの、『かわいい女』である。
 『三つ数えろ』のハンフリィ・ボガートに関しては、問題にならない。なにしろ自分は、ボガートが出ていさえれば、それでオール・オッケーなのである。
 監督がだれであろうが、脚本がどうであろうが、キャメラがどうであろうが、とにかく、ボガートが出ていさえすれば、それでオッケー、なのである。
 似合うも似合わないもない。ボガートがマーロウのイメージにそぐわなかったら、それは、マーロウが悪いのである。我ながら、ムチャクチャな意見だとは思うが……。
 ロバート・ミッチャムは、演技者としては巧いと思うが、マーロウにふさわしいか、と、云われると、ウ〜ン、と、なってしまう。映画自体はよかったと思う。御贔屓のシャーロット・ランプリングが出演していたし、時代の雰囲気もよく出ていた。
 しかし自分としては、うらぶれて、くたびれた感じのロバート・ミッチャムよりも、飄々とした感じのエリオット・グールドや、ジェームズ・ガーナーのマーロウに軍配を上げたい。
 演技者としてはミッチャムの方が達者なように感じるのだが、マーロウの雰囲気としては、エリオット・グールドやジェームズ・ガーナーのほうがよく出ている、と、思うのである。
 と、云うのも、マーロウの持ち味は、その饒舌とも云えるモノローグとワイズクラックにあるのだが(少なくとも、自分はそう思っているのだが)、そのあたりになると、ミッチャムよりも、グールドやガーナーのほうが、はまっているように思うのである。
 『ロング・グッドバイ』、『長いお別れ』は、チャンドラーの最高傑作、と、云われており、ただにチャンドラーのみならず、ハードボイルド小説の三大傑作のひとつ、との定評がある。(他の二つは、ダシール・ハメットの『マルタの鷹』と、ロス・マクドナルドの『動く標的』。どちらも映画化されている。)
 原作はかなりの分量があり、重厚であるが、映画はそれを、時間の制約もあったのであろうが、簡略にしてしまい、ためにいささか軽くなってしまった。
 映画の冒頭、マーロウは飼っている猫に催促され、叩き起こされて、キャット・フードを買いに行く羽目になる。当時の自分としては、深夜営業のスーパーがある、と、云うのが、さすがアメリカ、と、思ったものだ。
 あいにくその日は、いつも買っているキャット・フードがない。しかたなく、別の銘柄のを買ってくる。その中身を、いつも食べている缶に移し替えて、なんとかごまかそうとするのだが、猫は騙されない。いわゆる“猫またぎ”で、無視してしまう。“この贅沢ものめ”と、思いながら、憎めないでいるマーロウの困った顔……。
 この描写は原作にはない。映画のオリジナルであるが、秀逸な場面だった。
 ロス・マクドナルドの『動く標的』も、冒頭の描写が素晴らしかった。
 起き抜けの主人公(ポール・ニューマン)が、モーニング・コーヒーを一杯、と、思ったが、豆がない。しかたなく、おそらくは、昨夜にでも捨てたものであろう、ゴミ箱からいったん捨てた出がらしを拾い上げて、朝のコーヒーを淹れる。
 これも原作にはない、映画のオリジナルであるが、うらぶれた私立探偵の雰囲気を上手く醸し出していて、なかなかの出来栄えであった。
 さて、『かわいい女』であるが、この映画には、そう云った、印象的なファースト・シーンがない。昭和に流行ったセリフではないが、記憶にございません、なのである。
 では、この映画がつまらなかったかと云うと、なんの、なんの、さして流行りはしなかったようだし、いわゆる名作でもないが、自分としては、結構お気に入りの作品なのである。
 まず、主人公のマーロウを演じるジェームズ・ガーナーの、とぼけた味わいがいい。
 『ロング・グッドバイ』のエリオット・グールドよりも、数段上である。
 ボガートは、シャレてはいるが、とぼけている、とは、とても云えない。どうしても、冷かし気味、冷嘲気味、になる。つまり、カッコいいのである。
 ガーナーは、自分は三枚目になりながら、みずから三枚目になることによって、かえって相手をやりこめている。そのあたりが、愉快なのである。
 ガーナーは後に、テレビの『ロックフォードの事件メモ』でも、二枚目半の少しとぼけた私立探偵を演じて、エミー賞を受賞している。
二枚目半から三枚目のちょっと手前、みたいな、そんな役柄がピッタリくる俳優である。
 一例をあげれば――、
 彼は、クエスト(Qest)と云う男を捜している。
その行方を知っていると思われる人物のもとに赴いて、クエストのスペルを説明するときに、
「クレジットフォレックの“Q”、エルミタージュの“E”、スモコロジーの“S”、トルソーの“T”」
などと、わざと、小難しげな単語を引合いに出すところなど、いかにもとぼけた雰囲気を出している。
この映画では、無名時代のブルース・リーが出演している。
マーロウを脅して、手を引かせようとするチンピラの役である。
マーロウの事務所に来て、挨拶を交わすなり、壁を蹴り破り、コート掛けを叩き折る。
マーロウの事務所の隣は理髪店であるが、そこの主人(字幕はなぜか、オカマ口調であるが、それがまた、おもしろい)や女の子たちがビックリしてやって来る。
「なんの騒ぎ?」
と、云う主人にたいして、
「改築工事さ」
と、応えるガーナーが、いい。
ブルース・リーとのやりとりも面白い。
500ドルを出したリーに、
「天井も壊せよ」
と、云う。
洒落たセリフを口にするのは、マーロウ=ガーナーだけではない。
リーも、「誰の使いだ」と、問われて、
「血よりも金で解決を好む男です。しかし必要ならば、血を流してもいいのですよ」
と、凄む。凄んでいるようには見えず、サラリと云っている分だけ、よけいに凄味が増す。
その申し出を、マーロウは断る。彼独特の言回しで――、
「君のご主人に返してくれ。君が会った男は、この世で最後のバカ者だと伝えろ。
 救い難い堅物で――、文ナシだと」
 怒ったリーは、得意の功夫技で、マーロウの事務所を破壊してまわる。
 デスクを破壊される寸前、ちゃっかりと酒瓶とグラスをとりあげるのがユーモラスだった。
 その直後に訪ねてきた警部に、酒瓶とグラスを手にしたまま、
「白アリさ」
 と、云う。
 ちなみにブルース・リーは、この後にも出てくる。暗黒街の大物を尾行して彼女とレストランに来たマーロウを呼び出し、屋上に連れ出して、痛めつけようとするのである。
 リーの功夫技をおちょくり(「なかなかの芸だが、犬には負けるな」、「今度はチンチンだ」)、激怒させて、リーの渾身の蹴りを見事かわす。
 勢い余ったリーは、そのまま屋上から落下してしまう。
 席に戻る途中、マーロウはその死に様を、手の動きだけで大物に伝える。
 なんともトボけた、ユーモラスな場面である。
 さて、この映画、セクシーな美女が、ビキニ姿で、海パンいっちょの男とイチャついているところを、ある男がカメラで盗撮している場面から始まる。
 ネタを割ることになるが、セクシーなビキニ美女は、ハリウッドの新進女優で、海パンいっちょの男は、暗黒街の大物である。
 ふたりがイチャついているところを盗撮していた男は、それをネタに、この女優をゆすろうとする。
 マーロウはカンザス州の田舎から出てきた、いかにも垢抜けしない、山出しそのもののような少女に頼まれて、割に合わない仕事を引き受ける。
 その少女の頼みは、故郷を捨てて、家族をも捨てて、都会に出て行った兄の行方を捜してくれ、と、云うものだった。
兄の名はクエスト、オリン・クエスト。彼女の名は、オファメイ・クエストである。
 マーロウは1日40ドルと必要経費をもらうと云う。オファメイは20ドルしか出せない、と、云う。仕事にあぶれていたマーロウは、彼女にほだされて、依頼を引き受ける。
 そのシーンは映画にはなかったはずだ。
「清潔そうな感じの小柄な娘で、鳶色の髪、褐色の服、それに、縁なし眼鏡をかけ、当世流行の不格好な四角いハンドバッグを肩からつるしていた。口紅もつけていないし、首飾りや指輪のような装身具もつけていないうえに、縁なし眼鏡が図書館の女事務員のような印象を与えた。」
 依頼人、オファメイ・クエストの描写である。

「ベルを押すと、黒ズボン姿の女が出て来た。色っぽいという形容はまだ不充分だった。白い絹のシャツに、真紅のスカーフを首にまき、唇もスカーフに負けないほど赤かった。長い褐色の煙草を金のシガレット・ホルダーにさして、宝石をちりばめた手に持っていた。黒い髪は頭の中心で左右にわけられ、真紅のリボンが結んであった。だが、少女時代はとっくの昔にすぎていた。」
 マーロウは新進女優の住居を訪ねる。そこで出会ったのが、ドロレス・ゴンザレスである。マーロウが訪ねた新進女優――メイヴィス・ウェルドの友人で、映画ではリタ・モレノ――『ウエストサイド物語』のアニタ役で有名になった――が演じた。
「いままで浴室にいた女が顔の下半分をタオルでおさえて、立っていた。タオルの上は黒眼鏡だった。その上に、縁のひろい青い麦わら帽子をかぶっていた。帽子の下からは、薄い金髪の髪がのぞいていた。黒眼鏡は、縁が白く、はばの広い弦がついたサン・グラスだった。ドレスの上に、刺繍のある絹かレーヨンのコートを着て、長手袋をはめ、右手にピストルを握っていた。」
 これはマーロウが訪ねた先で、初めてメイヴィスに出会ったときの描写である。
 この後、マーロウは彼女に殴り倒され、アイス・ピックで殺された死体を発見する。
 彼女の身元を探り出して、その住居にやって来るのが、先述した場面なのだが、そのとき彼女は入浴中で、ドロレスが応対に出る。
「メイヴィス・ウェルドが浴室から出てきて、立っていた。髪を長くたらして、化粧もしていなかった。部屋着のあいだから白い肉体をのぞかせて、小さな緑と銀のスリッパ−をはいていた。その眼は空ろに光っていた。しかし、たとえ、黒眼鏡をかけていなくても、たしかに同じ女だった。」
 さて、いよいよ、ネタを割ることになるが――、
 この新進女優、メイヴィス・ウェルドは、映画の冒頭で彼女と暗黒街の大物がイチャついているところを盗撮して、彼女をゆすろうとしていた男の妹で、この男が、オファメイ・クエストが捜していた、兄のオリン・クエストである。
 メイヴィス・ウェルドは、千年一日の、なんの変化もない、澱んだような田舎町を捨てて都会に出、新進女優として売り出すまでになった。
 そうなるまでには、暗黒街の大物に見初められ、その情婦、愛人となり、身を売るような経験もしなければならなかった。
 彼女の兄:オリン・クエストと、妹:オファメイ・クエストは、そんな姉妹が、自分だけが“ドルと栄光”を欲しいままにしているのが気に入らず、自分たちにもその分け前を寄こさせようと、メイヴィス:自分の姉妹をゆすろうとする。
 最初は巧く行っていたのが、突然オリンからの送金がなくなり、不審に思ったオファメイがマーロウの事務所を訪ねて行くのが、この物語の、発端である。
 マーロウの捜査により、事の次第が判明していく。
 クライマックス、メイヴィス・ウェルドとオファメイ・クエストの姉妹が、メイヴィスの情夫である暗黒街の大物が射殺された場所で、顔を合わせる。
「姉さんは私たちを捨てて、出て行った」
「私はできるだけのことはしたわ。仕送りもしたし、手紙も書いた。あなたたちのことを忘れたことはなかった」
 この姉妹に、メイヴィスの友人、ドロレスが絡む。
 ドロレスは、色気があって、セクシーで、魅力があるのだが、いつもメイヴィスの陰に隠れている。ドロレス自身も、そんな自分をあきらめている。
「私が黒を着てるのは、私が美しくて、よくない女で――希望がないからよ」
 そんな彼女も、
「女には、いくら恋人があったとしても、どうしてもほかの女にゆずれない恋人があるのよ」
 と、云う。
 そのために彼女は、自分の愛する男を殺した。他の女に奪られないように……。
 この作品で、マーロウは他の作品には見られないほどの孤独感、疎外感に責め苛まれる。
「だれか私を、人間の星に連れ戻してくれ」
 そんなモノローグを吐くほどに、彼は追いつめられる。
 偽善と虚飾と華やかさに満ちたハリウッド、裏切りと利己主義と愛憎に爛れたハリウッド、そんななかで生きて行く、生きて行かねばならない人間たち、生きて行こうとする人間たち……。それは、ハリウッドのみならず、当時のアメリカ社会そのものだったのではないだろうか。
 そんな中で、マーロウが見た“かわいい女”とは、いったい、だれだったのだろうか?
| 映ちゃん | 気まぐれシネマ・デイズ | 19:37 | - | - |
薔薇のつぼみ
『市民ケーン』と云う映画があります。
1941年の作品で、当時25歳だったオーソン・ウェルズが、製作・監督・脚本・主演を務めました。劇団を主宰していたウェルズの、映画デビュー作です。
この作品は、製作当時存命していた新聞王、ウィリアム・ランドルフ・ハーストをモデルにした作品として、また、初めてパン・フォーカスを使用した作品として、語り草になっています。
実際、ハーストは、この映画は自分に対する侮辱だ、と、感じて、その製作並びに公開を阻止するために、さまざまな手段を弄した、と、云われています。
映画技法としては、先述したパン・フォーカス以外に、クレーンを使用した大胆な移動撮影、ワンシーン・ワンショットの長廻し撮影、広角レンズによるローアングルの多用、極端なクローズアップなど、現在当たり前のように使用されているさまざまな撮影技術、表現技法が、この『市民ケーン』によって確立された、と、云われています。

物語は、新聞王ケーンが臨終の際に発した言葉の意味を解明するために、とある新聞記者がケーンとかかわりのあった人物を取材していく過程で、ケーンの知られざる生活――その孤独と苦悩――が明らかになっていく、と、云う御趣向です。
回想シーンを多用し、過去と現在を交錯して描くその構成は、当時としては、じつに斬新な手法でした。
そして最後、ケーンの遺品が競売にかけられることになります。
価値のある家具類が残され、価値のないものはガラクタとして火の中にくべられ、焼却されていきます。
その、火の中にくべられていく様々なガラクタの中に、ケーンが幼少の頃、雪の中で無邪気に戯れていたときの橇があります。
その橇に刻まれていた言葉が――、ケーンが臨終の際に発した言葉、“薔薇のつぼみ(ローズ・バッド)”でした。
“貧しい宿屋の倅から身を起して波乱万丈の人生を送り、新聞王とまで云われ、ザナドゥと呼ばれる広大な邸に住むようにまでなったが、妻には去られ、友人たちにも見放されて、ひとり虚しく死んでいかねばならない。結局、一番楽しかったのは、無邪気に雪と戯れていた、あの幼い日々だった”
ケーンのいまわの際の言葉、“薔薇のつぼみ(ローズ・バッド)”の意味を、そのように解釈する人々がいます。
しかし、自分はそうは思いません。
ケーンは“薔薇のつぼみ(ローズ・バッド)”と云う文字が刻まれた橇に乗って遊んでいた時、まったく自分とはかかわりのない、まったくの偶然、まさに、運命のいたずら、と、云うべき偶然によって、大きくその人生を変えられました。
それは、ケーン自身が、そうあろうと望んだものでもなく、ケーンに縁のある人が、ケーンにとって、そうあらしめたい、と、望んだものでもありませんでした。
しかしそれは、ケーンにとっては、まぎれもないチャンス、人生の転機、でした。
おそらくケーンは、その波乱万丈の人生歴程の途中、苦悩の底に沈んだとき、
“しっかりしろ。こんなことでくじけるな。俺は幸運な男なんだ。あの、雪と戯れていた幼い日、思いがけない幸運が舞い込んできたように、きっと俺には、幸運が舞い込んでくる。かならず、幸運は来るんだ”
と、みずからを叱咤して、その苦難を耐え忍び、その苦難を乗り切っていったのでしょう。
そのときの、自分自身を、自分自身叱咤し、自分自身激励する言葉が、“薔薇のつぼみ(ローズ・バッド)”だったのだろう、と、思うのです。
ケーンは何度も苦境に陥りながら、最期には妻や友人たちにも見放されながら、それでもなお、みずからの幸運と、みずからの力を信じて、“薔薇のつぼみ(ローズ・バッド)”と、つぶやいたのでしょう。
“負けてたまるか。俺はケーンだ。俺はかならず、ふたたび立ち上がる。こんなことで、死んでたまるか”
臨終の間際にあっても、ケーンはそう云って自分を鼓舞し、けっして、絶望しなかったのです。
どんな苦難に際しても、たとえ妻や友人に去られ、会社は倒産し、世論の囂々たる批難を浴び、零落の淵に沈もうとも、みずからの力を信じ、みずからの幸運を信じ、けっして逆境に屈しない強さ、その強さを保持している人物こそが、アメリカ合衆国民の理想とする「市民」なのでしょう。
この映画のタイトルが、『偉人ケーン』でも、『巨人ケーン』でもなく、『市民ケーン』である所以は、その点にこそ、あると思います。

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| 映ちゃん | 気まぐれシネマ・デイズ | 03:51 | - | - |
そのときの時代を……
そのときの時代を象徴する人物と云うのが、いるものです。
前時代や後世の人たちから見れば、
「あんなのの、どこがいいの?」
と、思われても、その時代の人にとっては、まさに“神”にも似たような輝きを以て君臨する人物です。
そんな人物の一人が石原裕次郎氏であり、あるいは松田優作氏です。
氏の扮するジーパン刑事に憧れて警官になった者が少なからずいる、と云う都市伝説が、いまでもまことしやかに語られています。
とある雑誌が、日本を代表する男優のアンケート調査を行ったとき、
「おまえら全員、優作にいれろ!」
と、恫喝され(?)、あらためて氏のカリスマ性に驚嘆した、と、云う女性もいたようです。
世代が違うせいか、自分も松田優作氏に対しては、それほどの思い入れもありませんでした。
ジーパン刑事もリアル・タイムでは知りませんし、TVドラマ『探偵物語』の工藤ちゃんを後にレンタル・ヴィデオでみて、愉快の念を抱いたくらいのものでした。
氏や、氏のシンパには申し訳ありませんが、けっして、一世を風靡するような名優とは思わなかったのです。
その評価が変わったのは、『ブラック・レイン』を観たときです。
大学時代の先輩が優作氏のファンで、その先輩に連れられて観に行ったものです。
この映画での氏の演技は、まさに鬼気迫るものがありました。おとなしく、静かにしているときでも、どこか不気味で、油断のならない雰囲気を醸し出しているのです。
そして、一閃動に転ずれば、爆竹が破裂したような迫力と動きで、相手(共演者のみならず、観客をも)を圧倒する、その迫力に、文字どおり、刮目したものです。
マイケル・ダグラス、アンディ・ガルシア、高倉健、若山富三郎の諸氏と並んで引けを取らない、いな、場面によっては氏らを食ってさえいるその演技は、
「なるほど、これが松田優作の真骨頂か」
と、思わせるものがありました。
「この調子であと二、三本も出演すれば、たんなる一世代のカリスマから脱け出て、日本を代表する国際スターになるだろう」
そう思ったものです。
残念ながら、氏はこの映画の完成直後、膀胱癌で亡くなられました。
撮影前から病魔に侵されていたけれども、念願のハリウッド映画出演と云うことでそれを秘匿し、延命治療をも拒み、それゆえにあの鬼気迫る迫力が出たのだ、とも、伝えられています。
氏は若き無名の日、黒澤明監督の御門前に三日三晩土下座して、
「どうか、ぼくを使ってください」
と、懇願し続けられたそうです。
黒澤氏にしてみれば、見も知らない若い者が自分の門前で土下座している、と云うのは、さぞかし不気味に思われたことでしょう。
当時黒澤さんのお宅に同居なされていた土屋嘉男さんのエッセイに、その件のことが記されています。
三日三晩門前に土下座して、それでも色よい返事をもらえなかった優作氏は、悄然として、その門前を去りました。
そのとき氏は、胸中秘かに呟かれたそうです。
「俺はかならず、国際的なスター、“世界のユウサク”になってみせる。
 けれどもそうなっても、俺は絶対、黒澤映画にだけは出演しないぞ」
氏はそのときの無念をみごとに晴らし、“世界のユウサク”となられました。
しかし惜しむべきらくは、念願なされていた“世界のユウサク”となられた直後、他界なされました。
しかしそのことによって、氏は“永遠のカリスマ”と、なられました。
ジーパン刑事や工藤ちゃんによって、“一時代のカリスマ”となった彼は、みずからの夢を果たした『ブラック・レイン』によって、“永遠のカリスマ”となったのです。

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| 映ちゃん | 気まぐれシネマ・デイズ | 10:37 | - | - |
ゲーテいわく……
ゲーテいわく、
「涙の味つけでパンを食べた者でなければ、ともに人生を語るに値しない」
四尾映作(すなわち、わたし)いわく、
「黒澤明監督の映画を観た者でなければ、ともに人生を語るに値しない」
| 映ちゃん | 気まぐれシネマ・デイズ | 11:03 | - | - |
先生も……
「先生もお忙しいお身体だ。みながめいめい勝手に訪問したのでは、ご迷惑になる。
どうだろう、これからは曜日を定めて、決まった曜日の決まった時間に、みなで伺うことにしては」
三重吉の提案にみなが同意し、以後かれらは、毎週木曜日の午後三時以降に、漱石宅を訪れることにした。
世に云う「木曜会」の始まりである。

この木曜会のメンバーのひとりに、寺田寅彦がいた。
日本を代表する物理学者のひとりで、漱石が第五高等学校の英語教師だったときの教え子、漱石との交流はもっとも古く、かつ深い人物である。
『吾輩は猫である』の水島寒月や、『三四郎』の野々宮宗八のモデルであることは有名である。
彼はまた、すぐれた随筆の書き手としても有名である。
彼の手になる随筆のなかに、こんな話がある。

とある秋の日、男が妻と幼い子どもと、行楽に出かける。
男はイライラしている。その原因は、彼にも分からない。妻の支度に時間がかかっているものだから、男は余計にイライラする。
途中、妻はそれとなく気を使い、夫のイライラをなだめようとするが、うまくいかず、悲しげな表情になったりする。
公園に着くと、幼い子どもは、
「おおきいどんぐり、ちっちゃいどんぐり、みいんなかしこいどんぐりちゃん」
と、愉しそうに口遊んで、どんぐりを拾っている。
妻も子供のでたらめな歌に合わせながら、愉しげに一緒にどんぐりを拾っている。
その姿を見て、男のこころが、一瞬、ふっと、あたたかくなる。
その情景を描写した後で、
「どんぐりを拾って喜んだ妻も、もういない」
と、いきなり書いている。

「黒澤君、映画ってのは、これだぜ」
と、若き日の黒澤明監督に教えられたのが、黒澤監督が師と仰いでおられた山本嘉次郎監督である。
黒澤監督は師の教えを、『生きる』に昇華なされた。
黒澤監督はおっしゃる。
「創造とは記憶である」
と。
そして、また、おっしゃっておられる。
「本を読まなくちゃだめだよ。もっと本を読まなくちゃ」

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| 映ちゃん | 気まぐれシネマ・デイズ | 11:22 | - | - |
『蜘蛛巣城』と云う映画がある。
『蜘蛛巣城』と云う映画がある。
シェークスピアの『マクベス』を、日本の戦国時代に置き換えてつくられた、黒澤明監督第16作目の作品である。
スピルバーグ監督が初めて観た黒澤映画であり、スピルバーグはこの作品を黒澤監督のベスト・ワンに挙げている。
この映画が公開された1957年(昭和32年)、黒澤監督は渡英された。
同年十月、英国の首府ロンドンで、第一回ロンドン映画祭を兼ねた国立映画劇場の開場式が催されることとなり、その式典に際して、「映画芸術に最も貢献した監督のひとり」として、招待されたのである。
同様に招待されたのは、アメリカのジョン・フォード(『駅馬車』、『荒野の決闘』)、イタリアのヴィットリオ・デ・シーカ(『自転車泥棒』、『靴みがき』)、フランスのルネ・クレール(『巴里の屋根の下』、『巴里祭』)の三人、いずれも錚々たる面々である。
「映画芸術に最も貢献した監督」と云うよりは、「映画史をつくってきた監督」と云うに相応しい顔触れである。
黒澤監督は、式典などの晴れがましい席にお出になることは好まれなかったが、このときばかりは、
「とにかくジョン・フォード、ルネ・クレール、デ・シーカじゃ、君、行けないなんていえないよ」
と、淀川さんとの対談でおっしゃっておられる。
その映画祭で、この『蜘蛛巣城』上映された。
ラスト、三船敏郎さん演じる鷲津武時(マクベス)が、部下に裏切られて、無数の矢を放たれる。
その矢の一本が三船さんの首を貫通する。
そのとき鋭い嬌声があがり、失神した女性がいた、と、云う。
さもありなん。
その迫力は、なんど観ても凄まじい。
なにしろ無数の矢弾が、散弾銃さながら、雨霰と飛んで来るのである。
その矢の柄が重なって、向こう側が見えないくらいである。
みな本物である。某大弓道部の協力を得て、とにかく、三船さんの周囲に、本物の矢を撃ち込ませたそうである。
この迫力は、とてもCGではだせない。
「なにしろ、こっちへ逃げようとしたら、こっちへ(と、両手で矢が飛んで来るさまを示して)バラバラバラ、でしょう。
そんでもって、こっちへ逃げようとしたら、こっちへ、バラバラバラ。
あんときゃあ、ほんとうに絶叫しながら、逃げまわってたんだ」
と、三船さんは後年のインタヴューで語っておられる。
黒澤組のスタッフは云う。
「あのシーンは、黒澤さん(の、三船さんへの信頼)あってこそ、できたシーンだし、三船ちゃん(の、黒澤さんへの信頼)あってこそ、できたシーンだね」
そのさすがの三船さんも、撮影前夜は緊張と恐怖のあまり、一睡もできなかった、と、云う。
そして撮影が終わった後は、鎧兜のお姿のまま痛飲し、泥酔した揚句、宅にあった猟銃を持ち出して愛車に乗り込み、黒澤さんのお宅をまわりながら、
「お〜い、黒澤のバカヤロー、出てこ〜い」
と、騒ぎながら、一晩中、その銃を射ちまくっていたそうである。
“世界のミフネ”ならではの、スケールの大きな事件だが、三船さんも三船さんなら、黒澤さんも黒澤さん、“世界のクロサワ”である。
その翌朝、すっかり酔いも醒め、恐縮しきってお詫びに訪れた三船さんに、
「なんだ、昨夜、やたらに騒がしいと思ったら、キミだったのか」
と、ニッコリ笑われた、と云うことである。

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| 映ちゃん | 気まぐれシネマ・デイズ | 12:53 | - | - |


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