ろ〜りぃ&樹里とゆかいな仲間たち

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 注)タイトルに「*」のついた記事は「ネタバレ記事」です。ご注意ください。
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デカルト
ルネ・デカルト(René Descartes、1596年3月31日‐1650年2月11日)

 さて、ベーコンの次には、卵を炒めます……、すみません、デカルトです。
 例によって、デカルトが生きた時代を年表風に記して、当時の時代背景を感得してみましょう。

【時代背景】
1300年代〜1500年代 ルネサンス時代
1517年 ルターによる宗教改革の始まり。
1524年 ドイツ農民戦争勃発。
1558年 エリザベス女王(祇ぁ紡彜А
1561年 フランシス・ベーコン誕生。
1564年 シェークスピア誕生。
     ミケランジェロ死去。
1588年 アマルダの海戦。
1590年 豊臣秀吉による天下統一。戦国時代の終了。
1593年 豊臣秀頼誕生。
1596年 デカルト誕生。
1600年 関ケ原の合戦。
     『ハムレット』執筆
1603年 徳川家康、征夷大将軍に任ぜられる。
     エリザベス女王(祇ぁ吠御。
1616年 ガリレオ 第1回異端審問。
     シェークスピア死去。
1618年 三十年戦争勃発。
1620年 ベーコン『ノヴム・オルガヌム(新機関)』(59歳)
1622年 リシュリュー(『三銃士』の敵役)、枢機卿就任。
1623年 徳川家光 征夷大将軍に任ぜられる。
1624年 リシュリュー 首席国務大臣(事実上の宰相)就任。
1626年 ベーコン死去。
1632年 ガリレオ 『天文対話』発行。
1633年 ガリレオ 第2回異端審問。
1637年 島原の乱、勃発。
     デカルト『方法序説』刊行(41歳)
1641年 清教徒革命。
     デカルト『省察』刊行(45歳)
1642年 リシュリュー 死去。
1643年 ルイ14世 フランス国王に即位。
1644年 デカルト『哲学原理』刊行(48歳)
1649年 清教徒革命終結。
     デカルト『情念論』刊行(53歳)
1650年 デカルト死去。
1651年 徳川家光死去。
1661年 ルイ14世、親政開始。

【主著】
1637年(41歳)『方法序説』刊行。
1641年(45歳)『省察』刊行。
1644年(48歳)『哲学原理』刊行。
1649年(53歳)『情念論』刊行。

 いかがですか。デカルトが生きた時代の雰囲気が、おぼろげにでもつかめましたでしょうか。
 さて、みなさんもよくご存じのように、デカルトと云いましたら、“cogito,ergo sum”(「我思う、ゆえに我在り」)と云う命題が有名です。実際、この命題によってこそ、デカルトは哲学史上にその名を燦然と輝かせているのです。
 したがいまして、ここでは、デカルトのこの有名な命題、“cogito,ergo sum”(「我思う、ゆえに我在り」)を中心にして談を進めてまいります。
 それではまず最初に、デカルトの哲学史上の位置と意義を、シュヴェーグラーの『西洋哲学史』によって、確認しておきましょう。
 引用は『西洋哲学史 下巻』、シュヴェーグラー著、谷川徹三・松村一人訳、岩波文庫、1939年11月9日第1刷発行、1958年4月5日第24刷改版発行、1989年9月5日第57刷発行によります。

【哲学史上の意義 機
p.13
「近世哲学の創始者であり父である」
 ☞ このシュヴェーグラーの評価は間違っていません。近世の哲学は、まさに、デカルトから始まるのです。デカルトの哲学を述べる、と、云うことは、近世哲学の近世哲学たる所以を述べることにほかなりません。
「これまでの哲学と絶縁してまったく新しく事をはじめたが」、「ベーコンのようにたんなる方法論的原理を提示しただけでもなく、…(略)…まったくの無前提の立場から出発して、新しい、積極的な、内容豊かな哲学原理を提示し、この原理から直ちに、一貫した論証の道を通って、その体系の根本的諸命題を導き出そうとした。」
 ☞ この「積極的な」という語は、ベーコンの方法が、“消極的な”ものであることを暗示しています。
   ベーコンの哲学史上の意義は、自然を哲学の対象から分離することにありましたが、それはあくまでも、“自然は哲学の対象ではない”と云う、消極なものにすぎませんでした。
   これに対して、デカルトの哲学史上の意義は、“哲学とは、〜である”と云う、積極なものを確立したところに存します。
「その原理の無前提と新しさとによって近世哲学に道を開いた人であり、その原理が内的に示唆に富んでいることによって近世哲学に基礎をおいた人である。」
 ☞ 「無前提」とは、それが直接に与えられたものであり、万人が否応なく認めざるを得ないもの、と、云う意味です。
   そして、そのゆえにこそ、それは、「原理」となりうるのです。
   「原理」とは、あらゆるものの拠って立つ根本であり、あらゆる事象がそれから説明される核心です。それゆえに「原理」は、それに先行するなにものもなく、それを生じさせるなにものもない、第一のもの、直接なもの、すなわち、「無前提」なもの、で、なくてはならないのです。
   「原理」が、そこから、原理自体から、なんらの展開、発展、進捗、等々をも見せないようならば、少なくとも、その「示唆に富んで」いなければ、「原理」としての意味を成しません。

デカルトが「無前提の立場から出発して」「提示」した、「新しい、積極的な、内容豊かな哲学原理」、それが、あの有名な命題、“cogito,ergo sum(我思う、ゆえに我在り)”です。
 それでは次に、デカルトがいかにしてこの命題に行き着いたか、そしてこの命題“cogito,ergo sum”とはどういうことか、それを、シュヴェーグラーの『西洋哲学史』から見ていきましょう。
【方法的懐疑】
p.14-p.15
「A 懐疑。もしわれわれが学問において堅固で恒久なものをうち立てようとすれば、われわれは最初の根拠からはじめ、子供のときからもっているあらゆる前提や想定を破壊しなければならない。一口に言えば、ほんの少しでも不確実と思われるものはすべて疑わなければならない。したがってわれわれは、感官はしばしば欺くから感覚的事物の存在を疑わなければならないだけでなく、数学や幾何学の真理をも疑わなければならない。というのは、二と三の和は五であるとか、正方形は四つの辺をもつというような命題がどんなに明白に見えようとも、われわれは、われわれ有限な存在に一般に真理の認識が与えられているかどうか、神がわれわれを誤るように創っていないかどうかを、知ることができないからである。したがって、すべてを疑うこと、いな、すべてを否定し誤りと考えることがのぞましい。」
 ☞ このデカルトの“懐疑”は、従来の“懐疑”とは、その性質をことにします。
   従来の“懐疑”は、いわば、“懐疑のための懐疑”とでも、申しますのでしょうか。“物事は、疑えば、どこまででも疑える。真理や真実など、どこにもない”、そのことを立証するための“懐疑”でした。
   それに反して、デカルトの懐疑は、「方法的懐疑」と呼ばれています。
   デカルトの懐疑が「方法的懐疑」と呼ばれるのは、それが、「原理」、「学問において堅固で恒久なもの」、「最初の根拠」を見出すための手段、すなわち、「方法」にほかならないからです。
    デカルトにとって「懐疑」とは、真理や真実が存在しないことを立証するためのものではなく、逆に、確実なる真理や真実を突き止めんがためのものなのです。
p.15-16
「B 『われ思うゆえにわれ在り』。」
「少しでも疑わしいものはすべて誤りと考えても、われわれは次の一事、すなわち、このように考えるわれわれ自身が存在するという真理を否定することはできない。」
「『われ思うゆえにわれ在り』(“Cogito,ergo sum”)という命題こそ、すべて哲学的に思索する者が見出す最初のそして最も確実な命題である。他のすべての認識の確実性は、すべての命題のうちでもっとも確実なこの命題に依存している。」
 ☞ デカルトが、「方法的懐疑」の末に行き着いたのが、この、「われ思うゆえにわれ在り」と云う命題です。
   まさに、「すべての命題のうちでもっとも確実な」命題です。
この命題ばかりは、どんな学者でも、口巧者でも、偏屈者でも、否定するわけにはいきますまい。
   この命題はまさに、「堅固で恒久なもの」であり、「最初の根拠」でもあります。
   あらゆる事象、あらゆる事物の存在を疑っても、それらを疑っている自分、その自分自身の存在すらをも疑い、否定しても、現にそうやってあらゆる事象、あらゆる事物を疑っている思惟の働き自身は、否定することはできないでしょう。
「C 精神の本性。」
「『われ思うゆえにわれ在り』という命題から、さらに精神の本質の一般的規定が帰結される。自分と異なるすべてのものを誤りと考える自分とはいったい何者であるかを吟味するとき、われわれは、われわれのうちにあるすべてのものを、われわれの人格を否定することなしに、捨象することができるが、思考だけはそうすることができない。思考はそれがそれ以外のすべてを否定する時でも、存在しつづける。したがって、拡がりとか形とか、その他物体に帰しうるものは、すべてわれわれの本性に属さず、ただ思考のみがそうである。わたしはゆえに本質的に思考する存在である。言いかえれば、精神であり、魂であり、知性であり、理性である。思考がわたしの実体である。」
p.16
「D 確実性にかんする規則。」
「わたしが明晰判明に(clare et distincto)真実と認識するもの、わたしの理性が『われ思うゆえにわれ在り』と同じ程度に争いがたい自明性をもって真実と認識するものは、すべて確実である。」
 ☞ デカルトは「すべて哲学的に思索する者が見出す最初のそして最も確実な命題」であり、「すべての命題のうちでもっとも確実」な命題である命題、「『われ思うゆえにわれ在り』(“Cogito,ergo sum”)という命題」を、「確実性」の基準にします。

 ではあらためて、デカルトの哲学史上の「立場と歴史的位置とを特徴づけている諸点を」確認しておきましょう。

【哲学史上の意義 供
p.23
「第一に、まったくの無前提という要求を出したことによって、哲学の新しい時代の創始者である。すなわちデカルトは、思考によって措定されていないすべてのもの、あらゆる与えられた真理に対して絶対の抗議を要求したのであるが、これはそれ以後ずっと近世の根本原理となっている。第二に、デカルトは、自己意識の原理、純粋に自立的な自我の原理を提示したが(デカルトは、精神すなわち思考する実体を個人的自己、個々の自我と考えた)、これは古代の知らなかった新しい原理である。第三に、デカルトは存在と思考、存在と意識との対立を提示して、この対立の媒介を哲学的課題として宣言したが、これは近世哲学全体の問題となっている。
 ☞  屬泙辰燭の無前提という要求」、「思考によって措定されていないすべてのもの、あらゆる与えられた真理に対して絶対の抗議を要求した」ことについては、ルネサンスの影響が多分にうかがわれます。ベーコンによる、実験をつうじての真実、真理の探究、確認も、同様です。
   ベーコンが実験によって行ったことを、デカルトは思惟によって行おうとした、と、云えるでしょう。
   ◆崋己意識の原理」が「古代の知らなかった新しい原理である」ことについては、異論はありません。
   また、デカルトが、「純粋に自立的な自我の原理を提示した」ことも、「精神すなわち思考する実体を個人的自己、個々の自我と考えた」ことも、肯定するにやぶさかではありませんが、その哲学史上の意義となりますと、なお一考の余地があろうかと思われます。
   デカルトが、「存在と思考、存在と意識との対立を提示して、この対立の媒介を哲学的課題として宣言した」こと、それが「近世哲学全体の問題となっている」ことについても、同様です。
   これら 銑については、【私見】の項で詳述します。
【デカルトの諸欠陥】
p.23
「しかし、これら哲学史上劃期的な諸観念の半面には、デカルト哲学は次のような諸欠陥をもっている。第一に、デカルトはその体系の内容、とくにその三つの実体を経験的にとりあげている。デカルトの体系は現存しているすべてのものにたいする抗議をもってはじまっているのであるから、それは与えられたものを与えられたものとして採用せず、すべてを思考から導き出しているかのように見える。しかし、この抗議はそれほど真剣に考えられているのではなく、一見棄て去られたように見えたものも、確実性の原理が得られると再びそのまま採用されるのである。」
p.24-25
「デカルトは、神(すなわち創られぬ実体)という観念だけでなく、二つの(創られた)実体をも、直接に与えられたものとして目の前に見出している。」
「この二つの実体が……経験的にとりあげられる」
「第二の欠陥」…「対立の両側面、思考と存在とを切り離している」
「かれはこの二つを『実体』、すなわち排除し否定しあう力と考えている。」
「精神と物体とをこのように理解すれば、両者の内面的媒介は不可能であって、人間におけるように二つの側面が一緒になり統一されているばあいでも、それは創造の強制的な行為、神の助けによってのみそうありうるにすぎない。しかもデカルトは二つの側面の媒介を要求している。」
「かれの立場の二元論が本当には克服できないところにこそ、まさにかれの体系の第三のそして主要な欠陥がある」
「自我は延長にどのように関係するかという問いにたいして、デカルトの立場からすれば、思考的に、すなわち否定的、排除的にとしか答えることができない。そこで二つの側面を媒介するものとして神の観念しか残らない。二つの実体は神によって創られたのであり、神の意志によって結合されているのであり、延長が存在するいう確実性をわたしが得るのは神の意志によるのである。かくして神は自我と延長との統一を媒介する」
 ☞ デカルトの欠陥としてシュヴェーグラーは、
    峺渋犬靴討い襪垢戮討里發里砲燭い垢觜概弔鬚發辰討呂犬沺廚蝓◆嵳燭┐蕕譴燭發里鰺燭┐蕕譴燭發里箸靴萄陵僂擦此△垢戮討鮖弭佑ら導き出しているかのように見え」ながら、「一見棄て去られたように見えたものも、確実性の原理が得られると再びそのまま採用され」ていること、「その体系の内容、とくにその三つの実体を経験的にとりあげている」こと。
   ◆崑侘の両側面、思考と存在とを切り離している」こと、思考と存在と云う「この二つを『実体』、すなわち排除し否定しあう力と考えている」こと。
   思考と存在、「精神と物体とをこのように理解すれば、両者の内面的媒介は不可能」となり、「かれの立場の二元論が本当には克服」できなくなってしまうこと。
   この三つを挙げています。
   これらにつきましても、【私見】で詳しく述べることにいたしましょう。
p.25
「デカルトの体系のこのような欠陥こそ、これに続く諸体系の基礎にあってそれらを押し進める動機をなしている」
 ☞ シュヴェーグラーによれば、デカルト以後の哲学は、「デカルトの体系のこのような欠陥」を「基礎」として、それらを是正していく過程、と、捉えられるでしょう。

【私見】
〔“cogito,ergo sum”機
 デカルトが、その“方法的懐疑”によって行き着いた真理は、“cogito,ergo sum”と、表現されます。
 日本語では、“我思う、故に我在り”と、訳されています。
 どんなに確実と思われることでも、疑えば、疑い得ないことはない。
 しかし、現に疑っているわたしの存在は、疑うことはできない。
 疑っている以上、その疑っている主体である“我”は、存在している。存在していなければ、疑うこと自体、不可能である。
 それが、“cogito,ergo sum”です。
 ですから、邦訳としては、“我疑う、ゆえに我在り”とするのが、より適当であるように思います。これは重要な点なのですが、そのことは後に述べましょう。
 とまれ、このデカルトの命題、“cogito,ergo sum”は、哲学史上に劃期を成す、重要な命題です。
 ここに、“思う”、精確には “疑う”、すなわち“思惟”の重要性が確立されたのです。“思う”のも、“疑う”のも、“思惟”の作用、“思惟”の働きです。
 思惟こそが絶対に存在するものであり、他の存在はすべて思惟に基づくのです。
 と、云いましても、思惟に基づかない、いわゆる客体として存在する事物の存在を認めない、と、云うものではありません。
 しかし、思惟されない事物などは、少なくとも、哲学においては、無意味なのです。思惟と無関係に、思惟から独立して存在する物体や事象は、なるほど、存在しはするでしょうが、それが哲学にとって、あるいは人間にとって、いえ、動物にとってさえ、なんの意味があるのでしょうか。思惟によってその存在を把握されなければ、いかなる物体も事象も無意味です。
 思惟されない事物、感取できない存在――そんなものに、なんらかの意味があるでしょうか。いえ、そもそも、考えられないものを考えたり、感じ取れないものを感じ取ったり、そんなことがはたして、可能でしょうか。
 ♪お化けなんてないさ お化けなんてウソさ
 と、云う歌があります。
 なるほど、お化けなんていないでしょう。
 しかし、お化けがいない、と、云うのは、その現存在、意識から独立した客体として存在するお化けがいない、と、云うことでありまして、思惟の上においては、お化けはちゃんと存在しているのです。
 存在しているからこそ、お化けの形像を感じ取り、お化けを怖がり、お化けについて考えたりできるのです。
 と、云えば、
「なるほど、そう云えば、お化けは存在しているだろう。しかしそれは錯覚、思惟の上でのことだ。実際には、客観の事物としては、お化けなどと云うものは、存在していない。そんなものは真の“存在”ではない」
 と、云う向きもありましょう。
 なるほど、わたしもそう思います。
 では、「愛」は? 「友情」は? 「信頼」は?
 意識外に、事物として、意識から独立した客体として存在していますかね。
 それらも、思惟がもたらした存在ではないのでしょうか。
 エンゲルスは『空想から科学への社会主義の発展』の英語版の序文のなかで、
「プディングの味は食ってみればわかる。これらの対象のうちにわれわれが知覚するいろいろな性質に応じて、われわれがそれらの対象を自分の役にたたせるその瞬間に、われわれは、われわれの感官知覚が正しいか正しくないかについてまちがいのない吟味をしているのである。」
 と、述べています。
 なるほど、プディングの味なら、食べてみればわかるでしょう。
 しかし、「愛」の味は? 「友情」の味は?
 そもそも、「愛」や「友情」が、食べられるのでしょうか?
 たしかに、「愛」や「友情」、「信頼」などの存在を確かめるとき、わたしたちは、それらの「いろいろな性質に応じて」、「それらの対象を自分の役にたたせるその瞬間に」、「われわれの感官知覚が正しいか正しくないかについてまちがいのない吟味をしている」かも知れません。
 しかし、だからと云って、それらの観念――「愛」や「友情」や「信頼」など――が、意識外に事物として存在している、意識から独立した客体として存在している、とは、云えないでしょう。
 むしろ、意識外に事物として存在していないからこそ、それらの「いろいろな性質に応じて」、「それらの対象を自分の役にたたせるその瞬間に」、「われわれの感官知覚が正しいか正しくないかについてまちがいのない吟味」をしなければ、その存在を確認することができないのでしょう。
 しかし、と、云われるかも知れません。
 そうやって、その存在を確認することができたら、それは――たとえ、「愛」や「友情」や「信頼」などと云った、観念にすぎないにせよ――、たしかに、存在している、と、云えるのではないか。
 なるほど、もっともです。
 それでは、それを確認する作業は?
 「愛」や「友情」や「信頼」、その他諸々の観念を、「いろいろな性質に応じて」、「それらの対象を自分の役にたたせ」、「われわれの感官知覚が正しいか正しくないかについてまちがいのない吟味」をするその作業――いわゆる“判断”――は、いったい、なにが行うのでしょうか。平たく云えば、判断の主体は、なんなのでしょうか。
 もちろん、わたしたちの、“思惟”にほかなりません。わたしたちの思惟こそが、それぞれの関係について、それらの関係を、「愛」や「友情」や「信頼」、等々と名付け(規定し)、それらがその名(規定)に相応しいかどうか、「われわれの感官知覚が正しいか正しくないかについてまちがいのない吟味」を為すのです。
 それぞれの関係、それらを“関係”として把握するのも、思惟の働きです。
 哲学が対象とするのは、そう云った観念――人類がその頭脳から産み出した、観念です。いわゆる唯物論哲学なるものが、空虚な、名称のみの存在であることが、お解りいただけると思います。
 デカルトはそのことを示しました。そこに、デカルトの哲学史上の意義があります。
 デカルトは、思惟こそが、確実に存在する唯一のものである、と、喝破しました。
 それが、“cogito,ergo sum”です。

〔“cogito,ergo sum”供
 “cogito,ergo sum”と云うのは、ラテン語です。
 いささか衒学めきますが、お許しください。これが意外に、重要なのです。
 ラテン語では、主語と動詞が一体となっています。つまり、主語と動詞が合わさって、ひとつの言葉となるのです。
 ですから、“我思う”の主語である“我”と、動詞である“思う”がひとつとなって、“cogito”と云う語になります。
 おなじく、“我在り”の主語である“我”と、動詞である“在り”がひとつとなって、“sum”と云う語になります。
 それが、“故に”と云う繋辞 “ergo”によって結び付けられているのです。
 この、“ergo”(ゆえに)は不要である、と、云う論は、デカルトの在世中からあったようです。
 「故に」、「だから」、「したがって」、等々の繋辞は、AとBとをつなぐのがその役割であり、さらに、Aを前提すればBが導出されることを示しています。と、云うことは、前提されるAと、導出されるBとは、異なったもの、と、なります。
 ですから、“cogito,ergo sum”は、“cogito”(我思う)を前提すれば、“sum”(我在り)が導出され、しかも、前提される“cogito”と、導出される“sum”は、異なったもの、と、解されます。
 しかしデカルトが述べているのは、そのような意味ではありません。
 デカルトにとっては、“cogito”と“sum”は、あらゆる推理、推論、理屈、過程、等々――いわゆる媒介――を要せずして、直接に結び付いているのです。
 ですので、言語表現としてはともかく、実質としては、“ergo”と云う繋辞は不要なのです。
 “cogito”は“sum”を、直接に、なんの媒介も、なんの繋辞もなしに、内包しているのです。
 さて、先述しましたように、ラテン語では、主語と動詞が一体となっています。
 日本語では、主語である“我”と、動詞である“思う”は、分離されています。
 外国語に弱いのではっきりしたことは云えませんが、おそらく、他の国語でも同様でしょう。
 “cogito”は、英語では、“I think”であり、主語である“我”=“I”と、“思う”=“think”が、分離されています。
 同様に、フランス語では、“cogito”は、“Je pense”でして、やはり、主語である“我”=“Je”と、“思う”=“pense”が、分離されています。
 デカルトはその『方法序説』をフランス語で書きました。
 当時、学問上の著作は、ラテン語で書くのが、ふつうでした。
 それをあえてフランス語で書いたのは、デカルトがその思想を、広く民衆大衆に理解してもらおうと意図していたからだ、と、云われています。
 ここにルネッサンスの影響を見る人もいます。
 “ラテン語=ローマ・カトリック教会”の権威を否定し、“フランス語=自国の、民衆大衆の言葉”を尊重する、と、云うわけです。
 しかしそのようなことは、枝葉末節、デカルト本人の意図はどうにせよ、哲学史上では、どうでもいいことです。
 なるほど、たしかに、哲学思想を一般の民衆大衆にあまねく広めるためには、小難しいラテン語によるよりも、通常の話し言葉によるフランス語を用いるほうが、好ましいには、ちがいないでしょう。
 日本語で、小難しい文語漢語の文章で書くよりも、平易な口語の文章で書くほうが理解しやすいのと、おなじ道理です。
 しかしここで重要なのは、主語と動詞が一体となったラテン語ではなく、主語と動詞が分離したフランス語で書かれた、と、云うことです。
 もっともそのことの重要性は、当のデカルトはもとより、彼に続く哲学史上の人々も、充分には理解していなかったようです。
 “cogito,ergo sum”と、表記されれば、“我”と“思う”、“我”と“在り”が一体不可分となり、“我”の存在が前提されてしまいます。
 これをフランス語で表記すると、“Je pense, donc Je suis”となり、“我”=“Je”と、“思う”=“pense”、“在り”=“suis”が分離されます。
 英語でも同様で、“I think,therefore I am”となり、“我”=“I”と、“思う”=“think”、“在り”=“am”が分離されます。
 よくは知りませんが、おそらく、ドイツ語やロシア語、中国語でもそうなるだろうと思います。
 そうなるだろう、と、云うのは、主語である“我”と、動詞である“思う”、“在り”が、それぞれ分離独立しているだろう、と、云うことです。
 これが重要なことです。
 “思う”=思考することと、その主体である“我”、“在り”=存在と、その主体である“我”が分離されているために、それらのそれぞれを、それぞれとして、独立して考えることができます。
 デカルト、そして、彼に続く哲学史上の後継者たちが誤りを犯したのは、“Je pense, donc Je suis”の主体である“Je”に力点を置いたことです。
 “Je pense, donc Je suis”の命題において、 “Je(我)”が、“pense(思う)”と、“suis(在り)”の主体であるがために、この“Je(我)”を、過大に評価しました。
 そこに誤りが生じました。
 この“Je(我)”は、捨象するべきでした。
 わたしも先に、
「どんなに確実と思われることでも、疑えば、疑い得ないことはない。
しかし、現に疑っているわたしの存在は、疑うことはできない。
疑っている以上、その疑っている主体である“我”は、存在している。存在していなければ、疑うこと自体、不可能である。
それが、“cogito,ergo sum”です」と、述べました。
 たしかに、従来の哲学史では、そのように解釈されてきました。
 しかしそれは間違いです。
 確実に存在しているのは、“Je(我)”ではなく、“pense(思う)”すなわち、思惟なのです。
  “Je(我)”を、“pense(思う)”と“suis(在り)”をつなぐ繋辞とみなしてこれを捨象すれば、“pense(思う)”と“suis(在り)”は直接に結びつきます。
 “cogito,ergo sum”の繋辞である“ergo”を捨象して、“cogito”と“sum”を直接に結びつけることによって、その意味内容がより真実に表されるように、“Je(我)”を捨象して、“pense(思う)”と“suis(在り)”を直接に結びつけることによって、哲学史上におけるこの命題の真実の意義、すなわち思惟の存在の絶対性が確立するのです。
 さらに、個別を表現する“Je(我)”を捨象することによって、“pense(思う)”と“suis(在り)”は普遍となり、思惟の存在の普遍性が確立されるのです。
 個別としての「在り」が、普遍としての「在り」に、転化するのです。

〔デカルトの功績〕
 先に【哲学史上の意義 供朖△如▲妊ルトの功績として、シュヴェーグラーは、「デカルトは、自己意識の原理、純粋に自立的な自我の原理を提示したが(デカルトは、精神すなわち思考する実体を個人的自己、個々の自我と考えた)」と、述べましたが、それは誤解です。デカルト自身、自分の発見した“cogito,ergo sum”と云う原理の重要性、劃期性には気付かなかったのではないでしょうか。
 なるほど、デカルトによって、「古代の知らなかった新しい原理である」「自己意識の原理、純粋に自立的な自我の原理」が発見され確立されましたでしょうが、それは重要ではありません。
 デカルトの意義、その哲学史上における功績は、普遍としての“pense”こそが、真実な“suis”であることを示したことにあるのです。
 そして、【哲学史上の意義 供朖で示したこと、すなわち、シュヴェーグラーが述べている「近世哲学全体の問題」、デカルトが提示した「存在と思考、存在と意識との対立」、そして「哲学的課題として宣言した」「この対立の媒介」が、そもそも存在しないことも、明らかでしょう。
 存在(“suis”)と思考あるいは意識(“pense”)は一体不可分のものであり、対立などしておらず、したがって、媒介もあり得ないのです。
 問題自体が間違っているのです。
 【デカルトの諸欠陥】△鉢、すなわち、デカルトが、「対立の両側面、思考と存在とを切り離している」こと、デカルトが「この二つを『実体』、すなわち排除し否定しあう力と考えている」こと、「精神と物体とをこのように理解すれば、両者の内面的媒介は不可能」となること、これらについても同様です。
 デカルト自身も気づいていなかったようですが、彼の見出した根本原理、“cogito,ergo sum”には、「存在と思考、存在と意識との対立」など、なかったのです。
 「思考」も「意識」も「存在」するのです。より精確に云えば、「思考」や「意識」こそ、真実に「存在」するのです。その意味では、「思考と存在とを切り離している」ことは、なるほどたしかに、「欠陥」と云えるでしょう。
 “cogito,ergo sum”と云う命題は、「思考」と「存在」が一体となっていることを示した命題なのです。

〔デカルトの欠陥〕
 【デカルトの諸欠陥】 ◆屮妊ルトの体系は現存しているすべてのものにたいする抗議をもってはじまっているのであるから、それは与えられたものを与えられたものとして採用せず、すべてを思考から導き出しているかのように見える。しかし、この抗議はそれほど真剣に考えられているのではなく、一見棄て去られたように見えたものも、確実性の原理が得られると再びそのまま採用」されていること、「その体系の内容、とくにその三つの実体を経験的にとりあげている」ことについては、なるほど、デカルトに非があります。
 デカルトは「わたしが明晰判明に(clare et distincto)真実と認識するもの、わたしの理性が『われ思うゆえにわれ在り』と同じ程度に争いがたい自明性をもって真実と認識するものは、すべて確実である。」と述べますが、その「明晰判明」とは、直接であること、すなわち媒介が存在しないことです。
 しかし、直接である、すなわち、媒介が存在しないのは、“cogito”と“sum”の関係だけであり、それゆえにこそ、“cogito,ergo sum”は、真実となり得るのです。
 デカルトは“cogito,ergo sum”と云う命題にしか存在しない直接性、無媒介性を、他のものにも及ぼそうとしました。これがデカルトの「欠陥」です。
 さて、シュヴェーグラーは、「デカルトは、神(すなわち創られぬ実体)という観念だけでなく、二つの(創られた)実体をも、直接に与えられたものとして目の前に見出している。」と、述べておりますが、デカルトが、「実体」を三つにしたのは、たしかに、欠陥です。
 「実体」は、「精神」か「物体」か、と、云う問いは、哲学にとっては問題にはなり得ません。これもまた、問いにならない、設問が間違っている、と、云えましょう。
 デカルト自身が導き出した命題、“cogito,ergo sum”は、“cogito”だけがそれ自体で存在するもの、すなわち「実体」であることを明らかにしています。
 より精確に申しますれば、「実体」であるのは、“pense”なのですが。
 “pense”はそれ自体に“suis”を含みますが、“suis”はそれ自体では存在できません。“pense”(思考)されない“suis”が存在し得ないことは、上述したとおりです。
 いわゆる唯物論(哲学)者は、精神は物体(肉体の一部である脳)から生ずるではないか、と、云います。なるほど、もっともです。しかしそれがどうしたと云うのでしょう。
 哲学にとって重要なのは、精神から物体が生じるか、物体から精神が生じるか、ではないのです。
 哲学の対象は“pense”すなわち“思う”、“疑う”であり、その主体である“思惟”です。もっと精確に云えば、“思惟”の主体、その拠って来たる基礎、“意識”です。
 デカルトの“pense”は、最も単純な、最も抽象な、最も無規定な“pense”です。
 それはあらゆる規定を内に宿した“pense”です。この“pense”は、そのなかに数多の規定――感覚、思惟、意識、思う、疑う、直観、媒介、否定、即自、対自、向自、絶対、抽象、即且対自、等々――を内在していますが、その諸規定がいまだ現象していません。諸規定は、ヘーゲルの言葉を藉りれば、即自に存在しているだけです。
 デカルトは自らが到達した哲学史上に劃期をなす原理、“cogito,ergo sum”から、いったん否定した諸事象へと逆進したために、シュヴェーグラーが指摘するように、「一見棄て去られたように見えたものも、確実性の原理が得られると再びそのまま採用される」との批難を蒙りました。
 デカルトは到達した“cogito,ergo sum”からさらに、“cogito”、より精確には“pense”の内容に、“pense”それ自体の分析に進むべきでした。
 【哲学史上の意義 供朖 ◆屬泙辰燭の無前提という要求」、「思考によって措定されていないすべてのもの、あらゆる与えられた真理に対して絶対の抗議を要求した」結果得られた命題――より精確に云えば、“pense”それ自体――が哲学の対象であること、その「内容豊かな哲学原理」、「内的に示唆に富んでいる」「その原理」の「豊かな」「内容」を、「内的な示唆」を、明らかにするのが、哲学であることを突き止めたのが、デカルトの哲学史上における最大の意義です。
 この“pense”に内在されている諸規定を現象させていくのがデカルト以後の哲学の課題であり、“pense”に内在されている諸規定が現象していく過程がデカルト以後の哲学史なのです。
 その意味で、デカルトが到達した命題は、「以後ずっと近世の根本原理となっている」のであり、デカルトは、「近世哲学に基礎をおいた人」と、称賛されるのです。
| 哲ッちゃん | 哲学のおと | 23:20 | - | - |
あなたに似た人〜PART
落ちてこない、と、云って、棚やボタ餅に文句を云う人。
| 遊冶郎 | 悪魔のつぶやき | 21:24 | - | - |
野口英世の誕生日の日のひとりめし(昼-弁当)
麦飯(塩昆布)、いわしの生姜煮、小松菜と厚揚げの煮浸し


トッピングを塩昆布にしてみた。ふりかけが4種類しかなかったからである。なぜ5種類買っておかなかったのだろう。謎である。
いわしの生姜煮は、どうもうろこが残存しているようである。そんなはずはないのだが、なぜかそんな気がする。これまた謎である。
カボチャの煮物と、小松菜と厚揚げに煮浸しが、それぞれ1食分ずつあまっている。これは予定のうちである。休日中か、来週の月曜にでも持ち越そう。
さて来週であるが、いまのままの気分だと、また今週とおなじ献立になりそうである。
サンマの塩焼きにいわしの生姜煮はいいのだが、問題は味噌汁である。そろそろ粕汁に切り替えたいのだが、季節外れの暖かな気温で、切り替えそびれている。
天気予報によると、今日の雨を境に、週末は行楽日和の快晴、来週は秋らしい気温に戻る、とのことである。
来週の様子を見て、切り替えの時機を判断することにしよう。
それではみなさんがたには、よい週末をお過ごしになられますように(^_^)/
また来週、お目にかかりましょう。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 21:16 | - | - |
野口英世の誕生日の日のひとりめし(朝)
トースト(6枚切り×2枚)、半熟卵(2個)、ブルーベリー・ヨーグルト、野菜ジュース、バナナ(2本)


今日は野口英世の誕生日である。
Wikipediaによらなくとも、たいがいの日本人なら、氏のことはご存じであろう。
わたいの小学生時代には、各出版社とも、氏の伝記を発刊していたものである。
苦学力行、立身出世、立志伝中の人物である。
現在では、千円札の人、としてしか、知らない人もいるかもしれない。
子ども向けの伝記などでは、当然のことながら、その推奨さるべき面しか描かれていないが、実際は、相当ハチャメチャな人物だったらしい。
渡米したのも、より設備施設の完備した米国で研究したい、と、云う、研究熱、研究欲からではなく、借金放蕩のし過ぎで日本にいられなくなり、米国に逃げたのだ、と、云ううわさもあるくらいである。
婚約した際の結納金で友人たちとともに芸者を揚げてドンチャン騒ぎしたあげく、婚約を破棄した、と、云うのだから、ほとんど婚約詐欺である。
そりゃ日本におられまい。
しかしいかに素行が不良であるとは云え、医学者、細菌学者としての業績は世界の水準からみても優れたものであり、3度もノーベル生理学・医学賞の候補に挙がっている事実が、そのことを象徴している。
倫理道徳は倫理道徳の土俵でその良不良を論じ、学問上の業績は学問の土俵の上でその優劣を論ずべきである。
もっともそのことと、わたいの食卓に並ぶ献立とには、なんらの関連もない。
学問研究とも、倫理道徳とも、一切無縁の、いたって平々凡々たる献立である。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 21:08 | - | - |
レントゲンの日のひとりめし(晩)
玉子麦飯、味噌汁(大根、人参、玉葱、キャベツ、長葱、白菜、ニラ、もやし、貝割、焼麩、薄揚げ、乾燥わかめ)、いわしの生姜煮、小松菜と厚揚げの煮浸し、カボチャの煮物、冷奴、納豆、味付海苔


いわしの生姜煮を頭も内蔵も取り除かずに料理すると、歯応えがあるのみならず、内臓のホロ苦さが食欲を刺激すること、サンマと同様である。
そして、この内臓が、食欲を増進してくれるのみならず、健康に必要不可欠な、様々なミネラルやビタミンを含んでいる。栄養満点の食材である。いわしがいわゆる肉体の健康のみならず、心の健康や、頭脳の働きをもよくすることは、すでに多くの方がご存知のことだろう。
そのいわしを好んで食べてるおまえの頭脳の働きがその程度か? ですと?
いわしを好んで食べてるから、なんとかこの程度ですんでるんですよ。これでいわしが嫌いだってごらんなさい。考えるのも恐ろしいことです……。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 22:20 | - | - |
レントゲンの日のひとりめし(昼-弁当)
麦飯(海苔と野菜のふりかけ)、いわしの生姜煮、小松菜と厚揚げの煮浸し


サンマの塩焼きがなくなり、いわしの生姜煮となったのは、先週と同じである。もちろん、副菜が小松菜と厚揚げの煮浸しであるのも、先週と(毎回?)同じである。
先週と違うのは、今回初めて、いわしの頭と内臓を処理せずに、丸ごと生姜煮にしたことである。結論としては、やはり処理した方が、味は好かった。
サンマは体長に比して内臓の割合が小さいので、さして気にならないが、いわしの場合はそれが大きいので、内臓の味が身の味を超過しかねないのである。
それでも健康にはよろしいはずなので、この味に慣れていこうと思う。味は食べ重ねることによって慣れてくるものだが、健康はそうはいかない。健康によろしい頭や内臓を棄ててしまえば、その分の効力効能は失われてしまうのである。となれば、採るべき道はおのずから明らかである。味に慣れるように努め、健康によろしい方式を採用すべきである……無理のない程度で。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 22:17 | - | - |
レントゲンの日のひとりめし(朝)
トースト(6枚切り×2枚)、半熟卵(2個)、ブルーベリー・ヨーグルト、野菜ジュース、バナナ(2本)


今日は“レントゲンの日”だそうである。
Wikipediaによると、“1895年のこの日にドイツの物理学者ヴィルヘルム・レントゲンがX線を発見したことから”制定されたのだそうである。
この業績のゆえに、ヴィルヘルム・レントゲン氏に第1回のノーベル物理学賞が授与されたことは有名である。
受賞者や授賞理由の適否について、賞制定時よりさまざまな批難や疑問、なかにはイチャモンが呈され、多くの議論を呼び起こしているが、彼の受賞に文句をつける人はほとんどおるまい。もし万一いるとしたら、物理学賞ではなく、生理学・医学賞ではないか、と、云うことぐらいであろう。しかし、いかに素晴らしい医療機器を開発しても、あるいはそれに資する発見をしても、ノーベル生理学・医学賞の対象者とはなれないことは、よく知られていることだろう。
それよりもわたいとしては、政治家の肚のなかや、相手が不倫しているかいないかが見とおせるレントゲン(X線)が発見されてほしいものである。
もっともそのことと、わたいの食卓に並ぶ献立とには、なんらの関連もない。
政治家の肚のなかとも、不倫とも、一切関係のない、いたって清廉潔白、清く美しい心根の献立である。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 22:15 | - | - |
ココアの日のひとりめし(晩)
玉子麦飯、味噌汁(大根、人参、玉葱、キャベツ、白葱、白菜、えのき、ニラ、もやし、貝割、焼麩、薄揚げ、乾燥わかめ)、サンマの塩焼き、菠薐草と厚揚げの煮浸し、カボチャの煮物、冷奴、納豆、味付海苔


昨晩で自家製なめたけがなくなってしまった。200gだったが、アッと云う間(4食分)だった。今度は400gくらいで料理ってみよう……と、云うことを、以前にも記した記憶がある、と、云うか、記しているうちに思い出した。最近、物忘れが多くていけない。
今晩食で、サンマの塩焼きと、菠薐草と厚揚げの煮浸しがなくなった。
あるうちは、まだあるのか、と、思うのだが、なくなってしまうと、もうなくなったのか、と、ガッカリするのだから、我ながら勝手なものである。
ちなみに、我が友遊冶郎によると、こんなとき、「我ながら」とは思わず、「人間とは」と思って、自分の勝手さを人間一般の勝手さに敷衍あるいはすり替えて、責任逃れしようとする奴輩が多くいるそうである。云われてみれば……である。
菠薐草と厚揚げの煮浸しがなくなったのも残念である。小松菜よりも、菠薐草のほうが、味が濃いような気がする。よく滲みているし、それ自体の味も、小松菜よりも濃厚であるようだ。菠薐草が廉価で手に入るようになったのはありがたい。これからは、また菠薐草の占める割合が大きくなっていくだろう。そう願いたいものである。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 22:06 | - | - |
ココアの日のひとりめし(昼-弁当)
麦飯(海苔とかつおのふりかけ)、サンマの塩焼き、小松菜と厚揚げの煮浸し


日本人がカルシウム不足であることは、地学上やむを得ない事実のようである。日本は火山国で、土壌にカルシウムが少ない。火山灰等とともに海中に流れ出て、土壌に堆積しないのである。
したがって、日本の土地で栽培育成された野菜類には、どうしてもカルシウム含有量が少なくなるのである。
そのかわり、海中の食材────海藻類や魚介類など────には、栄養分がタップリ蓄積されている。大地の餌を食して育つ牛や豚などよりも、回収で育つ魚介類を多く摂取すべき理由のひとつである。
ただいくら魚介類が味も栄養もよろしいから、と、云っても、わたいのように、おなじ魚をここまで続けて食せる人は、そうそうおるまい。贅沢な世の中になったものである。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 22:02 | - | - |
ココアの日のひとりめし(朝)
トースト(6枚切り×2枚)、半熟卵(2個)、ブルーベリー・ヨーグルト、野菜ジュース、バナナ


今日は“ココアの日”であるらしい。
Wikipediaによると、“2016年に制定”とあるので、制定されてまだ2年にしかならない。
それでも“一般社団法人日本記念日協会に正式登録されている”のだから、立派な(?)記念日である。ちなみに登録申請したのは、森永乳業である。
森永乳業の創業者、森永太一郎氏は、我が故郷佐賀県伊万里市の出身である。
ココアに関しては、年に何杯も飲まない。ココアが健康によろしい飲み物であることは理解しているのだが、飲んだ後、口中が粘つく感じがするのが嫌なのである。
ココアに含まれる主な成分としては、ポリフェノール、テオブロミン、食物繊維などがあげられる。ココアを飲むと、ホッとして、リラックスできるように感じるが、それはテオブロミンの作用によるものである。
ポリフェノールの効用については、近年各所で語られているようである。もっとも効用の周知確認と云うよりは、ワインを飲むための言訳にすぎないような気がしないでもないのだが……。
とまれ、これからの季節、温かいココアが恋しくなるであろう。大いに飲んで、心身ともに、温まってほしいものである。
もっともそのことと、わたいの食卓に並ぶ献立とには、なんらの関連もない。
ココアともリラックスとも、まるで関係のない、いたって殺風景な献立である。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 22:00 | - | - |
お見合い記念日の日のひとりめし(晩)
玉子麦飯、味噌汁(大根、人参、玉葱、キャベツ、白菜、白葱、えのき、ニラ、もやし、貝割、焼麩、薄揚げ、乾燥わかめ)、サンマの塩焼き、小松菜と厚揚げの煮浸し、カボチャの煮物、自家製なめたけ、冷奴、納豆、味付海苔


先週のサンマの塩焼きは、少々焼き過ぎで、しかも塩気が強すぎた感があった。サンマの塩焼きの魅力のひとつは、内臓のホロ苦さにある、と、思っている。生理上の詳細な機能は知る由もないが、あのホロ苦さが、食欲を増進させてくれるのである。それが先週は、焼き過ぎたためだろう、内臓のホロ苦さが消えてしまっていた。これではサンマの価値、激減である。
今週は上手く行った。塩気も強すぎず、焼き過ぎもしなかった……が、今度は逆に、塩気が少なすぎて物足りず、焼きが甘かったのか、若干水っぽい……いつも思うのだが、頃加減、中庸と云うものは、ナカナカにムツカシイものである。先週は焼き過ぎ&塩多め、今週は焼足らず&塩少な目、おそらく来週は、上手く焼け、塩加減も上手く合致するんじゃないか、と、期待している(陰の声:サンマの塩焼きばかり、いつまで続けるつもりだ!?
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 22:11 | - | - |
お見合い記念日の日のひとりめし(昼-弁当)
麦飯(海苔とさけのふりかけ)、サンマの塩焼き、菠薐草と厚揚げの煮浸し


昨日記したように、やっと菠薐草が廉価になった。1束の量が減ったであろうことも記したが、それでも3食分は料理ることが出来た。
気のせいか、菠薐草は小松菜よりも、青さが濃いように思う。と、云うことは、それだけ葉緑素が豊富である、と、云うことであろうか。
小松菜と菠薐草を比較してみると、
菠薐草…カリウム、マグネシウム、マンガン、葉酸、β-カロチン、ビタミンE
小松菜…カルシウム、鉄、ビタミンC
と、結果される。
兄たりがたく弟たりがたき野菜である。
いまでは年中手に入れることが出来るが、本来はこれからの季節、ともに旬を迎える野菜である。味も栄養価も上昇した旬の菠薐草と小松菜、大いに食したいものである。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 22:10 | - | - |
お見合い記念日の日のひとりめし(朝)
トースト(6枚切り×2枚)、半熟卵(2個)、アロエ・ヨーグルト、野菜ジュース、バナナ(2本)


今日は“お見合い記念日”だそうである。
Wikipediaによると、“1947年のこの日、東京の多摩川河畔で集団お見合いが行われたことに由来”するものだそうである。“結婚紹介雑誌『希望』が主催したもので、戦争のために婚期を逃した男女386人が参加した”そうである。
“結婚”、“お見合い”、と、云うと、ほのぼのした、しあわせそうな印象を受けるが、それが“戦争のために婚期を逃した男女”のために行われた、と、なると、逆にもののあはれを感じざるを得ない。
1947年と云えば、昭和22年である。終戦から2年しか経っていない。
このときの集団見合いに参加した“386人”の男女は、いったいどのような気持ちで、この催しに参加したのであろうか。
まったく見えぬ先行きの暗さにうなだれてか、それともようやく戦争が終った青空の明るさに面を輝かせてか、平和に慣れ切った現代のわたいには、想像することすらできない。
ただ、当時“多摩川河畔で”行われた“集団お見合い”が、一時期流行った“ねるとん紅鯨団”でのそれとは、大いに違ったものであったろうことは容易に推測できる。
もっともそのことと、わたいの食卓に並ぶ献立とには、なんらの関連もない。
見合いとも恋愛とも結婚とも同棲とも、全然一切金輪際無縁の、色気も女っ気もない献立である。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 22:09 | - | - |
女性専用……
近い将来、建売住宅や賃貸住宅、あるいは集合住宅などに、女性専用ルームが備え付けられるかもしれない。
| 遊冶郎 | 悪魔のつぶやき | 13:10 | - | - |
喫煙室
近い将来、建売住宅や賃貸住宅、あるいは集合住宅などに、喫煙室が備え付けられるかもしれない。
| 遊冶郎 | 悪魔のつぶやき | 13:09 | - | - |
いいりんごの日のひとりめし(晩)
玉子麦飯、味噌汁(大根、人参、玉葱、キャベツ、白葱、白菜、ニラ、もやし、貝割、焼麩、うすあげ、乾燥わかめ)、サンマの塩焼き、菠薐草と厚揚げの煮浸し、自家製なめたけ、冷奴、納豆、味付海苔


やっと菠薐草が廉価になった。98円/束(税抜)である。やっと従来の値段まで下がってくれた。
それはいいのだが、1束当たりの量は、最安値時の半分程しかない。なるほど、販売側も抜かりはない。昔はこのような手法を採る店(販売側)に嫌悪感を抱いたものだが、最近では、苦肉の策であろうとして、許容できるようになった。店(販売)側も大変なのだな、と、惻隠の情を催すようになった。加齢のせいだろうか? それとも、買い物に行く店が、大手チェーンのスーパーやショッピング・モールから、地元密着型の商店街にある店に変ったからであろうか? 願わくば、後者であらんことを……。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 22:16 | - | - |
いいりんごの日のひとりめし(昼-弁当)
麦飯(海苔とたまごのふりかけ)、サンマの塩焼き、小松菜と厚揚げの煮浸し


これで3週目になるのではなかろうか。まったくおなじ献立の昼食である。
ご存じのとおり、朝食もほとんど毎日同じ、変化があるのは、ヨーグルトの種類とバナナの本数くらいのものである。
晩食は晩食で、これまたほとんど固定した献立である。小鉢類のひとつが替るくらいである。
そんななかで、本来もっとも変化すべき主菜が固定しているのだから、ただでさえ変化に乏しい弁当箱の中身が、いよいよ変化に乏しくなってしまう。麦飯のトッピングが、かろうじて日替わるだけである。
写真を撮る意味があるのか? と、自分でも思わないでもない。
しかし写真はまだいい。
問題は文章である。毎日毎日おなじ献立だと、さすがにネタが尽きてくる。当面、こちらの方が問題である。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 22:11 | - | - |
いいりんごの日のひとりめし(朝)
トースト(6枚切り×2枚)、半熟卵(2個)、アロエ・ヨーグルト、野菜ジュース、バナナ(2本)


今日は“いいりんごの日”だそうである。
Wikipediaによると、“青森県が2001年に制定。「いい(11)りんご(5)」の語呂合せ。”と、あるだけである。愛想のないこと、おびただしい。
11月05日で、「0」が「りん(輪)」と、りんごの丸い形を表し、くらい、合わせてあるのかと思ったが。
りんごも好きな食べ物────より正確には果物──のひとつである。実家にいた頃はよく食べたが、ひとり暮らしをするようになってからは、ほとんど食べない。理由はお察しのとおりで、切ったり皮を剥いたりするのがめんどくさいのである。
りんごは胃腸にやさしく、カリウムが豊富で、整腸や高血圧予防などに効果がある、と、云う。それだけではなく、西欧では昔から、「りんごは一日一個で医者知らず」と云われているらしい。ことほどさように重宝な果物であるのである。
青森県はわたいのお世話になっている八戸市が属する県であり、椎名林檎さんも好きな歌手のひとりである。
もっともそのことと、わたいの食卓に並ぶ献立とには、なんらの関連もない。
りんごも他の果物も姿を見せない、いたって潤いのない献立である。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 22:09 | - | - |
あなたに似た人〜PART
鏡に映った自分の姿が、自分の思っている姿ではないからと云って、鏡を責める人。
| 遊冶郎 | 悪魔のつぶやき | 07:56 | - | - |
習字の日・書道の日(昼-弁当)
麦飯(ピリ辛らっきょう)、いわしの生姜煮、小松菜と厚揚げの煮浸し


今週も予定どおりに消費できた。
カボチャの煮物と、小松菜と厚揚げの煮浸しがそれぞれ1食分ずつ残ったが、それはやむを得ない。
今日の晩は、立呑居酒屋で行われるデミさんのLIVEに行く予定である。
思えば久しぶりである。いつもご連絡をくださるのだが、諸般の事情で、不義理を重ねていた。
さて、来週であるが、そろそろ本腰を入れて、減食に努めなければなるまい。昨日の健康診断で、腹囲に脅威を感じたのである。不動大食なのだから、当然と云えば当然なのだが、まさかわたいが、内臓脂肪型肥満になるとは思わなかった。油断大敵、で、ある。
そんなわけで、来週の予定であるが、引き続き、魚肉を中心にするつもりである。サンマなど、旬のものなのだから、この時季に飽きるほど食しておかなければならない。
来週は、1品1品の量を減らすべく心がけることにする。決意倒れに終わる公算が大ではあるが……。
それも良し、である。なにごとも、始めようと思わなければ、始まらないのである。
明日は文化の日、週休2日の人には連休にならないのが残念だろうが、21世紀になって20年近くが過ぎようとし、平成が30年の歴史に幕を下ろそうかと云うこのご時世にあって、いまだに非週休2日で仕事をしておられる方も、大勢いらっしゃるのである。
それを思えば、贅沢は云えない。
さいわい、好天気の行楽日和になりそうである。
心地よい秋の休日を、思う存分、愉しみましょう(^_^)/
それではまた、来週もよろしくお願いいたします。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 07:50 | - | - |
習字の日・書道の日(朝)
トースト(6枚切り×2枚)、半熟卵(2個)、アロエ・ヨーグルト、野菜ジュース、バナナ


今日は“習字の日・書道の日”であるそうである。
Wikipediaによると、“公益財団法人日本習字教育財団が制定”したもので、“「いい(11)もじ(2)」の語呂合わせの意味と、文化祭などの多い11月の文化月間に合わせたもの”なのだそうだ。
なるほど、今回はまともな語呂合わせである。
スマホ、PCどころか、ワープロが普及しだした頃から、すでに手書きはその必要性を減らしていった。礼状なども印刷なのだから、なんのための礼状か、である。虚礼もはなはだしい。
しかし面白いもので、こうも手書きの必要性がなくなってくると、逆にそのありがたみが理解されてくる。それまで当たり前であったものが失われると、それがなぜ当たり前だったのかが理解されるようである。
「人間とは軽薄なものですな……。死に直面してはじめて、生きていることのありがたさに気づく」
こんな意味の台詞が、黒澤明監督の映画、『生きる』のなかにあった。
これを機会に、手書きの良さをいま一度、見直されてはいかがだろうか。
わたい? わたいは御免蒙らせていただこう。生来字が下手で、いまさら矯正する気もさらさらない。
もっともそのことと、わたいの食卓に並ぶ献立とには、なんらの関連もない。
字が上手かろうが下手であろうが、手書きであろうがなかろうが、まったく関係のない、いたって非文化な献立である。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 07:41 | - | - |
本格焼酎の日のひとりめし(晩)
玉子麦飯、味噌汁(大根、人参、玉葱、キャベツ、白菜、白葱、えのき、ニラ、もやし、貝割、焼麩、薄揚げ、乾燥わかめ)、いわしの生姜煮、小松菜と厚揚げの煮浸し、カボチャの煮物、自家製なめたけ、冷奴、納豆、味付海苔


いままではだし昆布とあじにぼしで、味噌汁や粕汁のだしをとっていたのだが、こないだ買いに行ったときにあじにぼしがなく、代わりにあごにぼしを買ってきた。
「あご」とは「とびうお」の別名であり、主に九州地方で呼ばれている。
一般の煮干しはイワシからできているが、とびうおは運動量が多いため、その分脂肪が少なく青臭さがあまりないのが特徴であるらしい。
あごだしはとても上品な風味だと云われており、臭みがないのでいろいろな料理との相性もよく、だしの中でも高級なだしとして使われているようである。
それはいいのだが、あじにぼしに較べて身が固く、またトビウオ特有の羽骨がついているので、食べにくいことおびただしい。
それなら食べなきゃいいじゃないか、と、云われそうだが、どうにも捨てるには忍びない。もったいないのである。
魚類の栄養が豊富であることは昨日も記したところであるが、ご多分に漏れず、この「あご」ことトビウオも、様々な栄養素が含まれている。そんな魚を、たとえだしをとった後とは云え、とても捨てる気にはなれない。
歯骨顎骨強化のためにもなる、と、信じつつ、すべて食べ切っているのである。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 22:27 | - | - |
本格焼酎の日のひとりめし(昼-弁当)
麦飯(みそかつおにんにく)、いわしの生姜煮、小松菜と厚揚げの煮浸し


サンマの塩焼きが昨晩食でなくなった。後継のお菜はいわしの生姜煮である。
しばらくぶりのような気がする。いわしの生姜煮もお気に入りの献立であることは云うまでもない。1パック200円(税抜)で3食分料理れたのだから、こちらもかなりリーズナブルである。
おまけに栄養のよさは、いまさら喋々するまでもない。
今回は生姜のほかに、梅肉も入れてある。いわしのタンパク質やカルシウムと梅干しのクエン酸が合力し、疲労回復に効果がある、とのことである。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 22:24 | - | - |
本格焼酎の日のひとりめし(朝)
トースト(6枚切り×2枚)、半熟卵(2個)、アロエ・ヨーグルト、野菜ジュース、バナナ


今日は“本格焼酎の日”だそうである。
Wikipediaによると、“1987年9月に九州で開かれた本格焼酎業者の会議の場で制定され、日本酒造組合中央会が実施”しているのだそうである。“その年に8〜9月ごろから仕込まれた焼酎の新酒が飲めるようになるのが11月1日ごろであることから”制定されたらしい。
わたいもかつては焼酎をよく飲んだものである。
焼酎にも、芋、蕎麦、麦、等々と、さまざなな穀類を原料としたものがあるが、わたいが愛飲していたのは、「下町のナポレオン」こと、麦焼酎の“いいちこ”である。これに梅やレモン果汁を入れたお湯割りで飲んでいた。一時期は夏でも飲んでいた。晩飯代わりに飲んでいたこともある。♪あのときぼぉくは〜若かった、で、ある。
焼酎はヘルシーである、と、云われているが、それは当然、他のアルコール飲料と比較しての話であって、焼酎自体が健康飲料であるわけではない。飲み過ぎはやはり脳にも肉体にもこたえるし、飲めば酔うことはもちろんである。
もっともそのことと、わたいの食卓に並ぶ献立とには、なんらの関連もない。
二日酔いとも泥酔とも縁のない、いたって健康によろしい献立である。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 22:21 | - | - |


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