ろ〜りぃ&樹里とゆかいな仲間たち

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Sketch(走り書き)と云うよりは……?

 注)タイトルに「*」のついた記事は「ネタバレ記事」です。ご注意ください。
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ルパン三世と云えば……
ルパン三世と云えば、日本が世界に誇るアニメ・シリーズである。
その熱烈なファンは、ただに日本国内のみならず、広く世界の各国に存在している。
そのルパン三世の、TVスペシャルシリーズ第2作に、『ルパン三世 ヘミングウェイ・ペーパーの謎』と云う作品がある。1990年の7月20日に、日テレ系の『金曜ロードショー』で放送された。
その冒頭の場面で、ルパンが次のようなセリフを云っていた。
「世ぉの中、情報化社会、情報化社会、なんつってけどもよぉ、本当に必要な情報なんてのは、ホンの、一握りだけなんだよぉ」
インターネットの普及によって、得られる情報量は格段に多くなった。
しかし情報量が多くなっても、それがただちに、情報の質が良くなることには結びつかない。
量の大小増減は質を規定しない。
情報量の多さは質の面から云えば、混沌をもたらす。
或る情報と真逆の情報が、それと正反対の情報と同じ確からしさをもって述べられている。
そこで、玉石混淆する情報の中から、真に必要な情報、真に真たる情報を抽出する能力が必要になってくる。
情報を分析綜合して或る意見を形作るのは、それからである。
さらに意見にとどまらず、一定の見解を得るためには、相当な思惟上の訓練を要する。
哲学は、副次的な効果であるとは云え、その訓練のためには、非常に有効である。と、云うよりもむしろ、哲学の学習こそが、思惟を訓練する唯一の方法である、と、云っても、過言ではなかろう。
哲学の学習すなわち思惟の訓練、ではないにしても、である。
| 哲ッちゃん | コラム―哲学もどき | 15:23 | - | - |
「アナタハ神ヲ信ジマスカ?」
……、と、云っても、ヘンな宗教に勧誘しようとしているわけではない。
こんなことを云うと年がバレてしまうが、若い頃にこのフレーズがギャグとして流行ったものである。
ところで、このフレーズが奇異に思えるのは、あながち無信心者であるからばかりではないようである。
と、云うのも、これだけでは、神の「なにを」信じるのか、それが判然しないからである。
神の「存在」をか?
神の「慈悲」をか?
神の「救済」をか?
神の「能力」をか? 
神の「愛」をか?

さらには――、
「神の慈悲」とはなにか?
「神の救済」とはなにか?
「神の能力」とはなにか?
「神の愛」とはなにか?
――と、その疑問は増えていく。

たんに、「アナタハ神ヲ信ジマスカ?」と、問われても、答なぞ、出せようはずもない。
| 哲ッちゃん | コラム―哲学もどき | 14:00 | - | - |
“形而上学”とはなにか
『形而上学』と云う書名は、アリストテレスの全集を編纂するに際して、これを『自然学』の後に置いたところから、“TA META PHYSIKA”(『自然学』の後の書)と呼ばれたことによる。
ところがこれが期せずして、その内容からみても、これに相応しい書名となった。
と、云うのも、形而上学とは、自然の背後にあって、自然を規定するもの(「すべての存在のそのように存在するのは、それからであり、それらすべてはそれから生成し来り、その終りにはまたそれにまで消滅していくところのそれ」)、「第一の原因や原理を対象とする」学問であるからである。
それがやがてその対象範囲を拡げていき、社会の在り方(様相)やその進展(歴史)――社会組織、すなわち共同体やその発展形態としての国家、生産・流通・消費などの総体を意味する経済など――、さらには意識の在り方やその発展――意識の表現としての美術、法律、宗教、道徳、そして、精神そのもの――までをも規定する「第一の原因や原理」を追究するようになった。
それは哲学そのものであり、したがって、“形而上学”とは、まさに、哲学そのものの別名である。
エンゲルスは(おそらくは、マルクスやレーニンも)この“形而上学”と云う語を、認識方法、あるいは思考方法の意味に捉え、“弁証法”と対立させた。
ヘーゲルは“形而上学”の内容に、“論理学”の名称を与えた。
いずれも無用の語義変更であり、混乱のもとである。
“形而上学”は、あくまでも、“形而上学”であり、そしてそれは、“哲学”そのものなのである。
| 哲ッちゃん | コラム―哲学もどき | 11:21 | - | - |
「規定」と「否定」
哲学において、「規定」は「否定」であるが、それを表現する場合には、「否定」は「規定」とはならない。
「水は土ではない」と、云ったところで、「水」についてなにごとかを云ったことにはならないのである。
信じられないかもしれないが、この「否定」をつらねることで、そのものについて、なにかスバラシイことを述べたつもりになっている人が、結構、いるのである。
| 哲ッちゃん | コラム―哲学もどき | 14:33 | - | - |
高校時代お世話になった塾の先生が……
高校時代お世話になった塾の先生が──、
「ぼくらの大学時代は、『私立の大学に行っている』=『英語ができる』と、看做されていたものだよ。
 就職活動の面接なんかで、
 『きみは○○大学(私立の大学)の学生さんですから、英語は得意でしょうね?』
 と、訊かれて、
 『いやぁ〜、ぼくは経済学部ですから、経済のことについては詳しいのですが、英語はどうも……』
 なんて、答えようものなら、
 ──あぁ、こいつは遊んでばかりいたな。
 と、思われても、仕方なかったもんだよ」
 と、おっしゃられたことがある。
いま思う。
「おれはマルクス主義者だから、経済はいささか勉強したが、文学とか哲学とか、そう云ったものは、どうも、ね」
 などと云うような輩は、まともにマルクスを研究していない、と、思って間違いない。
| 哲ッちゃん | コラム―哲学もどき | 22:21 | - | - |
「的」の有無
とある男を、「彼は女性である」とは、云えない。
しかし、とある男を、「彼は女性的である」とは、云い得る。
とある資本主義社会を、「封建社会である」とは、云えない。
しかし、とある資本主義社会を、「封建的社会である」とは、云い得る。
かように、「的」と云う言葉は、はなはだアイマイなところ──より精確に云えば、それが付着する言葉をアイマイにしてしまう作用──がある。
したがって、「的」と云う言葉が入っている場合と、入っていない場合とでは、意味合いが違ってくる、と、云うことを、念頭に入れておかなくては不可ない。
哲学書などを読む場合には、とくにそうである。
「具体」と「具体的」は違う。
「客観」と「客観的」とは違う。
「抽象」と「抽象的」は違う。
「主観」と「主観的」は違う。
「根本的」と「根本」は違う。
「本質的」と「本質」は違う。
等々、etc.……。
そのことを念頭に入れておかないと、論旨がアヤフヤになってしまう。
とりわけ注意せねばならないのは、
「論理的」と云いながら「論理」にかなっていない、
「合理的」と云いながら「理に合っていない」、
「理論的」と云いながら「理論」になっていない、
こう云ったことが、非常にしばしば、行われている、と、云うことである。


| 哲ッちゃん | コラム―哲学もどき | 22:59 | - | - |
「歴史」と「哲学」
「歴史は暗記物である」
「哲学はワケの分からぬものである」
これが世間一般の、歴史や哲学に対する、評価ではないでしょうか。
じつに悲しむべきことです。
数学は、自然科学の基礎学問です。物理学や化学は云うに及ばず、天文学や地質学、生物学でさえ、数学の素養がなくては成立しません。
それに匹敵する――いえ、その上に位置する――基礎学問が、歴史と哲学なのです。
いかなる学問も、いやしくもそれが「学問」と云われ得ようとするならば、歴史と哲学の素養がなくてはなりません。それは、社会科学や人文科学の領域においてのみならず、自然科学の領域においてさえ、そうなのです。
その証拠に、あらゆる学問分野において、――ときとして、学問以外の分野においてすら、――「〜史」、「〜哲学」と、接尾できな領域のものはないでしょう。
「文学史(文学哲学)」、「政治史(政治哲学)」、「音楽史(音楽哲学)」、「自然史(自然哲学)」、「数学史(数学哲学)」、等々、です。
さらに、歴史と哲学は、相互に接尾語たり得ます。
「哲学史」、「歴史哲学」です。
これを以てしても、歴史と哲学が、学問中の学問、真の基礎学問であることが、お分かりいただけることと思います。
| Mac | コラム―哲学もどき | 22:33 | - | - |
「ある」と「なる」
「ある」と「なる」とは、哲学における重要な概念のひとつ(ふたつ?)です。
と、云えば、
「なにをバカなことを」
と、おっしゃる方もいらっしゃるかもしれません。
しかし哲学は、この世に存在するすべてのものの根本に「ある」もの、すべてのものがそれから「なる(生じる)」ものはなにか、を、問うところから始まりました。
そしてその思考の歴史のなかで、やがては、「“ある”とは、なにか」あるいは「“ある”とは、どういうことか」、「“なる”とは、なにか」あるいは「“なる”とは、どういうことか」を問うようにまでなりました。
これを、実際からかけ離れた閑問題、閑人の遊び、と、思われるでしょうか?
おそらく、多くの人たちは、そう思われるでしょう。
なるほど哲学は、実際上の事物や出来事から遠く遊離した抽象をその対象とします。
だからと云って、実際上の事物や出来事と無縁であるとは云えません。
むしろこのような思考に不案内であるために、実際上の事物や出来事を考察し、把握するに際して、大きな困難や誤解を生じ、混乱迷乱を招き、不利益害悪をもたらす場合が少なくないのです。
「ある」と「なる」とを規定し得ないがために、どのような混乱迷乱、不利益害悪が生じているか、一例を申し上げましょう。
“子どもの人権”を声高に主張する輩の言説(「言説」などと云えるような内容のない場合がほとんどなのですが、ここは一応、敬意を表しておきます)は、子どもが人で「ある」ことに重きを置きすぎて、子どもが人に「なる」ことを閑却しているきらいがあります。子どもが人に「なる」権利を奪っているのです。
そのような人たちには、人に「なる」、とは、どういうことか、「人」とは、なにか、そんな疑問すら、思い浮かばないでしょう。
逆の例は、犯罪者の場合です。
犯罪者に「なる(なった)」ことに重きをおいて、犯罪者で「ある」ということが閑却されています。
当然、「犯罪」とはなにか、などと云う疑問も、生じないでしょう。
物事をその根本義にまで遡って考える、これは哲学の要諦であるとともに、実生活上においても、非常に重要なことなのです。
| 哲ッちゃん | コラム―哲学もどき | 14:50 | - | - |
うようよ、さよさよ
21世紀になって15年を経ようとしているのに、いまだに、右翼だ、左翼だ、ネトウヨだ、サヨクだ、と、ゴチャゴチャグチャグチャ云っている連中がいるのでウンザリする。あるいは、ゲンナリする。
平成の御代も四半世紀になろうとしているのに、いまだに、資本主義だの、社会主義だのとわめき、アゲクの果てには、共産主義がどうの、帝国主義がこうのとホザいている連中がいるのだからタメ息が出る。情けなくなる。
こんな、とうの昔に死に絶えた言葉を墓場から引き釣り出してギョウギョウしく担ぎまわり、やいのやいのとバカ騒ぎしている連中の脳神経は、――それがあるとして、――いったいどのように働いているのか、一度見てみたくなる。
右翼も左翼もない。その認識が、正しいか、間違っているか、である。
資本主義も社会主義もない。共産主義も帝国主義もない。いい国か、わるい国か、である。
そして、なにをもって「正しい」となし、なにをもって「間違っている」となすのか、さらにまた、なにをもって「いい」とし、なにをもって「わるい」とするのか、その判断が、より精確に云えば、その判断の的確さ如何が、あるだけである。
| Mac | コラム―哲学もどき | 22:35 | - | - |
正直者はバカをみる?
正直者がバカをみるようではいけない、と、云う人がいる。
はたして正直者がバカをみるようなことがあるのだろうか?
正直者は正直者であることを以てその利益とし、その価値とする。「正直」であること、それ自体が正直者の利益であり、価値なのである。
「正直」であることを以て他の利益や価値を得ようとすれば、それは「正直」ではなくなる。「正直」であることそれ自体が目的とならず、「正直」であることによって他の利益や価値を得ようとすれば、「正直」はそのための手段となり、もはや「正直」ではなくなる。
正直者は「正直」であることそれ自体を利益とし、価値とするが故に正直者なのである。
体験的に云えば、正直者がバカをみていることに義憤を感じ、正直者がバカをみるようではいけない、と云う人は、あまりいない。正直者が、他人から見て、バカをみているように思われるとしても、正直者自身は「正直」であることで満足もし、誇りをもってもいるのだし、そのことはみな大抵察している。正直者がバカをみているとしても、そのことによって自分に被害が及ばない限り、あえてその「正直」を矯正させる必要はない、と云うのが、大方の考えだろう。
むろん、正直者が「正直」であることによって他の利益を得て悪いわけはなく、むしろそうなることは望ましいことである。しかしそれは実際生活のなかでは、非常に難しい。
大抵の人は、「正直者がバカをみるようではいけない」と云って、件の正直者を自らになぞらえ、「正直」であることを以て、「正直」と異なる何らかの利益を得ようとしているように思われる。
そうなるともはや、その「正直」は「正直」ではない。
| 哲ッちゃん | コラム―哲学もどき | 19:25 | - | - |
「体験」と「経験」
むかし、親爺に云われたものである。
「道を歩いてて転んだとせえ。
『運が悪かった』ですますヤツもおる。
『こんなとこに石があるから悪いんや』と、思うヤツもおる。
『注意が足りんかった。今度から注意して歩こう』と、思うヤツもおる。
『この道は危ない。ちがう道を通ろう』と、思うヤツもおる。
『思いもせんかったことで怪我した。これからも、思いもせんことで怪我するようなことがあるかもしれんなぁ』と、思うヤツもおるやろ。
おんなじ目に遭うても、それをどう考えるかは人それぞれや。
どうせやったら、ちょっとでもマシなことを考えるようにせえよ」

とある漫画のなかに、こんなセリフがあった。
「どんなに経験をつんでも、それを知識として活かせなければ、たんなる時間のムダづかいにすぎませんよ」
叩き上げの警官にエリートのライバルが云うセリフである。

アリストテレスはその『形而上学』のなかで、このように述べている。
「同じ事柄についての多くの記憶がやがて一つの経験たるの力をもたらす」
「学問や技術は経験を介して人間にもたらされる」
そして、
「技術の生じるのは、経験の与える多くの心象から幾つかの同様の事柄について一つの普遍的な判断が作られたときにである。」

個々に遭遇する出来事は「体験」である。
多くの「体験」を総括してそれらに共通するものを抽出し、自覚したとき、はじめてそれは、「経験」となる。
そしてその「経験」をつみかさね、総括して、「技術」を得る。
アリストテレスはこの「技術」と云う語のなかに、我々が云う、「理論」、「法則」、「知識」の意味を含ませている。
人は毎日毎日、いやおうなく、多くの苦労や愉しみやつらさや喜びを感じながら暮している。
そのひとつひとつが「体験」である。
どうせなら、それらの「体験」を良き「経験」と為し、良き「技術」を身に付けたいものである。
| 哲ッちゃん | コラム―哲学もどき | 11:57 | - | - |


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