ろ〜りぃ&樹里とゆかいな仲間たち

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人間五十年……
「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり 一度生を得て 滅せぬ者の あるべきか」
ご存じ、幸若舞曲は『敦盛』の一節です。
幸若舞曲の名句、と、云うよりも、戦国乱世の梟雄:織田信長が好んで舞ったことで、有名となっているようです。
幸若舞とは、中世芸能のひとつでして、室町後期に、桃井直詮(幼名:幸若丸)が創始した声曲で、武士の世界を素材とした物語を謡うのを特色としています。(『日本の名句・名言』、増原良彦著、講談社現代新書、1988年11月10日第1刷発行、1991年6月24日第6刷発行、p.54)
この「人間五十年」と云う句を、平均寿命のように思われている方が意外と多くいらっしゃるようですが、それが間違いであることを、増原氏は同書のなかで指摘しておられます。
それはそうでしょう。考えてもみてください。室町後期、あるいは戦国乱世の頃に、平均寿命、などと云う観念が、はたしてあったでしょうか。
なるほど、経験則から、だいたいの寿命を割り出すことはあったでしょう。
それにしても、それが五十年(五十歳)とは、どう云う謂でしょうか。
ここで、信長と同時代の人たちの享年を見てみましょう。

武田信玄…53歳。
上杉謙信…49歳。
足利義昭…60歳。
豊臣秀吉…61歳。
徳川家康…73歳。
前田利家…60歳。
毛利元就…74歳。
長曾我部元親…60歳。
伊達政宗…69歳。
島津義久…78歳。
黒田官兵衛…58歳。

こうしてみますと、だいたいの平均は六十歳前後、“人間五十年”より、十年ほど、長いことになります。
それでは、この『敦盛』で云う、“人間五十年”とは、いったい、なんのことなのでしょうか。
それは、増原氏も述べておられますように、一つの区切り、一つの例えではないだろうか、と、思われます。
「人間世界の五十年は……」と、云うくらいの意味でしょう。
“下天”と云うのは、仏教界における、最下層の天でありまして、それゆえにこそ、“下天”なのでありますが、ここには、われわれにお馴染の、いわゆる“四天王”――持国天、増長天、広目天、多聞天――が住んでいる、と、云われています。
この下天の一昼夜が、人間世界では、五十年に相当するのです。
したがって、人間世界の五十年は、下天の内では一昼夜(24時間)にすぎない、まことに人の世とは、夢幻の如きものである、と、云うことで、結論としては同じであるが、、こう思ってこの句を口ずさむと、意味合いと云うか、味わいが、また、違ってくるのではないでしょうか。
| Mac | 歴史散歩 | 09:07 | - | - |
安土城の……
安土城を再現する、と、云う、TV番組を観たことがあります。
と、云っても、昼飯を食べながらいいかげんに観ていただけなので、細かなことまでは憶えてないのですが……。
信長は日本史上類稀な英雄とされておりまして、自分も大好きな人物です。
(もっとも、友人づきあいをしたい、と、思うような人間ではありませんが)
それで、幾許かの興味をもって観ていたのですが、やがてその幾許かの興味も失せてしまいました。
かすかに憶えているところでは、資料などによると、安土城には巨大な吹き抜けの空間があったらしいのですが、遺構から判断した建築学上の観点からすると、そのような吹き抜けの存在はあり得ようがないらしい、と、云うことでした。
それはともかくとして、興味が失せた理由の大半は、安土城の再現に際して、当時の城郭や、その後の城郭、安土城以前の城郭の構成をもって、安土城の再現を試みようとしていたことです。
以前のものからどのような影響を受けたか、以後のものにどのような影響を与えたか、同時代のものと比較類推することによってある程度の姿が想像されるだろう……。
歴史再現の手法としては常道と云えるかもしれませんが、この場合はまるで役に立たないでしょう。
早い話が、日本城郭史上、最初に天守閣を築いたのは、松永弾正少弼久秀が築いた多門山城だった、と、云われています。たとえ天守閣にどのような画期的な役割があったにしても、だからと云って、信長がそれを真似た、と、云う理由は、どこにもないでしょう。
また、信長の跡目を継いだ秀吉が築城した大坂城にしても、彼が安土城をモデルにして大坂城を構築した、と、云う証拠は、ないんじゃないでしょうか。
云っちゃあなんですが、信長はそのスケールが桁外れな人物です。
彼のような人物が現われ出たのは、日本史上の奇跡、と云っても、いいくらいです。
とうてい、秀吉や家康なんかの及ぶところではありません。
信長の考えを知ろうとするならば、同時代の、あるいは後世の、西洋人(当時の言葉で云いますと、南蛮人)に、その近似値を求めるべきでしょう。
現に、信長が部下を見出し、育成した方法は、西洋においてはナポレオンが創始して、プロシャが採用した、と、云われていますし、その戦闘方法も、昔の日本よりは、後代の西洋(特にナポレオン)の方法に近似している、と、云われています。
信長が宣教師たちを厚遇していたことは有名ですが、彼らから、地球は丸い、と聞き、
「その説、理にかなう」
と、うなづいた話も、これまた、有名です。
その信長が、古来の日本の城郭を模した城を、我が居城として建築するとは考えられません。
また、それほどの信長の考えを、後代の人間がよく理解し得たとも思えません。
信長が構築した安土城を再現しようと試みるならば、おそらくは宣教師たちによってもたらされたであろう、当時の西洋の城郭にこそ、その範を求めるべきでしょう。
| Mac | 歴史散歩 | 09:06 | - | - |
武人の魂
議場は緊張に包まれ、寂として声も出なかった。
賛成・反対、当初はそれぞれの立場から野次を飛ばしていた議員たちも、いまは固唾を呑んで、ふたりの応酬を見守るだけだった。
「浜田君の発言は、国民一致の精神を害するから、ご忠告を申し上げる」
そう云って壇上を降りる寺内陸相の満面は、朱を注いだように紅潮し、その声音は抑えきれぬ憤りに震えていた。

浜田君、と、寺内陸相に呼ばれたその男は、政友会所属の衆議院議員、浜田国松である。
このとき齢七十。かつては衆議院副議長を務めた長老である。
寺内陸相を激昂せしめたその演説は、このようなものだった。

「軍部は近年、みずから呼称して、わが国政治の推進力はわれらにあり、乃公出でずんば、蒼生を如何せんの慨がある。五・一五事件然り、二・二六事件然り……」

ときあたかも二・二六事件の勃発によって岡田啓介内閣が桂冠し、広田弘毅内閣が発足した直後の議会においてだった。
軍部が政治に容喙し、この広田内閣においても、軍部は二・二六事件と云う大事件を惹起しておきながら、
「二・二六事件後の粛軍については、政治家もまた自粛自戒をもって協力すべきである」
と、称して、軍部の意に添わない閣僚の就任を拒絶したいきさつがあった。
昭和天皇をして、
「朕が軍隊を私にみだりに動かし、朕が信頼せる重臣を殺戮するとはなにごとか。かかることをなすは、朕が首を真綿にて絞むるにひとしい。陸軍大臣はすみやかにこれら暴徒を鎮圧せよ。陸軍大臣に出来ぬとあらば、朕みずからがこれを平定せん」
とまで激昂せしめた事件を惹起しておきながら、それでもなお軍部は、
「あのような事件を起こしたのは悪かったが、そもそもあんな事件が起こったのは、政治家や財閥、役人たちが悪いからだ」
と云う考えだった。
増長極まれり、の感がある。

浜田氏の演説は、その軍部の専横を鋭く剔抉した。
「……独裁強化の政治的イデオロギーは、つねに滔々と軍の底を流れ、時に文武恪循の堤防を破壊せんとする危険あることは、国民の等しく顰蹙するところである」

この浜田議員の演説に、陸相寺内氏がいきりたった。
待ちかねたように発言を求めると、
「先刻来の浜田君の演説中、軍人に対して、いささか侮辱するような言辞のあったのは、遺憾である」
と、述べた。
それに対し浜田氏は、
「いやしくも国民の代表たる私が、国家の名誉ある軍隊を侮辱した……という喧嘩を売られてはあとへはひけませぬ」
と、応じた。
寺内陸相も負けてはいない。
冒頭に引用した発言が飛び出す。
「浜田君の発言は、国民一致の精神を害するから、ご忠告申し上げる」
これに対し、浜田氏の曰く、
「……国民一致を思えばこそ、軍部の言動について、陸相にご注意申し上げたのだ」
そして、歴史に残る名言が口をつく。
「だいたい、僕がはたして、軍部を侮辱した言葉を吐いたかどうか、速記録をお調べ願いたい。もし、それがありとせば、僕が割腹して君に謝る。だがなかったならば、君、割腹せよ!」
議会史に有名な、“腹切り問答”である。

寺内陸相は直後の閣議で、
「政党を反省させるため、衆議院の解散を要求する」
と、主張して一歩も引かなかった。
他の閣僚や同じ軍人である永野修身海相の説得すら、聞かなかった。
むろん、速記録を調べて、腹を切ろうともしなかった。

浜田氏はその演説中に述べておられる。
「日本の武士というものは古来名誉を尊重します。士道を重んずるものである。民間市井のならず者のように、論拠もなく、事実もなくして人の不名誉を断ずることができるか」

真の「武人の魂」が、浜田代議士、寺内陸相のいずれに存していたかは明らかだろう。
もしこの稿を、陸軍厭悪のゆえ、浜田代議士に肩入れするような書き方をしているのだ、と、おっしゃる向きがあれば……、速記録をお調べ願いたい。割腹は求めないから、安心して楽しい
| Mac | 歴史散歩 | 08:04 | - | - |
「歴史とは……」
「歴史とは、現在と過去との対話である。」
これはイギリスの歴史家、E・H・カーの言葉です。
現在は現在として、独立して存在しているのではありません。
現在は過去の延長線上にあり、未来は現在の延長線上にあります。
過去を知らずして現在を知ることはできませんし、現在を知らずして未来を展望することはできません。
だからこそ、将来如何にあるべきかに思いを馳せる人は、現在が如何なるものであるかを知ろうとし、それゆえに過去を知ろうと欲します。
そして、過去をどう捉えるかによって、現在をどう見るかも違ってきます。
現在を知るためには、どうしても過去を知らねばなりません。
歴史を軽んずる人は、現在を、そして将来をも、軽んずる人です。

とある歌のなかに、
「人は愛を紡ぎながら歴史をつくる」
と云うくだりがあります。
歴史を学ぶと云うことは、人物の名前や起こった事件の年代を憶えることではありません。
歴史を学ぶと云うことは、現在は名も知られていない無数の人々が、泣き、笑い、苦しみ、怒り、悲しみ、喜び、楽しみ、……、精一杯、生きてきたことを、その生きざまを、その生活を知ることです。
その時代、時代を、懸命に生きてきた人たちの心を、気もちを、理解することです。
その人たちが、なにに憤り、なにを求め、なにに喜び、なにに悲しみ、なにに苦しんだのか、……、それを理解しようとする心こそ、歴史を学ぶと云うことなのです。

とある漫画のなかに、石仏を研究している人物が登場します。
その人物が、なぜそんなものの研究をしているのか、と、問われ、答えます。
「むかし、たくさんの人たちがさ、自分たちのいろんな願いがあって、いろんなことを聞いてほしくて、石の地蔵さんをつくって、その地蔵さんに、いろんなことを、訴えかけてたんだよね。
いまはもう、その人たちはいなくなってさ、だけども、地蔵さんはいまでもそこにあってさ、いまはもういないその人たちの声に、いまでも耳を傾けてるんだよね。
いまはもう、その人たちがどんなことを願ってたのか、どんな思いでその地蔵さんを拝んでたのか、分からなくなっちゃったけど、でもそれでも、いつか俺にも、そんな人たちの声が聞こえたらいいな、と、思って、さ」
歴史を研究する人たちの心に共通した想いです。

「歴史は暗記もの」と信じて疑わない人々は、みずからの不明不徳を恥じ、その心性の貧しさを反省するべきでしょう。
| Mac | 歴史散歩 | 13:06 | - | - |


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