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『道草』
『道草』は、漱石の自伝的小説だとか、自然主義的小説だとか云われているようだが、とてもそうは思えない。
自伝的小説や、自然主義の小説のように、作家の過去や日常の出来事、考えなどを小説化した作品ではないのである。
漱石はその小説において、「金の力で支配出来ない真に偉大なもの」を追究し続けた作家であり、『道草』は、それを会得した漱石が、それを会得するまでの過程を小説に蒸留した作品である。
漱石が追究した、「金の力で支配出来ない真に偉大なもの」とはなにか、漱石はどうやってそれを会得したのか、は、漱石の作品を研究することによって、明らかにされる。
それがなんなのかは、まだ判らないが、いわゆる「則天去私」でないことだけは確かである。と、云うよりも、「則天去私」とはなにか、と、云うこと自体、明らかにされていないのだから、漱石が晩年に到達した境地を、「則天去私」の四文字だけで済ますわけにはいかないのである。
そして、21世紀の現代においてもなお、漱石が追究した「金の力で支配出来ない真に偉大なもの」がなんなのかは、明らかにされていない。
漱石は日露戦争後の日本の発展期に、作家としてそれを追究した。
21世紀の日本人は、バブル崩壊以来、混乱迷走のラヴュリントスから抜け出せず、漱石が追究した「金の力で支配出来ない真に偉大なもの」を明らかにする必要に迫られている。まだ明確に意識されていないにせよ、いずれは、人々の意識の俎上に、その必要が明らかになってくるだろう。
だからと云って、なにも眉間に皺を寄せて、鹿爪らしく読む必要はない。
愉しく、気楽に読めばいいのである。実際漱石の小説は、いまなお、愉しく、気楽に読めるのだから。
| 築山散作 | 気まぐれ読後感 | 22:28 | - | - |


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