ろ〜りぃ&樹里とゆかいな仲間たち

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漱石と云えば……
漱石の作品と云えば、なんと云っても、『坊ちゃん』でしょう。
読書嫌い、本嫌いの人たちでも、『坊ちゃん』でしたら、読んだ記憶があるのではないでしょうか。
昔は学校の教科書にも掲載されていましたし、子供向けのリライト作品も、各出版社から、さまざまな版が出されていたものです。
『坊ちゃん』は、それほど長い作品ではありません。おそらく漱石の長編作品中では、『坑夫』と並んで、もっとも短い作品でしょう。
文章も軽快で、読み易く、それが『坊ちゃん』の魅力のひとつとなっています。
しかし『坊ちゃん』の魅力の最大なるものは、なんと云っても、“坊ちゃん”をはじめとする各登場人物の、その際立った個性にあるでしょう。
真っ正直で一本気、正義感あふれた江戸っ子の坊ちゃん。
豪快明朗で生徒たちの人気もある毬栗頭の山嵐。
おとなしく、善良で、蒼ぶくれした顔のうらなり。
いやに勿体ぶった、狸のようなご面相の校長。
年がら年中赤いシャツを着て、女のように優しい声を出す、教頭の赤シャツ。
教頭の腰巾着で、へらへらした、芸人風の趣のある、野だいこ。
近在で一番の別嬪で、マドンナの異名を奉られているお嬢さん。
その他、東京の坊ちゃんの家に長く勤めている下女の清や、坊ちゃんの下宿先のおかみさん、坊ちゃんを困らせる生徒たちなど、それぞれに個性豊かで、活き活きとしています。
それらの人物像は、単純で深味がなく、紋切型とも云えますが、むしろそれゆえにこそ成功している、と、云ってもいいでしょう。
この小説が拡まった後、各地の学校で、先生に綽名をつけるのが流行ったそうです。
思い起こせば学生時分、みなで先生たちに綽名をつけて、秘かに喜んでいたものです。
みなさまがたも、おぼえがあるでしょう?
その遠因は、じつに、この、『坊ちゃん』にあったのです。
もっとも、識者に云わせますと、先生に綽名をつけるのは、当時から松山ではふつうに行われていたことのようで、それが『坊ちゃん』にそのまま、採り入れられたのだそうです。
と、すれば、松山中学校に赴任していた当時の漱石は、いったい、どんな綽名をつけられていたのでしょうか?
ちょっと、興味がありますね。
それはそれとして、『坊ちゃん』を読んで思うことは、坊ちゃんの一本気な正義感、江戸っ子気質を好ましく思うとともに、その坊ちゃんの行動に、いささかの滑稽味、微笑ましさを感じることです。
ぶっちゃけて云えば、“若さゆえの客気”、“世間知らずの一本気”、まさに、“坊ちゃん”です。
正味の話、坊ちゃんの行動は、実際上では、なんらの効果も現しません。
うらなりくんの転任を阻止することもできず、マドンナを赤シャツから引き離してうらなりくんに返すこともできず、赤シャツや野だいこを反省させることもできません。
いくら赤シャツや野だいこを奇襲し、玉子をぶつけ、打擲したとて、彼らのもつ力には、なんらの影響も及ぼしません。
そんな所業は、坊ちゃんや山嵐の、自己満足にすぎません。
赤シャツには、野だいこを媚びへつらわせ、マドンナをうらなりくんから奪い、うらなりくんを九州の山奥に転任させるだけの力があります。
赤シャツの力の依って来たる根本を探り、その根本に打撃を与え、その力を根こそぎにしようとはしませんし、そんな考えも浮かびません。
坊ちゃんに捉えられるのは、表面上の現象だけです。
その表面上の現象に嫌悪を抱き、その表面上の現象だけを捉えて、これと格闘しているのが、坊ちゃんの“正義感”です。
表面上の現象であるだけに、その実際上の効果は空しく、坊ちゃんが懸命になればなるほど、その行動は滑稽になります。
坊ちゃんは最初から松山を田舎とバカにし、松山で暮そうとは考えず、東京に帰る事ばかりを考えています。
坊ちゃんの“正義感”は、松山での生活に入っていこうとしない、逃げ腰の、(坊ちゃんの言葉を借りて云えば)臆病です。
それが、赤シャツに反発を感じながらも、赤シャツのもつ力の、その力が依って来たるその根本を探ろうともせず、表面上の現象だけを捉まえて、これを攻撃する動きとなって現象するのです。
それゆえに、坊ちゃんの行動は滑稽に思われます。
しかし坊ちゃんのその行動が微笑ましく思われるのは、読者にも、赤シャツに反発を感じるその感性において、坊ちゃんと一致するところがあるからです。
赤シャツの力の依って来たる根本を探り、その根本に打撃を与え、その力を根こそぎにすることは、これはじつは、非常に困難なことです。
それを経験として理解しているからこそ、凡俗な輩は坊ちゃんを、まさに世間知らずの“坊ちゃん”として軽蔑し、却って赤シャツを“現実的である”として、好意的に評価します。
凡俗な輩は、そう考えることによって、野だいことなります。
野だいこは感性的に赤シャツの力を理解し、赤シャツに媚びへつらって自分の地位を確かなものにしていますが、凡俗な輩は小理屈をこね、その小理屈をもって“現実を知る”と称して、赤シャツのような人間に媚びへつらい、それをもって、“現実的な生き方”と、満足しています。
野だいこ以下です。
漱石は坊ちゃんの“坊ちゃんらしさ”を認めながらも、凡俗な輩のように、それを単純に否定するのではなく、坊ちゃんの“坊ちゃんらしさ”を維持したまま、なお赤シャツに対抗しようと、その模索を続けます。
その系列が、漱石の作品群を成しています。
漱石はその手紙に書いています。
「坊ちやんの如きものが居らぬのは、人間として存在せざるにあらず。居れば免職になるから居らぬ訳に候。……僕は教育者として適任と見做さるる狸や赤シヤツよりも不適任なる山嵐や坊ちやんを愛し候」
如何に狸がバカげており、如何に赤シャツが嫌味であっても、「教育者として適任」であれば、「教育者として不適任」な山嵐や坊ちゃんよりも、意義があります。
にもかかわらず、漱石が「山嵐や坊ちやんを愛し候」と、書いているのは、漱石が狸や赤シャツを「教育者として適任」と認めていないこと、むしろ山嵐や坊ちゃんを「教育者として適任」と認めていることを示しています。
そしてこのことは、“教育とはなにか?”、“教育者とは、いかなる人物か?”もしくは“教育者とは、いかなる人物であらねばならないか?”を、考えさせる契機となります。
この問いは、単に“教育”の分野だけにとどまらず、さらに広く、人生全般、生きることそのもの、人間であることそのものへと、つながっていきます。
漱石は赤シャツに対する坊ちゃんの無力や滑稽を認識しながら、それでも“坊ちゃんらしさ”を投棄てることなく、“坊ちゃんらしさ”を維持したままそれを深化させて赤シャツのような人間に対する闘いを繰り広げ、その成果を蓄積していきます。
そのへんが、文豪漱石と、凡俗な“現実的人間”とを分け隔つ、決定的な第一歩である、と、云えましょう。
| 築山散作 | 気まぐれ読後感 | 12:03 | - | - |


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