2015.11.23 Monday
*『かわいい女』*
散作が、中学生の頃から持っていたチャンドラーの『かわいい女』が、正確な意味での全訳ではないらしいことが判って、かなり落ち込んでいる。
原書と比較してみると、訳されていない段落や文章、言葉の省略などがあると云う。 原書と云っても、版によって異同はあるだろうし、そんなに落ち込むこともあるまい、と、思うのだが、当人にとっては、深刻なようだ。 それなら、他の日本語訳の本と対照させて読んでみればいいじゃないか、と、云うと、そんな根気はない、と云う。 じゃあ、原書だけを読めば、と、云うと、そんな語学力があるか、と、云う。 やっかいな男である。 チャンドラーの小説(ただし、長編)は、ほとんど映画になっている。 『かわいい女』は、1969年(昭和44年)の作品、ジェームズ・ガーナーがマーロウを演じた。 マーロウはいわゆる“夢の人物”であって、日本人の作家でも、“ハードボイルドが好きなんじゃない、マーロウが好きなんだ”と、云う人がいるくらいである。 だから映画化されても、“この人こそ、マーロウ!”と、云う役者はいない。 みなどこかしらに、いくばくかの、不満を抱いている。じゃあだれが適役か、と、云うと、だれも、“この人!”と、推薦し得ない。 原作者のチャンドラーは、「ケイリー・グラントに似ている」と、云ったそうだが。 また、歴代のマーロウ役者が、“これは、ミス・キャストだ!”と、云うのがいるか、と、云うと、それも、いない。みんなどこかしらに、マーロウらしさを醸し出している。 やっかいと云えば、やっかいなキャラクターである。 自分が観たのは、『三つ数えろ』のハンフリィ・ボガート、『さらば愛しき人よ』のロバート・ミッチャム、『ロング・グッドバイ』のエリオット・グールド、そしてこの、『かわいい女』である。 『三つ数えろ』のハンフリィ・ボガートに関しては、問題にならない。なにしろ自分は、ボガートが出ていさえれば、それでオール・オッケーなのである。 監督がだれであろうが、脚本がどうであろうが、キャメラがどうであろうが、とにかく、ボガートが出ていさえすれば、それでオッケー、なのである。 似合うも似合わないもない。ボガートがマーロウのイメージにそぐわなかったら、それは、マーロウが悪いのである。我ながら、ムチャクチャな意見だとは思うが……。 ロバート・ミッチャムは、演技者としては巧いと思うが、マーロウにふさわしいか、と、云われると、ウ〜ン、と、なってしまう。映画自体はよかったと思う。御贔屓のシャーロット・ランプリングが出演していたし、時代の雰囲気もよく出ていた。 しかし自分としては、うらぶれて、くたびれた感じのロバート・ミッチャムよりも、飄々とした感じのエリオット・グールドや、ジェームズ・ガーナーのマーロウに軍配を上げたい。 演技者としてはミッチャムの方が達者なように感じるのだが、マーロウの雰囲気としては、エリオット・グールドやジェームズ・ガーナーのほうがよく出ている、と、思うのである。 と、云うのも、マーロウの持ち味は、その饒舌とも云えるモノローグとワイズクラックにあるのだが(少なくとも、自分はそう思っているのだが)、そのあたりになると、ミッチャムよりも、グールドやガーナーのほうが、はまっているように思うのである。 『ロング・グッドバイ』、『長いお別れ』は、チャンドラーの最高傑作、と、云われており、ただにチャンドラーのみならず、ハードボイルド小説の三大傑作のひとつ、との定評がある。(他の二つは、ダシール・ハメットの『マルタの鷹』と、ロス・マクドナルドの『動く標的』。どちらも映画化されている。) 原作はかなりの分量があり、重厚であるが、映画はそれを、時間の制約もあったのであろうが、簡略にしてしまい、ためにいささか軽くなってしまった。 映画の冒頭、マーロウは飼っている猫に催促され、叩き起こされて、キャット・フードを買いに行く羽目になる。当時の自分としては、深夜営業のスーパーがある、と、云うのが、さすがアメリカ、と、思ったものだ。 あいにくその日は、いつも買っているキャット・フードがない。しかたなく、別の銘柄のを買ってくる。その中身を、いつも食べている缶に移し替えて、なんとかごまかそうとするのだが、猫は騙されない。いわゆる“猫またぎ”で、無視してしまう。“この贅沢ものめ”と、思いながら、憎めないでいるマーロウの困った顔……。 この描写は原作にはない。映画のオリジナルであるが、秀逸な場面だった。 ロス・マクドナルドの『動く標的』も、冒頭の描写が素晴らしかった。 起き抜けの主人公(ポール・ニューマン)が、モーニング・コーヒーを一杯、と、思ったが、豆がない。しかたなく、おそらくは、昨夜にでも捨てたものであろう、ゴミ箱からいったん捨てた出がらしを拾い上げて、朝のコーヒーを淹れる。 これも原作にはない、映画のオリジナルであるが、うらぶれた私立探偵の雰囲気を上手く醸し出していて、なかなかの出来栄えであった。 さて、『かわいい女』であるが、この映画には、そう云った、印象的なファースト・シーンがない。昭和に流行ったセリフではないが、記憶にございません、なのである。 では、この映画がつまらなかったかと云うと、なんの、なんの、さして流行りはしなかったようだし、いわゆる名作でもないが、自分としては、結構お気に入りの作品なのである。 まず、主人公のマーロウを演じるジェームズ・ガーナーの、とぼけた味わいがいい。 『ロング・グッドバイ』のエリオット・グールドよりも、数段上である。 ボガートは、シャレてはいるが、とぼけている、とは、とても云えない。どうしても、冷かし気味、冷嘲気味、になる。つまり、カッコいいのである。 ガーナーは、自分は三枚目になりながら、みずから三枚目になることによって、かえって相手をやりこめている。そのあたりが、愉快なのである。 ガーナーは後に、テレビの『ロックフォードの事件メモ』でも、二枚目半の少しとぼけた私立探偵を演じて、エミー賞を受賞している。 二枚目半から三枚目のちょっと手前、みたいな、そんな役柄がピッタリくる俳優である。 一例をあげれば――、 彼は、クエスト(Qest)と云う男を捜している。 その行方を知っていると思われる人物のもとに赴いて、クエストのスペルを説明するときに、 「クレジットフォレックの“Q”、エルミタージュの“E”、スモコロジーの“S”、トルソーの“T”」 などと、わざと、小難しげな単語を引合いに出すところなど、いかにもとぼけた雰囲気を出している。 この映画では、無名時代のブルース・リーが出演している。 マーロウを脅して、手を引かせようとするチンピラの役である。 マーロウの事務所に来て、挨拶を交わすなり、壁を蹴り破り、コート掛けを叩き折る。 マーロウの事務所の隣は理髪店であるが、そこの主人(字幕はなぜか、オカマ口調であるが、それがまた、おもしろい)や女の子たちがビックリしてやって来る。 「なんの騒ぎ?」 と、云う主人にたいして、 「改築工事さ」 と、応えるガーナーが、いい。 ブルース・リーとのやりとりも面白い。 500ドルを出したリーに、 「天井も壊せよ」 と、云う。 洒落たセリフを口にするのは、マーロウ=ガーナーだけではない。 リーも、「誰の使いだ」と、問われて、 「血よりも金で解決を好む男です。しかし必要ならば、血を流してもいいのですよ」 と、凄む。凄んでいるようには見えず、サラリと云っている分だけ、よけいに凄味が増す。 その申し出を、マーロウは断る。彼独特の言回しで――、 「君のご主人に返してくれ。君が会った男は、この世で最後のバカ者だと伝えろ。 救い難い堅物で――、文ナシだと」 怒ったリーは、得意の功夫技で、マーロウの事務所を破壊してまわる。 デスクを破壊される寸前、ちゃっかりと酒瓶とグラスをとりあげるのがユーモラスだった。 その直後に訪ねてきた警部に、酒瓶とグラスを手にしたまま、 「白アリさ」 と、云う。 ちなみにブルース・リーは、この後にも出てくる。暗黒街の大物を尾行して彼女とレストランに来たマーロウを呼び出し、屋上に連れ出して、痛めつけようとするのである。 リーの功夫技をおちょくり(「なかなかの芸だが、犬には負けるな」、「今度はチンチンだ」)、激怒させて、リーの渾身の蹴りを見事かわす。 勢い余ったリーは、そのまま屋上から落下してしまう。 席に戻る途中、マーロウはその死に様を、手の動きだけで大物に伝える。 なんともトボけた、ユーモラスな場面である。 さて、この映画、セクシーな美女が、ビキニ姿で、海パンいっちょの男とイチャついているところを、ある男がカメラで盗撮している場面から始まる。 ネタを割ることになるが、セクシーなビキニ美女は、ハリウッドの新進女優で、海パンいっちょの男は、暗黒街の大物である。 ふたりがイチャついているところを盗撮していた男は、それをネタに、この女優をゆすろうとする。 マーロウはカンザス州の田舎から出てきた、いかにも垢抜けしない、山出しそのもののような少女に頼まれて、割に合わない仕事を引き受ける。 その少女の頼みは、故郷を捨てて、家族をも捨てて、都会に出て行った兄の行方を捜してくれ、と、云うものだった。 兄の名はクエスト、オリン・クエスト。彼女の名は、オファメイ・クエストである。 マーロウは1日40ドルと必要経費をもらうと云う。オファメイは20ドルしか出せない、と、云う。仕事にあぶれていたマーロウは、彼女にほだされて、依頼を引き受ける。 そのシーンは映画にはなかったはずだ。 「清潔そうな感じの小柄な娘で、鳶色の髪、褐色の服、それに、縁なし眼鏡をかけ、当世流行の不格好な四角いハンドバッグを肩からつるしていた。口紅もつけていないし、首飾りや指輪のような装身具もつけていないうえに、縁なし眼鏡が図書館の女事務員のような印象を与えた。」 依頼人、オファメイ・クエストの描写である。 「ベルを押すと、黒ズボン姿の女が出て来た。色っぽいという形容はまだ不充分だった。白い絹のシャツに、真紅のスカーフを首にまき、唇もスカーフに負けないほど赤かった。長い褐色の煙草を金のシガレット・ホルダーにさして、宝石をちりばめた手に持っていた。黒い髪は頭の中心で左右にわけられ、真紅のリボンが結んであった。だが、少女時代はとっくの昔にすぎていた。」 マーロウは新進女優の住居を訪ねる。そこで出会ったのが、ドロレス・ゴンザレスである。マーロウが訪ねた新進女優――メイヴィス・ウェルドの友人で、映画ではリタ・モレノ――『ウエストサイド物語』のアニタ役で有名になった――が演じた。 「いままで浴室にいた女が顔の下半分をタオルでおさえて、立っていた。タオルの上は黒眼鏡だった。その上に、縁のひろい青い麦わら帽子をかぶっていた。帽子の下からは、薄い金髪の髪がのぞいていた。黒眼鏡は、縁が白く、はばの広い弦がついたサン・グラスだった。ドレスの上に、刺繍のある絹かレーヨンのコートを着て、長手袋をはめ、右手にピストルを握っていた。」 これはマーロウが訪ねた先で、初めてメイヴィスに出会ったときの描写である。 この後、マーロウは彼女に殴り倒され、アイス・ピックで殺された死体を発見する。 彼女の身元を探り出して、その住居にやって来るのが、先述した場面なのだが、そのとき彼女は入浴中で、ドロレスが応対に出る。 「メイヴィス・ウェルドが浴室から出てきて、立っていた。髪を長くたらして、化粧もしていなかった。部屋着のあいだから白い肉体をのぞかせて、小さな緑と銀のスリッパ−をはいていた。その眼は空ろに光っていた。しかし、たとえ、黒眼鏡をかけていなくても、たしかに同じ女だった。」 さて、いよいよ、ネタを割ることになるが――、 この新進女優、メイヴィス・ウェルドは、映画の冒頭で彼女と暗黒街の大物がイチャついているところを盗撮して、彼女をゆすろうとしていた男の妹で、この男が、オファメイ・クエストが捜していた、兄のオリン・クエストである。 メイヴィス・ウェルドは、千年一日の、なんの変化もない、澱んだような田舎町を捨てて都会に出、新進女優として売り出すまでになった。 そうなるまでには、暗黒街の大物に見初められ、その情婦、愛人となり、身を売るような経験もしなければならなかった。 彼女の兄:オリン・クエストと、妹:オファメイ・クエストは、そんな姉妹が、自分だけが“ドルと栄光”を欲しいままにしているのが気に入らず、自分たちにもその分け前を寄こさせようと、メイヴィス:自分の姉妹をゆすろうとする。 最初は巧く行っていたのが、突然オリンからの送金がなくなり、不審に思ったオファメイがマーロウの事務所を訪ねて行くのが、この物語の、発端である。 マーロウの捜査により、事の次第が判明していく。 クライマックス、メイヴィス・ウェルドとオファメイ・クエストの姉妹が、メイヴィスの情夫である暗黒街の大物が射殺された場所で、顔を合わせる。 「姉さんは私たちを捨てて、出て行った」 「私はできるだけのことはしたわ。仕送りもしたし、手紙も書いた。あなたたちのことを忘れたことはなかった」 この姉妹に、メイヴィスの友人、ドロレスが絡む。 ドロレスは、色気があって、セクシーで、魅力があるのだが、いつもメイヴィスの陰に隠れている。ドロレス自身も、そんな自分をあきらめている。 「私が黒を着てるのは、私が美しくて、よくない女で――希望がないからよ」 そんな彼女も、 「女には、いくら恋人があったとしても、どうしてもほかの女にゆずれない恋人があるのよ」 と、云う。 そのために彼女は、自分の愛する男を殺した。他の女に奪られないように……。 この作品で、マーロウは他の作品には見られないほどの孤独感、疎外感に責め苛まれる。 「だれか私を、人間の星に連れ戻してくれ」 そんなモノローグを吐くほどに、彼は追いつめられる。 偽善と虚飾と華やかさに満ちたハリウッド、裏切りと利己主義と愛憎に爛れたハリウッド、そんななかで生きて行く、生きて行かねばならない人間たち、生きて行こうとする人間たち……。それは、ハリウッドのみならず、当時のアメリカ社会そのものだったのではないだろうか。 そんな中で、マーロウが見た“かわいい女”とは、いったい、だれだったのだろうか? |