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元始、文学者は……
平塚らいてう風に云うと、
――元始、文学者は歌手であった。
それは洋の東西を問わない。『イーリアス』や『オデュッセイア』は云うに及ばず、『ギルガメッシュ叙事詩』も、『マハーバーラタ』も『ラーマーヤナ』も、『シャルルマーニュ伝説』も、『古事記』や『日本書紀』も、そのもともとは、だれかがだれかにその内容を語ることによって――おそらくは節(現在で云うところの“曲”)をつけて――、拡まっていったのだと思われる。

われわれに身近なのは、『平家物語』であろう。琵琶法師(日本の吟遊詩人)の爪弾く琵琶の音曲に乗せて、平家の栄枯盛衰が語られる。
これこそ、元始の、文学と音楽とのありかたである。

歴史のなかで、あらゆる製作物の製作過程が細分され分業されていったように、“物語”もその担う役割が細分され、分業されていった。
まず、語られる内容と、それに付随していた節(曲)が分離した。
前者の役割を担ったのが、詩人、小説家、俳人、歌人となり、後者の役割を担ったのが、音楽家と呼ばれた。
そして、語られる内容の創造と、その表現が分離した。
前者は劇作家、作曲家、作詞家、等々と呼ばれ、後者は俳優、奏者、歌手、等々と呼ばれた。
しかし共通しているのは、そこにあるのが“物語”である、と、云うことである。
“物語”とは、読んで字の如く、“物”を“語る”のである。
ここで云う“物”とは、波乱万丈の、あるいは紅涙袖を絞る、もしくは夏なお寒きをおぼえさせる、いわゆる“ストーリー”である。あるいは“これはこうである”と云う、主張である。
“語る”と云っても、ただのんべんだらりと喋るのではない。
節をつけ、抑揚を工夫する。それは文字になっても同じで、それが“文体”と呼ばれる。現に我々は、小説家の文体を評して、“○○節”などと云う。
司馬遼太郎氏の文体を「司馬節」と云い、松本清張氏の書き方を「清張節」などと云う。
あるいは、“○○調”などとも云う。
海外の文学などでは「ヴィクトリア調」であるとか、「ハードボイルド調」などと云う。“節”も“調”も、音楽の用語である。
元始、文学と音楽とは、一致していた。
その現代の形態、現代の吟遊詩人とも云うべき存在が、シンガーソングライターである。

2016年のノーベル文学賞は、ボブ・ディラン氏に贈られた。
おそらく全世界の人々は、意外の念をもってこの報せを受けたことだろうが、如上のことどもを思い合わせてみるならば、今回の授賞は、まことに当を得たもの、“文学”と云うものの原点に回帰した選考である、と、云えないだろうか。
| 築山散作 | 気まぐれなコラム | 20:22 | - | - |


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