ろ〜りぃ&樹里とゆかいな仲間たち

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関ヶ原の戦いの日のひとりめし(朝)
トースト(6枚切り×1枚)、半熟卵(2個)、チェダー・チーズ、プレーン・ヨーグルト、野菜ジュース、バナナ


1600年の今日(慶長5年9月15日)、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ヶ原町)を主戦場として、関ヶ原の戦いが行われた。この戦いは石田三成を事実上の将とする西軍と、徳川家康率いる東軍が激突し、天下分け目の戦い、と、称された。
西軍は事実上、豊臣軍なのだが、豊臣家の当主秀頼は大坂城から一歩も出ず、一説によると、鎧兜に身を固め、馬上凛々しく出馬せんとしたものの、門のところで引き返し、城中に籠ってしまった、とのことである。西軍の名目上の将は、毛利家の世継である輝元がつとめた。
この合戦で敗北を喫したため、それまで中国10ヶ国の太守であった毛利家は、防長二州に押し込められ、その恨みは遠く幕末の長州戦争から戊辰の役まで続くのである。
天下分け目の合戦、と、呼ばれたにもかかわらず、勝敗は呆気なく1日で帰趨が定まり、西軍方の石田三成、小西行長、安国寺恵瓊は斬首された。
勝敗は呆気なく1日で帰趨が定まり、と、記したが、そのわりには興味ぶかい逸話が多い。いずれMacがものするだろう。いつのことになるかは分からないが……。
そんなわけで、ここにはひとつだけ、興味ぶかい逸話を記しておこう。
明治維新政府は、軍備充実のために、プロシア・ドイツからモルトケの愛弟子と呼ばれたメッケルを招聘したが、このメッケルが或る日、関ケ原合戦の布陣を一瞥して曰く、
――西軍の勝利!
と、喝破(?)したことは有名である。
念のため云っておくが、メッケルはプロシア・ドイツ政府が手放すのを惜しがったほど、優秀な参謀だった。
| ろ〜りぃ | ろ〜りぃの食卓 | 17:36 | - | - |


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