ろ〜りぃ&樹里とゆかいな仲間たち

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 注)タイトルに「*」のついた記事は「ネタバレ記事」です。ご注意ください。
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『荒野の七人』論 はじめに
 『荒野の七人』(「THE MAGNIFICENT SEVEN」)は、一九六〇(昭和三十五)年に制作され、翌一九六一(昭和三十六)年に日本公開された、アメリカ合衆国の西部劇です※。
 この作品は、黒澤明監督の『七人の侍』を西部劇に翻案した作品として、また、当時まだ無名だった、スティーヴ・マックイーン、チャールズ・ブロンソン、ジェームズ・コバーン、ロバート・ヴォーンなど、この後、一九六〇〜七〇年代に活躍することになったスターたちが、その実力を認められるキッカケとなった作品として、有名です。
 エルマー・バーンスタインのテーマ曲も、いまなお多くの人に愛されています。映画音楽の名曲を集めたCDやコンサートなどで、一度は聴いたことがおありのかたもいらっしゃるでしょう。
 それらが『荒野の七人』の魅力の一端をなしている要因であることは否定しませんが、それはあくまで、外的な要因にすぎません。
 『荒野の七人』は、それ自体で観る人を魅了する、独自の内容を有しています。
 その内容を明らかにするのが、本稿の目的です。
 本稿は、従来のいわゆる評論や批評の類とは、大きくその趣を異にしています。
 映画の生命とも云える、監督の演出、俳優の演技、キャメラの動きや構図、編集技術や音楽の効果などには、ほとんど触れていません。
 ある人には、単なるストーリーの紹介にしか思われないかも知れません。またある人には、観たままのことを並べ立てているだけの、退屈な文章だと思われるかも知れません。あるいは、瑣末なことを勿体ぶってひねくりまわしているだけの、無意味な詮議立てにすぎないと思われるかたもいらっしゃるでしょう。
 ですが、作品の内容を問題にする場合には、一見瑣末に思われる細かな事実の、それこそ重箱の隅をつつくような詮索が、どうしても必要です。
 その作品を理解するために、このような一見迂遠とも冗漫とも思われる方法を必要とし、その方法に耐えてその価値を明らかにしうる作品だけが、真に「名作」の名に値するものと考えます。
 本稿が『荒野の七人』に興味を抱かれるキッカケとならんことを、また、その魅力、その素晴らしさを再認識される一助とならんことを、切に祈るしだいです。

 ※[スタッフ]
  製作…ルー・モーハイム
     ジョン・スタージェス(John Sturges)
  監督…ジョン・スタージェス(John Sturges)
  脚本…ウィリアム・ロバーツ(William Roberts)
  音楽…エルマー・バーンスタイン(Elmer Bernstein)
[キャスト]
  ユル・ブリンナー(Yul Brynner)
  スティーヴ・マックイーン(Steve McQueen)
  チャールズ・ブロンソン(Charles Bronson)
  ジェームズ・コバーン(James Coburn)
  ホルスト・ブーフホルツ(Horst Buchholz)
  ロバート・ヴォーン(Robert Vaughn)
  ブラッド・デクスター(Brad Dexter)
  イーライ・ウォラック(Eli Wallach)
| Woody(うっでぃ) | 『荒野の七人』論 | 10:40 | - | - |
『荒野の七人』論〜1.メキシコの寒村
 作品の主な舞台となるのは、アメリカ合衆国との国境付近に位置する、メキシコの一寒村です。
 その村に、カルヴェラ率いる山賊の一団がやってきます。彼らは拳銃やライフルなどで武装し、好きなときにこの村にやってきては、食糧や衣類など、自分たちの生活に必要な物資を略奪していきます。
 村の地理的な位置と未熟な生産力が、長いあいだこの村を、山賊たちの略奪からまぬがれさせてきました。山賊たちにとって、遠路わざわざ略奪に来る労力に見合うだけの物資を生産し蓄積している村ではなかったのです。
 いまでも村の状態は変わりません。村の外の状態が変わったのです。
 カルヴェラたち山賊が、傍若無人に町や集落を襲って、金でもなんでも盗り放題にできたのは、昔のことになってしまいました。
 いまでは首に賞金を懸けられて、漁りまわらなければならなくなりました。
 アメリカ合衆国の西部地域は、とくに南北戦争の終結によって、飛躍的な発展を遂げました。交通手段が整備拡充され、交易が盛んになりました。物資の流通がはげしくなり、商人として、あるいは賃金労働者として、多くの人が行き来するようになりました。金銀、家畜、金銭などの富が、多く集積する町も生れるようになりました。
 金銀、家畜、金銭などの富は、カルヴェラたちのような山賊にとって、魅力的な略奪対象であり、大いにその欲を刺激します。多くの富を集積する町は、彼らの、恰好の襲撃対象となります。
 そのような町は、頻繁に略奪者たちの襲撃を被り、それ相応の損害を受けますが、反面、しだいに自衛の組織も整えられ、強固になっていきます。
 蓄積された富は、カルヴェラたちのような略奪者たちを引き寄せる一方で、より性能のよい銃を購入し、より銃の扱いに巧みな人物を、より多く雇い、町の防備をより強固にすることを可能にします。
 町は、個々に防備を強固にするばかりでなく、利害を共有する他の町々とも連繋して、互いの利益を守るようになります。さらには、自分たちの利益を侵害する者の首に賞金を懸けて、未然にその害を防ごうとします。
 町を襲うことは、それによって得られるであろう富の大きさにもかかわらず、割に合わない、危険な行為となりました。
 その変化が、カルヴェラをして、「世の中は変わった」、「世知辛い世の中だ」と、実感させます。
 そのような状況のもとで、辺境に位置する生産力の未熟な村が、危険にさらされずにそこそこの物資を獲得できる、恰好の略奪対象となってきます。
 カルヴェラたちは危険をおかすことなく、必要な物資を、必要なだけ略奪して、それを消費した頃にまたやって来て、また必要なだけ略奪していけばいいのです。
 すべての物資を略奪する必要はありません。村の物資をすべて略奪してしまえば、それらの物資を消費し尽くしたとき、新たに略奪の対象となる村を捜さねばなりません。それよりも村人たちが生きていくために必要な分(おそらくは必要最小限でしょうけど)は残しておき、自分たちがまた略奪できるだけの物資を生産できるように、彼らを生きながらえさせておく方が効率的です。
 得られる物資は、村の未熟な生産力からして、カルヴェラたちの欲望を充分に満足させるほどのものではありません。それらの物資が、危険や困難をともなわずに得られ、自分たちが生きていくために充分であれば、それで満足するように、カルヴェラたちの欲望自体も変わってきています。
 「この村が」カルヴェラたちに襲われるようになったのは「偶然」です。カルヴェラたちにとっては、できるだけ危険が少なく、できるだけ多くの物資を略奪できるところなら、どこでもよかったのです。
 しかし、この村がカルヴェラたちに「襲われるようになった」のは、合衆国西部地域の発展にともなう「必然」です。
 合衆国西部地域の発展が、カルヴェラの首に賞金を懸け、かつては金でも何でも盗り放題だった西部の町から、発展の遅れた辺境の寒村へと追いやり、危険を冒して莫大な富を得ようとするよりも、危険さえなければそこそこの物資で満足するように、その欲望を変化させるのです。
 カルヴェラたちにとって、危険も困難もなく、必要な物資を得られるこの村は、実に「いい村」であり、抵抗する力をもたない村の人たちは、「神さま」です。
 カルヴェラたちが村を去ろうとするとき、激怒した一人の村人が、鎌を手に単身カルヴェラに立ち向かっていき、射ち殺されてしまいます。
 カルヴェラは、村人が自分に立ち向かってきたことに憤ります。
 カルヴェラは、自分が村を強力に支配していると認めています。カルヴェラにとって、村人が自分に立ち向かってくることは、村に対する自分の支配力が軽んじられているように思われます。カルヴェラには許せないことです。
「今度来るときは覚悟してろよ」
 カルヴェラは捨て台詞を吐いて、村を後にします。
「今度また荒らされたら、自分で頸を掻き切って死んだ方がマシだ」
 村人たちは追い詰められ、危機感を募らせますが、有効と思われる手だては思い浮かびません。
 村を捨てて他所の土地へ移住しようとしても、家や田畑を持っていくわけにはいきません。見知らぬ土地で、またはじめから、大地を切り拓き、耕して、農耕に適するまでにしなければなりません。現在の生活状態に達するまでには、並大抵ではない苦しい労働を必要とするであろうことは容易に感じられます。その困難を堪え忍び、乗り越え、なんとか現在までの生活状態に達し得ても、そのときにまた、カルヴェラたちのような山賊の略奪の対象とならないとも限りません。むしろ、また略奪の対象となる確率のほうが高いのです。そのことを村人たちは、苦しい生活の中で、実感として捉えています。厳しい日々の生活が、そのことを実感として捉える感性を、村人たちに形成させています。
 物資を全部隠してしまうことも、残してくれる分量を多くするよう頼んでみようとすることも、切羽つまったあまりの、苦し紛れの思いつきにすぎません。なんらの効果もないことは、すぐに感じ取られます。カルヴェラたちに逆らったら、あるいはその気分や感情を害しただけでも、その結果がどうなるかは、たったいま実例として、目の当たりにしたところです。
「なにもしないほうがいい」
 ソテロが云います。
 なにもせず、堪え忍んでさえいれば、なんとか現状は維持されます。少なくとも、生きていくことはできるのです。
 生きていくことはできるでしょうが、それは、朝から晩まで働いても、食うものもろくに食えず、カルヴェラたちが必要とする物資を生産するためにだけ、カルヴェラたちのためだけに生きているような、生かされているとさえ、云えるような状態です。その状態すら、いつなんどき、どんな瑣細なキッカケで崩壊するか分かりません。生活のすべて、生命すらが、カルヴェラたちの恣意によって左右されるのです。
「なにもしないほうがいい」
「なんとかせにゃあだめだ」
 どちらの思いも、安心して生活のできる平和な村でありたいと云う、共通の思いに基づいています。この思いは、生存に関わる、切実で強力な欲求です。安心して生活のできる平和な村の在り方を、現状以上のより良きものとして求めるのか、現在より酷くならないよう維持しようと考えるかで、その意見が分かれます。
 多くの村人たちが、「なんとかせにゃあだめだ」とは思いますが、「じゃあ、どうする」と問われると、いい思案がありません。
 村人たちは長老に相談します。
「戦え。立ち上がるんじゃい。戦え」
 みんなで金になる物を出し合い、銃を買い、みんなでその使い方を習う。みんなでカルヴェラたちと戦う。戦う意志のある者だけが戦うのではなく、みんなが、村人全員が、一致団結し、協力し合い、一丸となって、カルヴェラたちと戦う。
 それが長老の意見です。
 村人たちは農耕を主な生業としています。村人たちは集住し、共同で大地を耕作することによって得られた生産物を、あるいは自分たちで消費し、あるいは他の必要な生活物資と交換することによって、生活を維持しています。村は、村人たちの生活の基盤です。
 村を守ることは自分たちの生活基盤を守ることであり、自分たちの生活を守ることです。長老は、大自然を相手にした日々の労働も、カルヴェラたち山賊を相手に村を守ることも、ひとしく「戦い」と捉えています。むろん、大自然相手の戦いと、銃を手にした山賊相手の戦いとでは、全然違います。
 長老にとっては、どちらの戦いも、自分たちの生活基盤である村を守り、自分たちの生活を維持するために、せざるを得ない戦いです。
 自分たちの生活基盤である村を守り、自分たちの生活を守って維持していくための戦いであるからこそ、村人たち全員、みんなで戦わなければなりません。
 それが長老の意見です。
| Woody(うっでぃ) | 『荒野の七人』論 | 10:35 | - | - |
『荒野の七人』論〜2.国境の町
 長老の意見にしたがって、三人の村人たちが国境の町にやって来ます。
 彼らはそこで、インディアンの埋葬をめぐるトラブルに遭遇します。

※ 現在では「ネイティヴ・アメリカン」と云う呼び方が一般的なようですが、本論では映画のなかでの呼び方にしたがって、「インディアン」と表記します。

 死んだインディアンが、インディアンであると云うだけの理由で、町の墓地への埋葬を拒否されているのです。
 北米大陸における、アングロ・サクソンを主とした白人の入植者や開拓者たちと、先住民族であるネイティヴ・アメリカン、いわゆる「インディアン」との戦いは有名です。
 アングロ・サクソンを主とした開拓者は、武力や策略をもってインディアンの土地を奪い、自分たちの所有とすることを繰り返しながら、その勢力を伸ばしていきました。
 その過程で、幾多の激しい戦いが生じました。
 インディアンは、自分たちの土地と部族共同体に根ざした生活を、開拓者の理不尽な強奪から守るために抵抗しました。あるいは、奪われた土地と生活を奪い返すために、開拓者の村落や町を襲撃することもありました。無理無法に先祖伝来の土地を強奪され、生活を破壊され、その生命すら脅かされるのです。必死に抵抗し、奪われた土地と生活を奪い返そうと懸命になりました。
 開拓者にとってインディアンは、未開の地に住む野蛮人でした。自分たちとは、文化も、生産力も、生活様式もまるで違うインディアンを、開拓者は、自分たちと同じ人間とは見做していませんでした。彼らはインディアンをその土地から駆逐して、自分たちの共同体を築き、自分たちの産業を興し、自分たちの支配を確立することが、天命であると信じていました。インディアンの抵抗は、その天命に反する行為であり、その達成を阻む障害でした。インディアンの抵抗を排除し、これを制圧することは、開拓者にとってみれば、当然の行為でした。
 両者の衝突が度重なり、その激しさが増すにつれ、互いに対する憎悪の感情が生じ、蓄積され、増幅していきます。
 「敵対者」としての相手に対して蓄積され、増幅された憎悪の感情は、それが蓄積され、増幅されるにつれて、相手を「民族全体」と捉えてのそれに変化していきます。
 両者の衝突が開拓者の圧倒的な勝利に終り、インディアンがその土地から駆逐され、狭い指定保留地にその生活の場を制限されたり、開拓者の社会に同化させられたりするようになっても、長年にわたって蓄積され、増幅された感情は、容易には解消しません。
 開拓者の町ができると、たとえそこに埋められているのが、人殺しや盗人や無頼漢の類ではあっても、白人が埋められているのと同じ墓に、インディアンが埋められることは拒否されます。
 しかし、産業の発展につれて交通手段が整備拡充され、物資の流通とともに人々の往来も盛んになると、それらを基盤とした新しい生活様式が生まれ、広がっていくようになります。旧来の商工業や流通の在り方、それに基づく生活様式や価値観、既成の秩序や伝統、習慣などは、産業の発展につれて新たに形成される生活様式や価値観などによって破壊され、駆逐されていきます。その力は、生活の全般にわたって強力な作用を及ぼし、諸々の変化を生じさせます。
 西部開拓時代は遠い過去のでき事となり、開拓やインディアンとの戦いに功あった人々は、英雄として、その事績とともに神話化されていきます。開拓時代のでき事や人物は、実際のでき事や人物と云うよりも、空想上の、物語の世界のでき事や人物のように印象されるようになり、インディアンに対する憎しみや侮蔑の感情も和らいでいきます。
 町の葬儀屋も、いつかは死んでお客になると思えば、インディアンだ、白人だ、と云っていられなくなります。
 旅回りの行商人ならなおさらです。死んで墓に入るのにさえ、インディアンの白人のと云っている感覚は理解できません。大陸の各地を訪れ、あちこちで、その形態は違いながらも、同じように生じつつある新たな変化を実体験として見聞することを繰り返すうちに、その新たな変化に相応した感情が生じます。死者を葬ってやるのは人間としてのつとめと信じ、道の真ん中に放り出されたままでだれも引き取る者がいないのならば、自腹で葬ってやろうとします。
 一方で、産業の発展は、それにともなって生じる諸々の変化に順応できない人たちの利益を容赦なく侵害し、破壊していきます。それは多くの場合、ジワジワと浸透していく形で、拡がっていきます。自分たちの利益を侵害され、破壊されつつある人たちも、自分たちの利益が侵害され、破壊されつつあることを、明確に意識しているわけではありません。それは隠微な形で、彼らに影響を及ぼします。それに対して彼らは、漠然とした不安や苛立ち、反感などの感情を抱きます。それらの感情は、明確には意識されないにせよ、自分たちの利益を侵害し、破壊する力に対して、自分たちの利益を保持しようとして生じる感情です。それが、旧来の秩序や伝統、習慣などを固守しようとする、保守的な感情となって表れます。
 産業の発展にともなって生じる新たな変化が、生活上の諸々の場面、とりわけ人々の意識に、よりはっきりとした形で現れてくるにしたがって、保守的な人々の反発も、より深刻に、より頑固になっていきます。
 そのような人たちは、町ができたときからの慣習をかたくなに守り、たとえ埋められているのが人殺しや盗人や無頼漢の類ではあっても、白人が埋められているのと同じ墓にインディアンを埋葬することを拒否します。そのためには、銃をとり、武力に訴えることも辞しません。
 町の人たちは、そのことを、日々の生活の中で、感じ取っています。保守的な人たちに同調するつもりもなく、心情としては彼らに反発を感じていたとしても、文字どおり生命を賭けてまで、対抗しようとはしません。そうするだけの利害関心は、まだ生じていません。
 そのような町では、インディアンがいきなり死体になって転がり出てきて、道の真ん中で埃をかぶったまま二時間近くも放ったらかしにされているのに、見て見ぬふりで知らん顔をされるのも、そのインディアンの死体を運ぶべき霊柩車の馭者が逃げ出してしまうのも、充分に理解できることです。
 葬儀屋は、インディアンであることを理由に墓場への埋葬を拒否されると、仕方がないと諦めて、葬式を取り止めます。行商人にその理由を問いただされても、云いづらそうに口ごもって、なかなかその理由を云おうとはしません。馭者が逃げる気持ちも理解できますし、探すまでもなく、代わりの馭者が見つかるはずはないと確信しています。
 行商人には、町の人たちが感じるような深刻な感覚は理解できません。馭者が逃げたと聞くとそれを臆病として嘲笑し、探せば代わりの馭者が見つかると思います。
 行商人と葬儀屋のやりとりを、クリスの声が中断します。
 クリスが馭者の代わりを申し出、ヴィンが護衛を引き受けます。
 ふたりとも、流浪のガンマンです。
 クリスはダッジ・シティから、ヴィンはトゥームストーンから、この国境の町にやって来ました。
 ダッジ・シティは、その秩序の乱れた無法ぶりから「悪徳の町」と云われ、ワイアット・アープやバット・マスターソンらの保安官が名をあげたことで有名な町です。トゥームストーンは、ワイアット・アープ兄弟とクラントン一家との争い、いわゆる「OK牧場の決闘」が行なわれたところとして、これまた有名な町です。
 それら二つの町が、二つながら、のんびりした平和な町になり、ガンマンがボロ儲けのできる町ではなくなったことが、二人の会話から分かります。
 産業の発展とともに、交通手段が整備拡充され、流通が促進されるにつれて、西部の町にも多くの富が集積されるようになり、西部の町自身、しだいに治安の維持や防衛のための力を整備拡充していくようになります。西部の町が、町としての組織を整備し拡充して、治安の維持や防衛のための力をつけるにつれて、カルヴェラたちのような山賊はメキシコの寒村への略奪へと追いやられ、クリスやヴィンのような流浪のガンマンは、ボロ儲けのできる機会が得られなくなっていきます。
 争い事が少なくなり、また争い事を事務的に処理する組織が整備されるにつれて、職と生活を保障される一握りのガンマンが生ずるとともに、そこからあぶれた多くのガンマンは流浪を余儀なくされ、流浪の生活が定着するようになります。
 ダッジ・シティやトゥームストーンのような町ですら、のんびりした平和な町になった西部地域に、もはや流浪のガンマンがありつける仕事はありません。むしろ、発展が遅れ、治安の悪い国境付近の町のほうが、仕事にありつける機会が、まだ残っています。
 クリスやヴィンがこの国境の町にやって来たのにも、カルヴェラたち山賊がメキシコの寒村を襲うようになったのと同じ「必然」があります。
 クリスやヴィンが「この」国境の町にやって来たのは「偶然」ですが、この「国境の町」にやって来たのは「必然」です。
 クリスとヴィンが、それぞれ、霊柩車の馭者と護衛を引き受けようと申し出たとき、葬儀屋は、霊柩車がインディアンの埋葬に反対する町の人たちによって壊されるのを懸念しますが、野次馬のなかから、壊されたら弁償しようと云う人たちが次々と現れます。
 野次馬たちのほとんどは、旅暮らしのカウボーイと思われる人たちです。彼らも行商人と同じく、旅から旅への暮らしのなかで、行商人と共通する感性を形成しています。撃ち合いになりかねない危険を冒してまでも、インディアンの埋葬に手を貸そうとはしませんが、インディアンであることを理由に墓場への埋葬を拒否することには反撥を感じます。インディアンを町の墓場に埋葬しようとする二人の男の行為に対して、自分たちもなんらかの形で参加したいという衝動が生じ、その衝動が、霊柩車が壊されたら弁償すると云う行動で現れます。インディアンであることを理由に、その死体を町の墓場に埋葬することに反対する人々に対して、嫌悪や反撥を抱く感性の人々が、発展の遅れたこの国境の町にすら、多くやって来るようになっています。
 インディアンを納めた棺が無事墓場に入ると、野次馬の中の一人の若者が帽子を岩に叩きつけて快哉を叫び、クリスとヴィンに馭者を任せることを心配していた葬儀屋も喜んで、
「俺のおごりだ。みんな、飲んでくれ!」
 と、金を握っていた手を突き上げます。

※ 葬儀屋が握っていた金(もし馬車が毀されたら弁償すると云って、みなが出し合った金)を、近くの男が無愛想にひったくるところが、一種のユーモアになっています。思いもしない成功に、みなが感激しているときでも、金の事に冷静な、およそ西部の男のイメージとは相反する行動が、笑いを誘います。

 みんなの心がひとつになります。みんなが、インディアンが無事に町の墓場に埋葬されたことを、顰蹙しながらも打破することができなかった慣習が打ち破られたことを、心から喜んでいるのです。
 エルマー・バーンスタインの雄壮な音楽が鳴り渡り、雄大な西部の景色を背景にして、馬車は町へと疾駆していきます。いかにも西部劇らしい、爽快な一場面です。
 クリスとヴィンの活躍によって、インディアンの棺は、無事墓地に納められました。
 町へ戻ったクリスに、行商人が歓喜の面持ちで近づいてきます。彼はポケット壜を差し出し、一杯飲んでくれと勧めます。クリスは礼を云って一口飲み、壜を行商人に返します。行商人は感激して、しきりに話しかけます。
「久しぶりで興奮したね。こいつは孫の代まで語り継がにゃ。まずフローラに話してやるんだ。まあ、本気にゃすまいがね」
 クリスは黙って聞いています。ヴィンもその様子を、面白そうに眺めています。二人とも、自分たちはそんなに大したことをしたわけではないと思っています。
 行商人の喜びも、クリスにとっては大仰なだけです。
 ヴィンは、ライフルを返すときに、「いいものを見せてもらった」と云う男に対して、「大したことじゃない」と、苦笑します。
 発展の遅れた国境の町ですら、このような撃ち合いは滅多に見られず、話だけでは信じられないものになっています。
 行商人が馬車に乗って姿を消した後、クリスとヴィンはしばらくその場に残ります。
 稼ぐあてはあるのかと訊ねるクリスに、ヴィンは、雑貨屋の店員か酒場の用心棒ならなんとかなるだろうと答えます。
 若いヴィンには、拳銃の腕前で生活の糧を得ることに対するこだわりはありません。かつてはガンマンの稼ぎ場だったダッジ・シティやトゥームストーンのような町ですら、のんびりした町になり、国境の町ですら、撃ち合いは珍しいものとなっています。ガンマンが銃の伎倆で生活していける時代ではなくなりつつあります。インディアンを墓場へ運ぶ途中で見せたような、建物の二階から狙撃してきた者を瞬時に返り討ちにするだけの腕前を持ちながら、雑貨屋の店員や酒場の用心棒におさまるぐらいしか、ガンマンが生活の糧を得る手段はなくなってきています。ヴィンはその事実を、素直に受け入れています。

 宿に戻ったクリスを、三人の村人たちが訪ねてきます。
 彼らはクリスを信頼できる人と見込み、自分たちに代わって、銃を買ってもらおうと頼みに来ました。幾世代にもわたって、その生涯の大部分を農作業や家畜の世話に費やし、銃を必要とする機会のない生活を繰り返してきた村人たちには、銃は無縁のものでした。彼らが銃を必要としたのは、度重なるカルヴェラの略奪に耐えかねて、これと戦うことを決意したためです。それまで銃と無縁に暮らしてきた村人たちには、銃の買い方が分かりません。そこで、だれか信頼できる人に頼んで、銃を買ってもらおうというのが、村人たちの考えです。
 クリスは最初、村を守るための仕事を依頼されたのかと思い、そう云うことなら保安官に申し出るように云います。町や村などの治安維持や防衛のためには、保安官と云う職業が確立されています。雇われて町や村を守るガンマンたちの出番はなくなっています。
 村人たちも保安官には相談しました。しかし保安官にしてみれば、いつ来るか分らない山賊を待って、村に駐留し続けるわけには行きません。カルヴェラたちは、保安官がいなくなるのを待ってから村を襲えばいいだけの話で、何の解決にもなりません。
 保安官に頼んでも無駄だということが、クリスにも分かりました。
 クリスは村人たちの話を聞き、銃を買うよりガンマンを雇ったほうが安くすむとアドバイスします。
 国境の町には、仕事にあぶれたガンマンたちが集まってきています。そこでも多くのガンマンたちは仕事にありつけず、なんとか仕事にありつく機会をうかがっています。
 ガンマンたちの雇用賃金の多寡も、他の仕事と同じく、根本的にはその伎倆の巧拙にではなく、労働力商品の市場における需要供給のバランスによって決定されます。いまやガンマンの労働力は、供給過剰に陥っています。
 村人たちはクリスを誘いますが、クリスは「人のために尽くすようなガラじゃない」と、断ります。
 クリスも、インディアンが、インディアンであると云うだけで、墓場への埋葬を拒否されることに対して、「浮かばれんな」と、批難の意を表します。
 しかし、クリスにとっては、葬儀屋と行商人の言い争い自体が、大袈裟でバカバカしいものです。反対する人々を押し切って、インディアンを墓地に埋葬することなど、クリスにとっては、「大したこと」ではありません。
 行商人の喜びや称賛も大袈裟に思われるだけで、まともに取り合う気にもなりません。村人たちに、「あんたは信頼できる人だ」と云われても、なんのことか分からず、とまどうだけです。
 村人も、無償で引き受けてもらおうと思っているわけではありません。できるだけの礼はすると申し出ます。
 毎日食べさせるし、村にあるものを全部出し合った、これでなんでも買える、と、村人は云いますが、その額は微々たるものです。
 クリスはその額にではなく、村人たちが、「あるものを全部出し合った」ことに心を動かされます。
「全部出されたのははじめてだ。この商売で、な」
 ガンマンの需要が減少し、仕事を求めて発展の遅れた国境付近の町に流れてきても、そこにもガンマンを必要とするような仕事はほとんどありません。
 もはやその存在を必要とされなくなりつつあることを、クリスは厳しい体験によって感じつつあります。
 クリスがその存在を必要とされ、大金を稼いでいたときでさえも、「あるもの全部」を出されたことはありません。それがいま、その存在が必要とされなくなりつつあるときに、「あるものを全部出し合っ」てまで、その存在を必要とする人々が現れました。
 自分が必要とされなくなりつつあることを感じつつあるクリスは、報酬の額よりも、「あるものを全部出し合った」ことに心を動かされるように、その感性が変化しています。
 村人たちは、「山賊さえいなくなれば、自分たちの村はとてもいい村になる」と信じています。「いまのままでは、自分たちは我慢できても、子どもたちがかわいそうだ」と、その思いを訴えます。
 村を本来あるべき「いい村」にし、子どもたちが幸せに暮らせる村にしたいという切実な思いが、村人たちの言葉に表れています。村人たちは、村を本来あるべき「いい村」にし、子どもたちが幸せに暮らせる村にする責任を──たとえ明確にではないにせよ──感じています。
 クリスは村人たちの切実な思いを知って彼らの力になろうとしますが、その前に、戦いに対する村人たちの覚悟を確認します。
 戦いの過酷さを実感できない村人たちの覚悟がどれほどのものかは怪しいものですが、村人たちは現在の自分たちの状況の中で生じる限りの誠意と覚悟を示します。
 この段階では、それ以上のことを求めても無理です。戦いの過酷さを、戦った体験のない村人たちに実感させることはできません。
 しかし、たとえ不充分でも、村人たちの「覚悟」は、確かめておかなければなりません。
 一度戦いを始めたら、殺し合いが続きます。何度も何度も、カタがつくまで、殺し合わなければなりません。そしてその殺し合いには、村の連中みんなが、心をひとつにして協力し、参加しなくてはなりません。村人たちは、たとえそれが実感できなくても、言葉のうえだけの、表面上の理解だとしても、それを認めなければなりません。それを認めることが、クリスの云う「覚悟」です。
 村人の覚悟を確かめると、クリスは、やれるだけのことはやってみよう、と、請け負います。ただし、自分が村を守る仕事に参加するかどうかはまだ決めず、とりあえず人を集めることだけを引き受けます。
 村人は、この町ならみんな銃をもっている、すぐに見つかるだろうと云います。
 それに対してクリスは、問題は銃を持っているかどうかではなく、銃を使う「人間」だと教えます。
 たしかにこの国境の町には、多くのガンマンが流れ込んできています。この町では銃はズボンのようなもので、だれもがそれを身につけています。
 ただ、銃はズボンとは違って、見栄えよく身につけているだけでは問題になりません。それを使いこなす伎倆の巧拙が大事です。
 銃を扱う「人間」の良し悪し、その伎倆の巧拙をどうやって判断するのか、村人たちには分かりません。
 クリスは自信たっぷりに、任せておけ、と云って、宿を出ます。
| Woody(うっでぃ) | 『荒野の七人』論 | 10:30 | - | - |
『荒野の七人』論〜3.七人のガンマン
クリスは腕の立つガンマンを探しているという噂を広めました。
 その噂を聞きつけて、一人の若者が、自薦に訪れます。チコです。
 クリスはチコの伎倆を試験しますが、チコはその試験をクリアできませんでした。
 チコは、自分の未熟さを思い知らされて、ものも云わずに出て行きます。
「若くて、負けず嫌いだ」
「西部の墓は、ああいう若くて、負けず嫌いな奴で一杯なんだ」
 チコを弁護するような村人の発言に対して、クリスは苦々しく、突き放すように云います。
 村人たちはカルヴェラたち山賊一味と戦う決意はしていますが、決意だけがいくら強くて固くても、それだけでは戦いに勝つことはできません。戦いに関して自分たちは無力であることを認めています。
 三人の村人たちに、銃の伎倆に自信をもって訪ねて来たにもかかわらず、その未熟さを思い知らされ、自信を砕かれた若者に対する同情が生じます。決意や自信などの意気込みはありながら、実際には無力であることを思い知らされたもの同士としての感情です。村人は、若くて負けず嫌いと云う、銃の伎倆とは無関係で、それでいて好感の持てる点を挙げて、若者を弁護します。
 しかし彼らが必要としているのは、銃の伎倆に優れている者です。他にどんな美点があっても、その美点を最大限に好意的に評価しても、銃の伎倆が劣っていれば、意味はないのです。
 それをクリスは、「西部の墓は、ああいう若くて負けず嫌いな奴で一杯なんだ」と、表現します。
 チコが去った後、ハリーが登場します。
 ハリーが姿を現すまでに、クリスの用心深さが示されます。
 ハリーもチコと同じく、クリスの流した噂を聞きつけてやって来ました。
 ふたりはお互いに、相手は大金が手に入るような仕事でなければ引き受けないと思い込んでいます。
 クリスはハリーのことを「高給取り」と云い、ハリーはクリスが乗り出したぐらいだから相当大きな儲け話に違いないと推測しています。
 ハリーが「いまの俺には、一ドルだって、目の覚めるような大金だ」と云ってもクリスは信じません。
クリスが、「宿と飯付きで二十ドル、それで約一ヶ月半、村を守る」のが仕事だ、と云っても、ハリーは信じません。
クリスもハリーも、かつては大金の稼げる仕事にありついていたことが解ります。
 しかし二人とも、合衆国の発展にともなって生じるガンマンの需要の減少から逃れることはできません。ハリーも大金を稼げるような仕事には、滅多にありつくことができなくなっています。そんなとき、クリスが腕の立つガンマンを探していると云う情報を得たことは、ハリーにとってはまたとないチャンスです。
 クリスが乗り出したぐらいだから、大金が手に入ることは確実だと、ハリーには思われます。ハリーの確信は、クリス自身が何と云おうと、揺らぎません。滅多に遭遇し得ないチャンスであることが、そのチャンスを逃すまいとする思いとなり、その確信を補強します。
 クリスはハリーの誤解を解こうとしますが、ハリーは聞く耳を持たず、強引に参加します。クリスは、なぜ金にならない頼みを引き受けるのかを、ハリーが納得するように説明するのは困難であることを理解しています。クリスはハリーの誤解を解くことは諦めます。
口で説明するよりも、仕事にあたってみて、自分の思い込みが誤解であったことを、実体験によって知らされるほうが確実です。それまで、ハリーには誤解したままにさせておきます。

 クリスが三人の村人たちと酒場にいるところへ、ヴィンが入ってきます。
 クリスはすぐにヴィンを見つけますが、ヴィンはクリスに気づかずに、奥の博打場へ向かいます。
 クリスはウエイターを呼んでヴィンに目をやり、一杯奢ると伝えるよう云います。
  ※ ヴィンは、おそらくは有り金のすべてをはたいて、賭けに挑みますが、あっさりとスッてしまいます。未練がましく突っ立ったまま、無念そうな、恨めしそうな表情で胴元を睨んでいます。
    ヴィンを胡散臭げに見る胴元の態度と、ヴィンのもったいぶった賭けぶりや、未練がましい態度が愉快です。
 ヴィンがクリスのテーブルにやってきます。
「仕事は見つかったのか」
「ああ、雑貨屋の店員として働くことになった。俺なら一流の店員になれるとさ。目が高いね」
「勤まるかな」
 クリスは、銃の伎倆を頼りに生きてきたヴィンが、堅気の仕事で満足できるはずはないと見抜いています。ガンマンとして同じ道を歩いてきた、クリスならではの洞察です。ヴィンが、「俺なら一流の店員になれるとさ」と、冗談めかして云うのも、実際はそんなはずはないと認めていることの、裏返しの表現です。
 ヴィンは逆に、クリスの仕事のことを訊ねます。
 その内容を聞いて、ヴィンは眉をひそめます。弾代にもならない仕事なのです。
 同席している村人たちは、貧乏な村なんだ、と、ありのままを語ります。村人たちが云うように、雑貨屋の店員のほうが儲かります。仕事も堅くて楽です。クリスもそれを肯定しつつ、ヴィンの判断に期待します。
 ヴィンは、いま何人だ、と、参加したガンマンの人数を訊ねます。クリスが指を一本だけ立てて見せると、ニヤッと笑って、二本の指を立てて見せます。
 いい場面です。
 堅くて楽ではあるけれども、ガンマンとしての伎倆を発揮することのない生活よりも、自分の伎倆が最大限に試される仕事を選ぶのが、クリスの見込んだヴィンの性格です。であればこそ、自分には何の得もないインディアンの埋葬にも、手を貸したのです。

 ヴィンとクリスは馬を並べて、町はずれの丸太小屋を訪れます。
 ふたりはハリーの知人の、オライリーと云う男を訪ねてきたのです。
 小屋の主に訊ねますと、裏で朝飯代に薪を割っている男がいるから訊いてみろと云われます。
 二人が裏手にまわってみると、なるほど、そこで薪割りをしている男がいます。
  ※ クリスが声をかけると、その男はクリスの方を見やり、無言のまま、傍らの丸太の上に乗せてあったガンベルトを動かして銃の握りを自分の方に向け、薪割りを続けます。相手の位置を確認し、いざというとき、すぐ銃を抜けるようにしたのです。
    霊柩車の助手を勤めたときのヴィンの仕草もそうですが、このような細かい仕草が、それぞれが、熟練のガンマンであることを示しています。
 クリスはその男に、ハリーの紹介で来た、と、声をかけます。
 オライリーは金が無く、飯代の代わりに薪割りをしていますが、そのことを認めようとはしません。仕事がなく、金がないことは、オライリーにとっては、沽券にかかわることです。
 クリスは用件を伝えますが、六人で四十人を相手にする仕事と聞いて、オライリーは呆れ、バカにしたように、計算に弱いかよっぽどの向こう見ずだ、と、述べます。
 かつてオライリーは、もっと割りの悪い仕事を引き受けたことがあります。
 クリスとヴィンはそのことを指摘しますが、その仕事は、六百ドルや八百ドルにもなる、報酬として充分に報われる仕事でした。
 見合っただけの報酬は貰うと云うのが、オライリーの言い分です。それはまた、報酬が高くても、それに見合うだけのことはできるし、する、と云う、自信の裏返しでもあります。
 クリスたちが提示できるのは二十ドルです。金額的にも、割の合う仕事ではありません。
 クリスとヴィンが諦めて立ち去ろうとすると、オライリーは、いまは大金だ、と云って、クリスの依頼を引き受けます。
 六百ドルや八百ドルの大金を稼いでいたのは、昔のことになってしまいました。
 いまは朝飯代の代りに薪割りをして、町はずれの丸太小屋で暮らさざるを得なくなっています。いくら強がってみても、その事実は認めざるを得ません。
 オライリーはその事実を受け入れ、クリスの持ち込んできた仕事を引き受けます。
 オライリーもその厳しい生活をつうじて、ガンマンの仕事がなくなっていき、たまに仕事があっても、その報酬は過去とは比較にならないくらいに下落していることを理解するようになっています。
 それは自分の存在が無用のものとなりつつあることを理解することであり、そのことを事実として受け入れるには、強靭な心性を必要とします。
 オライリーは厳しい生活の中で、それを事実として受け入れる、強靭な心性を形成しています。

 ブリットが登場する場面は、この映画の中でも、一番の名場面として語り草になっています。
 なにしろ、拳銃を持った相手との対決に、ナイフ投げで勝つのです。
 その衝撃が大きかったこともうなずけます。
 ブリットはガンマンとしての伎倆を向上させることだけに、その関心を抱いています。彼は、拳銃を持った相手との対決に、ナイフ投げで勝てる伎倆を持っています。そのことを他人が信じようと信じまいと、無関心です。自分で自分の伎倆に自信が持てればいいのです。ブリットは自分の伎倆に自信を持っています。
 一人の男が、ブリットの伎倆を信じず、彼に挑戦します。
 ブリットは最初、その男を相手にしませんでした。
 ブリットにとって、相手が自分の伎倆を信じないのは、相手自身に関することであり、相手の勝手です。ブリットの伎倆を認めるだけの見識がないことを、自分で認めているのです。
 しかし、「怖いか、化けの皮が剥がれるのが(Afraid to tell me I’m wrong)」と云われるのは、実力もないのに法螺を吹いて強がっていると云われることです。ガンマンとしての伎倆を向上させることにのみ関心をもち、その伎倆に自信をもつブリットにとって、その伎倆を否定されるのは、自分の価値を否定されるに等しいことです。
 その伎倆を明らかにするには、実際にその伎倆のほどを示して見せるに如くはありません。
 模擬的な決闘が行われますが、その判定は微妙で、誰一人、その勝敗を確信して云える者はいません。
 当事者の二人だけが、それぞれ、自分の勝ちを確信しています。
 相手の男はあくまで自分の勝利を確信し、真剣勝負を挑みます。
 ブリットは受けて立ちます。言葉でなだめても無駄なほど、相手の男はいきり立っています。
 相手の男が銃を撃つより早く、ブリットのナイフが相手の胸に刺さります。
 相手の男はその場にくずれ落ち、ブリットは静かにその場を離れます。
 相手の男がブリットにその挑戦を無視されたとき、傍で見ていたカウボーイのひとりは、意地悪げに嘲笑します。
 ブリットはみなから離れて、ひとり昼寝しています。
 ブリットが相手を倒したときに投げかけられる、他のカウボーイたちの畏怖と非難の入り混ざった視線や、ブリットがその視線を受けて荷物をまとめ、ひとり離れていこうとしていることが、ブリットが仲間のうちで孤立していることを感じさせます。
 ブリットも相手になった男も、仲間たちから浮きあがっています。おそらく、カウボーイとして、臨時に雇われただけだろうと思われます。
 ブリットは、銃を持った相手をナイフで倒す際立った伎倆を持ちながら、牛の面倒を見る臨時の雇われ者として生活しています。その伎倆も、つまらない四方山話のタネにしかならず、挙句には賭けの対象になって、無駄に人の生命を奪うだけです。
 大金が手に入る仕事でなければ引き受けなかったクリスやハリーが仕事を求めて国境の町に流れ入り、一仕事で何百ドルも稼いでいたオライリーが朝飯代の代わりに薪割りをして生活している時世に、ガンマンとしての付加価値を高めるだけの伎倆は無意味です。
 ブリットはその無意味さを感じていながらも、ガンマンとしての伎倆を向上させる生活を続けています。それがブリットから感じられる空虚感(ニヒルな印象)の内容です。

 クリスとヴィンが酒場の扉を開けて入ってきます。
 酒場には三人の村人たちと、ハリー、オライリーが居ます。
 ブリットには断られました。
 村人は金が足りないからかと云いますが、金は問題ではありません。
 村人には、金を問題にしないガンマンがいるとは信じられません。
 賃金労働者が、自分の肉体と不可分な労働力を売って生活しているように、ガンマンは自分の伎倆を売って生活しています。その雇用は不安定で、仕事には多大な危険がつきまとい、場合によっては、命を落とすことすらあります。雇用が不安定で危険が多く、一定以上の伎倆を有していることが必要になってくるため、いきおい、その報酬は高価になります。
 オライリーが云うように、見合っただけの額は、高価になります。
 報酬はふつう、金銭の額で表されます。金銭の多寡は、そのガンマンの伎倆に対する評価を表します。金銭は生活を支える手段であるばかりでなく、他人が自分の伎倆をどの程度に評価しているのかを測る尺度でもあります。その金銭を問題にしないガンマンの存在は、確かに信じられないでしょう。
 クリスが説明するように、人それぞれに生き方が違います。ある者は金、ある者は身の痺れるような危ない仕事、と、それぞれに関心の対象が違います。
 ハリーのように、大金が稼げるチャンスを狙っているガンマンもいます。
 ヴィンのように、自分の伎倆が発揮できる仕事そのものを望んでいるガンマンもいます。
 ヴィンは、どんなに堅くて、楽で、給料がよくても、雑貨屋の店員や酒場の用心棒よりも、村を守る仕事を選びます。彼にとってはそれがガンマンとしての、自分本来の伎倆を発揮できる仕事です。
 合衆国の産業の発展にともなって、昔のように、ガンマンが儲け仕事にありつけるチャンスはなくなってしまいました。インディアンの埋葬に手を貸したとき、馬車の馭者台でクリスと交わした会話からも、ヴィンがそのことを実感として理解していることが分かります。ヴィンは雑貨屋の店員として働くことにもこだわりをもたず、ガンマンとしての仕事で一儲けしようと云う意欲も解消しています。雑貨屋の店員か酒場の用心棒の仕事くらいにしかありつけず、ボロ儲けができなくなった事実を、素直に受け入れています。
 クリスの説明の途中で、嬉しそうに、「それに真剣勝負」と口を挟むのも、自分と思いが通じそうな相手を見出したからです。
「銃とナイフの両刀使いと勝負する奴なんているのか」
「自分だ」
 村人とクリスの問答は、ブリットがその伎倆を高めるために戦っている相手が、ブリット自身であることを、そしてその生き方をクリスが理解していることを示しています。
 ガンマンとしての仕事が減少し、生きるために日銭を稼ぐ毎日のなかで、ひたすらガンマンとしての伎倆を高めることに専心するには、自分との厳しい戦いを必要とします。
 村人の、「銃とナイフの両刀使いと勝負する奴なんているのか」と云う疑問は、意外と意味深長で、皮肉です。
 いくらブリットがその伎倆を向上させてその伎倆に誇りを抱いても、もはやガンマンとしての仕事はなく、その伎倆を発揮できる機会は、カウボーイたちの座興くらいでしかありません。
 村人の発した「銃とナイフの両刀使いと勝負する奴なんているのか」と云う言葉は、そんな凄い伎倆の人物と勝負するような奴なんていないだろう、と云う意味の、ブリットの伎倆を高く評価した言葉です。
 しかしその言葉は、それを発した村人の思いとは逆に、自分の伎倆を向上させることにのみ関心をもつブリットの生き方が、無価値で無意味であることをも示しています。
 ガンマンとしての仕事が減少し、その伎倆を発揮できる機会が減っていくと、ガンマンとしての伎倆も衰えていきます。その伎倆を衰えさせないためには、退屈で厳しい、日々の訓練が必要です。それに耐えて伎倆を維持し高めても、その伎倆を発揮できる仕事はありません。いつしか、仕事のためにその伎倆を維持し高めていくことから、その伎倆を維持し高めていくこと自体に、目的が変わっていきます。
 ガンマンとしての伎倆の優劣を競うこと自体を目的とした真剣勝負は、たとえ当人同士は真剣であったとしても、まるで無意味であり、たんなる遊戯でしかありません。むしろ当人同士が真剣であればあるほど、その勝負は滑稽なものになってしまいます。
 そんな無意味な勝負に価値を見出すようなガンマンはいません。
 その一方で、自分の伎倆に、自信と誇りを持ち続けるガンマンもいます。その伎倆に対する自信と誇りは、ガンマンとして仕事のできる人間であることの自信と誇りです。
 その相反する意味合いが、ブリットの一身に体現されています。

 いきなりドアが開き、チコが入ってきます。
 かなり酔っているらしく、足もとがふらついています。
 チコはクリスに悪態を吐きながら近づいてきます。
 チコはクリスの課した試験をクリアできませんでした。チコは事実をもって、その伎倆が未熟であることを思い知らされました。チコの自信は内実のともなわない、むなしいものにすぎませんでした。
 チコは、自分の伎倆が未熟で、抱いていた自信が、内実のともなわない、むなしいものにすぎなかったことを認めざるをえませんでしたが、一方で、そのことを否定しようとする衝動も生まれています。
 この相反する二つの思いは、互いに連関し、影響しあいながら、相互の思いを強めていきます。事実によって示された自分の伎倆の未熟さを認める度合が強ければ強いほど、そのことを否定し、自分の伎倆に対する自信を維持しようとする衝動もより強くなります。
 また、自分の伎倆に対する自信を維持しようとすればするほど、それを否定された事実が、重くなってのしかかってきます。
 相反する二つの感情のせめぎあいが、葛藤を形成します。
 そのせめぎあいが烈しくなり、葛藤がその深さを増してチコを苦しめます。チコはその葛藤を解決することができず、二つの相反する感情のせめぎあいに苦悩し、酒に走ります。
 チコは自分の相反する感情をどうすることもできず、試験を課したクリスに、憤懣をぶつけます。自分の伎倆に対する自信を維持しようとする心情が、クリスの課した試験をクリアできなかった事実のもつ意味を否定しようとし、自分の未熟さを、クリスが自分を小僧っ子扱いしてその伎倆を認めていないと思わせ、そのことに対して憤懣を抱かせます。自分の未熟さを認めまいとする意識が、クリスに対する憤懣にすりかえられています。
  ※ 自分を相手に伎倆を向上させていくことに専心するブリットの後に、他人に自分の伎倆を認めさせようとするチコをもってくるところに、演出の面白さが感じられます。
 チコは真剣勝負を挑みますが、もとより勝てるはずはありません。チコもそれは承知しています。チコが真剣勝負を挑むのは、相反する感情を解決できない苦しみから生じた、自暴自棄の行動です。命を賭けた勝負なら、思いもよらない力が発揮できるかもしれないという期待(というには、あまりにバカバカしいものですが)と、なにがなんでも自分の伎倆を認めさせたいという思いが、酒の勢いを借りて、噴出したのです。
 逆に云えば、酒の勢いでも借りなければ真剣勝負など挑みえないほどに、自分の伎倆が未熟であることを、チコは理解しています。
 それを理解していながら、おとなしく引き下がれないのが、チコの「若さ」であり、「負けず嫌い」なところです。
 そんなチコの挑発に、クリスが応じるはずもありません。
 悪態を吐きつづけるチコを見かねて、村人の一人が近づいてなだめますが、チコはその村人にも悪態を吐いて突き飛ばします。
 その瞬間、ハリーが飛びかかろうとします。チコは銃を抜いて振り向き、ハリーにその銃口を向けます。ハリーの動きが止まります。チコが銃を向けるより早く、オライリーがハリーの腕をつかんだためです。
 チコがハリーと睨み合っていると、ヴィンが指を鳴らします。チコがヴィンの方に身をよじると、ヴィンは腕を伸ばしてバーテンダーの動きを止めています。
 オライリーが止めなかったら、チコはハリーに殴りかかられていたでしょう。また、ヴィンが止めなかったら、バーテンダーに射たれていたか、銃で脅されて店を退去させられていたでしょう。
 チコが、まともに相手にするに足りる状態ではないことがはっきりします。
 チコはなおも盛んに喚いてクリスを挑発しますが、クリスはもはやチコを見ることもなく、目をそらして葉巻をくわえます。チコは発砲しますが、クリスは微塵も動きません。まるで相手にしていません。
 チコは怯えたようにハリーの方を見ますが、ハリーも白けた表情で、手元のカードに視線を移します。ヴィンの方を見ると、ヴィンもショット・グラスの酒をあおって、目を伏せます。
 若さと負けん気だけが先行して伎倆がともなわず、そのことを思い知れば知るほど、ますます負けん気があおられるものの、それで急に伎倆が向上するものでもありません。
 そんな若い頃の葛藤、口惜しさ、歯がゆさを、この場にいるガンマンたちはよく知っています。おそらくははるかな昔、若い頃に、彼らも経験したであろう感情です。
 彼らはチコの姿に、若い頃の自分を思い出し、その姿をダブらせて、苦々しげな表情になり、静かにチコを無視します。
 チコの身体が揺らぎ、カウンターに倒れかかります。みなに無視されて、それまでの緊張が解け、一気に酔いが回ってきたのでしょう。音を立てて倒れ、仰向けに転がって身動きもしなくなってしまいます。
 クリスはテーブルを離れてカウンターに近づき、迷惑をかけたな、寝かせてやってくれ、銃は起きたら返してやれ、と云い、手間賃として、コインをカウンターの上に放り出します。クリスはチコの行動を、「若くて、負けず嫌い」な者にありがちな行動と見ています。
ふと酒場の入口を見ると、いつの間にか、ブリットが立っています。
 気が変わった、と云うのです。
 ガンマンとしての伎倆を高めるのは、伎倆を高めること自体が目的ではなく、その伎倆を高めたうえで、ガンマンとしての仕事を果たすことに生かすのが本来です。そのことに気付いたのでしょう。
 クリスは嬉しそうにヴィンと目を合わせます。
 ヴィンも微笑んで、右手を広げて見せます。五人、と云うわけです。

 宿に戻ったクリスとヴィンを、リーが待ち受けています。
 リーはベッドの上に腰をおろして、腕を組んでいます。他のガンマンたちと違って、洒落た身なりをしています。
「おぼえているか」
「ああ」
 リーはハリーやブリットと同じく、クリスとは旧知の仲です。彼もクリスがガンマンを捜していると聞いてやって来たのです。
  ※ リーの洒落た身装は、同じジョン・スタージェスが監督した『OK牧場の決斗』(一九五七年)の、ドク・ホリデイを連想させます。ドク・ホリデイは、元歯科医師のギャンブラーで、銃とナイフの使い手でした。
「ジョンソン兄弟を追っている」というセリフから、リーは賞金稼ぎではないかという推測もできます。
 リーはジョンソン兄弟を追っていましたが、そのカタはついたと云います。
 しかし現在はリー自身が追われる身となり、町はずれの薄汚れた倉庫にかくまってもらっています。
 追われているリーにとって、クリスの請け負った仕事に参加できれば好都合です。メキシコの南での仕事ですので、追っ手から逃げ、身を隠すにはもってこいの場所です。ましてその期間が一月半ほどとなると、ほとぼりが冷めるには、いい頃合です。
 リーはクリスの請け負った仕事の報酬を前払いしてもらい、その金で丸二日分の部屋代を払うつもりです。町はずれの薄汚れた倉庫にかくまってもらい、食事は一日に豆を一皿、それで一日十ドルです。
 ヴィンの云うとおり、追われているときには、なんでも高くつくものです。
 追われて町はずれの薄汚れた倉庫に寝泊りするような境遇になっても、リーは平然とした態度を崩さず、洒落た身なりをしています。
 追っ手から逃げるためにクリスの請け負った仕事に参加するような素振りは見せません。
 追われてはいても、平然とした態度を崩さず、洒落た身なりを維持していることが、リーにとっては、自分の伎倆に対する誇りを保っていることの表現です。
 リーは、カタはついたと云いましたが、ジョンソン兄弟をめぐる確執は続いているようです。ジョンソン兄弟とのカタはついても、それが新たな火種となって、新たなトラブルが生じ、今度はリーのほうが追われる羽目になったのでしょう。
 クリスが三人の村人たちに云ったように、一度戦いを始めたら、とことんまで戦わなければなりません。どちらかが完全に潰れるまで、何度も、何度も、戦い続けなければならないのです。とりわけ個人的な感情に発した戦いは、その理非曲直を問わず、互いに対する憎悪や復讐心を生み、それを陰湿なものに育て上げ、際限のない不毛な殺し合いを誘発します。
 伎倆の優れたガンマンの陥り易い悪循環で、リーはその悪循環から抜け出そうと、あるいはそのような悪循環に陥るまいとしているようです。
 リーが仕事を引き受けて宿を出て行った後、その後ろ姿を見ていたクリスは、六人、と、示します。
 ヴィンは無言で手首を震わせ、仕草で銃の腕前を訊ねます。
 クリスは軽く手をあげてリーの腕前を保証した後、
「それぞれ、スネに瑕をもつ身だ(and we aren’t heading for church social)」
 と、つぶやきます。
 原語を直訳すれば、「教会の集まりに行こうってわけじゃないからな」とでもなりましょうか。真っ当な生き方をしてきた、真っ当な人間というわけではない、ということです。
| Woody(うっでぃ) | 『荒野の七人』論 | 10:25 | - | - |
『荒野の七人』論〜4.村への旅立ち
 翌朝、クリスと五人の仲間たちは、三人の村人たちとともに、村へ向かって出立します。
 彼らの後を、遠く離れて、チコがつけてきます。
 チコはクリスによって、自分の伎倆の未熟さを思い知らされました。それでも諦めずに、クリスたちの後をつけてきます。クリスはそのことを嬉しがっています。
 自分の伎倆が未熟であることを思い知らされたのは、チコにとっては手痛い体験でした。しかしその体験は、チコが一人前のガンマンとなるためには、必要不可欠な体験です。
 チコはまず、伎倆のともなわない自信、空虚なうぬぼれを、徹底して粉砕されなければなりません。
 どんなに不愉快でも、どんなに認めたくなくても、たとえ思い知らされると云う形ででも、自分の現在の伎倆を、正しくは、自分の伎倆が未熟であることを、痛感しておかなくてはなりません。
 自分の伎倆が未熟であることを痛感しておくことが、実際事にあたるに際しては大切です。それが、生き延びているガンマンと、西部の墓を一杯にしている「若くて負けず嫌いな連中」との差であり、ガンマンとして生き延びるための第一歩です。
 諦めてしまえば、それまでです。
 自分の伎倆を知らず、ただうぬぼれているだけでは、無駄に命を落とすだけです。
 チコは自分の伎倆が未熟であることを認めてなお、クリスたちと仕事を共にすることを諦めません。チコが一人前のガンマンとなり得るかどうか、あとは、実際事にあたってみるしかありません。
 チコが諦めないことに、クリスは喜びを感じます。
 後をつけてくるチコを見て、ヴィンは、おかしいんじゃないのか、と、笑います。
 彼らの引き受けた仕事は、よっぽどの向う見ずでなければ引き受けないようなものです。そんな危険な仕事でありながら、報酬は二十ドルで、弾代にもなりません。決して割に合う仕事でも、報われる仕事でもないのです。まして伎倆の未熟なチコなら、命を落とすのがオチです。
 それでもチコは、彼らのあとをつけてきます。
 ヴィンは砂埃の舞う谷間を抜けて後をつけてくるチコを見て、
「あそこじゃ汗と埃攻めだ、バカな奴だよ」と、気の毒がります。
「俺たちと違ってか」
「ああ」
 ヴィンはクリスの問いにそう答えますが、実際、ヴィンにしても、同じようなものです。
 弾代にもならない報酬で、割に合わない危険な仕事を引き受けて、汗や埃にまみれているのです。
 それでもヴィンは、この仕事に参加することに決めたのです。
 ヴィンのなかに、ヴィン自身は意識していないにしても、同じ仕事に参加しようとするもの同士としての感情が芽生えだしています。
 夜になり、彼らが野宿しているときにも、ひとり離れて野宿しているチコを見て、「なにか食う物はもってるのかな」と、気にします。
 ハリーも最初は、「あいつを見てたら首筋がつってくる」とか、「後をつけられるってのは気持ちのいいもんじゃねえな」などとボヤいていますが、野宿しているときは、ヴィンの言葉に応じて「これも何かの縁だ、食い物を分けてやるか」と云いだします。
 ヴィンもハリーも、自分自身意識しているわけではありませんが、しだいに、チコを受け入れる気持ちになりつつあります。
 クリスはハリーの言葉に、「いや、まだ腹は減ってないだろう」と応じます。
 その言葉に、自分がチコを気にしている事実を気付かされて、ハリーはわざと悪態をつきます。
 悪態をつくこと自体、チコのことを気にするまいとする形で、気にしているのですが、クリスはそれをも感じ取って、「放っておけよ、好きにさせろ」と云います。
 オライリーも、「かわいいぼうやだぜ」と、調戯うように云います。
 チコに後をつけられてハリーがボヤいているときにも、オライリーは、「そんなに気になるんだったら、並んで歩いたらどうだ」と、調戯っていました。
 チコを気にかけているハリーの内心を云いあばいているのですが、それをハリー自身が自覚していないことも分かっているので、その口ぶりは、調戯うような調子になります。
 オライリーは、まったくチコを気にしていません。仕事に加わるかどうかは、チコ自身が決めることであり、チコを加えるかどうかは、クリスが決めることです。
 ハリーの言葉に、「まだ腹は減ってないだろう」と応じるクリスは、チコがどこまでついてくるのか、本当にこの仕事に参加する意志が固まっているのかどうかを見定めようとしています。そのうえで、チコを仲間に加えるかどうかを判断しようとしているのです。
 翌朝、クリスたちは旅を続けます。
 ハリーは後ろを気にして振り返りながら、チコがつけてこないのを確認すると、「変なもんだ、いねえと今度はさみしいな」と、云います。
 今度はオライリーも調戯いません。
 ハリーも、チコを気に入った自分を認めたようです。
 どの職業でもそうですが、だれでも生まれたときから、伎倆の優れた職業人であるわけではありません。おおくの場合、はじめは自分の伎倆にうぬぼれ、自分に自信をもっていますが、実際事にあってみれば、その空虚なうぬぼれや根拠のない自信は打ち砕かれます。自分の未熟さを知り、認め、そのうえで、ひとつひとつ地道に事を処理していくことによって、実力を蓄え、一人前になっていくのです。
 自分の伎倆の未熟さを思い知らされたにもかかわらず、あくまで仕事を共にしようとするチコの負けん気は、ハリーにも充分に理解できるのでしょう。
 クリスを先頭に、一行は川を渡ります。
 クリスの目の前に、何匹かの魚が吊るされた木の枝が現れます。クリスは馬を止め、しばらく不思議そうにその魚を見ていますが、やがて後ろにいるヴィンに微笑みかけます。
 行く手を見ると、チコが川のほとりに胡座をかいて魚を焼いています。
 クリスが見ていると、チコも気づいて振り返ります。チコは手にしていた魚を刺している串を、やあ、と云うように、軽く上げます。
 どうでもチコは諦めそうもありません。ヴィンやハリーが心配するまでもなく、食べ物がなければ自分で魚を採って焼き、あくまでクリスたちの後をつけ続けます。
 クリスは鞍から腕を離し、来いよ、と云うように、大きくその右腕を振って見せます。
 チコは一瞬、焼いている魚に視線を向け、ふたたびクリスの方を見ると、彼に向かって人差指を付き出し、おまえが来いよ、と云うふうに、その指を自分の側に振って見せます。
 酒場の場面で頂点に達したチコの葛藤は、その心情を、クリス「が」自分を認めない、というものから、クリス「に」自分を認めさせる、というものへと変化させています。チコが重きをおく対象が、クリスから自分自身へと移りはじめています。それがクリスの誘いについてゆかず、逆にクリスを自分のほうに招く仕草の意味です。
 エルマー・バーンスタインの主題曲が鳴り渡り、クリスを先頭にして、一行が木々の生い茂った川を渡って行きます。その最後に、チコがいます。いまやチコは、クリスたちの後をつけているのではなく、その一行の中にいます。

 クリスたちが村に到着しますが、村人たちは姿を見せません。
 クリスをはじめとするガンマンたちも、三人の村人たちも、不思議そうに周囲を見回しながら馬を進めます。
 クリスたちを連れてきた村人たちは、大声で人々の名を呼び、姿を見せて出迎えるように云いますが、誰一人応ずるものはいません。
 チコがひとり、悪戯っ子のような笑みを浮かべています。
 村はずれにいた長老が、屋外のテーブルについています。
 長老は立ち上がってクリスたちに近づくと来訪の労をねぎらい、
「ま、大目に見てくだされ。みんな田舎ものじゃで、見るもの聞くもの、なんでも怖いンじゃよ。雨が降らんでも降りすぎても怖い、やれ夏が暑すぎる、冬が寒すぎる、豚に仔が産まれないと今年の収穫が落ちるだろう、また子沢山だと今度は親豚を心配をするだでのう」
 と、とりなします。
 クリスは、
「謝ることはないさ。花輪を期待してたわけじゃない」
 と、険しい表情でこたえます。
 村人たちが実際に知っているガンマンと云えば、カルヴェラたち山賊です。そのカルヴェラたちと戦うためにクリスたちを雇いましたが、実際にクリスたちを知らない村人たちには、クリスたちに対する信頼感情はありません。
 村人たちにとっては、カルヴェラたちもクリスたちも、「山賊」と「雇われた者」と、その立場が違うだけで、同じ「銃を持つ者」であることに変わりはありません。
 金に色目を使わないガンマンがいるとは思われず、ガンマンとして「雇われた者」の仕事は、四十人近くの同じ「銃を持つ者」である山賊を相手に村を守る戦いで、その報酬は弾代にもならない二十ドルです。
 同じ「銃を持つ者」であるならば、「雇われた者」であるよりも「山賊」であるほうが、より多くの利益が得られ、しかもその利益を得るために費やす労力も冒す危険も、はるかに少なくてすみます。
 「雇われた者」から「山賊」へと、その立場は容易に転化するのではないかと怖れ、心配します。
 長老は、村人たちの怖れや心配が、クリスたちに対しての特別なものではなく、村人たちがどんなことに対しても抱く、村人たちにとっては普通の感情だと説明します。
 クリスは、村人たちが自分たちガンマンに対して不信や怖れを抱く理由は分かりますし、そのこと自体で気を悪くしたりはしません。
 ガンマンは、その銃の伎倆を金で買われ、その伎倆で務めを果たす存在です。人間として尊敬されようが軽蔑されようが、それ自体としては無関係です。
 ですが、理由はともかく、村人たちがクリスたちに不信や怖れを抱いたままでは、カルヴェラたちと戦うための体制をつくっていくことはできません。どうやって村人たちの不信や怖れを払拭するか、そのきっかけを得ることすら、難しく思われます。
 長老に対するクリスの返事は皮肉になります。
 長老は、翌日に催される年一回の村の祭りに、クリスたちを歓迎する意味をもたせることで、村人たちとクリスたちとの交流のきっかけにしようと考えています。
 それより早く、別のきっかけが訪れます。
 いきなり教会の鐘が、激しく鳴り出したのです。年に二回しか牧師が来ない、さびれた教会の鐘がいきなり鳴り出すのは、ただ事ではありません。時ならぬ鐘の音に、驚いた村人たちが、慌てて姿を現します。オライリーやハリー、リーたちも驚いています。
 出て来た村人たちは、広場に集まります。
 鐘を鳴らしていたのは、チコでした。
 チコは村へやって来たとき、村人たちの姿が見えない理由を察しました。チコはいつの間にかクリスたちと離れて教会へ入り、その鐘を激しく鳴らして村人たちを驚かせ、村人たちが姿を現すように目論んだのです。
 チコは出て来た村人たちに向かって皮肉たっぷりに挨拶した後、怒りをぶつけるように喋りだします。
 チコは村人たちの態度を非難し、彼らが抱いている不信や怖れが誤解であることを説きます。
 クリスたちは、安い報酬で命懸けの仕事を引き受け、はるばるメキシコの寒村までやって来ました。彼らには、自分たちを雇ったことに対する、村人たちへの信頼があります。その信頼が、「雇われる」と云う形で現れています。
 村人たちの態度は、自分たちが「雇った者」を信頼していないことを、あるいは信頼していない者を「雇った」ことを意味します。「雇われた者」の信頼を裏切る、不誠実な態度です。
 チコは村人たちが不信や怖れを抱いている理由を見抜いて指摘し、自分たちがカルヴェラたちのような山賊に見えるか、と、問います。カルヴェラたち山賊と同じような人間なら、命懸けの仕事を安い報酬で引き受けて、わざわざメキシコの寒村まで来たりはしないと云う反語です。
 村人たちは、自分たちが抱いている不信や怖れを見抜かれていることを悟るとともに、チコの怒りが自分たちに対する信頼の裏返しであることを感じ取って、自分たちの態度を反省し、悄然とうなだれます。
 カルヴェラはソテロを「友だち」と呼び、なれなれしく接しながら、村人たちの物資を略奪し、その生活や命すらも脅かしています。
 チコの率直な怒りは、村人たちに反省を促し、その心情を素直に受容れさせます。
 村人たちの不信や怖れに怒りをおぼえ、それを率直に表すこと自体が、村人たちを信頼していることの証です。
 クリスたちはその様子を興味深げに見守っています。
 チコは最後に、約束どおり村を守ることを断言し、その代わり、「守ってもらう値打ちのあるところ」を見せるよう求めます。
 守られるに価するところを見せることは、損なわれた信頼を回復し、対等の立場で、守り守られる関係になることを意味します。
 チコはひとしきり云って、集まった村人たちを解散させます。チコが本気で怒っていたわけではないことが分かります。
 最初は眉をしかめてその云うことを聞いていた長老も、最後には、顎の髭をなでながら、この若僧、なかなかやりおるわい、と云った表情になります。
 ヴィンは馬上で帽子を脱ぎます。さりげない仕草ですが、まさに、脱帽、と云ったところでしょう。
 クリスをはじめ他のガンマンたちの誰もが──おそらくは長老もが──、困難を感じていた、村人たちの、クリスたちに対する不信や怖れを払拭することを、少なくとも、そのきっかけをつくることを、チコはやったのです。
 腕組みをしてチコの言動の一部始終を見守っていたクリスは、確認するようにヴィンや長老を顧みながら、「これで七人だ」と、満足げに云います。チコを、仕事を共にする仲間として、認めたのです。
| Woody(うっでぃ) | 『荒野の七人』論 | 10:20 | - | - |
『荒野の七人』論〜5.三人の斥候
 村の祭りがはじまります。
 ヴィンとハリーは同じテーブルに着いて、祭りの様子をながめています。
 ヴィンは若い女の姿が見えないことを不思議がりますが、ハリーは意に介していません。
 オライリーは、親に手を引かれて祭りを見物している子どもたちの後ろに控えています。暇つぶしのつもりか、ナイフで笛を作っています。
 試みにその笛を鳴らしてみると、前にいた女の子が振り返ります。
 オライリーはその子に向かって、笛を鳴らして見せます。今度は、他の子どもたちも振り返ります。
 子どもたちは笛とオライリーに興味をそそられたようですが、近寄ってくる子はいません。オライリーの前にいた子も、母親に手を引っ張られて、広場の祭りに顔を向け直します。
 どうやら村の親たちは、危険に巻き込まれることを怖れて、クリスたちガンマンに近づかないよう、きつく言い渡しているようです。
 オライリーはまた笛を吹き、女の子が振り返ると、微笑んで、その笛を差し出します。
 女の子はしばらくためらっていますが、やがてつながれていた手を離してゆっくり笛を受け取ると、手を引っ込めて、また祭りの方に目を向けます。オライリーは優しげな笑みを浮かべて、その子を見つめます。
  ※ オライリーの子ども好きな一面が垣間見える、いい場面です。
    オライリーの子ども好きを表す場面は、この後にも出てきます。
    決して子供好きのするような顔ではない(失礼!)チャールズ・ブロンソンが演じているからこそ、いい味を出していると云えます。
 オライリーの子ども好きな一面が垣間見える場面に続いて、村を下見にやってきた三人の斥候に対処する場面となります。
 クリスはカルヴェラの斥候らしき人物が来ていることを知ると、平然としてブリットのいる裏手に行き、三人の斥候が来たらしいことを教え、彼らを生け捕るよう指示します。
 三人の山賊相手に、大騒ぎする必要はありません。村人たちに山賊が来たことを教えれば、大騒ぎとなって、収拾のつかない混乱を惹き起こしかねません。
 村人たちが祭りに興じているのを幸いに、無用の騒ぎを起こさず、穏便に相手を虜にしようと云うのが、クリスの目論見です。
 ヴィンやハリー、オライリーなどは、なにかが起ったことを察しても、いたずらにクリスの後を追って、なにが起ったのかを問い質すようなことはしません。クリスと同じく、無用の混乱を惹き起こしかねない行動は慎み、いざと云う際に素早く対処できるように、さりげなく、その態勢を整えるだけです。
 経験の浅いチコは、まず、何が起ったかを知ろうと、そのための行動を起こします。その行動が村人たちにどんな影響を与えるかについては、気が回りません。
 空模様を確認し、手袋を引っ張って手に馴染ませるリーのしぐさ、聞いていない振りでクリスの指示を聞き、さりげなく行動に移るオライリー、祭りを見物しているような態度でクリスの行動を注視し、情況を察してガンベルトを装着したり、配置についたりするヴィンやハリー、それぞれの行動が、それぞれが経験を積んだガンマンであることをしめしています。
 ブリットとリーは裏山に登りますが、途中で、三頭の馬を見つけてその近くに身を隠します。
 チコはすでに拳銃を抜き、ふたりとは別の道をとおって、同じ場所にやって来ます。
 ブリットは馬の近くの木の陰に胡座をかいて座り、チコは少し離れたところで腹這いになります。リーはやや離れた下の方で待機しています。
 ブリットは近くの草花を摘んで、無心にそれをいじっています。その様子を、腹這いになったチコが、感心したようにながめています。リーは拳銃の台尻を撫でながら、周囲に目を配っています。
 チコが頰杖をついて油断していると、その足もとから、三人の山賊たちが姿を現します。
 気配に気づいて振り返ったチコは、驚いて、その中の一人を撃ち殺します。
 応戦しようとしたもう一人を、ブリットが倒します。
 村にもその銃声が聞え、村人たちが動揺します。
 生き残った山賊が、懸命に馬を走らせて遠ざかっていきます。
 チコはブリットに駆け寄って弁解します。
 ブリットはチコを制し、両腕を真っ直ぐに伸ばして狙いをつけると、一発で、彼方に逃げ去ろうとしていた山賊を撃ち倒します。
 その伎倆に感嘆し、称賛するチコに対して、ブリットは怒ったように向き直ると、
「ミスった、馬を狙ったんだ」
 と、面白くなさそうに云います。
 チコはまだその必要がないのに、早々に拳銃を抜き、肩に力を入れています。いざと云う際には慌ててしまい、無用の発砲をして、クリスの目論見を壊してしまいます。
 ブリットは木の陰に胡坐をかいて草花をもてあそび、すっかりくつろいでいますが、いざと云う際には、素早く、確実に、相手を倒します。
 ブリットたちの本来の目的は、斥候の山賊を生け捕りにすることです。だからこそ、ブリットは逃げる山賊の馬を狙ったのですが、弾は逃げる山賊自身に当たりました。
 本来の目的からしても、射撃の伎倆からしても、明らかに失敗です。
 自分の伎倆を高めることを最大の関心事とするブリットにとっては、腹立たしいことです。まして、そのことを理解できない相手から、その伎倆を称賛されたり感心されたりするのは、不本意なことです。
 ブリットと違って、リーにはその伎倆を見せる場面がありませんでした。無用に動かないこと、不必要に発砲しないことが、チコと対比されています。
 ブリットとリー、それぞれ違った形で現れてはいますが、事態に対するそれぞれの対処が、プロとしての対処として描かれています。
 チコの対処が未熟であることが、よりいっそう、よりはっきりと、浮かび上がります。
 村では祭りが中断し、みなが不安そうに静まり返っています。
 クリスは、カルヴェラの斥候が三人来た事、おそらくは自分たちガンマンの姿を見ただろう事を、村人たちに明かします。
 鐘楼にいるオライリーの合図で、斥候は三人とも倒したことを知ると、安心したような表情になって、その旨を村人たちに伝えます。
 村人の一人は、いま来られたら、えらいことになる、と、不安がって十字を切ります。
 クリスたちは昨日村に着いたばかりで、カルヴェラたちを迎え撃つためのなんらの準備もできていません。
 クリスはまだ時間に猶予があることを説明して、
「やつらが思いもかけなかった方法で迎え撃って、慌てさせるんだ。食い物の値打ちがどんなに高いか、やつらに教えてやるんだ」
 と、村人たちにハッパをかけます。
| Woody(うっでぃ) | 『荒野の七人』論 | 10:10 | - | - |
『荒野の七人』論〜6.村の防備
 村の防御体制を整える作業がはじまります。
 村人たちに銃やライフルの使い方を教え、石や煉瓦で防壁を築きます。
 村人たちに戦いへの意欲が生じ始めます。
 戦うためにもっと多くの銃を欲しがる村人も出てきます。
 オライリーが、手に入れるさ、と、ぶっきらぼうに云います。
 いま練習に使っているライフルを手に入れたのと同じ方法で、つまり、山賊を倒して、その銃を貰うと云うのです。
 山賊を倒すことによって、相手は人数が減り、こちらは武器が増えます。
 村人の一人は、山賊たちが自分たちに武器を持ってきてくれたことになると知り、「やつらもたまにはいいこともするんだなあ」と、トボけたことを云います。
 ある村人は、防壁を築く作業のときに、カルヴェラが来なかったらみんな無駄になってしまう、はやく来ないかな、などと云います。
 カルヴェラたちを迎え撃つための作業を通じて、村人たちから戦いへの恐怖が取り除かれ、戦いに対する自信が生じつつあります。
 カルヴェラたちとの戦いに対する恐怖は、実際の戦いを体験して生じたものではなく、想像から生じたものです。
 実際に弾を射って的に中てたり、防壁などを構築したり、戦いに対する準備を具現していくことで、戦いに対する想像から生じた恐怖は、自信へと転化していきます。
 それは、いまだ実際の戦いを体験しないうちに生じた、空虚な自信にすぎませんが、空虚な自信でも、自信がないと、戦うこと自体が難しくなります。どんな形にせよ、まずは自信をもつことが、この段階では必要です。自信がなければ、戦うこと自体、不可能です。
 クリスたちガンマンも、村人たちと共同で、カルヴェラたちを迎え撃つための作業に携わります。共同で作業をすることによって、「カルヴェラたちを迎え撃つため」と云う目的が、両者に共通するものとなっていきます。作業にも、その目的を、「共に具現していく」と云う意味が含まれるようになります。
 ある日、クリスたちは村人たちに混じって鍬を振るい、壕を作っています。作業を通して、クリスたちガンマンと村人たちとの間に、連帯する共通の感情が生じつつあることが分かりますが、形成され始めたその感情を、台無しにしかねない出来事が起ります。
 チコが、森で見つけた、不審な娘を連れてきたのです。
 娘の素性を訊ねるクリスに、村人が、村の娘であることを白状します。
 村人たちは、ガンマンたちに見つからないよう、森の中に若い娘たちを隠したのです。村の娘たちを慰みものにされ、村を滅茶苦茶にされることを危ぶんだのです。
 銃を持つカルヴェラたち山賊に虐げられ、略奪されて暮らしてきた村人たちの、ガンマンたちに対する不信の念は、なまなかなことでは消滅しそうもありません。
 厳しい生活は村人たちに楽観を許さず、つねに悪い事態を想起せしめて、可能な限りの予防策を講じる習性を養いました。長老はその習性を、「みんな田舎ものじゃで、見るもの聞くもの、なんでも怖いンじゃよ。」と、表現しました。
 クリスは自分たちが道徳的に疑いを抱かれていても、そのこと自体、気にしている様子はありません。実際クリスたちも、「それぞれ、スネに瑕をもつ身」であり、「教会の集まり」に招かれるような人物ではないのです。
 クリスが気にするのは、最初に村人たちが姿を見せなかったときと同じく、疑われていては仕事にならないことです。相互に疑い疑われている状態では、カルヴェラたちと戦って勝利することはおぼつきません。
 クリスは他のガンマンたちの意見を確認します。
 ヴィンは、
「いることは分かったんだから、どうだい、みんな連れてきたら」
 と、云います。クリス同様、自分たちの道徳的な資質を疑われていることには、無関心のようです。
 チコは気にいりません。
「構わねえ、うっちゃっとけよ。そのうちカルヴェラたちが面倒見てくれるさ」
 と、突き放したように云います。
 クリスは、村の娘たちを連れて来るよう、チコに命じます。
 このまま放っておいて、娘たちがカルヴェラたち山賊に捕えられでもしたら、とても戦いにはなりません。
 村人たちにしてみれば、いやおうなく、クリスたちを信頼せざるを得ません。村人たち個々人の意思はどうであれ、クリスたちを信じるしかないように、状況は動いています。

 もはや身を隠す必要のなくなった村の娘たちが現われ、食事の場面になります。
 ガンマンたちは村の女性たちに給仕され、豪勢な食事を提供されていますが、村人たちが食べているのは、痩せこけた豆だけです。
 村人たちは自分たちにできる限りのことで、ガンマンたちをもてなしています。最初はガンマンたちを警戒して姿を見せなかった村人たちも、しだいにガンマンたちを信頼し、敬意を払うようになってきています。
 オライリーは、平然と食事を平らげているハリーに怒りをぶつける形で、村人たちが貧しい食事に耐えて、自分たちガンマンのために豪勢な食事を提供してくれていることを教えます。
 ガンマンたちは、自分たちに与えられた食事を、村の子供たちに分け与えます。憐憫や同情ではなく、共に事をなす仲間として、自分たちだけが優遇されるのを心苦しく感じる心情が生じてきたのです。
 訓練のあり方にも、最初の頃には見られなかった親近さが感じられるようになってきています。
 カルヴェラたち山賊を迎え撃つ準備を進めていく過程で、ガンマンたちの人柄も明らかになってきます。
 ハリーは、防備を固める作業の合間にも、なんとかして金に関する話を引き出そうと試みます。その試みは、村人たちの猜疑を呼び起こしてしまい、ハリーはその場をつくろって、村人たちの猜疑をかわします。
 ヴィンはことのほか若い女性に関心があるようで、祭りの最中にも、若い娘の姿が見えないことを不思議がっていましたし、チコが見つけた娘にも紳士らしく振舞って、やさしく接します。森に隠れている仲間たちのところに案内するべく、チコと共に遠ざかっていく娘の姿を眺めながら、「やさしくするんだ、やさしく」と、自分に言い聞かせるようにつぶやくのが愉快です。
 食事の場面で、チコが見つけた娘も給仕に現れますが、チコは目を伏せて彼女の方を見ようともせず、給仕してもらっても礼を云おうともしません。
 娘は場所を変えて、チコの目にとまるように給仕しますが、チコはわざと目をそらして、よそってくれた食べ物を食べ出します。娘は怒って、叩きつけるように給仕します。飛び跳ねた食べ物が、チコの顔につきます。チコは目を拭いながら彼女を睨みますが、それでも無言のままです。娘も無言のまま、チコの背をまわって、ヴィンに給仕します。
 二人の様子を見ていたヴィンは、取り繕うような愛想を口にして、笑顔を浮かべます。
 村の子供たちに食事を分けてあげる場面でも、礼を云う子どもに、きれいな姉さんがいないか訊ねたり、拳銃の訓練中に川で洗濯をしている娘たちに見惚れたりと、とにかく若い女性に興味津々です。
 オライリーも初めは、仏頂面で訓練を施していましたが、後にはやさしく、ヤギの乳を搾るように引鉄を絞るんだ、と、村人にも分かりやすい喩えを用いて、ライフルを撃つときのコツを教えます。それでも焦ってしまう村人に、絞れ! と、脅すように云い、もういい、撃つ代わりに、棍棒のように振り回せ、と、突き放すように云うのも、心底怒っているからではありません。うまく教えられないことに苛立っているだけです。むしろその怒りを素直に表せるほどに、村人との関係は密になっています。
 村人も、勉強になった、と、明るく笑います。オライリーが本気で怒っているわけではないことを分かっているのです。
 村人たちは、彼らガンマンたちを、「想像で思い込んでいるガンマン」としてではなく、自分たちと同じ、血肉を具えた、「実際の人間としてのガンマン」として、接するようになっています。村人たちとガンマンたちとの結束が強まりつつあります。
 或る日、クリスとヴィンは、馬を連ねて、村のはずれに住む長老を訪ねます。
 村はずれまでは守りきれないから、村の中に移ってもらうよう、頼みに来たのです。
 長老はなんだかんだと云って、いま住んでいるところを動こうとしません。
 カルヴェラとの戦いに備えて村中が動いている現在、長老の出る幕はありません。
 長老の役目は、村人たちをカルヴェラたちとの戦いに決起させることであり、やって来たガンマンたちと村人たちとを仲介して両者を結束させ、カルヴェラたちと戦える状態をつくりだせるように運ぶことでした。
 村人たちとガンマンたちとの結束が強まり、カルヴェラたちと戦う準備が固まりつつあるのを見て、長老は、自分の役目が果たされ、終ったことを理解します。
 後はガンマンたちの出番です。上手く村人たちを統率して、カルヴェラたちに勝利しなければならないのです。
 予想されるカルヴェラたちの襲撃を、「面白いこと」と云い、自分のような年寄りを殺すのは弾の無駄遣いだ、と、平然としていられるのも、村や村人たちに対する自分の役目を果たし終えた実感を抱いているからです。
 長老は逆に、クリスたちのことを心配します。長老は、これから苦労しなければならないのは、クリスたちであることを理解しています。
 長老の住まいからの帰り道、クリスとヴィンは、村を見渡せる高地で馬を止めます。
 施した防御を、戦う意志の表れと看破されるかどうか、ヴィンがクリスに訊ねます。
 クリスは、溝は畑用だと思うだろうし、壁は村の手直しだと思うだろう、仕掛けた網までは見ないだろう、と、楽観しますが、その表情は、厳しくしかめられています。
 クリスの楽観は、カルヴェラたちがいつものとおりに来れば、と云う、「もし」が、前提になっています。
 その「もし」と云う前提自身の危うさを、ヴィンが指摘します。クリスもその危うさを認めます。
 ふたりとも、できるだけのことはしましたが、勝利への確信はもてていません。ヴィンは長老の心配を冗談で受け流しましたが、その心配を杞憂と受け流すことはできません。長老の心配は大いに核心をついています。
| Woody(うっでぃ) | 『荒野の七人』論 | 10:05 | - | - |
『荒野の七人』論〜7.カルヴェラたちの襲来
 カルヴェラたちがやってきます。
 村に入ってきたカルヴェラは、中央の広場でクリスたちと対峙します。
 カルヴェラは斥候たちが戻ってこなかったわけが分かり、クリスたちが雇われてきたことを知ります。
 周囲にはたくさんの防壁が作られています。カルヴェラは越えて中へ入れると云いますが、クリスは出さないために作ったと応じます。
 カルヴェラたちを警戒させることなく、いつもどおりの心づもりで村に来るよう誘っておいて、防壁や隠し網で退路を妨害し、いわば袋詰めの状態で戦い、あわよくば壊滅するか、あるいはそれに近い打撃を与えようと云うのが、クリスの作戦です。
 カルヴェラは、クリスたちを包囲するよう、部下に指示します。部下が散開してクリスたちを囲みます。
 カルヴェラは彼我の人数差から、自分が優位にあると判断しています。カルヴェラたちは四十人です。クリスたちは三人か四人で、村の資力では、とてもそれ以上は雇えまいと踏んでいます。
「一山幾らで買われたんだ」
 と、ハリーが物陰から姿を現し、リーが続きます。
 ひとりひとりと交渉して雇うとなればその賃金は高くなるでしょうが、何人かを一括して雇えば、その賃金は安くなります。カルヴェラが思っているほど少人数ではないと云いたいのでしょうが、それでも五人です。
 カルヴェラが、「俺たちの敵じゃない」と云うのも、もっともです。四十人と五人とでは大きな開きがあります。
 クリスは、争い事は好まない、引き取ってくれと求めますが、カルヴェラが承知するはずもありません。
 カルヴェラたちは寒い冬を山中で暮らさねばなりません。食べ物が必要です。この村でそれを調達できなかったら、どうすればいいのかと云うのです。
 自分で作れ、と、チコが現われます。
 続いてオライリーが、それとも働いて稼ぐか、と、屋根の上から云います。
 そのどちらも、カルヴェラの選択肢にはありません。カルヴェラはすでに、労少なく、確実に、必要な物資を調達する手段を見つけて、それを実行しています。いまそれに抵抗し、妨害しようとする意図が現れましたが、相手となるガンマンは七人です。村人たちは大勢ではあっても、戦いを知らない農民たちです。カルヴェラはその抵抗や妨害を排除するのに、大した労苦や危険がともなうとは思いません。
「これで話し合いがつくと思ったら大間違いだぞ」
 クリスもヴィンも、おとなしく話し合いがつくとは思っていません。
「俺たちは話し合いは苦手だ」
「飛び道具が得意でね」
 ヴィンのその言葉に、カルヴェラは調子をやわらげます。
「じゃあ同じ商売じゃないか」
「商売敵だな(only as competitors)」
 ヴィンは軽く首を振り、カルヴェラの言葉を否定します。
 カルヴェラはヴィンが口にした、「商売敵(competitors)」という言葉の意味を、深く考えません。
 村の人々は、自分たちの生活に必要な物資は、自分たちで生産しています。あるいは自分たちが生産した物資の余剰を、生活に必要な他の物資と交換して、その生活を維持しています。
 クリスたちは銃の伎倆を提供し、それによって得た対価で生活を支えています。
 ともに「労働」であり、カルヴェラたちが行っている「略奪」ではありません。
 たとえ銃の伎倆を売り物にできなくなっても、ヴィンは雑貨屋の店員か酒場の用心棒となることを厭いませんし、オライリーは薪を割って朝飯代の代わりにし、ブリットは家畜の運搬に雇われながら、伎倆の向上に努めています。
 生活に必要な物資は、自分たちで作るか、働いて稼ぐか、それがクリスたちの考えです。クリスたちにすれば、銃の力で無力な村人をおどしてその物資を略奪するのは、自分の銃の伎倆を自分で無価値にすることであり、自分自身を貶めることです。
 クリスたちの商売は銃の伎倆を売って対価を得ることであり、この場合、売った伎倆の使い道は、カルヴェラたちを村から永遠に追い払うことです。
 同じく銃を生活のための道具としながら、銃で略奪を行うカルヴェラたちを、銃で追い払うのが、クリスたちの商売であり、カルヴェラたちとクリスたちが、「商売敵」であることの意味です。
 「商売敵」というヴィンのセリフが示すように、一見、クリスたちとカルヴェラたちは、相互に敵対しあっているように思われます。
 ですが実際には、クリスたちが存在する意味は、カルヴェラたちの存在にかかっています。
 合衆国の産業の発展にともなって、共同体の自衛組織が整備され、カルヴェラたちのような略奪者が駆逐されていくにしたがって、クリスたち流れ者の雇われガンマンの就業の機会も減少していきます。クリスたちがその伎倆を発揮し、自分たちが存在する意味を得るには、カルヴェラたちのような、略奪者の存在が必要です。
 カルヴェラたち略奪者が西部地域から姿を消さざるを得なくなるとともに、クリスたちもまた、そこから姿を消さざるをえなくなりました。
 クリスたちが存在する意味は、カルヴェラたちのような略奪者の存在から生じ、その存在に依存しています。自分たちが存在する意味を生じさせ、その存在を支えている相手を滅ぼすことこそが──逆説で皮肉なようですが──、クリスたちの存在する意味です。
 しかしいま、カルヴェラたちをメキシコの寒村の略奪へと追いやり、時代の流れから消滅させていこうとしている根源の力は、クリスたちの働きではなく、合衆国の産業の発展です。
 クリスたちもカルヴェラたちも、合衆国の産業の発展にともなって、その存在の基盤を失いつつあります。両者はともに、おなじ原因によって、その存在を否定されつつあります。
 カルヴェラはヴィンの言葉には取り合わず、手を組もうじゃないかと持ちかけます。なんでも、最後の一粒まで、自分たちと同じに分けてやる、と云うのです。
 お互いに力を誇示していますが、戦いが避けられれば、それに越したことはありません。戦えばカルヴェラたちにも被害は生じます。カルヴェラにしてみれば、勝つと分かりきっている戦いで被害を受けるよりも、クリスたちを懐柔して戦いを避けるほうが、はるかに賢明です。
 カルヴェラには、クリスたちも自分たちと同じく銃を生計の道具にしている者たちで、対等の分け前さえ保証すれば、村人たちを捨てて、自分たちと手を組むと思われます。
 村人たちに雇われて自分たちと敵対し戦っても、いたずらに命を危険にさらすだけで、利益はありません。それよりもむしろ、自分たちと手を組んで略奪の分け前にあずかるほうが、クリスたちガンマンにとっても好都合だろうと思われます。
 チコが横合いから、村の連中はどうなる、と、口をはさみます。
 村の連中がどうなるかは、カルヴェラの知ったことではありません。
 カルヴェラにとって村人たちは、略奪の対象──自分たちが必要とする物資を提供させるだけの存在──にすぎません。カルヴェラは村人たちが自分たちに必要な物資を提供できさえすればそれでいいのです。その境遇や思いには関心がおよびません。
 それをカルヴェラは、
「神さまの思し召しだ。羊には羊の役目があるから、おつくりになったんだぞ」
 と、いかにも彼らしく表現します。
 カルヴェラには、村人たちには抵抗する力もなく、略奪の対象となることにしか、その存在の意味はないように思われます。
 略奪をこととして生きているカルヴェラにとっては、当然の考えです。
 クリスとカルヴェラとの「話し合い」が実を結ぶはずもありません。
 クリスは銃を捨てて退去するよう要求します。カルヴェラを戦いに誘い込むための挑発です。
 カルヴェラの一声に手下たちの銃が火を吹き、ヴィンが素早くそれに応射して、戦いがはじまります。
 カルヴェラはクリスの挑発に乗せられ、思いがけなくも戦いを開始することになりました。クリスたちは周到な準備のもと、カルヴェラたちに打撃をあたえます。
 クリスたちはまず、自分たちを包囲していたカルヴェラの手下たちを狙い、その包囲網を攪乱します。
 カルヴェラたちは、多勢がかえって仇になります。突如の戦闘開始に混乱し、有効な反撃ができません。なんとか散開して村の中を駆けまわりますが、隘路に隠されていた罠の網にからまって落馬したり、物陰から狙われたり、屋根のうえから撃たれたりと、思わぬ被害をこうむります。
 新しくできた防塁がカルヴェラたちの行動を妨害し、クリスたちにとっては身を隠す遮蔽物となります。
 村人たちも必死で戦います。
 形勢不利と察して、カルヴェラもその手下たちも、村を離れようとします。
 逃げるカルヴェラたちを、クリスたちガンマンや村人たちの弾が襲います。防塁が馬の足を遮り、罠が行く手を阻みます。物陰に隠れた村人の鎌や棍棒で倒される山賊たちもいます。
 ヴィンが逃げるカルヴェラを見つけ、素早く馬にまたがって、騎乗のままライフルを放ちつつ、その後を追いかけます。
  ※ この戦闘場面をはじめとして、身軽で俊敏な演技を見せるマックイーンを監督のジョン・スタージェスがいたく気に入り、彼にばかりいい場面をあたえるので、ユル・ブリンナーが御機嫌をそこねたエピソードは有名です。
 ヴィンの追跡も及ばず、カルヴェラたちは、土埃を舞い上げて、去って行きます。
 ヴィンは村外れで馬を下り、彼方に去っていくカルヴェラたちを見つめます。
 戦いは終りました。
 村人たちは必死で戦い、カルヴェラたちを撃退したのです。
| Woody(うっでぃ) | 『荒野の七人』論 | 10:00 | - | - |
『荒野の七人』論〜8.戦いの後
 カルヴェラたちを撃退できたことで、村人たちは、戦いに対する自信を強めました。
 それまでの、思い描いていた戦いに対する恐怖が強ければ強いほど、実戦を経た後での戦いに対する彼らの自信は、強くなります。実際に戦ってみれば、思っていたほど恐ろしくもない、と、思えるのです。
 一方で、ソテロのように、かつてない恐怖を体験した村人たちもいます。彼らにしてみれば、それまでの、思い描いていた戦いに対する恐怖が、実際のものとなって襲ってきたのです。
 かつてない恐怖を体験しながらも、ソテロたちは、もう二度と同じような恐怖を体験することはない、これでカルヴェラたちは他所の村へ行くだろうと、安心しています。
 このまま無理矢理この村を襲い続ければ、カルヴェラにも被害が生じます。それよりも、抵抗されることのない、同じような村を新たに見つけ出して襲うほうが、カルヴェラたちにとっては得策なはずで、カルヴェラたちはきっとそうするだろうと信じています。
 ソテロはクリスとヴィンに対して、友だちと呼びかけ、村のために命を懸けて戦ってくれた恩人、と、感謝の言葉をささげます。
 ソテロと村人たちが、クリスとヴィンに謝意を表し、乾杯しようとしていたところに、一発の銃声が響いて、村人の一人が手にしていたカップが砕かれます。
 銃声が続き、麻袋や壁に銃弾が中ります。
 カルヴェラはこの村を諦めたわけではなさそうです。ソテロの思惑ははずれました。その表情が、忌々しげに、不安げにゆがみます。
 銃声のする村はずれに、クリスやヴィン、ブリット、オライリー、チコ、それに村人が一人、集まります。
 様子を窺いますが、敵の姿は見えません。銃声から、クリスが敵は二人らしいと推測しますが、ブリットは三人だと断言します。
 突然チコが、敵を挑発するようかのように身をさらし、銃を撃たせます。
 チコはいったん隠れますが、再び敵の視界に躍り出ます。銃声がとどろき、チコは帽子を撃ち飛ばされ、慌てて身を翻して、石壁の陰に伏せ隠れます。
 ヴィンもオライリーも、その無謀な行動に呆れ返ります。
 敵の正確な人数を知ることは、重要な意味をもっています。チコの行動は、敵の人数を知るためには有効な方法ですが、他面、無謀な行動でもあります。自らを的にして敵に銃を撃たせることで、その人数を確認するのです。命を落とす危険が充分にあります。ここで命を落としてしまえば、たとえ敵の人数が分かったとしても、クリスたちにとっては大きな痛手になります。
 ヴィンにもオライリーにも、それが分かっています。
 未熟なチコには、勇気と無謀との区別がつきません。敵の人数を確認するために有効と思えば、危険をかえりみず実行するのがガンマンとしての勇気だと、勘違いしています。
 結果として、チコは命を落とすことなく、敵が三人であることが分かりました。
 人数は分かりましたが、その姿は見えません。
 クリスたちは分散して、索敵に向かいます。
 オライリーが残って後詰を引き受け、チコは裏手を、ヴィンと村人が一方を、クリスとブリットが他方を受け持ちます。

 オライリーのところに、三人の村の子どもたちがやって来ます。
 オライリーは驚き、危ないから帰れと叱りますが、子どもたちは帰ろうとはしません。
 危ないのはおじさんだって同じだと云うのです。
 オライリーが危ないところにいるのは、それが仕事だからであり、プロのガンマンだからです。ガンマンである以上、危険は付き物です。チコのように、いたずらに危険を冒すのはたんなる無謀と異ならず、プロとしては失格です。しかし、危険を恐れていては仕事になりません。危険と安全のギリギリの境界を察して、そのギリギリの境界で仕事をこなすのが、プロとしてのガンマンです。オライリーたちは、ガンマンとしての厳しい生活──まかり間違えば命を落とすほどの危険な生活──を経ることによって、プロとしての伎倆と感覚を磨いてきています。
 社会での諸関係に巻き込まれていない子どもたちには、村の大人たちや、ガンマンたちの感じる深刻な危険や怖さは、感じることも、理解することもできません。
 子どもたちは、危険や怖さを感じることも理解することもできず、危ないから隠れているよう云われても従いません。危険や怖さを感じないことが、危険や怖さに対する無知であり無感覚であることを理解できず、勇敢だからだと勘違いしています。
 三人の子どもたちがオライリーのところに来たのは、くじ引きの結果、彼らがオライリーに当たったからです。子どもたちはくじ引きをして、それぞれ担当のガンマンを決めました。子どもたちはそれぞれ担当のガンマンが殺されたら仕返しをし、そのガンマンの墓にいつも綺麗な花を飾ってその死を弔うと云うのです。
 子どもたちにとってガンマンのおじさんたちは、カルヴェラたちと戦う、勇敢なおじさんたちです。子どもたちは、自分たちもガンマンのおじさんたちと同じく勇敢であると思っています。ガンマンのおじさんが殺されたら仕返しをし、その墓をいつも綺麗に飾っておこうとするのは、ガンマンのおじさんたちに対する、子どもたちなりの、仲間意識であり、好意の表れです。
 それを聞いて、しかし、オライリーの表情は渋くなります。
 子どもたちは社会での諸関係が希薄であり、それゆえに悪意がありません。言い換えれば、悪意を生ずるほどに、社会での諸関係を形成する立場にありません。一方、それゆえに、深刻な危険や怖れを感じたり理解したりすることができず、人の死や戦いに対する深刻な関心も生じません。
 オライリーの経てきた生活では、他人との関係のほとんどは、金銭による繋がりでしかありませんでした。たとえ銃の伎倆を買われて雇われたとしても、敵はもちろん、その雇主や味方からでさえ裏切られ、あるいは死を望まれるような事態すら、幾度となく、味わってきただろうと思われます。
 その体験の積み重ねが、子どもたちの好意の単純な表れをも、素直に受け入れられなくさせています。なにやら自分が死ぬことを愉しみにしているように、或いはカルヴェラたちとの戦いを、なにか面白い見世物とでも思っているかのように感じさせます。
 不愉快になっても、子どもたちを相手に、その不愉快さをぶつけるわけにはいきません。オライリーの口調は皮肉っぽくなります。
 子どもたちには、オライリーの皮肉は通じません。オライリーの皮肉な言葉を、言葉どおりの意味に受け取り、オライリーが喜んでくれたものと思って、喜んでいます。
 子どもたちは、自分たちの考えをオライリーが喜んでくれたことが、自分たちがオライリーの役に立てたことが、そのこと自体として、嬉しいのです。
 子どもたちは、勇敢な仕返しや、墓を綺麗に飾って死者を弔うことを望んでいるのではありません。単純に、オライリーの役に立ち、オライリーに喜んで貰いたいのです。
 その気持ちがオライリーにも伝わり、その表情が嬉しそうにゆるみます。
 おそらく、このような好意を抱かれた体験は、オライリーのこれまでの生活の中では、なかったことでしょう。

 ヴィンと村人が、山頂付近に姿を現します。
 ふたりは木の傍の岩陰に腰をおろして、敵手をうかがいます。
 ヴィンの息が荒くなっています。
 見えるか、と問う村人に、いいや、と、答えます。胸が波うっています。
 村人はしきりにヴィンに話しかけます。怖くて堪らないのです。手にはビッショリと汗を掻き、口はカラカラに乾いています。
 ヴィンは静かに相手になっています。
 村人は怖れを感じていることを、率直に口にします。子どもたちと違って、村人は、自分が怖れを感じていることを理解しています。
 怖れる「なにか」がなくては、怖れは生じません。その「なにか」を捉えてはじめて、その「なにか」に対する怖れが生じます。その「なにか」が、なんなのかよく分からず、そのゆえに怖れが生じる場合もあります。その場合にしても、その「なにか」を、「なんなのかよく分からない『なにか』」として、捉えています。
 子どもたちが怖れを感じないのは、怖れを生じさせる「なにか」を、捉えることができないからです。
 村人は、それを明確に「なに」と云うことはできないにしても、怖れを生じさせる「なにか」を捉えて、怖れを感じています。
 ヴィンは、こんなことなら、カルヴェラの好きにさせたほうがよかったか、と、問います。
 そのほうがよかったかもしれないけれども、どちらとも云えない、と云うのが、村人の答えです。
 カルヴェラに逆らわなければ、現在感じているような恐怖に襲われることもありません。
 そのかわり、カルヴェラの御機嫌を伺って、ビクビクしながら、物資を略奪されるままになっていなくてはなりません。
 どちらがマシかなどと云う答えは出せませし、そのような問い自体、無意味です。
 すでに戦端が開かれた以上、後悔は無意味です。
 村人も、カルヴェラたちと戦い始めたことを後悔しているわけではありません。後悔しているのかどうかすら、はっきり分からないのです。村人の怖れは、戦いを始めたことに対する村人の後悔を誘いません。
 村人の怖れが、戦いを始めたことに対する後悔を生じさせているわけではないことを確認できたところに、ヴィンの問いの意味があります。
 村人は、戦いを始めたことは後悔していませんが、カルヴェラたちに反撃されて、どんなことをされるかと思うと怖くて堪らず、さっきまでは自信タップリで、張り切って追い払ったのに、なぜいまでは怖くて堪らないのか、不思議に思います。
 村人は、自分が怖れを抱いていることや、その怖れの中身を認め、後悔するのではなく、さっきまで確信していた自信が消え去ったことに疑問を感じています。
 村人は、ただたんに、現在の怖れから逃れようとしているのではなく、その怖れを打ち消して、再び自信と張り切りを取り戻したいと望んでいるのです。
 自分の抱いている怖れと向き合い、それがなぜ生じたのかを考えることで、村人はそもそもこの戦いを始めた理由を再確認します。それによって、村のためなら死んでもかまわない、と云う決意が生じます。
 村人は、村のため、と云う、当初の理由を再確認することで、自分を支配している怖れを打ち消し、再び自信と張り切りを取り戻そうとします。
 そんな村人を、ヴィンは、「立派だよ」と評します。
 ヴィンも、撃ち合う前には、毎回、手に汗をかきます。村人の怖れを理解して、静かに話し相手にもなってやります。
 ヴィンも、村のためなら死んでもかまわないと云う村人のような気持ちになったことがありました。遥か昔のことです。ガンマンとしての厳しい生活を重ねるうちに、そんな気持ちを抱くこともなくなりました。
 村のためなら死んでもかまわないと決意する村人を、立派だよと評するヴィンの口ぶりからは、そう決意できる心性を羨む気持ちすら感じられます。

 チコのところにも村人が来ます。チコが山の中で見つけた、村の娘です。
 娘はチコを気遣って、危ないことをしないでくれと頼みます。
 チコは山賊との戦いの最中、見張りのときに、女性と一緒にいるところを他の人に見られることを気にして、娘を返そうとします。
 娘は初めて会ったときに暴れたことを謝ります。
 娘は、チコを怖がったのではありません。父親を怖れていたのです。
 娘は父親に、何をされるか分からないから、ガンマンたちには近づかないよう、厳命されていたのです。その厳命を守らなかったときに生じる仕打ちが、娘を怯えさせていたのです。
 農民たちは、儘にならぬ大自然を相手にして生産活動に従事し、その生活を維持しています。大自然のなかにあって、最も力弱い動物である人間がその生存を維持するためには、互いに連携協力し、団結を硬くして、その生産力を維持向上させなくてはなりません。
 そのような共同体では──農耕主体、狩猟主体を問わず──、共同体員を統率する長の存在が必要になります。同様に、各家族においては、その家族の紐帯団結を強固にするために、家長の権限が強大になります。
 娘は家長である父親の判断を是とし、その権威に従っていました。娘の父親によれば、チコたちガンマンは、何をするか分からない無頼の徒でした。娘もその父親の判断を信じていました。しかし、実際の彼らは、安い賃金で雇われているにもかかわらず、村人のために、命懸けで戦う人々でした。娘の心中に父親の判断に対する疑問が生じます。娘は村人たちのために懸命に戦うガンマンたちの姿を見て、父親に教えられていた、ガンマンたちに対する自分の考えが誤りだったと考えます。カルヴェラたち山賊と、命の危険を顧みずに戦うチコに、娘は惹かれていきます。その行動は、クリスたちプロのガンマンたちから見れば、素人じみた無謀な行動でしょうけれども、戦いの実情を知らない若い娘の心をときめかせるには、充分なものなのでしょう。
 チコに会いに来ていることは、すでに父親にも知られています。いまや娘は、父親の怒りも仕置きも怖れていません。一途にチコの身を案じています。
 その娘の思いの強さに、チコはとまどいを覚えます。
| Woody(うっでぃ) | 『荒野の七人』論 | 09:50 | - | - |
『荒野の七人』論〜9.村人たちの不安
 夜になり、村人たちが集まっている部屋に、クリスたちが入ってきます。
 反撃を試みた山賊たちはみなやっつけました。
 とりあえずカルヴェラたちの反撃は阻止したわけですが、村人たちの心配は消えません。
 村人たちは、カルヴェラたちと一戦交えて追い払ってしまえば、カルヴェラたちは他所の村へ行くだろうと期待していたのですが、どうやらそれは期待はずれに終りそうです。
 カルヴェラたちがまだ襲ってくるかどうか、確かなところは、クリスにも分かりません。ただ、そう遠くへは行っていないはずだ、と云うのが、クリスの判断です。
 村人たちはいままでに戦いを体験したことがなく、戦いに関する判断については、クリスたちガンマンを頼り、信頼せざるを得ません。
 村人たちの怖れと不安が高まります。戦いに対する決意を固め、動じずにいるのは、ヒラリオだけです。
 カルヴェラたちが逃げ出さず、まだ村を襲うつもりでいるらしいことは、村人たちにとっては意外なことであり、怖しいことです。まだ戦いが終ったわけではないこと、それどころか、いよいよ激しい戦いに直面するだろうことを、村人たちは感じ取っています。カルヴェラが逃げずに来襲してくると思うと、昼間の戦いにおいて体験した怖しさが甦り、再びその怖しさを実際のものとして体験することになるのではないかと、不安になります。
 村人たちはこの事態にどう対処したらいいか分からず、どうするかをクリスに訊ねます。
 クリスは逆に、どうしたらいいか、訊ね返します。
 クリスたちは村人たちに雇われている身です。どうするかは村人たちが決めることです。自分たちの村を、生活を守るために、自分たちがどうすればいいのか、どうするべきなのかは、村人たちが自分たち自身で決めることであり、自分たち自身で決めなくてはならないことです。
 敵手の出方を待つよりないだろう、と云うのが、村人の意見です。
 クリスもその意見に賛成します。
 カルヴェラたちが来襲してくるのか、それとも逃げ出すのか、現在の段階では確然とした判断は下せません。カルヴェラたちの意図が分からず、先の見通しに確然とした判断が下せない以上は、対処のしようがありません。
 いまのところは、来襲に備えて見張りを怠らず、敵手の出方を待つよりありません。
 先のことに確然とした見通しがつかず、対処のしようのない中途半端な状態が、村人たちの不安を増幅します。
 村人の一人は、もしクリスがカルヴェラの立場だったら、村に対する襲撃を諦めて、他所へ行ってしまうかどうか、クリスに訊ねます。
 村人には、拳銃使いであるカルヴェラの心境は推察できません。クリスなら、同じ拳銃使いとして、現在の立場にあるカルヴェラの心境を推察できるだろうと云うのでしょうが、たんにそれだけの意味の質問ではありません。
 村人は、これだけ手下を殺されたんだ、行くよな、と、言葉を続けます。
 村人は、カルヴェラは逃げるはずだと確信しているのではありません。このまま逃げて行って欲しいと願望しているのです。カルヴェラと同じく拳銃使いであるクリスが同意すれば、村人の願望は確信に近づきます。村人はクリスの同意を得ることによって、カルヴェラは逃げるはずだと確信して、増幅する不安を払い除けたいのです。
 クリスは、自分だったらこの村を諦めて他所へ行くが、自分はカルヴェラじゃない、と、云います。
 カルヴェラの考えは、カルヴェラ自身に即して推測しなければなりません。個々の事例においてカルヴェラが示してきた反応や、これまでのカルヴェラの生き方における細かな事実を、情報としてできる限り多く集積し、丹念に分析し検証する以外に、カルヴェラの考えを精確に推測することはできません。
 もしAがBだったら、と云う形の推測は、実際には意味がありません。
 ガンマンはその仕事柄、なんども、相手の考えや行動を推察する必要に迫られます。その推察の適否は、命にかかわります。相手の考えや行動を的確に推察するのは、生き延びるために必要な、ガンマンの能力のひとつです。安易な仮定にもとづく判断で行動していては、しばしば窮地に立たされ、命を危うくする事態を招来します。
 クリスは、ガンマンとしての厳しい生活の中で、仮定で相手の考えや行動を推測することの無意味さを、体験として感じ取っています。
 村人の不安は払い除けなければなりませんが、安易な気休めでその不安を払い除けることはできませんし、できたとしても、事態はかえって悪くなるばかりです。
 村人たちにとってクリスの反応は、決して満足のできるものではありませんでした。村人たちの不安は増幅し、戦いを忌避する心情へと転化しつつあります。
 その雰囲気を感じ取って、ヒラリオは見張りの交替を促し、ソテロは食事の支度を云い付けます。
| Woody(うっでぃ) | 『荒野の七人』論 | 09:45 | - | - |
『荒野の七人』論〜10.ガンマンの生き方
 クリスたちガンマンは、別室に行きます。
 村人たちのあいだに、厭戦気分が生じ始めていることを、彼らも感じ取っています。
 そこへチコが興奮して入ってきます。チコはクリスに向かい、反撃してきた山賊を倒したときの腕前を称賛します。
 クリスは無反応です。クリスには、チコの相手をしていられる余裕はありません。村人たちのあいだに拡がりつつある厭戦気分を払拭し、彼らの闘争心を再燃させなければなりません。いったん戦いを始めたからには、厭になったから途中で止めると云うわけにはいきません。どちらかが倒れるまで、戦わなければならないのです。村人たちは、倒されるのを怖れて戦いを忌避しつつありますが、それはカルヴェラたちに降伏し、そのなすことをすべて受け入れ、服従することを意味します。それは、自ら倒されることであり、倒されるのを早めることでしかありません。
 戦いを忌避する心情は、村人たちが雇ったガンマンたちを、もはや無用の存在へと転化させ、ガンマンたちをも忌避する心情へと拡大します。クリスたちガンマンは、彼らを雇うためにあるもの全部を出し合った村人たちからも、無用の存在と見做され、忌避されようとしています。
 チコは村人たちとのやり取りの場にいなかったせいもあって、クリスの心情を察することはできません。一人、はしゃいでいます。
 ブリットが山賊のかぶっていたソンブレロを投げてやり、チコをクリスのほうから引き離そうとします。クリスの心情を察しているブリットやヴィンは、チコをクリスにまといつかせておくわけにはいきません。かといって、面と向かってクリスの心情を説明するわけにもいかず、叱り付けて黙らせるわけにもいきません。ソンブレロでチコの注意を逸らします。
 チコはソンブレロが気に入ったようです。ソンブレロそのものがと云うよりも、それを、ガンマンとして憧れているブリットに貰ったこと、同じくその仲間であるヴィンに似合うと云われたことが──ヴィンにしてみれば、チコの気を逸らすためのおざなりの対応でしかなかったでしょうが──、嬉しいのでしょう。チコはブリットやヴィンの対応を、彼らが自分を仲間として認めていることの表れと感じ、喜びとなります。
 チコは「いまに俺たちと帽子の歌ができる」と云います。この村のような山奥では、なにかあるとすぐに歌を作り、それを何年も歌うんだ、と云うのです。
 他の共同体との交流に乏しい山奥の村では、千年一日のような単調な生活が繰り返されます。そんな共同体に大きな出来事が起こると、それに携わった人物などを歌にして、その記憶を伝承していきます。歌は、老若男女や学問の有無にかかわらず、みなに親しまれ、みなが口ずさむことができます。歌うための特別な訓練や道具も要りませんし、伝承していくための保存保管の必要もありません。人々は日々の暮らしの中で、その歌を口ずさみます。歌は人々の暮らしに密着し、孫子へと伝えられていきます。民謡や労働歌は、元々は、そのようなものとして発生したものと思われます。人々はそのような歌を通して、大きな出来事に携わった人々の功績を称え、自分たちの誇りとし、あるいは自分たちの生き方の手本とします。
 「いまに俺たちと帽子の歌ができる」と云うチコに対して、クリスは、「それはどうかな。銃の扱いを教えただけだ。大したことじゃない」と云います。
 自分たちは歌にしてもらうほど価値のあることをしてはいない、というわけです。
 ヴィンもブリットも、無言でクリスの言葉に同意しています。
 クリスは、無用の存在となりつつある自分を意識し、銃ひとつで生きてきた自分自身の生き方を否定し、価値のないものと見做すようになってきています。他のガンマンたちも、そのクリスの心情に共感しています。
 チコはクリスに食ってかかります。銃ひとつで生きてきたくせに、その銃の使い方を教えることが大したことではないと云うのは、チコには納得できません。それは、チコにとっては、クリスたち自身の生き方を否定し、無価値なものと見做していることを意味するだけではありません。クリスたちにあこがれを抱いているチコ自身の生き方をも否定し、無価値なものと見做していることをも意味しているのです。
 ヴィンが、銃ひとつで生きることがどう云うことかを、チコに説明します。
 ヴィンをはじめとするガンマンたちの言葉を通して、銃ひとつで生きていくことの意味が、彼らがそれをどう捉えているかがしめされます。
 まずはバーテンと博打屋に、「二百人くらいの」親しい知り合いができます。
 酒場や博打場は、ガンマンたちが仕事を得るための、あるいはその腕前を見せるための、格好の場所です。そこでガンマンとしての伎倆を認められれば、その伎倆次第で、いくらでも派手で豪勢な生活が、「五百ドルの部屋を借りて、メシ代に千ドルかける」ような生活ができます。
 しかしその生活には、「家も、女房も、子どもも……なし」です。「見通しはゼロ」で、「骨を埋める国は、なし。頼ってくれる人も、なし。敬う人も恩師も、なし」です。「侮辱に耐えることも、なし。敵も……なし」です。
 それは、社会での人間関係から孤立した生き方です。
 生活は不安定で、先行きの保証もありません。信頼に基づく人間関係とも無縁で、死んでも悲しんでくれる者も悼んでくれる者もなく、道端に転がったままで放っておかれることすらあります。
 社会が銃の伎倆を必要としたときだけ、かろうじて社会との関わりが生じます。その関わりも一時のもので、必要を充たせば、再び社会の活動から離れた位置に立たされます。
 皮肉な事実ですが、彼らの「敵」だけが、彼らを社会につなぎとめ、「敵」の存在が、彼らに、彼らの存在する意味を与えます。
 リーが、「敵も……なし」と云ったとき、クリスが、「敵も?」と、訊き返したのには、そういう意味があります。クリスにしてみれば、敵がいなければ、自分たちが存在している意味がありません。リーが云うのは、伎倆の優れたガンマンには、敵として意識する人間はいない、と云う意味です。
 リーが、「生きてる者は」と答えたのには、そう云う意味があります。リーとクリスは、「敵」と云う同じ言葉を、異なる意味で使っています。
 彼らの会話は、チコに銃ひとつで生きていくことの意味を教えると同時に、自分たちの生きてきた過程を再確認する意味も持っています。
 チコは、クリスたちガンマンたちの話を聞いて、「すげえ。男と生れたからには、こうでなくちゃ」と、感激します。
 チコは、家庭の幸せや将来の生活を保障されるような堅実で安定した人生よりも、だれにも頼らず頼られず、自分の銃ひとつで派手で豪勢な生活を獲得できる人生のほうに、男の生き方としての魅力を感じます。
 クリスも、若い頃はそう思いました。現在では違います。
 若い頃には、だれにも頼らず頼られず、自分の伎倆だけで豪勢な生活を獲得することが、なにものにも縛られない自由な生き方と思われ、そのような生き方に魅力を感じ、あこがれをいだきます。
 しかしそれは、社会の実情を知らない、若さゆえの錯覚です。
 クリスたちはガンマンとしての生活を経てくるうちに、若い頃に思った生き方が、実は社会から切り離され、孤立していく生き方であったと感じるようになっています。自分で選んだと思っていた自由な生き方は、じつは、社会から切り離されて孤立していく生き方であり、それは自分の意志とはかかわりなく、時代の流れによって、社会の変化によって、いやおうなくそうならざるをえない生き方であることが、クリスたちにもおぼろげに感じられるようになっています。
 そんな生き方の結果としてクリスたちが獲得したものは、優れた銃の伎倆だけです。その銃の伎倆も、もはや必要とされることもなくなっています。クリスたちは使い道のない優れた銃の伎倆を有したまま、家族もなく、生活の保証もなく、社会での人間関係を失い、社会から孤立したまま、老い朽ちて行かなければなりません。
 ヴィンも、そして他のガンマンたちも、同様の感じを抱いています。
 クリスたちの心情を変化させた根本は、合衆国における産業の発展です。
 産業の発展は、町の整備を推し進め、自衛力を組織して強化せしめ、クリスたちのような雇われガンマンからその職を奪い、その存在を無用のものとします。仕事にあぶれたガンマンたちは、産業の発展が未熟な国境の町などに、職を得る機会を、自分たちが必要とされる機会を得るために、やってきます。クリスたちはそこで、メキシコの寒村を山賊たちから守ると云う仕事を得ました。村にあるもの全部を出し合って雇われたクリスたちは、しかし、それほどまでにして自分たちを必要としていた村人たちからさえも、忌避されるようになりつつあります。
 その孤立が、クリスたちに、自分たちの生き方を否定し、価値のないものと見做すように、その心情を変化させています。その変化が、意識の表面には、若い頃とは考えが変わった、と云う形で表れてきています。
 クリスたちの思いは、ガンマンとしての伎倆も経験も未熟な、若いチコには分かろうはずもありません。
 クリスは、ヴィンたちも自分と同じ思いを抱いていることを知り、戦うべき敵が現に存在していることを再確認して、気持ちを切り替えます。
 クリスは、山賊たちから奪ったライフルを、銃を使える村人たちに渡すよう命じます。
 銃を持って出ていこうとするチコを、ヴィンとクリスが調戯います。
 銃を持っていくついでに、カルヴェラに会って、どうするつもりか訊いて来い、そしたら歌を作ってやるぞ、と云うのです。
 クリスたちにとってまず肝心なことは、カルヴェラの出方です。カルヴェラたちの間に潜入してその情報を得られればいいのですが、危険の大きい、成功の見込みのない仕事です。チコが望むような派手な撃ち合いを見せる機会もありません。カルヴェラたちに見つかれば、即座に撃ち殺されてしまうでしょう。
 ヴィンもクリスも、いくらチコが無謀でも、そんな危険なことはしないだろう、と思っています。カルヴェラの出方を知りたいけれども、それを知るためのいい方法を思いつかないために、冗談めかしてチコを調戯っているのです。
 二人の冗談は、チコの考えているような派手な撃ち合いで敵を倒すことよりも、敵中に潜入して必要な情報を得てくる仕事のほうが、より大切で、より歌にして語り継がれるに相応しい大仕事であることを示しています。

 チコは、自分を調戯ったクリスたちの鼻を明かし、なんとしても一人前のガンマンとして認めさせようと、単身、カルヴェラたちの陣中にやってきます。
 カルヴェラの手下たちが、被害の状況を確認しています。カルヴェラは、残った手勢で、死んだ仲間たちの敵を討つ決意を述べます。
 カルヴェラにしてみれば、ここで逃げ出してしまうわけにはいきません。このまま諦めて他所の村に行っても、農民である村の連中に追い払われたことになり、士気にかかわるだけでなく、このことが噂として広まれば、他所の村の連中にも侮られ、略奪に手こずる怖れがあります。
 カルヴェラたちは、村への襲撃を諦めようとはしていません。
| Woody(うっでぃ) | 『荒野の七人』論 | 09:40 | - | - |
『荒野の七人』論〜11.ガンマンたちの夜
 同じ夜、リーがベッドでうなされています。リーは悶え、苦しみ、ベッドから跳ね起きて、部屋の中をよろめきます。その呻き声を聞きつけて、村を見回っていた二人の村人が入ってきます。
 リーはガンマンたちの中でも、もっとも洒落た身装をしています。口数も少なく、いつも無表情です。
 それは昼間の姿、他に対して、自分に対して自分を装う、偽りの姿でした。
 リーは死の影に怯えています。現在のリーには、かつてのような銃の伎倆はありません。
 どんなに伎倆の優れたガンマンでも、体力の衰えとともに、その銃の伎倆も衰えざるを得ません。リーは自分の伎倆の衰えを認めています。日に何百回となく、怖がるな、と、自分に言い聞かせますが、それで怖れが治まるべくもありません。怯えて気が狂いだすか、自分より早く撃てる男の弾を受けるかを、ただ待つだけの毎日を過ごしています。自分で自分を騙すために、洒落た身装をし、物に動じないかのように無表情を装い、生きている敵はいないと公言します。
 そんな状態に耐え切れず、リーは逃げてきたのです。クリスたち他のガンマンたちとのやりとりでは、敵はいない、生きてる者は、と云いました。それは他に対しても、自分に対しても、自分を偽る虚言でした。生きている敵は、数え切れないほどにいます。リーは、明らかに存在するその敵から逃げてきたのです。
 村を守る仕事なら、クリスをはじめとする仲間たちがいます。しかしそれは、敵から逃れて、戦いのド真ん中にやってきたことでした。その皮肉に気付いて、リーは自嘲の笑みを浮かべます。
 リーは、死の影に怯えながら、その怯えを表すまいと自分を偽っています。そのギャップから生じる緊張が、リーの神経を疲弊させます。その緊張が極限に達し、神経が耐え切れなくなるまでに疲弊したとき、リーは悪い夢に苛まれ、うなされます。
 リーは、疲れきった神経を沈めるかのように、現在の自分の立場を語ります。
 村人たちは最初、リーが、怯えていることを恥じている、と、誤解しました。村人たちは、自分を苦しめないよう云い、あんたは数えきれないほど戦ってきたんだから、勇気があるよ、と、宥めました。リーにとって、村人の云う勇気の有無は問題外です。リーの根本の問題は、その銃の伎倆が衰えてきたこと、それを認めながらも、どうにも対処のしようがないことです。
 リーは、自分の伎倆が衰えてきたことを、事実をもって表します。素早く手を動かして、テーブル上にいた三匹のハエを捕まえようとしますが、捕まえることができたのは、一匹だけです。昔は苦もなく三匹とも捕れたのに、いまでは一匹しか捕まえることができなくなっています。手の動きが鈍っているのです。
 その事実を見せられて、村人たちは言葉を失います。
 銃の伎倆に優れ、多くの戦いを体験して、命のやり取りには慣れきっているものと思っていたガンマンが、実は自分たちと同じ、死を怖れる「生身の人間」であることを知ったのです。
 村人たちは部屋を出しなに振り返り、みんな怖いんだ、それは死ぬまでついて回る、怖くないのは死人だけだ、と、云います。
 生きている以上、怖れの感情から逃れることはできません。怖れの感情から逃れられるのは、怖れを感じる能力を失った人間、死人だけです。村人たちは、自然を相手にした日々の生活の中で、そのことを分かりきったこととして生きています。村人たちにとっては、怖れの感情を抱くことは恥ずかしいことでも命にかかわることでもありません。村人たちは、死の影に対する怖れを当然のこととしたうえで、できるだけ、死を回避しようとしています。
 リーは、怯えて気が狂いだすか、自分より早く撃てる男の弾を受けるかを、ただ待つだけでありながら、自分で自分の命を絶とうとはしません。伎倆の衰えを認め、死の影に怯えながらも、自他に対して虚勢を張り続け、苦悶しながらも生き続けます。それがリーの勇気です。リーは勇気をもって、自分の現在の状況と戦っています。その戦いの疲労が、この夜に爆発したのです。

 戸外では、家から出てきた女性が、リコを呼んでいます。
 リコは他の二人の子どもたちとともに、オライリーと一緒にいます。
 子どもたちはオライリーのことを、「ベルナルドおじさん」と呼んでいます。
 子どもたちは、寝たふりをしてまた戻ってこようと、いったん家に引き上げます。
クリスが家の中から出てきて、「ベルナルドおじさん、子持ちになったな」と、オライリーを調戯います。
オライリーは、「俺の本名なんだ。メキシコとアイルランドの、つまらん混血だ」と、吐き捨てるように云います。
 アメリカ合衆国は多民族国家です。「人種の坩堝」、「サラダ・ボール」と云われるくらいに、多くの民族・人種から成り立っています。その民族間・人種間には、苛酷な差別が存在しています。
 黒人に対する差別の激しさは有名です。インディアンに対する差別も激しく、この映画の中でも、それが表されていました。
 ほかにも、中国人や日本人などのアジア系、プエリト・リコ人やメキシコ人などの中南米系の人々に対する差別も、よく知られています。
 有色人種のみならず、同じ白人系・欧州系でも、イタリア人に対する差別には激しいものがあり、それが、いわゆる「マフィア」と呼ばれる犯罪者集団が組織された遠因とも云われています。
 そのなかで、あまり知られてはいませんが、アイルランド系の人々に対しても、激しい差別が行われていました※。ジョン・F・ケネディは、ワシントンやリンカーンとともに、史上もっとも有名な合衆国大統領の一人に数えられますが、彼は合衆国史上、初のアイルランド系の大統領であり、アイルランド系であるために、選挙戦では大いに苦労したと伝えられています。
  ※ 映画『アンタッチャブル』でも、アイルランド系の熟練警官マローン(ショーン・コネリー)と、イタリア系の新人警官ストーン(アンディ・ガルシア)とのあいだに、この両民族に対する蔑視の感情が描かれています。
 オライリーが、「メキシコとアイルランドの、つまらん混血だ」と、自嘲するように云うのには、そのような背景があります。
 差別の激しいアメリカ社会の中で、メキシコ人とアイルランド人の混血として生まれたオライリーが、厳しい差別を受けながら、自分の伎倆ひとつでガンマンとしての生活をおくってきたその人生を感じ取ることができます。
 彼は、メキシコ系と察せられるベルナルドと云う本名を捨て、オライリーと名乗っています。メキシコ人とアイルランド人との混血である自分を否定して生きています。
 オライリーは子どもたちに優しく、子どもたちもオライリーを慕っています。
 子どもたちは社会の諸関係に巻き込まれておらず、同じメキシコ系であることもあって、オライリーが混血であろうがなかろうが、気にかけません。差別は、社会関係によって生じます。オライリーも子どもたちに対しては、自分が混血であることを隠す必要を感じていません。オライリーが子どもたちに自分の本名を教えたのは、子どもたちに気心を許していることの表れです。
 ガンマンたちの宿舎では、ハリーが村人たちを賭け事に引き込もうとしています。
 ハリーの目的は、あくまでも、金儲けです。金でなくとも、金になるものなら、なんでもいいのです。ハリーは賭け事にかこつけて、村人から金になる話を引き出そうとします。
 ガンマンが大儲けできる仕事にありつく機会は稀になってきています。ハリーは、この村には、その仕事に対する報酬とは別に、なにか大儲けできる機会があると確信しています。そのような機会には滅多にありつけなくなってきただけに、ハリーはなんとしてでもその機会を捉え、大儲けしようと目論んでいます。
 そんなハリーを、ヴィンとブリットが、苦々しげに見ています。ヴィンもブリットも、金儲けには関心がありません。二人は、村を守る本来の仕事よりも、村人たちを利用して大儲けをもくろんでいるハリーに、不快を感じています。
 ハリーの口からでまかせが的中し、この村に、スペイン人が埋めた秘宝があるらしいことが分かります。
 ハリーはクリスと目を合わせます。
 ハリーは、クリスがなにか大儲けのネタをつかんで、この仕事を引き受けたと信じていますが、それはハリーの誤解です。クリスは、ハリーが思い込んでいるような大儲けのネタなど、つかんではいません。
 クリスにとって、ハリーが村人から引き出した秘宝の話は、思っても見なかった話です。クリスも金に無関心ではありません。ハリーがこの仕事に参加したとき、クリスが乗り出したことをもって、大儲けができる仕事に違いないと確信したくらいです。それはハリーの誤解でしたが、ひょんなことで、ハリーの確信が実際のものになろうとしているのです。
 クリスの顔が輝きます。
 しかしその話は、ただの伝説に過ぎませんでした。実際に山奥で宝石が見つかったわけではなく、村人たちもただの風聞としてその話を聞いただけです。村人たちはだれも、実際にその宝石を探し出そうとするほどの関心も示していません。ただの話として、受け止めています。
 ハリーは分からなくなります。村に、大儲けできるなにかがあればこそ、カルヴェラたちはこの村を狙ってくるのだと信じているのです。ハリーには、それ以外に、カルヴェラたちがこの村を狙う理由が考えられません。
 村人は、カルヴェラたちはもう襲ってこない、明日には他所へ行ってしまうと信じきっています。
 そこへチコが入ってきます。
| Woody(うっでぃ) | 『荒野の七人』論 | 09:35 | - | - |
『荒野の七人』論〜12. ソテロの通告
 チコのもたらした情報によって、カルヴェラたちが諦めずに、再びこの村を襲うつもりでいることがはっきりします。
 村人たちは最初、チコがもたらした情報を信じようとはしませんでした。カルヴェラたちが諦めず、再び襲ってくることは、村人たちには恐るべきことです。村人たちは、カルヴェラは諦めて他所の村へ行くと信じています。チコがもたらした情報を、村人たちは信じようとはしません。「なんで分かる」と、それが虚報であるにあるに違いないと思い込もうとします。カルヴェラたちの来襲を怖れるあまり、カルヴェラは諦めて他所の村へ行くに違いないという思いにすがりつこうとするのです。それが、チコのもたらした情報を虚報であるとして、打ち消そうとする心情となって現れます。
 しかし、その村人たちの願いは砕かれました。
 チコのもたらした情報は、チコ自身がカルヴェラたちの中に潜入して、カルヴェラたちからじかに探ってきたものです。
 村人たちは、カルヴェラたちから村を守るために、クリスたちガンマンを雇いました。一度戦って追い払ってしまえば、カルヴェラたちは諦めて、他所の村へ行ってしまうと思っていました。それが逃げるどころか、来襲してくることが確実になったのです。カルヴェラたちが勝ったらエライことになる、と、戦いを忌避する心情が強くなります。
 クリスたちガンマンや、ヒラリオたち少数の村人たちは、カルヴェラたちと戦って勝つ以外に、村を守ることはできないと考えます。
 ソテロたちは、カルヴェラたちと戦っても、いたずらに殺されるだけで、勝つ見込みはない、それよりもカルヴェラに和を請うて、食糧でもなんでもやるから、殺されずにすむようにするべきだと考えます。
 村人たちの大勢は、ソテロの側にあります。
 戦いを主張するクリスに、ソテロは、村から出て行くよう申し渡します。手遅れにならないうちに、村から出て行ってくれ、と云うのです。
 チコ、ブリット、ヴィンが、クリスの傍に集まります。
 クリスは、ソテロに、いまの言葉が本気かどうか念を押し、他の村人たちに向かって、最後まで戦う勇気のある者は自分のほうへ来るよう云います。
 何人かの村人たちが、クリスたちのもとに集まります。その村人たちに、ソテロは、ガンマンたちには帰ってもらう以外にない、と、説きます。
 クリスはソテロの言葉を聞き終えると、
「ようし話は分かった。ここで諦める卑怯者は前に出ろ。この俺がブチ抜いてやる。殺されたくなかったら、もうひと言も口にするんじゃない」
 と、怒鳴り、背を向けて、部屋を出ていきます。
 ハリーがクリスに続き、無言で村人たちをにらみつけていたブリットが従います。ヴィンも、しばらく逡巡した後、彼らに続きます。
 威勢のよかったチコが、悲しげに目を伏せ、最後に部屋を出ます。
 ガンマンたちが部屋を出ると、ヒラリオがソテロたちに対して、一度はじめたケンカだ、最後までやってやる、おまえらなんかいなくてもいい、と、啖呵を切ります。
 村人たちの意見は完全に二分されました。ここで二分されたのは、村を守る方法においてであって、両者とも、村を守ると云う根底に関しては一致しています。ただソテロの云うように、カルヴェラに和を請い、食糧や物資を差し出して生きながらえることでは、本当に村を守ったことにはなりません。ここで勝利を諦めてカルヴェラに屈することは、村をカルヴェラたちに売り渡すことを意味します。利敵行為であり、村に対する裏切りです。それがクリスの云う「卑怯」の意味です。村人たちが、自分たちの力で、自分たちのために、そこで生きるに価する「いい村」にすることが、本当に村を守ることです。
 クリスはそのことを理解していますが、ここでソテロたちを相手に、そのことを説いて理解させ、納得を得ることはできません。いまは言い争っているときではありません。
 クリスは、あくまで戦う意志のある者を選別します。そして、怒りをあらわに見せることで、無意味な言い合いを終わらせると、善後策を講じるために、別室へ下がります。
| Woody(うっでぃ) | 『荒野の七人』論 | 09:35 | - | - |
『荒野の七人』論〜13. ガンマンたちの協議
 別室に集まると、ヴィンが真っ先に口を開きます。ヴィンは、「こいつは大変な問題だぞ。俺たちもよく話し合って、これからどうするかを決めたほうがいいな」と云いますが、それはクリスを説得するためです。クリスは、あくまで、戦う意志を捨てようとはしていません。
 ハリーが、「人助けをしようなんて思うからだ、一度追っ払ったらカルヴェラはよその村へ行くだろうとふんでたのに、エライことになったな」と、暗にクリスを批難します。ガラにもないことをするから、遭わなくてもいい厄介な目に遭うんだ、というわけです。
 それに対してヴィンは、「見込み違いは世間に付きものだ。波風は立つものだ」と、クリスをかばいます。そのうえで、「たまには風にそよがなきゃならないこともあるだろう。でなきゃ折れる」と、クリスに翻心を求めます。
 状況が変わったのは、クリスの過失ではありません。状況が変わったことについて、クリスにはなんの責任もありません。不本意ではあっても、状況が変われば、その状況の変化に応じて対処しなければなりません。状況に逆らっても、意味のない損失被害をこうむるだけです。
 ブリットが、「帰るのか」と、問います。ブリットが訊ねるのは、単なる確認です。ブリットには、是非とも村に留まらなければならない理由はありません。また、帰るほかないと云う考えもありません。ブリットにしてみれば、不利な戦いに挑んでいることは、はじめから分かり切っていることです。村人たちの助勢があろうとなかろうと、ブリットの関知するところではありません。ブリットの関心は、たんに、これから自分たちがどうするのか、と云うことだけです。
「どうしてもここで意地を張って頑張ることもないだろう。村は元に戻ってそれでめでたしだ」というのが、ハリーの意見です。ハリーが村を守る仕事に加わったのは、大儲けできる機会があるに違いないと考えたからです。村がどうなろうと、ハリーにとってはどうでもいいことです。大儲けの機会がなくなった以上、ハリーには村にとどまる理由はありません。
 クリスがはじめて口を開きます。「俺たちは契約した、それを忘れるな」と云うのです。
 クリスの考えは奇妙です。たしかに彼らは契約したと云えますが、ソテロの通告によって、その契約も破棄されたと考えるのが自然です。ここでガンマンたちが手を引いて村を後にしても、ヴィンの云うとおり、裁判所も文句は云わないでしょう。
 クリスは村を守る仕事を、ガンマンの仕事として、引き受けました。たとえソテロに帰るよう通告されても、その通告に従った場合、村はカルヴェラの意のままにされ、本当の意味で、村を守ることはできません。また、少数ですが、カルヴェラたちと戦って村を守ろうとしている村人たちもいます。クリスにとってこのまま村を後にすることは、村を守りきれなかったこと、依頼され、引き受けた仕事に失敗したことを意味します。
 いったん村を守ることを引き受けたからには、ソテロたちの意向にかかわらず、あくまで村を守るべきだとするのが、クリスの云う、責任です。
 ヴィンもハリーも、クリスの言い分は認めながらも、現在の自分たちを取り巻く状況では、実際にその責任を果たすことはできないだろうと考えています。
 多勢に無勢だ、と云うハリーに、クリスも、相手が多すぎる、と、人数での劣勢を認めます。
 クリスは、先手を打とうとします。

 クリスたちが今後の対応について協議しているとき、チコは、山中で出会った村の娘に会っています。
 チコは、カルヴェラたちの野営地に様子を探りに行ったときのことを話しています。
 チコはすっかり興奮しています。チコは危険を冒してカルヴェラたちの野営地に赴き、その情報を探ってきたことを、自慢げに話します。そしてそのことがクリスたちを驚嘆せしめたことに、喜びと満足を感じています。
 チコはそのときのクリスたちの表情を見て、自分もやっと、彼らの仲間になれた、と、確信したのです。なんとかして一人前のガンマンになりたいと願っていたチコにとって、これまでの願いがかなった瞬間でした。
 娘の思いは、チコとは反対です。チコはカルヴェラたちの野営地に赴いた話を、自慢げに話しますが、娘はチコの冒険心を案じています。
 娘はチコを愛しています。チコと一緒に暮らす生活を望んでいます。
 娘は、村のために、危険をかえりみず、勇敢に戦うチコを愛しました。ところがいまでは、チコが危険に身をさらすことを案じるようになっています。
 娘はチコが勇敢なガンマンであることよりも、自分と一緒に暮らせる人間であることを望んでいます。
 彼女はやさしく、ゆっくりと、チコの首に手を回します。
 チコは娘の愛情にとまどい、慌てて娘から離れます。
 チコは、彼女が自分に何を求めているかを理解しています。チコは、自分が娘の望むような生活を送れる人間ではないことを説明します。チコが望んでいるのは、山奥で手にマメを作りながら百姓をする生活ではなく、ガンマンとしての腕前を生かせる生活です。
 クリスやヴィン、ブリット、オライリー、彼らと行動をともにし、彼らとともにガンマンとしての生活を送るのが、チコのあこがれる生活です。
 娘はチコに寄り添います。彼女はチコのあこがれの強さを知り、自分の力でチコを引きとどめることが難しいことを知りながら、それでもチコと一緒の生活を望んでいます。
 チコは娘の思いの強さに困惑し、自分は彼女に向いている人間ではないと説得しますが、自分自身、彼女に惹かれていく感情を抑えることができません。
 ともに自分自身、相反する感情を抱えながら、それをどうすることもできない二人は、熱い接吻を交わします。

 クリスの云う先手を打つとは、ただちに、カルヴェラの野営地に奇襲をかけることです。奇襲をかけて馬を追い払ってしまえば、カルヴェラたちは徒歩でやってくるより他はありません。クリスは、村人には残って村を見ているよう頼み、他のガンマンたちとともに、チコの案内で、カルヴェラの野営地を襲います。
 彼らは山の物陰に身を隠しつつ、カルヴェラたちの野営地に近づきますが、そこには誰もいません。野営の跡はあるのですが、人の姿はまるで見えないのです。
 チコは、村を襲いに行ったんだ、と云いますが、銃声が聞えない、と云って、クリスはその考えを否定します。
 逃げたのか、と、ハリーが云いますが、そうでもなさそうです。
 ガンマンたちは狐につままれたような表情になります。不思議そうな、不吉な予感が、ガンマンたちを捉えます。
 奇襲が不成功に終わり、クリスたちは村へ戻って来ます。
 そのクリスたちを、カルヴェラが出迎えます。
| Woody(うっでぃ) | 『荒野の七人』論 | 09:30 | - | - |
『荒野の七人』論〜14.逆転した立場
 クリスたちは包囲されています。各家にはカルヴェラの手下たちが配され、窓からは銃口がクリスたちを捉えています。
 とっさのことに、クリスたちは反撃のしようがありません。チコだけが反撃しようとしますが、カルヴェラの警告に思いとどまります。
 カルヴェラはソテロに手引きされ、何の苦もなく、村を掌握しました。形勢は逆転しました。クリスたちの命は、すでにカルヴェラの手中に握られています。
 カルヴェラは、クリスたちを殺すことなく、銃を取り上げたうえで、村から追い出そうとします。クリスたちを殺してしまえば、その事実を聞きつけた彼らの仲間たちが報復にやって来て、不毛な殺し合いになるであろうことを危惧しているのです。
 カルヴェラがこの村を狙うのは、できるだけ争いを避けて、自分たちが生きるために必要な物資を得るためです。ここでクリスたちを殺しても、カルヴェラにとっては何の意味もありません。むしろ余計な面倒を惹き起こしかねません。必要な物資を与えて追い出してしまえば、クリスたちは二度とこの村に戻って来ないだろうと、カルヴェラには思われます。
 カルヴェラには、自分たちにとってこそ、生活に必要な物資を安易に得ることのできる重宝な村だが、クリスたちのような伎倆に優れたガンマンたちにしてみれば、さして魅力のある村ではない、と、思われます。
 村は貧しく、その村を守るにしても、その労苦に見合うだけの報酬が提供できるはずもありません。
 カルヴェラはクリスたちが再びこの村に戻って来ることはないと確信しています。村人たちの協力が得られなくなった以上、クリスたちに勝ち目はありません。危険を冒してまで村に戻ってくるほどの理由は考えられません。
 カルヴェラがクリスたちの銃を取り上げるのは、自分の優位を村人たちに確認させ、自分に対する反抗が無駄であることを思い知らせるためです。そのことをクリスにささやき、銃は後で返すと約束します。
 クリスは銃をはずし、他のガンマンたちもそれに倣います。
 チコだけが、カルヴェラを撃とうとしますが、クリスにさえぎられます。
 カルヴェラは、クリスのような伎倆の優れたガンマンが、なぜこんな割に合わない仕事を引き受けたのか、不思議に思います。
 クリス自身にも、ハッキリとは分かりません。あるいは説明しても、カルヴェラには理解できないでしょう。クリスは自分の気持ちをハッキリと説明できないこと、仮に説明できたとしても、カルヴェラには理解できないことを、理解しています。あるもの全部を出し合ってまで自分を必要としてくれる人たちに報いようとする気持ちは、それを引き受けたクリス自身にすら、理解できないものです。まして、国境付近の寒村を、自分たちの生活を保持するための略奪場所としか考えないカルヴェラには、クリスの気持ちが理解できようはずもありません。ヴィンが云うように、そのときはそれでいいと思った、と云うのが、もっとも正確な答えでしょう。

 クリスとヴィンが、宿舎に入ってきます。クリスは黙ってテーブルに腰を下ろします。
 クリスは、もはや自分たちガンマンが必要とされるような仕事がなくなりつつあることを、その厳しい生活によって、肌で感じさせられています。村人たちはそのクリスを、あるもの全部出し合って、雇いました。交通が未発達で、産業の発展からはずれているメキシコの寒村は、切実にクリスを必要としました。しかしいまクリスは、ガンマンとして、依頼された仕事を果たすこともできず、自分を必要としていたはずの寒村の人々からさえも、不要な人物として排除されました。
 ヴィンは、生まれてはじめて用心棒に雇われたとき、情は捨てろときつく云われた体験を引き合いに出して、クリスに、もっと割り切って、村のことは考えないように勧めます。村人たちに対する情を捨てられないのが、クリスの問題だと見ているのです。
 クリスは、自分がどんな気持ちだろうと、ヴィンには関係がないと思っています。クリスは自分の感情を、あくまで自分のものとして、処理しようとしています。
 ヴィンはクリスの気持ちを理解しています。その理由をヴィンは、自分も同じ罠にかかったからだ、と、説明します。
 ヴィンは、村に来たときから、銃で生きていくことをやめ、土地を手に入れて、牛でも飼おう、用心棒あがりの男でも、それぐらいのことはできるだろう、と、考えていました。
 ヴィンも、ダッジ・シティやトゥームストーンでさえのんびりした町になってしまった現在、すでに自分たちガンマンが必要とされるような仕事はなくなりつつあることを感じ取っています。
 そんななか、自分たちを必要とし、一緒に敵と戦おうとする寒村でなら、銃ひとつで生きる生活とは縁を切って、農民として生きていけるかも知れないという期待が生じました。
 ガンマンとしての生活を捨てるのは、容易なことではありません。ガンマンとしての生活に馴染めば馴染むほど、本人の意志とはかかわりなく生じる絶え間のない争いから抜け出すことが困難になります。クリスたちの命を奪った結果としてカルヴェラが危惧するように、あるいは、リーがすでにその影に怯えているように、本人の望まない不毛な殺し合いが続きます。
 村人たちに依頼された仕事とは云え、カルヴェラたちを相手に村を守るには、村人たちが体験したこともなく、想像すらできないような殺し合いに、村人たちを巻き込まざるを得ません。その殺し合いは、片がつくまで、徹底して行われなくてはならないのです。たとえその戦いに勝利して村を守り得たとしても、村人たちに喜ばれ、同じ共同体の仲間として受け入れられるとは思えません。村人たちにしてみれば、ガンマンはやはり、災いのもとでしょう。
 それを分かっていながら、この村で農民として暮らすことを考えたヴィンは、そう考えたことを、「罠にかかった」と表現しています。
 ヴィンは、その罠にかかった自分を自嘲するかのように、「バカ」と表現し、その「バカ」は、なにもおまえひとりじゃないんだよ、と云って、別室に退きます。
 ソテロに、村を出て行くよう云われたときもそうでしたが、ヴィンは、ともすればひとり沈みがちになるクリスを、さりげなく支える役割を果たしています。

 オライリーが荷物をまとめている部屋へ、三人の子どもたちが入ってきます。
 子どもたちは自分たちも一緒に連れて行ってくれるよう頼みます。
 子どもたちは、もうこの村が嫌いになった、父さんたちは弱虫だ、と、云うのです。
 カルヴェラたちとの戦いは、村の人たちに大きな影響を与えました。
 カルヴェラたちに屈従するのは、カルヴェラたちと戦う以前の状態に戻るだけのように思われます。しかし、いったんカルヴェラたちとの戦いを体験した村人たちの意識は、以前とは大きく変化しています。
 子どもたちにも、その変化は生じています。以前の状態に戻ることを選択した大人たちを、子どもたちは「弱虫(cowards)」と感じ、村で暮らし続けることを拒否する感情が生じています。
 それまで平静を装っていたオライリーは、いきなり子どもたちを叱りつけます。
「二度とそんなことを云うんじゃない、親父さんたちは弱虫じゃない。
 俺は銃を持ってるから勇気があるのか? 
 俺と違って親父さんたちには大きな責任があるんだ。おまえたち子どもや、お袋さんに対してだ。
 よく覚えとけ。
 その責任て云うのは、岩のように重いんだ。親父さんたちは、死ぬまでそれを背負って歩かなきゃならないんだ。こんなことをするのは、おまえたちを愛しているからなんだぞ。それが分からないのか。
 俺にはとてもそんな勇気はない。畑を耕して、毎日毎日、ロバのように、暗くなるまで働いてるんだ。これこそ勇気がいる。
 だから意気地なしの俺にはできないんだ。たぶん死ぬまで、な。
(Don’t you ever say that again about your fathers because they are not cowards.
You think I’m brave because I carry a gun?
Your fathers are braver because they carry responsibility. For you, your brothers,sisters,and mothers.
This responsibility is like a big rock that weighs a ton.
It bends and twists them until buries them under the ground.
There’s nobody says they have to do this
They do it because they love you and they want to.
I have never had this kind of courage.
Running a farm working like a mule every day with no guarantee
Anything would ever come of it
This is bravery.
That’s why I never even started anything like that.
That’s why I never will.)」
 映画史に残る名台詞です。
 子どもたちは、銃を取って敵と戦うことが、勇気のいることであり、勇敢なことだと考えています。
 オライリーはその考えを否定し、家族の生活を維持していくため、日々の苦しい労働に黙々と耐えていることに、勇気や勇敢さを認めています。
 かつては「メキシコとアイルランドのつまらん混血」である自分を否定して、「ベルナルド」ではなく「オライリー」と名のって生きてきた彼が、いまではメキシコの農民である村人たちの生き方を認めるようになっています。
 村の大人たちには、それぞれの家族に対して責任があります。家族のために、衣類や食糧、住まいを確保し、安全を守り、生活を維持し、子どもたちを育てていかなくてはなりません。村の大人たちにとっては、村を家族が安全に暮らせるように維持することが第一で、カルヴェラたちと戦うか、屈従するかは、二の次です。
 オライリーは村人たちの選択を認め、自分の生き方を否定します。
 オライリーは、自分の生き方が、他人に対して責任を持つことができない生き方であることを認め、そんな自分を「意気地なし」と評します。
 オライリーはヴィンと違って、この村で農民として生きることを考えたりはしません。ガンマンとしての生活の中で、他の職で生きる能力を失ってしまっていることを、オライリーは感じ取っています。ガンマンとして無用無価値の存在となりつつあることを感じながらも、銃を捨てて生きることができないのが、オライリーの「意気地なし」の意味です。

 別の部屋では、リーが身支度を整えています。相変わらず、一分の隙もない洒落た服装ですが、その腰に銃はありません。いまや銃のない腰に手をやるリーの表情は複雑です。
 リーはカルヴェラによって、怯えて気が狂いだすか、自分より早く撃てる男の弾を受けるかを、ただ待つだけの生活に終止符を打つことができました。
 それは、恐怖との戦いに勝利した結果、もたらされたものではありません。カルヴェラによって、自分の敗北が確定されてなお、命を助けられ、村から放逐されることで、ガンマンとしての生活から排除される機会を得たためです。恐怖との戦いを惹き起こす生活から排除されることによって、恐怖との戦いそのものが消滅したのです。
 それは、ガンマンとして無力無能を証されたことです。
 リーの複雑な表情には、そのような意味があります。

 仕度を終え、村を去ろうとするガンマンたちに、カルヴェラが得意気に云います。
「国にはもっと割りのいい仕事があるだろう。牛を盗んだり、銀行や列車からかっぱらったり、それで敵と云えば、ケチな保安官だけだ」
 カルヴェラは自分たちを寒村の略奪に追いやった「世知辛い世の中」が、クリスたちから「もっと割りのいい仕事」を奪っていることに気付いていません。
 牛や銀行や列車を守っているのは、もはや「ケチな保安官」などではなく、装備も組織も整った自衛力、警察力です。それがカルヴェラの云う「世知辛い世の中」になったことです。
 カルヴェラは、
「一度テキサスの銀行を襲ったら、軍隊をごっそり送り込んできた。軍隊だぞ、たかが銀行ひとつで。腹が小さいよ。同じテキサス野郎にしか盗ませない気なんだ」
 と、笑います。冗談のつもりなのでしょうが、銀行ひとつ襲っただけで軍隊が送り込まれてくる世の中になったことは、カルヴェラたちにとっても、クリスたちにとっても、笑い事ではありません。
 それは両者にとって、生活の手立てを奪われる世の中になってきたことを意味します。軍隊が相手では、カルヴェラたちも歯が立ちません。軍隊が銀行の護衛を引き受けるようになると、クリスたち流れ者のガンマンが雇われることもなくなります。
 カルヴェラはそれに気付いていません。そのためカルヴェラの優越感が、より空虚で、愚かしいものに感じられます。
 無反応なクリスたちに、カルヴェラは笑いを止め、別れを告げます。
| Woody(うっでぃ) | 『荒野の七人』論 | 09:25 | - | - |
『荒野の七人』論〜15.クリスたちの決意
 クリスたちは、カルヴェラの手下によって、村はずれまで送られます。
 カルヴェラの手下たちは村はずれまで来ると、クリスたちから取り上げた銃を地面に放り出し、村に引き返します。
 チコが村人たちに対する憤懣をぶちまけます。
 ここではじめて、チコが農家の出であることが明らかになります。
 チコは、「恩も義理もないやつらだ。馬に食わせるような食い物と、草も生えないような畑を後生大事にしやがって」と、村人たちを罵りながらも、村人たちをそのようにしたのは、クリスやカルヴェラたちのような、銃を持った奴輩だ、と、言い放ちます。
 銃を持った奴輩が、村人たちの物資を略奪し、その生活を脅かし、村人たちを、恩も義理もなく他人を裏切り、わずかな食糧と土地を守って細々と生きていくような人間にした、と、云うのです。
 チコは「馬に食わせるような食い物と、草も生えないような畑を後生大事に」して、「銃を持った奴輩」にビクビクしながら生きている生活を嫌い、ガンマンとしての生き方にあこがれて、一人前のガンマンとして認められようと懸命になりました。命を落とす危険を顧みず、敵の銃弾に身をさらし、敵中に潜入してその情報を探りました。クリスたち熟練のガンマンに認められたことを確信するまでになりました。
 そのチコが、いまではクリスたち「銃を持った奴輩」を批難し、自分もその「銃を持った奴輩」のひとりであることを認め、悲しんでいます。
 合衆国の産業の発展は、カルヴェラたち山賊を西部地域から駆逐して、メキシコの寒村のような辺境の地への略奪へと追いやります。
 村人たちはカルヴェラたち山賊と戦うことを余儀なくされ、そのためにクリスたちのようなガンマンを雇います。
 クリスたちは産業の発展にともなって西部地域の共同体が整備されていくにしたがって、その職を失い、辺境の地にその職を求めることとなります。
 合衆国の産業の発展にともなって生じる流れが、チコには、ガンマンたちが、メキシコの寒村の農民たちをも、略奪や殺し合いに巻き込むようになったと感じられます。
 ブリットが銃に弾丸を込めて弾胴を廻します。ブリットはカルヴェラたちと戦うつもりです。
 ブリットには、自分の銃を屑みたいに捨てられたことが許せません。ブリットは自分の銃の伎倆を向上させることに専心しています。彼にとってその銃を粗末に扱われることは、その伎倆を侮られ、軽蔑されるに等しいことです。
 ヴィンは、キッパリと、村へ戻ることを公言します。彼は、「星の下で手枕で寝るのはもう願い下げだな。やっぱりあの村で白いシーツに寝るのが一番だ」と、その理由を述べますが、それは口実に過ぎません。
 いったんは「あの村で白いシーツに寝る」ことを考えたヴィンは、その考えが実現できないものであることを認め、そんな考えを抱いたことを「罠にかかった」と云い、そんな考えを抱いた自分を「バカ」と、評しました。
 そのヴィンが、いまさら「あの村で白いシーツに寝る」ことができると考えるはずもありません。ヴィンの考えを変えさせるような出来事は、何一つ起こっていません。
 たとえ村に戻っても、村人たちが彼らに味方するとは思われず、彼らが戻ってくることを歓迎するとも思われません。
 ハリーがそのことを口にします。
 もともとハリーがこの仕事を引き受けたのは、大金を手に入れることができるまたとない機会とにらんだからです。その目算がはずれたからには、村に対する何の未練も執着もありません。ましてや村人たちから見離され、村を放逐される身であれば、村に戻ってカルヴェラたちと戦う理由は、何もありません。ハリーには、村へ戻ろうとするブリットやヴィンの心情が理解できません。
 ハリーの友人であるオライリーでさえ、村に戻ろうとします。
 クリスはハリーの心情を察し、無理に引き留めようとはしません。
 ハリーは自分の銃を取ると、リーに向かって、一緒に行くよう促します。
「行ってくれ、おまえはだれにも借りはないんだ」
 と、クリスは云います。
 それに対してリーは、
「自分にある」
 と、村へ戻ることを選択します。
 リーは伎倆の優れたガンマンとして名を成しましたが、いまではその伎倆も衰え、敵の影に怯えながら毎日を過ごしていました。
 いまその恐怖からは解放されましたが、それはカルヴェラによってもたらされたもので、自分の力で得たものではありません。
 リーの洒落た身装は、誇りと自信に満ちた一流のガンマンのそれではなく、空虚な自尊心を示すだけの惨めなものになりさがっています。
 リーは、伎倆の優れたガンマンとしての名に恥じない自分であることを証することが、自分に対する責任であると考えます。その責任を果たさなければ、リーはリーではなくなってしまいます。自分に対するその責任が、リーの云う、自分に対する借りです。
 みなそれぞれに、それぞれの思いを抱いて、村へ戻ろうと決意します。
 その決意は、ハリーには理解できないものです。
 ハリーは呆れたように、「勝手にしろ。じゃあ、あばよ」と言い捨て、馬を走らせて去っていきます。
| Woody(うっでぃ) | 『荒野の七人』論 | 09:20 | - | - |
『荒野の七人』論〜16.最後の戦い
 夜明けとともに、クリスたちは村に忍び込みます。カルヴェラたちの寝込みを襲う算段です。
 それぞれが配置に着き、ヴィンが銃を確認して馬の傍を進んでいきます。
 と、石壁のアーチの向こうから、山賊のひとりが姿を現します。ヴィンは素早くその男を倒すと、駆けながら銃を撃ち、敵の不意をついて敵手を倒していきます。
 激闘の始まりです。
 不意をつかれたカルヴェラたちの一味が、クリスたちの銃弾に倒されていきます。
 クリスたちが奇襲によって優位に立てたのは、わずかのあいだにすぎません。カルヴェラたちはクリスたちの奇襲に驚きながらも、即座に反応し、反撃してきます。多勢に無勢、人数差による不利はまぬがれません。
 ヴィンは駆けながら銃を撃って敵を倒しますが、窓から狙うライフルと後を追ってきた男とに挟まれて、大腿部を撃たれます。
 クリスはライフルを連射しながら噴水脇の場所を離れ、とある家に駆け込もうとします。カルヴェラの手下たちが、駆け抜けるクリスめがけて、ライフルを乱射します。
 クリスはカルヴェラたちの銃弾をくぐりぬけて、とある家に身を隠そうとしますが、閂がかかっているのか、扉が開きません。
 進退窮まったクリスに、カルヴェラの手下たちが銃弾を浴びせかけます。
 クリスもライフルを連射して応戦しますが、ライフルが故障したのか、途中から弾丸が出なくなります。
 それを見てカルヴェラは、腰の銃を抜き、クリスに襲いかかります。広場を横切って駆け出すカルヴェラに、手下たちが続きます。
 チコとオライリーが、彼らに銃弾を浴びせます。
 カルヴェラたちは身を伏せてその銃弾を避けます。何人かの手下が撃ち倒されます。
 ヴィンは家の中で、銃弾を受けた大腿部に応急の手当をしていますが、激しくなった銃声を聞いて、そのほうに目を向けます。
 カルヴェラたちは身動きならず、地面に伏せたまま、銃を撃ち続けます。
 そこへ、ハリーが馬を飛ばして駆けつけてきます。
「クリス待ってろ、いま行くぞ」
 そう叫びつつ駆けつけてくるハリーを、カルヴェラたちの銃弾が襲います。
 ハリーは馬上から吹っ飛ばされます。起き上がってクリスのもとに駆け寄ろうとするハリーの背を、カルヴェラの手下たちの銃弾が貫きます。ハリーはのけぞって倒れます。
 クリスとヴィンの助けで、ハリーは家の中に担ぎ込まれます。
 その家めがけて、カルヴェラたちが押し寄せてきます。
 ハリーはクリスの腕に抱かれ、絶え絶えの息の下から問いかけます。
「なあクリス、騙されたまま死にたくない。トウモロコシや豆のために、こんな山奥に来たんじゃないよな、他に金目のものがあったんだろ」
 クリスはハリーの胸中を察して、嘘をつきます。
「そうだ。さすがにおまえ、鋭いな」
「なんだ」
「金だ。ごっそり」
「やっぱり……、拝みたかったなあ……、どれくらいだ」
「五十万は下らん」
「取り分は」
「七万ドルだ」
「来てよかった」
 ハリーは息を引き取ります。
 クリスは静かにハリーを床に横たえ、金の夢を見ろ、と、つぶやきます。
 もはや死に逝く身のハリーにとって、金目のものが手に入るかどうかは、意味を成しません。にもかかわらず、ハリーはクリスが金目のものを狙って、「こんな山奥」に来たことを信じようとします。
 ハリーにとっては、どれだけの大金を得ることができるかが最大の関心事であり、そこに自分が存在する意味を見出しています。
 そのハリーにとって、「トウモロコシや豆のために、こんな山奥に来た」ことは、自分が存在する意味を失ったことを意味します。
 ハリーは自分たちガンマンが、すでに無用の存在になりつつあることを感じながらも、それを認めることができません。
 クリスに、金目のものを狙ってこの村に来たことを確かめるのは、自分たちのようなガンマンが、まだ存在する意味があることを確認するためです。逆説みたいですが、すでに無用の存在となりつつあることを感じつつあるからこそ、自分たちが存在する意味を確認しようとする欲求が生じるのです。ハリーが戻ってきたのも、そのためです。
 クリスはそんなハリーの胸中を察し、彼の意に沿った答えを与えます。
 しかしそれは嘘でした。
 嘘と認めつつ、クリスはその嘘をつかざるを得ません。
 本当の事を告げるのは、ハリーを含めた自分たちガンマンが、もはや無用の存在となっていることを告げるに等しいことです。ハリーを絶望させて死なせることです。
 クリスは嘘をつきます。自分たちの存在に意味があることを信じて死んでいけるよう、心づかってのことです。
 それが嘘であるところに、そしてそれが嘘であることを知りつつ、その嘘をつかなければならないところに、クリスの辛さがあります。
「金の夢を見ろ」
 クリスのそのつぶやきには、自分の存在に意味があったことを信じて死ねるよう願う心情があるとともに、そう信じて死ねることを羨ましく思う心情があります。
 クリスは自分たちが無用の存在となったことを認めざるを得ないまま生きて、死ななければなりません。
 自分たちが存在する意味を失いながら、それでも生きていかなくてはならないことを教えるかのように、外ではカルヴェラたちの襲撃が烈しさを増しています。扉をブチ破ろうとする音はいよいよ高まり、窓のガラスが割られて、ライフルの銃口がのぞきます。
 それをクリスの銃が倒し、別方向から寄せて来る山賊たちを、ヴィンが撃ち倒します。

 リーが銃を手に、とある家に駆け寄ります。
 リーは壁を背に、周囲を見渡して敵の姿がないことを確認すると、窓から家の中を覗き、驚いたように身を引きます。
 窓から離れたリーは、自分の銃に目を向けると、なぜか銃を腰のホルスターに戻します。そして、おもむろに戸口を蹴り開け、家の中に飛び込みます。
 リーは虚を衝かれた山賊三人を素早く撃ち殺し、閉じ込められていた村人たちを解放します。村人たちはしばし呆気に取られていますが、やがて勢いよく、駆け出していきます。
 クリスたちの閉じ籠もった家では、カルヴェラたちが扉をブチ破ろうと、必死になっています。
 カルヴェラはふと気がついたように、家の裏手にまわります。
 解放された村人たちが、手に手に得物を持って、山賊たちに襲いかかります。
 戸口から、銃を構えたリーが姿を現します。
 村人たちの戦いをながめるその表情は、このうえない満足に輝いています。
 一発の銃声がとどろきます。
 リーは銃を吹っ飛ばされ、身体を半回転させて、出てきた家の壁に抱きつくようにぶつかると、そのまま壁にへばりつくようにして、くず折れます。 
 リーは壁に向かって膝を折り、背を丸めて、頭を垂れた恰好で息絶えます。
 リーはかつて、凄腕のガンマンとして鳴らしました。リーが村を守る仕事に自薦してきたとき、その腕前を訊ねるヴィンに、クリスは、「腕はいいぞ」と、保証を与えました。
 そのリーも伎倆の衰えを感じ、敵の影に怯え、敵の影から逃げる生活を送るようになっていました。
 リーは、伎倆の衰えを感じながらも、洒落た服に身を包み、生きている敵はいないと公言します。それは自他に対して、伎倆の優れたガンマンであることを認め続けさせようとする、空虚な装いでした。リーはその空虚な装いに実質を与えることを、凄腕の名声に相応しい人間であることを証する必要を感じるようになりました。それは失った自分を取り戻すことであり、それがリーの云う、自分に対する借りを返すことでした。
 リーは三人の山賊が村人たちを監禁しているのを見ました。三人相手に一人では、分が悪すぎます。しかし分が悪ければ悪いほど、現在のリーにとっては、好都合です。その伎倆が昔と変わらぬことを示せます。
 自分の伎倆が昔に劣らぬことを示すために、リーはあえて不利な状況に自分を追い込みます。それが、抜いた銃をホルスターに戻すことの意味です。
 銃を抜いて相手に立ち向かうほうが、銃をホルスターに収めた状態でそうするよりも、はるかに有利です。
 それをリーは、あえて自分に不利な状況になるように、自分を追い込みました。そしてそれに打ち勝ちました。リーは自分に対する借りを、見事に返して見せたのです。
 その結果、監禁されていた村人たちは解放され、戦列に加わることができました。
 クリスたちガンマンの助勢となるとともに、村人たちの意志をかなえさせることができたのです。それが、リーの面に浮かんだ、満足げな表情の意味です。
 リーは自分の為すべきことを為し遂げて、銃弾に倒れました。
 村人たちは、椅子や犂、鍬、鎌など、てんでに得物を持って、山賊たちに立ち向かっています。
 チコに恋情を抱く娘も、果敢に戦闘に加わります。
 村人たちも被害をこうむります。山賊たちの容赦ない銃撃に、命を落す者もあります。
 負傷し、屋根から転げ落ちたオライリーは、怪我にもめげず、銃で戦います。

 そんな戦闘の中、クリスたちの立て籠もる家の裏手からカルヴェラが近づき、クリスを撃ち殺そうとします。
 一瞬早くその気配を察したクリスの銃弾がカルヴェラを捉えます。カルヴェラは弾かれて身体をまわし、ベランダの柵に倒れかかります。
 カルヴェラの手下たちに、村人が襲いかかります。
 瀕死のカルヴェラの目が、その光景を捉えます。
 チコは逃げようとする山賊を阻止し、その馬を奪おうとします。チコに村人たちが加勢します。
 その様子を見ていたソテロも、ついに意を決し、手近の椅子を取って、戦いに加わります。ソテロの同調者も、スコップなどを手にし、ソテロに続きます。
 チコはその乱闘から離れると、逃げようとしている山賊のひとりに武者振りついて馬から引きずりおろし、逃げていく山賊たちを追います。
「なんでおまえみたいなヤツが、こんな村に戻ってきたんだ」
 立て籠もっていた家から出てきたクリスに、カルヴェラは絶えそうな息の下から、問いかけます。クリスの返答はありません。カルヴェラの息が絶えます。
 カルヴェラはクリスが村に戻ってきた理由が分かりません。クリス自身、カルヴェラの問に対する明確な答はないでしょう。あったとしても、カルヴェラにそれが理解できようはずもありません。
 カルヴェラにとってこそこの村は、自分たちが生きていくために必要な物資を、なんの危険も冒すことなく、安易に手に入れられる重宝な村ですが、クリスたちのような凄腕のガンマンたちが、不利を承知で、命を賭けてまで救いに来るような村とは思われません。命懸けで村を守っても、それに見合うだけの報酬は得られないのです。
 報酬を、金銭のそれとして捉える限り、カルヴェラの云うとおりです。村は貧しく、高給取りのガンマンたちの働きに見合うだけの対価は提供できません。
 クリスたちの求める報酬は、金銭としてのそれではありません。自分たちガンマンが、ガンマンとして存在する意味を明らかにすることが、報酬なのです。
 クリスは、自分たちガンマンが無用の存在となりつつあることを認めつつあります。そんなクリスは、金銭の報酬よりも、自分たちの存在する意味を重要視するようになっています。クリスは自分たちガンマンが存在する意味を証するために、この村に戻ってきたのです。

 大勢は決しつつあります。村人たちは立ち上がって、ガンマンたちとともに戦い、山賊たちは逃げ出しはじめています。
 逃げ出して行く山賊たちを、ブリットの銃弾が倒していきます。
 ブリットは背の低い石壁を防壁にして、逃げて行く山賊たちを倒していきます。
 山賊のひとりが応戦した銃弾が、ブリットの胸を射抜きます。石壁の陰に倒れ込んだブリットは、気力を振り絞って立ち上がると、ナイフを取り出して、倒れながらも、山賊めがけて投げつけます。
 そのナイフは、むなしく石壁に突き刺さり、ブリットは倒れ臥して息絶えます。
 ブリットは最期までその持てる伎倆を尽くして戦い、そして息絶えたのです。

 山賊たちが必死に逃げていく光景を、オライリーは満足気にながめています。
 そこへ、オライリーを慕う三人の子どもたちがやって来ます。
 すでに大勢は決しましたが、戦いはまだ続いています。いつなんどき、敵の銃弾が襲って来るかもしれません。
 オライリーは、「来るな、来るな、あっち行ってろ」と、子どもたちを叱りつけ、岩陰に押しやります。
 子どもたちの安全を確保した後、身構えたオライリーは、一発の銃弾に身体を弾かれて、倒れ臥します。
 子どもたちは倒れ臥すオライリーのもとに駆け寄り、涙を流しながら自分たちの行動をわび、「死なないで、お願い」と訴えます。
 オライリーは顔を上げると、子どもたちに、「みんな、親父さんたちは勇敢だろう」と、苦しい息の下から云います。
 子どもたちが見た光景は、村人たちが手に手に得物を持ち、山賊たちと戦って彼らを撃退した、勝利の光景です。
 その姿は、自分たちの暮らす村を、平和で豊かな村にしたいと云う思いから生じたものです。クリスたちガンマンによって「戦わさせられている」のではなく、自分たちの意志で、「戦っている」姿です。
 それは「畑を耕して、毎日毎日、ロバのように、暗くなるまで働いてる」姿と同じです。
 子どもやお袋さんたちに対する、「岩のように重い責任」を果たそうとする姿が、手に手に得物を持って、カルヴェラたち山賊に立ち向かう姿です。
 オライリーは子どもたちにその光景を見せると、苦しそうにうめき、「俺の名前は?」と、問いかけます。
 子どもたちは涙ながらに、「ベルナルド」、「ベルナルド」と、オライリーの本名を口にします。
 それを聞いてオライリーは、「そうだ」と、嬉しそうな笑みを浮かべて、息絶えます。
 オライリーは、高給取りのガンマンであるオライリーとしてではなく、「メキシコとアイルランドのつまらん混血」のベルナルドとして、満足して、死んでいきます。

 戦いは終りました。
 荒涼とした戦場の跡を、クリスがゆっくりと歩いていきます。チコが馬を止めてライフルをしまい、帽子をとって、額の汗を拭います。
 村の広場を横切っていくクリスの足が止まります。クリスは石壁に刺さったブリットのナイフに目を止めると、それを抜いて折りたたみます。その仕草は、戦闘が終了したことを象徴しているかのようです。
| Woody(うっでぃ) | 『荒野の七人』論 | 09:15 | - | - |
『荒野の七人』論〜17.長老の言葉
 村に平和が訪れました。
 村人たちは農耕に従事しています。
 ガンマンたちの仕事は終りました。生き残った、クリス、ヴィン、チコの三人に、長老は、村に残らないか、あんたたちなら村の連中にも異存はないだろう、と、勧めます。
 しかしクリスは、あんまり好かれちゃいないようだよ、と、答えます。
 村に平和が訪れたとは云え、払った犠牲も大きいものでした。この戦いで命を落とした村人たちもいます。やむを得ぬことですが、やはり戦いを指導したガンマンたちに対するしこりは残ります。ガンマンは戦う人であり、農耕に従事する農民とは、相容れることはできません。
 それが理解できるからこそ、長老も無理には引き留めません。
 長老は云います。
「あんたがたの戦いはこれで終ったのう、けれど、村の衆にとっては毎日が戦いなんじゃ。
 お礼をするものがあれば、みんな喜んで出すだろうにな」
 それに対してヴィンは、
「約束以上のものは貰わんよ」
 と、云います。
 「村の衆にとっては毎日が戦いなんじゃ」と云う長老の言葉は、オライリーの「畑を耕して、毎日毎日、ロバのように、暗くなるまで働いてるんだ。これこそ勇気がいる。」と云う言葉に合致します。
 それを踏まえて、
「勝ったのは農民だけじゃ。農民はいつまでも残る。まるでこの偉大な大地のように。」
 と云う長老の言葉が続きます。
「あんたがたはカルヴェラをやっつけた。それは強い風がイナゴを吹っ飛ばすのによく似ている。
 あんたがたは風だ。大地を強く吹き荒れて、去って行く。」
 それが、長老の、餞の言葉です。
 クリスたちも村人も、神妙にその言葉に耳を傾けています。
 長老の言葉には、すでにその存在が無用のものとなっていることを認めざるを得なくなったクリスたちの存在する意味が、適確に述べられています。
 「畑を耕して、毎日毎日、ロバのように、暗くなるまで働いてる」農民たちの収穫物を略奪しようとする、イナゴのようなカルヴェラたちをやっつける、強い風のような存在、それがクリスたちガンマンだと云うのです。
 風は、「大地を強く吹き荒れて、去って行く」だけです。大地に留まることはできません。風が大地に留まれば、イナゴを吹っ飛ばすどころか、かえって害を及ぼします。
 クリスたちも村に留まることはできません。去って行くのがクリスたちの定めです。
 長老は、「じゃ、神のお恵みを」と云って、クリスたちに別れを告げます。
 クリスも、「アディオス」と云って馬に乗り、馬首を巡らせます。チコとヴィンがクリスに続きます。
 村の広場を横切り、去り行こうとする三人を、チコを慕う娘の視線が追います。
 娘は寂しげに仕事を続けます。
 チコは、村はずれの小高いところで馬を止めます。クリスとヴィンも馬を止めます。三人の目が、後にしてきた村に注がれます。
 クリスはしばらくの間、チコと目を合わせると、チコの心中の迷いを吹っ切らせるように、「アディオス」と云います。
 しばしの逡巡の後、チコも明るく笑って、「アディオス」と右手をあげると、馬首を巡らせて、村へ戻っていきます。
 チコは惹かれた娘の傍で馬を下りると、ガンベルトをはずします。
 娘の表情が輝き、その作業に力がはいります。
 村の境界からその様子を見ていたクリスが、「爺さんの云ったとおりだ。勝ったのは農民だ。負けたな、俺たちは」と、寂しげに、嬉しげに、つぶやきます。
 チコは一人前のガンマンとなることにあこがれ、そのためには命の危険を顧みずに働きました。しかしそのチコも、ガンマンとして生きることより、農民として生きることに価値を見出すようになりました。
 それが、「勝ったのは農民だ。負けたな、俺たちは」と云う、クリスの言葉です。
 村の山裾に、四つの十字架が並んでいます。そのひとつに、三人の子どもたちが花を供え、帽子を脱いで十字を切ります。
 子どもたちは、かつてオライリーと交わした約束を、忠実に守っています。子どもたちはオライリーの言葉を胸に刻み、平和で豊かな村を築くために、黙々とその責任を果たすことでしょう。
 クリスとヴィンはその光景を眺めた後、馬首をめぐらして、広々とした荒野の彼方に去って行きます。
| Woody(うっでぃ) | 『荒野の七人』論 | 09:10 | - | - |
『荒野の七人』論〜おわりに
 クリスたちの戦いは終りました。
 アメリカ合衆国の産業の発展は、クリスたちガンマンからその就業の機会を奪い、カルヴェラたち山賊を追い詰めて、産業の発展が遅れたメキシコの寒村へと向かわせます。
 村人たちは戦う術を知らず、戦いに慣れたガンマンたちに依頼して、村を守ろうとします。
 カルヴェラたちとの戦いを通して、クリスたちガンマンは、すでに自分たちの存在意義が失われつつあることを認めていきます。
 この映画では、クリスたちガンマンや村人たちと、カルヴェラたち山賊とが対立しあっているかのように思われます。たしかに対立しあっていますが、それは表面上のことです。
 この映画でクリスたちガンマンと、もっとも深刻に、もっとも根本的に、もっとも先鋭に対立しているのは、インディアンの埋葬場面に登場してきた行商人たちです。国境付近の町にやって来た行商人は、合衆国の産業の発展を象徴しています。彼らは、西部の町に新たな流通と意識を持ち込み、クリスたちガンマンを時代遅れの存在としていきます。

※ 合衆国の産業の発展は、「いつまでも残る」はずの農民たちをも、その流れの中に巻き込み、彼らを「偉大なる大地」から切り離していくようになります。
 しかしそれは、別の時代に属する主題であり、それを主題とするのは、まったく別の映画です。

 そんな時代の流れのなか、カルヴェラたちとの戦いで命を落としたガンマンが、ハリー、リー、ブリット、オライリーであることは、象徴的です。
 ハリーは昔のような一攫千金の機会があることを夢見続けていました。リーは伎倆の優れたガンマンとしての過去の自分に呪縛されていました。ブリットはガンマンとしての伎倆の向上だけに専心していました。オライリーは、自分が無用の存在となりつつあることを認めながらも、ガンマンとして生きる以外の道を選ぶことができません。
 彼らはみな、過去の人間として死んでいきます。
 生き残ったのは、「雑貨屋の店員か酒場の用心棒」になることを厭わず、銃を捨てて村で暮らすことを考えるヴィンや、実際に銃を捨てて農民として生きることを決心したチコです。
 クリスは自分たちが存在する意味が失われつつあることを痛感しながら、いや、それを痛感しているからこそ、これからの世の中で自分たちガンマンがどのような役割を果たしうるかを課題として、生きていかねばなりません。
 その課題にたいする答えのひとつが、村に平和をもたらすことでした。
 平和になった村は、しかし、もとの村ではありません。熾烈な戦いを経て、その責任と誇りを自ら認めることのできた村人たちの村です。
 いったんはカルヴェラたちに屈従することを選んだ村人たちでしたが、クリスたちを契機として、自分たちの村を自分たちで守ると云う意識を生じさせ、見事にそれを実践しました。
 クリスたちは村人たちの契機となることで、自分たちの生きる意味を明らかにし、充実させました。
 それを充実させながらも、クリスたちは去って行かなければなりません。
 死んでいったガンマンたちも、生き残ったガンマンたちも、すでに自分たちが必要とされなくなりつつある時代の流れのなかで、その時代の流れを実感しながらも、あくまでガンマンとして、立派にその存在の意味を明らかにし、充実させました。
 ディリス・パウエルが『荒野の七人』を評して、「これは『七人の侍』ほどの傑作ではないかもしれない。だが興奮と感動を与えてくれる、本物の映画だ」と述べたのも、この映画がたんなる『SEVEN GUNMAN』ではなく、『THE MAGNIFICENT SEVEN(素晴らしき七人)』であるのも、これまで述べてきた、その内容のゆえでありましょう。
 クリスたち生き残ったガンマンが、その後どのような道をたどるのか、『荒野の七人』で明らかにされた内容を、どのように継承し、発展させるのか、それはこの映画とはまったく別の映画に属する主題です。
| Woody(うっでぃ) | 『荒野の七人』論 | 09:00 | - | - |
金平糖さん
♪コンペトさん コンペトさん
うちのコンペトさんは困ります
いつも涙をポ〜ロポロ♪

こんな唄がむかしあった。
同級生たちにこの唄を歌われながら、しきりに調戯われ、いじめられていたのが、幼き日の黒澤明監督であった。
幼き日の黒澤監督は、泣虫でいじめられっ子だった。
意外に思うだろう。
黒澤監督と云えば、“世界のクロサワ”である。その作風は豪快無比、雄大荘重、ダイナミックで、まさに“男性映画の黒澤”と呼ばれるにふさわしい。
その黒澤監督が、幼少の頃とは云え、泣虫でいじめられっ子だったとは……。
監督御自身が、なにかのインタヴューで語っておられた。
「ぼくは泣虫ですよ。いまでも泣虫ですよ。ぼくのシャシン(映画)観てもらえれば分かるでしょう?」
分からない。
黒澤監督の映画を拝見すれば、それはどう観ても、骨太の、いかにも男くさい映画ではないか。
しかし、と、思った。
黒澤監督は文学にも造詣が深く、なかでもシェークスピアとドストエフスキーを無類に尊敬しておられた。
そのドストエフスキーについて黒澤監督は、
「あの人(ドストエフスキー)はすごく優しいんだよね。ぼくらの優しさってさ、悲惨なことがあると、思わず目をそむけちゃうでしょう? だけどあの人は、それをまっすぐ見つめるんだよね。悲惨なことから目をそむけず、まっすぐにそれを見つめるんだよ。とめどなく涙をながしながら、ね。そこが凄いとこだよね」
また監督はご幼少の頃、関東大震災に遭遇され、その翌日、お兄さんに連れられて、震災直後の瓦礫の町を歩かされたそうである。
倒壊した家屋、ビルディング、死屍累々と積み重なる屍体の山……。
そんな光景から思わず目をそむけると、
「明、よく見るんだ。怖いものから目を逸らそうとするから怖いんだ。よく見れば、世の中に怖いものなんてあるものか」
そう云って、怒られたそうである。
なるほど、と、思った。
黒澤さんの映画には、たしかに、そう云うところがある。悲惨なことから目をそらさず、まっすぐにそれを視つめて、その悲惨さを克服しようとする勁さがある。
自分が泣虫であることを認めることはつらい。だれだってつらい。自分は勁いと思いたい。
しかし、泣虫である自分を誤魔化して、自分は勁いんだと虚勢を張るよりも、自分が泣虫であることを認めて、そんな自分を改造しようとする志にこそ、本当の勁さがあるのではなかろうか。
自分が泣虫であることを受け入れる勁さ、そんな自分を克服しようとする勁さ、悲惨なことから目をそむけず、それを事実として受け入れようとする勁さ……。
黒澤さんの映画には、そんな勁さがみなぎっている。
| Woody(うっでぃ) | 気まぐれなコラム | 02:34 | - | - |


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